War In The Dance Floor - Part 6
◆ ◆ ◆
ロイとゼオギルドが大地を揺るがし、木々を薙ぎ倒す激闘を繰り広げる、その頭上では――。
蒼穹の天空を歪ませ、毒々しいまでに鮮やかな雷光を走らせながら衝突を繰り返す、もう一つの激闘が繰り広げられている。
この交戦を構築しているのは、主に2人。
1人は、人型をした癌様獣の実力者、『十一時』。
昨日ロイと交戦した時と同様、ボロボロの白い外套に身を包み、真紅に腫れ上がった左眼球を特徴としている。一方で、昨日とは明らかに異なる体部がある。それは、尾、だ。
ロイと交戦した際は、先端が尖った金属質の2本の尾であった。今も2本在るという点では変わらないが、その形質は大きく異なる。まるで巨大なムカデのようにトゲトゲしい"脚"が生え、長さは優に3メートルを越える長大なものだ。その間接一つ一つは自在に脱着し、巨大な円を作って防御フィールドを生成したり、不可視の刃や衝撃波を幾つも作って空を裂いたりしている。
『十一時』は此度の総力戦のために、一晩をかけて体構造を戦闘に最適化してきたのだ。それは見た目にも変化が分かりやすい尾部だけでなく、全身の体器官にも施されているが、形而下においてその差は顕著ではない。
さて、その『十一時』を相手にしているのは、彼よりサイズで十数倍も勝る機動兵器。薄く銀色がかった白色の装甲を持ち、スマートな形状を持つ人型兵器。サヴェッジ・エレクトロン・インダストリー所属のD装備機動兵器である。
そして、この機体の搭乗者は、"インダストリー"屈指の実力者、プロテウス・クロールスである。
プロテウスは先述した通り、頭脳部以外は機械化していない。それはつまり、機動兵器と直結した場合、種々の運動制御の演算においては生身の人間よりもアドバンテージがあるものの、手足を使ったマニュピレータの操作は生身の人間とほぼ変わらないことを意味する。
しかし、彼の操縦技術は、そんなデメリットを露ほども感じさせない。全身機械化した搭乗者よりほど滑らかで繊細な動作で、十数メートルある金属の体躯を軽やかに扱う。光を受けて輝きながら宙を駆けるその有様は、巨体にも関わらず妖精すら思わせる。
プロテウスは一晩掛けて換装された局所次元兵器を用いて、『十一時』を果敢に攻める。手にした空間断裂槍を振るって蒼穹に発狂した色彩が覗く亜空間を作り出したり、風景がグンニャリと歪曲して見える次元破砕砲を頭部や肩部から轟雷のように発射したりと、空間を広く汚染しながら『十一時』を素粒子へと分解しようと攻め続ける。
正に一撃必殺のはずの攻撃の雨霰であるが、『十一時』は全く屈しない。それどころか、恐るべき空間汚染攻撃を真っ向から受け止め、耐えきると、サイズ差を活かした小回りの利く行動でプロテウス死角を突き、美しい光沢のある装甲をベコッ! ベコッ! と破壊してゆく。
『十一時』の尾は、今や単に電磁場を操るだけの代物ではない。"インダストリー"の機動兵器にはやや劣るものの、空間の歪曲率をも操作する器官として作用している。
そもそも、癌様獣と"インダストリー"は、資源や活動域を巡って宇宙空間において幾度となく争いを繰り返してきた、いわば仇敵である。癌様獣である『十一時』が、"インダストリー"の最上位兵器であるD装備に対して何の対策も持たないワケがない。
2体は大小の彗星のように蒼穹を巡り、激突しては離れ、離れては不可視の射撃を撃ち合いプラズマの爆発の花を咲かせ、その合間を再び駆けめぐって激突する事を繰り返す。その戦いは、果てのない永劫の円環としていつまでも繰り広げられるかのように見えた。
――が、彼らは認識していない。その暇がないのも事実だが、しかし"そいつ"は巧妙に存在を隠匿して、2体の激闘を眺めている。
ヌラリと粘り着くような暗い視線が、虚空にコッソリと生じた黒い一点から放たれている。
その黒い一点は、宙に生じた円形の平面である。そして、その中から逆さまにピョコンと飛び出す、丸みを帯びた存在。
それは、女の顔の眼から上である。頭んは、白骨化したコウモリの翼を持つドクロのトレードマークをつけたベレー帽を乗せているが、奇妙なことに重力に引かれて落下することはない。そもそも、漆黒の髪も、重力が逆転したかのように上向きに"垂れ下がっている"のだ。
この異様な顔は、病的な敵意を無機質に張り付けた視線でジッ…と2体の衝突を眺めていたが。やがて、チラリと眼下に広がる木々の中、ロイとゼオギルドの激闘に由来する大破壊の土煙を眺めると、ゆっくりと瞬きをする。
そして、顔の横からヌッと青く塗られた爪を持つ、色白の細い指を露わにすると…『十一時』とプロテウスの方に指先をクイッと曲げる。
そして、呪いでもかけるかのように、ゆっくりとした動作でクルクルと、指先を回し始める。
すると、『十一時』とプロテウスの双方に、異変が訪れる。
彼らがまず感じたのは、グニャリと歪むような意識の混濁と不快感である。
当初、彼らは互いに相手が神経系または魂魄系に干渉する何らかの攻撃を繰り出してきたことを疑った。どちらの勢力もあまり使わない攻撃手段であるため、新兵器かと警戒し合い、攻撃の手が思わず緩む。
その直後、内臓を鷲掴んで揺さぶるような強烈な不快感に襲われ、双方は思わず動きを止める。『十一時』は体の"く"の字に曲げ、口元を押さえて消化器の内容物を吐瀉しないように必死に抑える。一方、プロテウスの機体は四肢ダラリと脱力させたまま棒立ちのままホバリングするばかりだ。そのコクピットの中では、機械化した頭脳部を襲う激しい疼痛に文字通り頭を抱えて冷や汗を吹いてうずくまる、プロテウスの姿がある。
彼らの悲劇は、ここで終わらない。『十一時』の肉体とプロテウスの機体の双方から、バチンッバチンッ! と激しい電気の爆ぜるような音が発せられると、動きが極端に重苦しくなる。プロテウスに関しては機体の動きだけでなく、自身の体の自由も極端に制限されてしまい、まるで鉛になってしまったかのようだ。
この強烈な肉体干渉の正体は、一体何なのか。その答えを2人はほぼ同時に思いつく。
(『冥骸』の、怨場…!)
そうと分かれば、彼らは早速、魂魄干渉を振り切るために精神集中を始めるが――一足遅かったようだ。
2人の体はまるで見えない巨人の手に掴み取られたように、グンッと加速して眼下の林へと急降下を始める。プロテウスの機動兵器のサイズすら軽々と振り回す、強力な騒霊だ。
2人は体の自由を取り戻すべく、精神にて奮闘するが…残念ながら、その努力が功を奏するより早く、折れて焦げた木々と瓦礫の散らばる土壌が広がる大地が目前に迫ってくる。
そして、2人の着地点上には――激しく激突を繰り返す、もう1組の人影がある。
ロイとゼオギルドだ。
「ガアアァァッ!」
「ウッリャアァァッ!」
気合一閃、固めた拳に燃え滾る炎を乗せた2人は、互いの顔面を激しく殴り合う。インパクトの瞬間に生じた爆発が全身を振るわすが、どちらも一歩の後ずらさない。ロイは大地に差した尾と足の鉤爪で踏ん張り、ゼオギルドは足から伸ばした大地に深々と差し込んだ金属の楔で身体を固定する。逃げ場のない衝撃によって内臓や骨格が直接揺さぶられるのも構わず、2人は仰け反った身体をほぼ同時に起こすと、再び拳を固めて殴り合う――。
その直前、突如頭上を覆う巨大な影。そして、耳にゴウゴウと響く、鈍重な風切り音。
何事かとチラリと視線を上げた2人は、思わず口をあんぐりと開く。『十一時』とプロテウスの機体が全くの不意に、彗星のように落下してくるのだ。驚愕を禁じ得ないのも無理はない。
「クソッ、なんだってんだよ!」
「おいおいッ、飛び入りかぁ!?」
ロイとゼオギルドの2人は驚きの声をあげながら、ほぼ同時に大地を蹴って大きく跳び退る。転瞬、2人が居た地点をプロテウスの機体が激震と共に埋めた。その傍らには『十一時』の姿もあるが、機動兵器に比べてサイズ的にも重量的にも小さい彼は、見るものにプロテウスほどの印象は与えない。
(相打ちして、落ちて来たのか?)
ロイは目の前に倒れ伏す2人の有様を見てそんな感想を抱いたが、納得仕切れずに眉根をひそめる。どちらも損傷は決して軽くはないが、かと言って飛翔可能な2人を撃墜するほどの外力が加わったような形跡が見当たらなかったからだ。
倒れ伏す2人のうち、『十一時』がいち早く身を起こそうと四肢を持ち上げる。彼の充血した左目は心なしか腫れが引いており、色も随分と薄くなっている。血の巡りが悪くなっているような塩梅だ。その瞳の有様に対応するように、彼の顔色は病的な土気色に染まっているし、口元は苦いものを口一杯に頬張ったように歪めている。
明らかに、体調を崩しているのが見て取れる。だが、ロイもゼオギルドも事の経緯を見守っていたワケではないので、まさか怨場が関わっているとは思い至らない。
しかしすぐに、ロイ達も怨場――もとい、強力な死後生命の関与を覚る。
きっかけは、プロテウスの機体も身を起こそうと上体を持ち上げた、その時である。『十一時』、プロテウスの双方の影の中からヌルリと、崩れた腐肉を纏った骸骨の腕が無数に伸び、彼らの身体を捕まえたのだ。
腕は細いし、頼りなく震えてもいる。常人程度のサイズを持つ『十一時』にならば兎も角、プロテウスの巨大な機体を前にしては、いくら集まろうが動きを抑えることは到底無理のように思える。だが、死者の腕がソッ…と彼らに触れた途端、まるで巨大な重力源によって押し潰されたかのように、四肢が伸びきって大地に張り付いたのだ。
この光景に、ロイとゼオギルドも傍観者としてポカンと驚愕してばかりは居られない。彼ら自身の影や、周りの木々や倒木、瓦礫の影の中からも次々と死者の腕が出現。彼らの足首を幾重にも掴んだのだ。
「うわっ! いきなりなんだっ、気持ち悪ぃ…!」
ヌルリと滑るような触感に、ゾクリと背筋から脳天を突き抜けるような冷気。その不快感に声を上げたかと思った転瞬、ロイの全身から急激に体力が奪われ、泥人形が熱射によって砂に崩壊するように、その場にヘニャリとへたり込んでしまう。
(おいおい、なんだよ…!)
悪態を吐こうと舌を回そうとするが、声が上手く出せない。舌の筋肉が――いや、舌だけでなく、全身の筋肉が痙攣し、身動きが取れない!
この状況はゼオギルドも同様で、巨躯を大地になげうって無様な"大"の字を描いている。なんとか起き上がろうとこめかみに青筋を立てて首をもたげようするが、激しく寝違えたような激痛が筋肉に走り、どうにもならない。
4人の実力者がもがくことすら出来ず倒れる中で――。倒木と木々の影が重なり一際濃い黒色を作る地点から、ズズズ…と粘りけの強い溶岩がせり上がるような様相で姿を現す、1つの人影がある。
闇夜のような漆黒を呈する、病的なゴシック・パンクの衣装に身を包み、青く塗られた唇と爪が陶磁器のような白い肌に生える、生気のない少女。見る者に怯懦を与えてそのまま石にしてしまうのではないか、と思えるほどの恨みがましい眼光を放つその人物を、ロイは見知っている。
いや、ロイでなく、この場に居るすべての者が見知っている。
『冥骸』における屈指の実力を持つ怨霊、亞吏簾零壱だ。
厚底の革靴を履いた足先まですっかりと姿を現した彼女は、光のない黒々とした視線で4人を見回すと、白い歯を見せてニイッと嗤う。獲物を前にいたぶり貪ることを喜ぶ、狂気に侵された凶獣の笑みだ。
そして彼女は、鉤爪のように五指を曲げた右手をゆっくりと胸の高さまで持ってくると、掌中に握り込んだトマトを握り潰すかのように、指を閉じてゆく。
同時に、倒れ伏す4人の顔色が一斉に真っ青になる。彼らは――機動兵器のコクピットに座すプロテウスまでもが――心臓に強烈な圧迫感を感じたのだ。怨霊特有の強烈な怨場による生体の遠隔操作によって、心臓の筋肉が機能不全に陥ったのだ。
亞吏簾零壱は、こうして競合勢力の実力者を一同に集め、一掃する機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
(や、ヤベェ…クソッ!)
ロイが苦しげに浅く早い呼吸を繰り返していると、泡状になった唾液が口の端から流れ出す。血液の循環が極端に悪くなったこと脳への酸素供給も不足に陥り、意識が暗い影に閉ざされてゆく。このまま混濁の漆黒に落とされてしまったら、閉じた瞼は二度と開くことはなくなるだろう。
(いきなり現れやがって…人の身体を好き放題にしてくれて…! そんなふざけたマネ、いつまでも許しておけるかよッ!)
視界の殆どが霞んだ闇によって覆われた頃。死が目の前にチラつき始めたの頭に過ぎったのは怯懦や平穏ではなく、理不尽さへの憤怒であった。
その憤怒が、彼の魂魄を励起させ、尽きつつある魔力を最後の力とばかりに集結させたのだろうか…ロイの全身に燃え盛るような強烈な魔力が充満し、身体が真紅の色の魔力励起光で包まれる。
その魔力は、ロイの体組織内で幅を利かせていた亞吏簾零壱の怨場と激突し、ついにはねじ伏せる。
転瞬、ロイの視界の闇が一気に晴れ渡る。機能を取り戻した心臓が速いテンポで脈動を始め、一気に脳へと流れ込む血液で若干の目眩が起こる。しかし、そんな事は問題にせず、憤怒に突き動かされるがままにロイは跳ね起きると、漆黒の竜翼を力強く一打ちして、亞吏簾零壱へと一気に肉薄する。
完全な不意打ちを決めて優越感にひたっていたらしい亞吏簾零壱は、ロイの反抗に驚きを隠せない。黒々とした瞳に困惑の鈍い光をたたえて、眼を丸くする。その隙にロイは彼女の眼前に迫ると、電撃を纏わせた竜拳で彼女の腹を深く抉る。
「うぐ…ッ!」
怨霊たる亞吏簾零壱は体内に物理構造を持たないゆえ、打撃によって体液や消化物が噴き出すことはあり得ない。代わりに、霊体である身体は大きくかき乱され、乱れた蚊柱のような有様となって宙を舞い、大地に転がる。
この瞬間、他の3人の身体を縛る怨場も消滅。ゼオギルドや『十一時』はバネのように跳ね起きるし、プロテウスは背部のバーニア推進機関を爆風と共に宙に浮き上がり、体勢を立て直す。
頬を撫でる烈風によって、他の敵が再起したことを知ったロイは、亞吏簾零壱へ追撃を掛けようとした足を止め、身構えて視線を巡らして3人を牽制する。
いや――4人だ。亞吏簾零壱が早くも体勢を立て直し、静かに燃える木炭を思わせるような面構えで仕留め損ねた相手を睥睨する。
――ここに、アルカインテールを席巻する全ての勢力に属する実力者が一同に会した。
5人は暫しの間、黙したまま殺気立った視線を交わし合っていたが。ついに、ゼオギルドが都市中に響き渡るような爆笑でもって沈黙を破る。
「良いじゃねぇか、良いじゃねぇか!
オレが殴り飛ばしてやりてぇと思ってた相手が、全員ここにガン首揃えて集まってやがる!
一々チマチマと会いに行く手間が省けたってモンだ!」
そして、掌を伸ばすと、クイクイと指を振って他の4人を挑発する。
「さぁ、始めようぜ、祭りをよ!
殴り合い、蹴り合い、そして殺し合いの、乱痴気騒ぎをよッ!」
その声が終わるか終わらないかという内に、他の4人が地を蹴り、翼を打ち、バーニア推進機関をふかし、動き出す。
一瞬遅れてゼオギルドも、両足の行玉を輝かせながら、烈風のように走り出す。
――ここに、凄絶なる五巴の死闘が開幕した。
◆ ◆ ◆
アルカインテールの戦場から、遠く離れた場所にて…。
いや、"遠く"というのは語弊がある。魔法科学における平行世界の理論からすれば、"この場所"はアルカインテールには至極近い。しかし、旧時代の物理学からしてみれば、そこは言わば"ねじれの位置"に在り、決して交わることのない場所である。
"この場所"は、人工的に作成された空間の内部である。空間の構造は完成度が高く、自然下の空間と同様に穏やかな"透明色"で満ちている。ちなみに完成度の低い人工空間では、対称性に歪みが生じて常にエネルギーの乱流が介在し、空間は発狂した極彩色に満たされてしまうものである。
さて、大地すらも存在しないこの空間において、ポツンと――とは言うものの、体積は"ポツン"と云う形容がそぐわないほどに巨大であるが――浮かぶ、無機質な灰色の物体がある。カクカクとした直線と直角によって形作られたそれは、窓のない巨大な縦長の建造物だ。
そしてこの建造物こそが、アルカインテールにおける"パープルコート"の駐留拠点だ。そして同時に、『バベル』の研究開発施設も兼ねている。
『バベル』が安置されているのは、この建造物のほぼ中央部。高さ数百メートルを誇る建造物の上下を目一杯に貫く、巨大な開発実験室である。
並の高層ビルならスッポリと収まってしまうような大空間の中には、生物の循環器系ネットワークを思わせるような有機的なケーブルや器具が溢れかえっている。その間には、白衣を着込んだ研究者やら、稀に軍服を着込んだ軍人などがヒョコヒョコと姿を見せている。
彼らの態度は、大きく2つに分類することが出来る。1つは、狂気にもにた興奮と自信に満ちたもの。そしてもう1つは、ビクビクと始終体を竦めた恐怖に満ちたもの、である。その中間の態度を取る者は、殆ど見当たらない。
この両極端の態度を態度を作り出す原因と成っているのが、この大空間の容積の大半を占める、超巨大な培養槽だ。
気味の悪い水色の輝きを放つ、粘度の高いドロリとした溶媒に満ちる槽の中には、巨大な楕円形の物体が浮かんでいる。
正確には、この物体は楕円形をしてはいない。幼子のように膝を抱えてうずくまるような姿をしているために、楕円形に見えているだけだ――そう、この物体は、幼子のような体勢を取れるような"人型"をしている。
そしてこの"人型"の詳細を捉えようと眼を細めると――人は、先に述べたこの空間の住人達のように、狂気か恐怖のどちらかを喚起されるのを禁じ得ないだろう。
そいつは、ホルマリン漬けにされた生物標本のような、不気味に濁った白い体表を持っている。体表の質感も、ホルマリン標本のようにブヨブヨとした印象だ。その時点で十分に生理的嫌悪を喚起させるが、真の問題はこの点で収まらない。
体表をもっとよく観察する――すると、それは滑らかな平面ではなく、やたらと突起物が多いことに気付く。まるで、小腸の内面を覆う絨毛が肥大化したような姿だ。そしてこの突起物は、所々でビクンッ! と電撃でも走ったような痙攣を見せたり、ユラユラとさざ波に揺られるような動作を見せている。
この物体を覆う媒質は粘度が高い上、魚介類の飼育水槽のように流れの循環が起きているワケではない。ゆえに、この物体の体表で起きている動作は、この物体自身に由来するものだ。
更にこの突起物に対して眼を凝らし、その正体を知ると――大抵の人々は、狂気や恐怖を感じる前に、驚愕に身を打ち振るわせるだろう。
それは――人体だ。あるものは首を切り捨てられ、あるものは下半身を切り捨てられ…といった具合に、いずれの人体も完全ではなく、どこか欠損している。しかし共通するのは、切断面の脊椎同士が繋ぎ合わさっている、ということだ。
このおぞましき人体結合の産物こそ、『バベル』なのである。
今、『バベル』は眠っている。他の体部同様、大量の人体で形成された顔面には、巨大な3つの眼と裂けた口が張り付いている。眼は3つ共に赤子のように穏やかに伏せられ、口は安眠を物語るような浅く緩やかな呼吸を刻んでいる。
胎児にしてはあまりにも怪物じみたその寝顔を正面にして、一際狂気を帯びた大嗤いを浮かべている者がいる。
白に極めて近い灰色の髪を噴火のごとく持ち上げたヘアスタイルの、壮年の研究者。彼こそ『バベル』の開発プロジェクトのリーダーであり、『バベル』の生みの親たる魂魄魔法物理学者。ツァーイン・テッヒャーである。
彼の手前には、『バベル』の様々な状態を3次元グラフ化して中空の投影している観測器のコンソールデスクがある。しかしツァーインはこのグラフを一切参照せず、直接形而上相視認することで『バベル』の状態を確認している。
『バベル』の形而上的構造は非常に複雑で、構成要素である術式の密度はまるで天文学単位で集結したアリの群れを思わせる。こんなものを脳に描画するとなれば、どれほど認識格子の程度を下げようとも、脳の認識機構がパンクしてしまうであろう。しかしながらツァーインは、すでに脳のネジが外れてしまっているのか、ギラギラした視線で『バベル』を舐め回し、時を首を縦に振っては独り言を大きく叫ぶ。
「おお、おお! 我が大いなる子よ!
見える、見えるぞ! お前の興奮が! 期待が! 衝動が!
形而下のみのお前を捉えて、惰眠を貪っている等と思うのは、原生動物にも劣る愚か者だ! 今のお前は、超新星爆発に向かって膨張する巨星に等しい!
ああ、ああ! そんなに急くな、急くな! 私とて、完全になったお前を再びこの世の光に当てたくて仕方がないのだ!
しかし、しかしながらな、我が大いなる子よ! 天才とは言え、高々ヒトでしかない私は、様々な鎖に捕らわれているのだ! しかしその鎖におとなしく捕まっていることこそが、今のお前を更に盤石にすることにつながるのだ! この親心を分かって欲しい、我が大いなる子よ!」
舞台俳優にも劣らぬ大仰な仕草で腕を振り、ステップを踏み、恍惚と台詞を叫ぶ、ツァーイン。この光景は『バベル』の研究開発室の住人達には同じみのものだが、バカでかい室内にも木霊する大声にいつまで経っても慣れることが出来ず、眉を潜めたり苦笑を漏らしたりする者達が少なからず居る。
さて、ツァーインの一人芝居が更に続くかと思われた、その時。彼の背後にビクビクした様子の下級兵士が立った。ツァーインの狂人の有様を初めて目にした彼は、穢れたものを触れるのを厭がるように、暫く逡巡していたが。やがて、恐る恐る腕を伸ばし、ツァーインの右肩をトントン、と叩く。
転瞬、はっと我に返ったツァーインは電撃でも浴びたように激しい勢いで振り返ると、血走った目で下級兵士を睨みつけ、非難を浴びせる。
「なんじゃ、なんじゃ、なんじゃ!
私と、我が大いなる子との、かけがえのない時間を邪魔しおって!
何用だというのだ、この駄肉がっ!」
あまりの言いように、周囲ではクスクスと笑いが漏れる中、罵声を浴びせられた下級兵士はカチンと来て眉を曇らせたが。ツァーインの背後に控える『バベル』の巨体にチラリと視線を走らせてしまうと、ブルリと怯懦の身震いすると共に頭が冷える。そして、さっさとこの不快な空間から退出するべく、用件を済ませにかかる。
「ヘイグマン大佐から伝言を預かっております。
先ほどから何度かコールを入れているのですが、通信に出てくれませんか、とのことです」
その言葉を耳にした時のツァーインの有様を、なんと例えようか。花が咲く様子を早回しにしたような、とでも言うべきだろうか。ともかく、彼は苛立ちの表情を一変させると、下級兵士に礼も謝罪も述べずにグルッと転身し、コンソールデスクに設置されている通信機を操る。
もはや振り向く気配が微塵も見て取れないと覚った下級兵士は、一応ツァーインの背に向けて虚しい敬礼を向けると。こちらもクルリと踵を返して足早に研究開発室の出口へと向かった。
さて、ツァーインは司令室へ通信を入れると、コール音が途切れた瞬間に口角泡飛ばす勢いで叫ぶ。
「出撃ですか、大佐殿、出撃ですか!!?
我が『バベル』、その晴れ舞台が遂に回ってきましたかッ!」
これに対し、スピーカーからは小さく短い呻き声が漏れる。おそらく、突然の叫び声は司令室の通信機のスピーカーに不快なハウリングでも起こしたのだろう。
「大佐殿!? どうなのですか!? ヘイグマン大佐殿!?」
答えが返るまで、執拗に間断なく問いを入れる、ツァーイン。やがて、ため息と共にヘイグマンの低い掠れた声が割り込んでくる。
「…少し落ち着いてくれないかね、ドクター・ツァーイン。
これでは起動の際に逸りすぎて、重大なミスを侵してしまうのではないかと、要らぬ心配を抱いてしまう」
「そんな事はありませんぞ! この後に及んで、単純なオペレーションミスで我が大いなる子が破滅するような間の抜けた事態など、起こりようがありません!
そんなことよりも大佐、大佐、大佐! 我が子は、我が子は、我が子は!?」
ツァーインの狂気じみた有様に、ヘイグマンはマイク越しに深いため息を吐く。その前振りの後、地の底から沸き上がるような声を絞り出す。
「…そうだ」
「!!」
ツァーインはバァン! と両手を打ち鳴らす。
「…ドクター、あなたの希望の通りだ。
起動準備が整っているのなら、『バベル』を起動して欲しい。
役者はすでに、舞台に集結した」
するとツァーインは天を仰ぎ、天空のない人工空間であることも忘れ、蒼穹におわす神に向けて感謝の祈り――いや、挑発の罵りを叫び上げる。
「ああ、ああ、ああっ!
この時をもたらした神に私は感謝すると共に、ほくそ笑もう!
神が我らに賜れた、残酷なるタンタロスの泉を! 果実を! 我らは神の意図を根底から覆し、まんまと手にする瞬間が、ついに訪れたのだから!
この至高の時を! 超越の瞬間を! 私はどうして嗤わずに過ごせようか!
ああ、ああ、ああっ! 我らが神よ! あなたはもうすぐ、我らの頭上から転がり落ち、我らと同じ肩の高さに並ぶのだ――この、私の、手によって!」
憑き物に侵されたように、詩を吟ずるような口調で高らかに叫んだツァーインは、言葉尻で口を噤むと同時に、演奏を止めるオーケストラの指揮者のように腕を振るって手を握る。そのまま暫し訪れた静寂を堪能したツァーインは、スピーカー越しのヘイグマンのため息によって沈黙が破かれたと同時に、血走った目を見開く。
ヘイグマンが何か急かすような言葉を口にしようと、息を吸った音がした――その時。ツァーインは高く、高く右腕を上げると。
「目覚めよ、我が大いなる子ッ!」
絶叫と共に、突き出した人差し指を振り下ろし、コンソールデスク上にある大きな赤いスイッチを押下する。
このスイッチこそ、休眠状態にある『バベル』を叩き起こす引き金だ。
押下の直後、『バベル』の脊椎にあたるラインに沿って一定間隔に設置されたケーブルへ、ビクンッ! と、強烈なパルスが走る。それは、魔術によって強制的に相転位され、液状になった自称エントロピーの塊だ。
転瞬、巨大培養槽の中の溶媒がゴボゴボッ! と騒々しい音を立てる。たちまち槽内を満たす大量の泡の中、浮かび上がっていた『バベル』のシルエットが胎児様の楕円から、成人様の縦長に変化する。
「おお、おお、おおおっ!」
ツァーインが気違いじみた感涙をにじませながら、瞬き一つせずに立ち上がった『バベル』の雄姿に視線を注いでいると。それに答えるように、『バベル』の3つの眼が、ゆっくりと瞼の帳を開いてゆく。
死者よりなお不気味な汚れた白の瞼の内側から現れたのは――腐りかけた魚を思わせる、濁りきった輝きを湛え、それぞれがあらぬ方向を向く、生気のない眼球だ。
しかし、死に絶えたような眼球に反して、大きく裂けた口は雄弁なほどに感情を露わにする。解き放たれた赤子のようにニンマリと口を歪め、人骨が癒合して形成されたゴツゴツの牙をゾロリと見せて、嗤う。
『バベル』は今、完全に覚醒した。
「さあ、さあ、さあ! 行け、行くのだ、我が大いなる子よ!
陰険なる神がちらつかせる『天国』を、我らの元に手繰り寄せるのだ!」
そしてツァーインは、『バベル』をこの人工空間から地球上の自然空間へと転移させるためのスイッチへと、歓喜で震える指を伸ばす。




