Tank! - Part 2
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ノーラの本日、2度目の歯車の狂い。それは、1度目の起床時間と、短すぎる睡眠時間だ。
"1度目"と言及したからには、2度目の起床時間も勿論あるのだが、これも歯車の狂いに関連しているので、後ほど詳しく述べることにする。
…さて、普段より4時間以上も遅い就寝についたノーラが目を覚ましたのは、なんと午前5時頃。普段の起床時間は6時か7時なので、この起床時間もイレギュラーである。第一、8時間は睡眠をとらないと気が済まないというのに、睡眠時間は3時間にも満たない時点で、生活どころか生体のリズム自体が大きく狂ってしまっている。
それでもノーラはこの時、午前5時ピッタリに設定していた目覚ましのアラームが鳴るよりも早く、瞼を羽毛のように軽々しくパッチリと開いたのであった。
それからのノーラの行動は、睡眠不足を全く感じさせない、非常にキビキビしたものだった。着崩れた水色のパジャマをポイポイと脱ぎ捨て、就寝前になんとかクローゼットに押し込んだ制服を風のごとき勢いで身に纏う。
直後、ノーラは疾風の足取りで洗面室へと移動。鏡をのぞき込むと、冬場の冷たい真水で顔を洗い、薄紫色の髪を丁寧ながら手早く整える。そして再び鏡に視線を送ると、鏡面に移る自身の顔に向かって、大袈裟な笑顔をニィッと作り、表情筋を叩き起こす。
「よし…っ!」
一連の支度を終えたノーラは小さく呟くと、リビングに放置していた通学用肩掛けカバンを身につけ、朝食も摂らずに颯爽とした足取りで自室を飛び出した。
乱れまくった生活リズムに全く負けることなく、ここまでキチンとした行動を機敏に成し遂げられる原動力は、一体何なのか。それは――決意、である。
ノーラには、今朝一番にどうしてもやり遂げたいことがあるのだ。
北半球の冬の早朝ゆえ、日の出はまだ遠く、深夜のような闇の帳が町並みに降りている。灯りが点っている窓は殆ど見あたらず、光源と言えば柔らかな輝きを放つ術式燃料式の街灯ばかりである。
約2時間半前には路上をうろついていた暫定精霊達も、今ではすっかり姿を消している。単に作業場所を移動しただけか、それとも役目を終えて術式へと蒸発したのか、それとも石タイルの隙間に縮こまって潜り込み待機モードになっているのか。何にせよ、深夜よりも路上は更に静かで、寂しい雰囲気であった。
天候もまた、寂しい雰囲気に拍車をかけている。就寝前までは晴れていた夜空も、今は大半が厚い雲で覆われている。月の輝きも雲に阻まれており、深夜よりもなお暗さが際だっている。
それでもノーラは一向に気後れすることなく、一直線に、最短の道のりで学園へと駆けてゆく。
今回は一刻も早く目的をやり遂げたいため、ノーラは普段の通学と同様に公営の移動用魔術施設を使用する。
学生生活地区には、至るところに行き止まりのような広場がある。そのような一画の地面は必ず、他の道路とは違って、丁寧に水平に均されたアスファルトで覆われている。この地面には更に、真円の外周を持つ巨大な幾何学模様が深々と刻みつけられている。これこそが移動用魔術施設であり、生徒や住人たちから『ポータル』と呼ばれている代物である。
学生生活地区の『ポータル』を利用することで、学園地区にある総勢19棟の学舎のうちの、任意の場所の玄関へと瞬間移動できるのだ。
ノーラは『ポータル』の上に乗り、瞼を軽く閉じて精神を集中。すると、足下を囲うように円形の青白い輝きが発生する――直後、勢いづいた火柱のような、まばゆい純白の光が天へと立ち上った。数瞬後、光の柱はホタルの光のように儚く霞んで消滅すると――そこにはもはや、ノーラの姿はなかった。
同時刻、ノーラは光の柱とともに、学園地区の第1棟、通称『本校舎』のエントランスに出現した。移動魔術は見事に成功したのだ――尤も、よほど魔術の扱いが苦手でない限りは、『ポータル』を用いての瞬間移動に失敗することはないのだが。
妖精が彫り込まれた円柱が一列に並ぶ広々としたエントランスには、誰の姿もない。昼間には絶対に味わえない広大な解放感を気持ちよく独り占めできるが、そんなことがノーラの目的ではない。上階へ運んでくれるエレベーターを目指し、即座に小走りで移動する。
本校舎は、他の校舎に比べて生徒用の教室の数が少ない。代わりに、教官達の専用室が数多く配置されている。特に5階から上の階は、全てが教官用スペースと言っても良い。こんな割り当てになっているのは、この本校舎の最上8階に学園長たる"慈母の女神"の執務室があるので、学園長を交えた教官たちの会議などを開きやすくしているためかも知れない。
今回のノーラの目的地は、6階にある。彼女が所属する1年Q組の担任教官、ツェペリン・アンルジュの部屋である。
エレベーターを降りると、そこには王宮を思わせるような優美な廊下が左右に伸びている。その中をツカツカと早足で歩き、立ち並ぶブラウンの木製扉のうちの1つの前で立ち止まる。扉の中央やや上方には、金字でツェペリンの名が記された黒いプレートが設置されてあった。
授業開始までまだまだ時間のある時刻だというのに、果たして部屋の主は居るのか。ノーラはそんな疑問を一切抱くことなく、確信を持ってコンコンとノックする。
彼女の確信は、的を得ていた。扉の向こうから、やや大仰に芝居がかった中年男性の声で「どうぞ、入りたまえ」との回答が返る。
「朝早くに失礼します、ツェペリン先生」
ノーラは声を掛けながら扉を開き、スルリと室内へと滑り込む。
ユーテリアの教官の部屋は、他校に見るようなせせこましい事務室ではない。豪邸の書斎を思わせる広々とした造りになっている。そして、教官たちは自分たちの個性に合わせて、内装をカスタマイズしている。
ツェペリン・アンルジュの部屋の内観は、美術館の小さな展示室を連想させる。左右の壁に沿って設置されている、天上スレスレまでの高さがある本棚には、様々な形状の芸術品が収められている。また、室内には台座が幾つか点在しており、その上には古代美術品を思わせる男女の英雄像が並んでいる。これらのコレクションは単にツェペリンの趣味というだけでなく、美術史を専門分野の1つとしているがための研究対象品でもある。
部屋の奥には、多種多様な花や果実を実らせたツタの模様をした厚手のカーテンを背に、小粋な装飾が施された木製のテーブルと、ボリュームのあるフカフカした大きな背もたれを持つ椅子がある。そこに目的の人物、ツェペリンは座していた。
大抵のユーテリアの教官がそうであるように、ツェペリンの姿は非常に個性的だ。虹を思わせるような極彩色の燕尾服に身を包み、頭には派手な白黒の市松模様をしたシルクハットを被っている。また、口元には見事にクルリと渦を巻くカイゼル髭をつけている。他校では絶対に見かけることのできない、突飛な姿だ。
ツェペリンは灰青色の瞳にノーラを移すと、一瞬眼を見開いて驚きを見せた。しかしその表情はすぐに、貴族然とした余裕のある穏やかな笑みに代わる。
「こんな早朝に登校とは珍しいね、ノーラ君。よほど急いた用件があると見受けるが、どうしたのかな?」
「はい、仰るとおりです。
先生は非常に朝が早いと伺っておりましたので、この時刻でも問題ないかと思いまして、来訪させていただいた次第です」
「ハハッ、そんなに畏まらずとも良いよ。
まぁ、こちらに来たまえ」
右手の甲を見せながら揺らして誘うツェペリンに従い、ノーラは早足で彼の机のすぐ手前まで歩み寄る。
「早速、ご用件をお伝えしたいのですが」
「ふむ、言ってみたまえ」
ツェペリンはやや緊張した面もちを作り、机の上で両手を組んで、ノーラの言葉を待つ。
だが、ノーラの口にした用件の前に、ツェペリンの緊張は空回りし、間の抜けた驚きが取って代わることとなる。
「入部届を、提出したいんです」
「ほっ…?」
ツェペリンが呆けたのは無理もない。一見して、急を要するような用件だとは全く思えないのだから。
「…ああ、入部届、か。
ちょっと待ってくれたまえ」
数秒を呆然と過ごした後、ツェペリンはワタワタしながら机の引き出しを漁ると、ペラペラと揺れ動く一枚の用紙をノーラに渡す。
するとノーラは、夜明けを引き寄せるような輝かしく清々しい笑顔をニッコリと浮かべて受け取った。
「ありがとうございます…!
あの、この場ですぐ記入したいので…机の端を、お借りしてもよろしいですか?」
「あ、ああ、構わんよ。
ペンは持ってるかね? 貸そうか?」
「大丈夫です。私、いつも制服のポケットにボールペンを忍ばせてますから…」
そしてノーラは机の端に移動すると、上着のポケットから飾り気のないボールペンを取り出すと、サラサラと用紙に記入事項を書き込む。故郷で英才教育を受けていたノーラは習字などの作法の教育も受けており、書く文字は静かな清流のように達筆だ。
1分も掛からずに記入を終えると、ピラリ、と音を立てつつ用紙を翻しながら、担任教官へ提出する。
日の出も迎えていない早朝に登校してまで提出したかった入部届――そこに書かれている部活動の名前は果たして何かと、ツェペリンは視線を走らせると…。
「ほおー。星撒部…とはね」
彼は自らカイゼル髭を指で摘まんで撫でながら、苦々しいとも愉快そうともとれる微妙な笑みを浮かべる。
「何か…おかしいでしょうか?」
中途半端にして奇妙な反応に、ノーラがちょっと眉根を曇らせて尋ねる。するとツェペリンは髭をいじるのを止めた手のひらをこちらに向けて、「これは失敬」と前置く。
「年度の終わりに近いこの時期に入部届を提出するなんて、珍しいこともあるものだと思ったんだがね。
この部活動なら、納得が行くというものだよ。
副部長の渚君にでも強引に勧誘されて、引くに引けなくなってしまった…というところだろう?」
星撒部が、自身の活動のために他の生徒を巻き込む『暴走部』であることは、教官たちにも周知の事実であるらしい。ツェペリンは苦笑の中に同情を滲ませながら、質問というよりは確認といった感じの口調で語る。
対してノーラは、星撒部の評価を胸中で苦笑しながらも、顔には春の微風のごとき穏やかな笑みを浮かべて、首を横に振る。
「いいえ。
渚先輩たちからの勧誘とかは、全く関係ありません。
入部の件は、紛れもなく、私自身の意志です」
「ふむ…。
確かに、成り行きでの入部ならば、こんな朝早くから精力的に入部届を提出するなんてことはしないだろうね。
この様子だと…君はとても、星撒部が気に入ったと見える」
「はい!」
即答するノーラの笑顔が、微風から華やかな花吹雪へと変わる。弾くような勢いで閉ざした瞼から、星が飛び出してくるような、可憐で輝きに満ちた極上の笑顔だ。
「皆さん、とても素敵な方ばかりで…。
どうしても、一刻も早く、皆さんと正式な形で一員になりたかったんです…! そして…入部初日という今日1日を、最高の形でスタートしたかったんです…!」
「なるほどねえ」
ツェペリンは腕を組み、うんうん、と首を数度縦に振る。
「まぁ、君の担任教官の身の上としては、今回の君の決断はとても喜ばしい限りだよ。
君は、授業での態度や成績の上では、とても優秀な生徒だ。しかし――こう言っては君に失礼だが――どうにも自発性に欠けるというか、元気が足りないと、危惧していたのだよ。折角輝ける才能に溢れているのに、実にもったいない、とね」
その言葉を耳にして、ノーラの笑顔に申し訳なさそうな苦々しさが混じる。昨日、学園長の"慈母の女神"にも同じような事を言われたことを思い出したからだ。あまり目立たないよう、影のようにひっそりと学園生活を過ごして来たつもりだったが、希望の輝きに満ちた学園の中では彼女の暗がりが非常に目立ってしまっていたらしい。
「だから、君が星撒部という活発な活動に自発的に参加を決めたことは、私に嬉しい意外性をもたらしてくれたよ」
ツェペリンはシルクハットの下でニッコリと、目元に皺を寄せて大きな笑顔を作る。
「さっきは、星撒部のことをあんな風に言ってしまったがね。私は、世辞抜きにとても良い部活動だと評価しているのだよ。
確かに、君たち生徒の間で話題になっているような、やりすぎな面もあるし、褒められたことばかりでもない。
だがね、部員たちは皆、自らの確固とした信念に基づいて、本気で人々と世界のために、幸せの一端を担おうとしているし、実際に実践もしている。ゆえに、彼らの仕事の成果は、依頼者全員から例外なく、大満足の評価を得ているのだよ。
それに…部長のバウアー君に、副部長の渚君。彼らはこの部活を発足してから本当に良き生徒に――後輩たちにとっては、良き手本となる先輩になったよ」
バウアーと渚について言及した、その時。ツェペリンの視線が過ぎ去った日々に向けられ、眼がスッと細くなる。目尻が笑いの形に曲がっているところを見ると、悪い記憶を掘り起こしているのではなさそうだ。
「彼らは…特に渚君は、大きく変わったよ。
入学仕立ての頃の彼女は、まるでウニのように、何処から触ってもトゲトゲしていてね。指導にはひどく手を焼いたものだよ…」
「…先生は、渚先輩のこと、ご存知なのですか…?」
ノーラが目をパチクリと瞬かせて尋ねると、ツェペリンは瞼の裏側に眺めたい過去の光景でも張り付いているかのように軽く目を閉じると、うんうん、と数度首を縦に振る。
「私は去年、彼らのクラスの担任教官だったからね。
ちなみに、バウアー君は中途編入だったんだよ。編入してきた時期は、初夏の頃だったねぇ」
"中途編入"…その言葉に、ノーラは思わず目を見開いて驚きを伝える。
ユーテリアにおいて、中途編入は極めて珍しいケースだ。生徒自身が望む場合でも、学園のスカウトマンが誘う場合でも、余程の事情がない限り、次年度の1年生として入学させられることが多い。次年度までの期間、特にスカウトを受けた者に関しては基礎学力が不足している場合が多いので、生徒が望めばユーテリアの準生徒として基礎教養の学習を受けることが可能である。
このような事情があるので、ユーテリアでは同学年の生徒と言っても、同い年であるとは限らない。中には、20代半ばを越えてから1年生として入学する生徒もいる。
ちなみに星撒部の場合、1年生も2年生も、同い年揃いである。
…さて、中途編入について話を戻すと。バウアーのように次年度待たず、即座に生徒として受け入れられる者というのは、心技体が総じて極めて高いレベルにあり、約1年を空回りさせては非常勿体ないと評価される、希有な人材であると言える。現在においても学園最強生徒の候補に上がる彼は、スタート時点から既に、その片鱗を覗かせていたということのようだ。
「バウアー君の編入初日は、嵐のような1日でね…今でも鮮明に覚えているよ…」
瞼を閉じたまま、嘆息と共にツェペリンは語り続ける。吐息の中には掘り起こした記憶を楽しむ響きと共に、当時の苦労までも如実に思い出してしまった重苦しさも混じっている。
「バウアー君と渚君は最初、全く馬が合わなくね…。それなのにお互い、隣同士の席になったものだから…その険悪さときたら、まるでウニと毬栗をぶつけたような有様だったよ。
ホームルームの最中、彼らの間にはずーっと火花が散ってるように見えていてね…。そしてついに、何が火種になったのか、教室内で交戦を始めてしまったんだよ。
いやぁ…あれを止めるのには、本当に苦労したよ。私だけの力では全く及ばず、3人もの先生に応援してもらったからね…」
ツェペリンは恥ずかしそうに肩をすくめる。
英雄候補である生徒たちを指導するユーテリアの教官は須く、生徒たちに劣らぬ高い能力の持ち主である。教職というレッテルを捨てたならば、間違いなく、『地球圏治安監視集団』を初めとした数々の組織から即戦力を期待されて声がかかることだろう。
そんな彼らを4人も用いなければ、たった2人の1年生を抑えられなかったという事実が、ツェペリンの誇りの深いヒビとなっているようだ。
「そんな彼ら2人が、どういうワケか意気投合して、今では部活動の中心を担っている。不思議なものだね。
…いや、むしろ、飾らぬ本音で力をぶつけった仲だからこそ、そういう間柄になれたのかも知れないね」
…と、ここまで過去の日々を眺めながら言葉を口にしていたツェペリンだが、ふいにハッと細めた目を見開く。そして饒舌だった口を芝居がかった動作で塞ぎながら、慌てた様子で「いかん、いかん」とモゴモゴ語る。
「本人たちの許可なく、彼らの汚点になり得る過去をペラペラ喋ってしまっては、彼らに悪い。
すまないがノーラ君、もしもこの事に興味を抱いたのならば、これ以上のことは当人たちから聞いてくれたまえ」
ツェペリンに指摘されるまでもなく、ノーラは既に過去の渚に関する興味を抱いていた。今は、ちょっと強引なものの、ノリが良くて茶目っ気があって、何事を起こしても憎めない愛嬌のある渚が…トゲトゲしていた様子など、想像もつかなかったからだ。
とは言え、本人たちの居ないところで、事情をあまりに掘り下げて尋ねるのは失礼だという意見についても、ツェペリンには同意だ。だからノーラは素直に首を縦に振り、それ以上の事をツェペリンから聞き出すことはしなかった。
その後、ツェペリンは話題を変え、ノーラから受け取った入部届をヒラヒラと振りながら語る。
「ともかく、入部届は受け取ったよ。
おめでとう、これで君は正式に、星撒部の一員だ!
これで、本日の良好なスタートは切れたかね?」
「はい!」
ノーラはニッコリと笑う。その笑みが呼び寄せたかのように、ツェペリンの背後の厚手のカーテンの隙間から、うっすらと朝焼けの明かりが漏れてくる。
ノーラの用事が終わったと見るや、ツェペリンは入部届をデスクの上に静かに置くと。穏やかに笑みを浮かべた視線でノーラの目元を見つめながら、語る。
「1時限目までは、まだまだ時間がある。もしも君が、今日も1時限目から授業に出席する気なら、保健室にでも頼んで、授業開始直前まで休んだ方がいいだろう。
…目元に、濃い疲労の気配が見えるよ」
ツェペリンの指摘通り、ノーラの目元にはうっすらとした隈が浮かんでいる。決意によって心は弾んでいても、身体の疲労は消えてはいなかったのだ。
「ご心配いただき、ありがとうございます。
保健室よりはやはり、自室の方が落ち着きますので。一度帰って、休んでおこうと思います」
「うむ、そうしなさい。
疲れが溜まった状態では、いくらスタートだけが良くても、辛く苦しい1日になりかねないからね」
…こうして朝一番の目的を終えたノーラは、担任教官へ深々とした礼を残すと、クルリと踵を返して部屋を後にする。その足取りは、スキップでも踏んでいるかのように軽やかで素早かった。
そのまま大きな木製扉の向こうへと姿を消すと…室内に1人残ったツェペリンは、デスクの上に両肘を立てて手を組み、入部届に視線を送りながらポツリと呟く。
「私も、妙な縁があるものだな。
2年連続で…とはね」
一体何が"連続"しているというのか。それについてツェペリンは、独りごちて言及することはなかった。
――その後、ツェペリンはノーラの入部届の内容を、学園長たる"慈母の女神"へ報告したのであるが…そんな事情を、ノーラは知る由もなかった。
さて、朝一番の目的を果たし、星撒部の一員としての新しい日々の始まりへのスイッチを入れた、ノーラは…廊下を満たす心地よい程度の空気を胸いっぱいに満たすほど深呼吸し、白み始めた雲の多い空を窓越しに眺めながら、満足げに頷く。
「これで…良しっ!」
胸の高さにあげた両手をグッと拳の形に握りながら、小さく呟いた…その直後のことであった。
決意という支えがポッカリと失われたノーラの身に、ズッシリとのし掛かってくる――強烈な眠気と、疲労感。やはりツェペリンが指摘した通り、ノーラの身体には濃い疲労が深く刻まれていたのだ。
(うわ…っ。昨日の打ち上げの後の、寝る前の時よりも…ずっとずっと、ダルい…ダルすぎる…)
直立していてさえも、瞼がトロ~ンと降りてくる。ぼやけた視界はなかなか焦点が合わない。膝から下がまるで綿にでもなったように力が入らず、フラフラというよりもフニャフニャだ。
保健室で休んで行くと良い――そのツェペリンの言葉が、グニャグニャになった脳裏で妙にハッキリと再生される。その言葉に甘えるべきだとノーラの本能は叫ぶが――彼女の理性は、その提案を却下した。
(保健室で寝たら、仮眠どころじゃない…。この様子だと、お昼までグッスリ眠り込んじゃう…)
不良な生徒ならば、それでも本能の提案に喜んで飛びつくだろう。しかし優等生思考のノーラは、真に保健室を必要とする、演習などで傷病を負った生徒を差し置いてベッドを占領することが非常に心苦しいのだ。
だからノーラは、就寝前以上に厳しい疲労と睡魔に必死に抗いながら、自室へと帰ることを決断した。
その道中は、非常に痛々しく、苦しいものになった。歩行という行為も眠気覚ましには全く役に立たず、気を抜けばそのまま堅い地面に倒れ込んで、寝息を立ててしまいそうだ。グニャグニャした思考の中でその様を想像すると、泥酔して眠りこける間抜けなオジサンの姿が想起され、ノーラの羞恥心をグッサリと突き刺す。――そんな恥ずかしい姿を晒すことだけは、絶対に避けたい!
壁に寄り添いながらなんとかエントランスについたノーラは、中央に設置されたポータルを起動させようと精神を集中しようとするが――睡魔のために、なかなか思考がまとまらない。瞼を閉じると、視界の闇の中に落ちていきそうになる。
(ダメ…っ! ホラ…っ、頑張るよ…私!)
ノーラは自身の頬を思い切りつねり、涙が滲むほどの痛みで意識をなんとか覚醒させる。
…この時、丁度ノーラの背後を2人組の学生が通りかかると、ノーラの奇妙な行動に首を傾げていた。しかし勿論、睡魔との格闘で手一杯のノーラは、そんな彼らの様子など気づくはずもない。
覚醒するも一瞬のこと、即座に鎌首を高くあげてくる、睡魔。それに抗うべく、思い切り奥歯を歯噛みしながら意識内で術式を練り上げると――。
「転移~ッ!」
エントランス中に響きわたるノーラの叫びは、声と共に口から睡魔を吹き飛ばさんとするかのよう。その行為が功を奏したと言えるのか、ノーラの身体は青白い魔術励起光に包まれる。移動術式が見事に成功した証だ。
そのまま光の柱となって姿を消す、ノーラ。その一部始終を眺めていた生徒2人組は、コソコソと語り合う。
「…あの人、一体どうしたんだろうね…?」
「夜通しで疑似戦闘演習でもして、テンション上がりまくってたんじゃない?」
――何はともあれ、登校時に利用した、自室最寄りのポータルへの移動を成功させた、ノーラ。しかし、ここで気を抜くワケにはいかない。自室まで徒歩でたどり着かなくてならないのだから。
宵闇が支配していた空に白色と、そして東の空に朝焼けの赤が差してくるこの時間帯になると、学生居住地区の路上にはポツポツと人や乗り物の姿が増えてくる。人は大抵がユーテリアの生徒たちで、部活動の朝練に向かう者が大半だ。中には、自室で飼育しているイヌやら愛玩用暫定精霊の散歩をしている者の姿も見える。乗り物は新聞配達や、生徒向けの朝食配達サービスを請け負っている浮遊スクーターやバンが多い。
路上を動く者達は皆、朝の清々しい空気の元、ハキハキとした活気に満ちている。新しい1日の始まりを身体全体で歓迎しているかのようだ。
…それに比べると、ノーラの枯れ果てたサボテンのような気だるさは、あまりにも目立つ。彼女を視界に入れた者たちは皆、怪訝そうに眉をひそめたり、哀れみに目尻を下げたりしている。
「あの、大丈夫ですか? 具合でも、悪いんですか?」
あるタイミングですれ違った一団から、本気で心配されてそう言葉をかけられた時。ノーラは時を経ると共に濃くなった隈がクッキリ浮かんだ、極めて不健全な笑みをゲッソリと浮かべて答える。
「大丈夫です…寝不足なだけですから…」
こんな状態で"大丈夫"などと言われて納得する者は誰もいないであろうが、一団はノーラが発する妙な気迫に圧されて、それ以上何も言えずにノーラを見送るのであった。
普段の通学の倍以上の時間をかけ、ようやく寮に到着した、ノーラ。泥にでもなったような足取りでズルズルと、壁伝いにエレベーターまで進むと、倒れ込むようにして入り込む。エレベーターの隅に背を当てて全体重をかけると、そのまま中途半端に座り込むような格好を取り、自室のある5階を目指す。
エレベーターはノンストップでノーラを5階まで運んでくれた。チーン、という細く高い音を上げて目的地到着を告げたエレーベーターが、綺麗に磨き抜かれた木の目調の扉を開くと――そこに偶然、入れ違いで乗り込もうとしている、岩の肌を持つ逞しい巨躯の男子生徒の姿を現れる。この生徒は、ぼんやりとした様子でエレベーターを待っていたようだが、開かれた扉の向こうにノーラの姿を認めた瞬間、ギョッと灰色の小さな眼を見開く。
「お、おい! あんた、大丈夫か!? 生きてるか!?」
鬼気迫る様子でノーラに近寄る、男子生徒。それは無理もないことだ。ノーラは病的なまでにクッキリとした隈を浮かべ、焦点の合っていない視線で虚空を眺めていたのだから。男子生徒の目には、生死の境を彷徨う重篤者のように見えたことだろう。
「…はっ…!」
男子生徒の真剣極まりない心配の叫びに、ノーラは一瞬遅れてビクッと身体を震わすと、フラフラしながらも慌てて身体を起こし、制服の袖で激しく眼を擦る。
「あ…す、すみません…。単なる、寝不足なだけです…。
ご心配、おかけしました…!」
そう言い残すと、ノーラはこれ以上心配を振り撒いてならぬと、前のめりになりながら足早にエレベーターを出る。男子生徒はしばらくノーラのおぼつかない後ろ姿を見送っていたが、やがて首を傾げながらエレーベーターに乗り込み、姿を消した。
さて、ようやく――本当にようやく、自室にたどり着いたノーラは…即座に寝室に直行し、制服姿のままベッドに倒れ込む。冬の朝の空気でひんやりした、フカフカの毛布の感覚が実に気持ち良い。瞼の重みがいよいよ耐え切れぬほどになり、視界が暗転してゆくが――。
「だ、ダメ…!
今度は、ちゃんと毛布を被って…質の良い睡眠を取らないと…!」
自身を鼓舞するように声を出しながら首を振ると、抗い難い心地良さをなんとか振り切ってベッドから身を放す。そして、今にも堅く閉じてしまいそうなほど細く伏せられた眼のまま、モソモソとした動作で制服を脱ぎ、クローゼットに仕舞う。ハンガーに掛けられた制服はかなり崩れた形でぶら下がっていたが、今はそれを正す気力など全くない。
それから、ベッドの隅のほうに放置された、起床の歳に脱ぎ捨てたままのパジャマをモゾモゾと身につけると。
「…ふぁああぁぁ~」
活気の萎えた薄い桜色の唇を大きく開き、盛大な欠伸をする。そしてジンワリと溢れてきた涙をコシコシと人差し指でふき取ると、ようやく待望の毛布の中へと進入する。
ベッドの中は冬の空気で既に冷やされてしまっており、パジャマ越しにもジーンとした冷気が伝わってくる。その感覚に、ムズムズした興奮にも似た衝動を覚えたが…やがて、ヌクヌクと広がってゆく体温の暖気によって、深い睡魔が呼び起こされる。
そのまま気持ちよく入眠しようとして…またもやノーラは踏みとどまると、毛布の中から腕だけモソモソと延ばし、サイドテーブル上の目覚まし時計を掴んで引き寄せる。
今日はもう、午前の授業に出る気にはなれない。入学後の約1年間、別に大した興味のない教科であろうとも、1日中何らかの授業に出席してきたノーラであったが、今日は初めてこの習慣を曲げた日となった。
とは言え、生活のリズムが狂ったと言っても、1日中寝て過ごすのはぐーたらに過ぎる。そう考えたノーラは、午後の授業には絶対に出ようと心に決めたのである。
(11時に起きよう…これなら余裕で、13時からの3時限目には間に合うから…)
ノーラは目覚まし時計のアラームをセットすると…そこで力尽きて、時計を腕の中に抱くようにして、スースーと穏やかな寝息を立て始めたのだった。
…不幸にも、アラームのスイッチをオンにすることを忘れてしまったことにも、気づかずに…。
- To Be Continued -