ANGER/ANGER - Part 4
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一方。アルカインテールの地上部の、これまたとある一画に設けられた地球圏治安監視集団"パープルコート"軍団アルカインテール駐在軍の暫定指令拠点にて。
中枢の司令部に至る金属製の回廊を、ゼオギルド・グラーフ・ラングファー中尉は非常に不機嫌な様子で早足に歩いていた。
彼は紫色に染め抜かれた"パープルコート"の正式礼装を身につけながらも、装束に見合わぬ非常にガラの悪い姿で、トゲトゲしい威圧感をバラ撒きながらノッシノッシと大股で歩く。礼装のコートのポケットに両手を突っ込み、背筋を猫背に曲げてある様は、さながらチンピラである。
そんなゼオギルドが回廊のど真ん中を歩くものだから、すれ違う"パープルコート"の下士官や事務官は間違っても肩などに触れて要らぬ刺激を与えぬよう、壁に張り付くようにして彼を避ける。本物のチンピラなら、そんな有様に優越感を感じるか、はたまた天の邪鬼的に癇癪を起こして喧嘩をふっかけてくるかのどちらかであろうが、幸いにもゼオギルドの人格はそこまで落ちてはいないようだ。すれ違う者たちのことなど眼中にいれず、苛立ちに燃える視線で虚空を睨みつけながら、ひたすら早足で歩を進める。
やがて、他の部屋のものとは造りの立派さが違う自動ドアの前まで来たゼオギルドは、白い手袋をまとった右手で拳を作ると、ガンガンと乱暴にドアを叩き、そして叫ぶ。
「大佐ぁっ! 大佐殿ぉっ!
ご報告がありますンで、失礼しますぜ!」
上官に対する発言にも関わらず、粗野にして不躾な言葉遣いを口にすると、自動ドアがウィンと音を立ててスライドする。部屋の主が入室を許可した証拠だ。
ゼオギルドが遠慮など一切感じさせない大股の歩みでノッシノッシと入室すると、部屋の奥に設置された広いデスクに陣取った人物がため息混じりにボソリと毒づく。
「やれやれ。五月蠅いヤツが、また増えたか」
この言葉の主は、アルカインテール駐在部隊を指揮する壮年の大佐、ヘイグマン・ドラグワースである。鮮やかな紫色に染め抜かれた礼服にそぐわぬ、皺だらけの黒ずんだ皮膚は病的な虚弱さを印象づける一方で、光を捕らえて決して離さぬような邪悪とも感じられる老獪さをも醸し出している。
ヘイグマンが"五月蠅い"とうんざりした言葉を口にしたのには、勿論理由がある。ヘイグマンの執務室には、先客が居たのだ。そしてその先客が、狂った鼻歌を歌うようにブツブツと何かを呟いたり、小躍りしてみせたりと、落ち着かぬ様子を見せていたのだ。
この先客は、厳密に言えば客とは言えないだろう。何故なら、彼は立体映像であるからだ。青みがかった彼の姿には、時々横縞模様のノイズが走ったりする。
「ああ~、我が愛しの天使よ! 正に天国からの使いよ! ほんの赤子であったかと思ったお前は今や、これほどまでに雄々しく、強靱に育った!」
そんな事を語っては、ヘイグマンのデスクの前を不格好なフィギュアスケートのように踊り歩く先客の脳天気さを見て、ゼオギルドの胸中に灯った苛立ちがいよいよ火焔となって燃え盛る。
「ウルッセェぞ、変態ドクターッ!
オレぁ、大佐殿に重要な報告があるんだよっ! 踊って遊ンでるだけなら、テメェのクッソ汚ぇ研究室の中で独りでやってろよっ!」
ゼオギルドは相手が立体映像であることも忘れてズカズカと近寄り、先客が身にまとう白衣の襟首を掴もうとして…スカッと宙を虚しく掴んでしまう。これにますます激昂したゼオギルドは、巌を彫り込んだような顔立ちを真っ赤に染め上げる。
そこへ再び、ヘイグマンの深いため息が割って入る。
「ゼオギルド、一々頭に血を昇らして喚くな。こちらの頭が痛くなる。
ドクター・ツァーイン、あなたもいい加減したまえ。あなたがこの異相世界中においても非凡なる才能の持ち主であることは認めるが、だからと言って気の狂った子供のようなその振る舞いをいつまでも許容できるほど、私も寛容ではない」
ヘイグマンが"ドクター・ツァーイン"と呼んだ先客の本名は、ツァーイン・テッヒャー。白に極めて近い灰色の髪を噴火のようにボサボサと持ち上げたヘアスタイルの、これまた壮年に差し掛かった年齢の男性である。"ドクター"との呼称と言い、身にまとった白衣と言い、右目につけた解析用術式を練り込んだ片眼鏡と言い、いかにも科学者然とした風貌である。事実、彼は医師であり、また同時に魂魄の研究分野においてはこの異相世界中においても屈指の研究者である。
ツァーインとヘイグマンは年の頃が非常に近いものの、前者の方が若々しく見える。自身の興味分野にのめり込める職業であるが故に、常に自身の部隊について神経を尖らせねばならぬ管理職たる後者に比べると、気苦労が少ないのが要因なのかも知れない。
ツァーインはニィッと幼子のような笑みを浮かべると、ヘラヘラ笑いながら答える。
「失敬、失敬。いやはや、私は君たち軍人のように感情と職務を切り離すという行為とは全くの無縁なのでね。
まー、無邪気にチョウチョを追いかける子供だと思って、気にしないでくれたまえ」
そう答えたツァーインは声や動作を潜めたものの、「ラララ~」と小さく歌ってみたり、空気相手に静かな動作のダンスを踊ったりする。
ヘイグマンはそんな様子に心底嫌気が差したようで、深いため息を吐いたが、ツァーインとの通信を切断することはない。これからゼオギルドと交わす言葉を聞かれることを忌避していないどころか、敢えて会話を聞いてもらおうとしているかのようだ。
「…ゼオギルド、ドクター・ツァーインの存在は気にせず、私への用件を伝えたまえ」
ゼオギルドは目深に被った軍帽の向こう側でこめかみに青筋を立てながら、ツァーインに今にも噛みつきそうな憎悪の眼差しを向けていたが。上官の指示を受けると、ズカズカとヘイグマンのデスクへと近寄る。そして、両腕を振り上げたかと思うと、デスクをブッ壊すような勢いで一気に振り下ろした。ガァンッ、と落雷のような音が室内に響く。
威圧的な轟音にビクともせず、静かに座したままのヘイグマンに、ゼオギルドは顔をズイッと近寄せると烈火のごとき勢いで語り始める。
「最ッ悪の報告です!
本日、補給物資を運搬してくるはずのイミューン・デルバゲウ率いる中隊が、『インダストリー』のヤツらに捕縛されちまいました!
捕まりやがったイミューンどももマヌケなんですがっ! それ以上にクソなのは、待機部隊のヤツらですよ!
いくら想定外の侵入者が騒動を起こしてるからって、そっちばかりに目をやってイミューンどものことをキレイさっぱり頭の外に出してやがったワケですからねぇっ! 捜索隊が急遽別任務に当たることになったってンなら、別部隊が元の任務のフォローに回るのが常識ってモンじゃないですかねぇ!?
つきましては、待機部隊のクソ部隊長どもに制裁を加えたく思いますっ! 大佐殿、許可をいただけませんかねぇ!? 自分のバカさ加減を魂魄レベルで後悔させてやりますよっ!」
息巻くゼオギルドに対し、やはりヘイグマンは微動だにしない。苔生した巨石のように静かにゼオギルドの言葉の嵐を聞き流すと、数瞬の間をあけた後に、皺と一体化したような薄い唇を開く。
「イミューンの部隊については、既に別官から報告を受けている。
確かに、待機部隊には落ち度があったとは思うが、彼らを指揮すべきゼオギルド、君自身もユーテリアの学生たちにばかり入れ込んでいたのだろう?
彼らに制裁が必要だとすれば、上官である君も制裁を受けるべきではないかね?」
するとゼオギルドは、痛いところを突かれたように表情をグッと歪める。
「た、確かに、オレもユーテリアのネズミどもに入れ込んじまったのは事実ですけど…!
でもそれは、あのネズミどもがオレたちと"バベル"の情報を部外に持ち出しやがることを懸念したが故です!
対して、イミューンどもは"バベル"についての情報は殆ど持ってませんでしたから、対応の優先度は低いと判断したまでで…!
…あーっ! クッソ!」
語りながらゼオギルドは、目深に被った軍帽を吹き飛ばし、堅い金髪に両の五指を突き立ててグシャグシャと掻き乱す。
「どれもこれも、元を辿れば、あのユーテリアのネズミども所為だ!
ヤツらがかき回しさえしなけりゃ、すんなり事は運んだっつーのに…!
あああああっ!」
喚き散らすゼオギルドをヘイグマンは冷ややかな視線で見つめながら、デスクの上に両肘を乗せて手を組み、口元を覆って淡々と語る。
「ゼオギルド、お前の要望は待機部隊への粛正というよりも、招かれざる客どもへの苛立ちをどう解消すべきか、という点に重きがあるようだな」
燃え盛る炎をも一瞬にして鎮めてしまいそうなほどに冷徹にして冷静なヘイグマンの言葉に、ゼオギルドは右手でガシガシと頭を掻き乱し続けながら、左掌をバンッとデスクに叩きつけてバツが悪そうに言う。
「あー、そうですよ、そうなんですよっ!
待機部隊のヘボどものマヌケっぷりにイラついてンのも確かなんですがね! それ以上にムカつくのが、ぽっと出て派手に暴れまくりやがった、ユーテリアのガキどもですよっ!
オレたちの空間迷彩結界を易々と突破してきやがったんですぜ、あいつら! そのままオレたちの情報を持ち出して、本隊に告げ口されたらどうなります!? めんどくせぇどころの話じゃねぇ、オレたち懲戒処分どころか、重罪人として地獄発電炉にブチ込まれて一生魂魄ごと搾取されちまいますよ!」
「確かに、ゼオギルド、お前の懸念は尤もだ。我らの計画が本隊、いや、他のどの部隊に漏れても、我らの命運は尽きることになるだろう」
自らの悲劇的な未来に言及する時でも、ヘイグマンは冷徹且つ冷静な口調を決して乱さない。だが、それは彼の単なる強がりが見栄ではない。
「だがね」
言葉を続けるヘイグマンは、その皺だらけの顔を初めてニヤリと薄い笑みの形に歪める。
彼には、絶望的な未来を覆すだけの、"確固"と表現できるほどに自信に満ちた勝算がある。
「ユーテリアの学生たち、彼らが我々に運んできたのは難題だけではない。
むしろ、それを遙かに上回るメリットをもたらしてくれたのだよ。
…そうだろう、ドクター?」
ヘイグマンは、未だに歌いながら独り踊り続けているツァーインの立体映像にチラリと視線を走らせて、言葉を投げる。するとツァーインは、"待ってました"と言わんばかりニンマリと大きな笑みを浮かべると、大仰な動作で両腕を広げ、熱狂的に喚き散らす。
「そうだ! そうだ! その通り、その通り、大佐殿の言う通りだよ、ゼオギルド君!
彼らは、ユーテリアの学生諸君は、文字通りこの都市国家の状況を掻き回してくれた! そう、物理的にも、情報的にも、魂魄活動的にも、グッチャグチャに掻き回しまくってくれた!
だが、だが! それこそが、ああ素晴らしい、それこそが鍵だったのだ、次なるステップへの扉だったのだ!
この一月半の間、泥沼の交戦を繰り広げ続けて来たというのに、頭打ちになり一向に増加しなかったエントロピーが! 今日この日に、彼らという因子を得て、急激に増大したのだよ!」
「エントロピーだぁ?」
ゼオギルドは眉根に深い皺を寄せ、ガラ悪くツァーインを睨みつけていたが。すぐに「あっ」と声を上げて、手を叩き合わせて閃きを表現する。
「つまり、アレだな!
"バベル"のヤツ、ようやっとこさ、マトモに動けるようになったってことか!? そうだよな!?」
「左様、左様、左様!」
ツァーインは熱狂に浮かされるがままに、口から唾を飛ばしながら喚き散らした…が、ふと、表情をピタリと固めると、反り返った筆のような顎髭の生えた顎に手を置いて首を捻り、虚空を見つめて訂正を始める。彼の正確さを求める科学者根性が、自らの言い回しの不適切さを許せなかったようだ。
「いやいや、"左様"とは全くの不適切だな。
"バベル"の万全な起動まで大きな一歩を踏み出したのは確かだが、まだ十分ではない。
"バベル"の混合魂魄塊を呼び覚ますには、もう少々のエントロピーの増大が必要だ」
「つまり、ユーテリアのガキどもに、もう一暴れしてもらわにゃダメってことかよ?」
そう確認の言葉を口にするが早いか、ゼオギルドは白い手袋に包まれた両手をバシンッと叩き合わせて、凄絶に嗤う。
「そんなら、今からでもアイツら引きずり出して、オレたち含めてこの都市国家で顔を切かせてる勢力のオールスターで乱闘騒ぎを起こせば良いじゃねーかっ!
どうせ、ユーテリアのガキどもは、地下に潜った残留市民どもと合流してるんだ。地下に猛毒でもまき散らす暫定精霊を大量にブチ込めば、巣穴に水をブチ込まれたアリどもみてぇにワラワラ慌てて這い出てくるだろ!」
ゼオギルドの暴虐な提案を、「いやいや、いやいや」と手を振りながらツァーインは跳ね退ける。
「それではダメだ、それでは全くの失策だ!
草花に水を注ぎ過ぎれば根が腐れるように、赤子に過剰に栄養を与えれば内臓に負担をかけるばかりの駄肉が増えるように! "バベル"にエントロピーを与え過ぎるのは、まことに宜しくない!
むしろ、危険でさえある!
過剰に肥大化した混合魂魄塊が形而上相上でエネルギーを持て余して暴走し、自壊どころか、我々の魂魄をも巻き込んで定義崩壊を起こす可能性すらある!
今日とて私は、あまりに急激な"バベル"の成長に、実は内心ビクビクしていたものだよ! 結果として良い方向に転んだからこそ、こうやって無邪気に騒いでいられるのだがね! 万が一天秤が逆の方向に傾いたらと思うと、ゾッとしてならないね!
ダメだ、ダメだ! 私とて、"バベル"の万全なる起動をこの眼にしたくてたまらないのだ! だが、急いては事を仕損じる、という言葉の通りだ!
本日の"バベル"への給餌は、これにてお開き! 赤子も食うばかりでなく睡眠が必要なように、"バベル"にも休眠は必要なのだよ、ゼオギルド君!」
早口にまくしたてる喚き声を、ゼオギルドは五月蠅そうに肩を竦めながら聞き流していた。
が、ふと、ツァーインの喚きの中に琴線に触れる言葉を胸中で拾い上げると、意地悪げにニヤリと笑って問い返す。
「なぁ、ドクターさんよ。"本日は"、っつったよな? ってぇことは、明日なら問題ねぇってことだよな? そうなんだよな!?」
するとツァーインは、喜びに総毛を逆立てて身体を震わすネコのように、大きく息を吸い込んで胸を膨らまして背を反らせると、ゲラゲラと笑う。彼の濁ったブラウンの瞳には、正に発狂した感情の輝きが乱舞している。
「その通り、その通りだよ、ゼオギルド君!
とは言え、明日の朝一番というワケに行くかどうかは、ここでは断言できんがね。 今の"バベル"がどれほどの休息が必要か、私でも正確には分かりかねるのだから。だが、これまでの傾向を鑑みれば、大きく見積もっても丸一日あれば問題なかろう!
だから、すべては明日だ! 明日になれば、更なる成長を遂げたバベルは、完成に至るために本日より更に多大なエントロピーを必要とするだろう!
つまりは、本日より更に! 更に酷い、それこそこの都市国家が吹き飛ぶほどの混沌騒ぎが必要だ!
それゆえに私は、ヘイグマン大佐の元にこうやって目通りしているのだ! 明日! 来るべき明日に、如何様にして本日を越える混沌騒ぎを! 乱闘を! 引き起こすべきか、作戦会議のために!」
激しい興奮ゆえに多分に冗長を含むツァーインの言葉をあまり快く思っていなかったらしい、皺だらけの顔に多少ムッとした気配を張り付けたヘイグマンが、ツァーインの言葉の続きを引き取って語る。
「明日、ドクター・ツァーインからの報告があり次第、地下区画に対人暫定精霊を放ち、残留市民および本日の侵入者たるユーテリアの学生たちを地上に誘き出す。
また、『インダストリー』、癌様獣、『冥骸』の各勢力に対しても、彼らの拠点に向けて攻撃を開始。残留市民どもと引き合わせ、四つ巴の混戦を引き起こしてもらう。
我らが部隊は、混戦の趨勢を見ながらエントロピーが増大する方向に手を加える。間接的な攻撃によって各勢力のバランスを整えるつもりであるが、場合によっては直接交戦現場に一部の戦力を派兵することもあり得る」
その言葉を聞いたゼオギルドは、先のツァーインのように身を震わせながら胸を膨らませると、ニンマリと凄絶な嗤いに顔を歪める。
「そぉりゃあ、楽しそうじゃないですかぁっ! 祭だ、祭! 戦争祭の大開催じゃないッスかぁっ!
大佐ぁっ、その祭、オレは現地で暴れさせてもらいますぜっ!
最近は小競り合いばっかだし、執務室に籠もらされてばっかで、身体がナマってたところだったからなあ!
ちょうど、ユーテリアのガキども…特に、あの賢竜のガキをブッ飛ばしてぇと思ってましたし! スカした『十一時』のヤローも、根暗な亞吏簾零壱のクソアマも、図体ばっかのプロテウスのブリキ人形も、全部! ぜーんぶっ、この手でブッ叩き伏せたくてウズウズしてたんですよっ!」
ゼオギルドの台詞中に現れた"プロテウス"という名前は、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーの施設軍隊所属のエースパイロットのことだ。大型の人型機動兵器の操縦を得意とし、地球圏治安監視集団を含めた競合勢力を苦しめている、『インダストリー』の屈指の実力者である。
ゼオギルドは言葉に宿した興奮の炎がそのまま自身にフィードバックしたように、その場で激しく地団駄を踏む。
「かぁーっ、滾るぜぇっ! 漲るぜぇっ!
今すぐにでも、この衝動をブッ放してぇっ!」
そしてゼオギルドは、自らを焼く興奮の熱に炙られて不快感を感じたかのように、両手を包む白い手袋を乱暴に外し、正方形の金属パネルが整然と並ぶ床に無造作に投げ捨てる。
露わになったゼオギルドの両手は、手袋で保護しているのに見合わぬほどに無骨だ。ゴワゴワになった厚い皮膚が、見る者に殴り慣れているような印象を植え付ける。しかし、それ以上に、見る者を引きつけるのは、どちらの手の甲にも埋め込まれている、澄み切ったガラス玉のような機関だ。
――いや、埋め込まれているのではない。これはれっきとした、ゼオギルドの体組織の一部なのである。
ゼオギルドが握り締めた両の拳を胸の前でガチンと打ち合わせると、ガラス玉様の器官にパッと輝きが灯る。右側は赤に、左側は青にそれぞれピカリと光ったかと思うと、火花のように炎と水の飛沫がブワリと吹き出した。
これらの飛沫は、宙で幾つかの塊にまとまると、火は小さな鳥状の、水は小さな蛇状の形態を取り、ゼオギルドの拳の周りを飛び回る。これらは、暫定精霊だ。呪言の詠唱を初めとした儀式を行うことなく、一瞬にして暫定精霊を作り出したのだ。
乱暴なほどに逸るゼオギルドを、細く鋭い眼差しで眺めていたヘイグマンは、皺のような口を割って「そうだな…」と呟く。
「ゼオギルド、お前とその直属の部隊には、地下居住区への攻撃の任を与えるとしよう。お前の能力を鑑みれば、それが適任だな。
お前のその暴力で、存分に残留市民どもを掻き回し、エントロピーを上昇させろ」
「おっしゃっ!」
ゼオギルドは打ち合わせた両拳でガッツポーズを取ると、無意識のうちにヘイグマンのデスクに放り投げていた軍帽を取り、目深にかぶり直すと、ご満悦の笑みを顔一杯に浮かべる。
「そんじゃ、大佐ぁっ!
明日の号令、首を長くして待ってますぜ!
さーて! この熱くなった体、冷やしちまわないように、いっちょ走り込みでもしてくるかぁっ!」
ゼオギルドは大声を張り上げながら、キビキビと踵を返し、ヘイグマンの部屋を退室しようとしたが…。ドアの直前まで来て、ふと、足を止めると興奮を疑問符で塗りつぶした表情をヘイグマンに向ける。
「あ、そうだ、大佐。今、2つ気掛かりなことが頭に浮かんだんですがね」
「なんだ?」
「1つは、明日の作戦までの間に、ユーテリアのガキどもが外部に連絡を取る可能性があるんじゃねーかな、と。
オレたちの結界を破って侵入してくるような連中だ、結界の通信妨害の術式も破る可能性、考えられますよねぇ?
そんでもって、オレたちのたくらみが本隊にバレちまったら…どうします?」
「その心配は無用だ」
ヘイグマンはつまらなそうに手を振って、ゼオギルドの頭上の疑問符を消しにかかる。
「本隊がこの都市国家に到着するまでには、"バベル"を必ずや起動させる。
その成果を目にすれば、本隊は私らにとやかく言えないどころか、偉大なる結果を認めざるを得ないだろう」
その言葉を聞いて、ツァーインは苦笑いを浮かべる。
「大佐殿、起動させるのは私ですよ? 可能かどうかの判断は、私に尋ねてから口にしてほしいですな。
まぁ…絶対に、やり遂げてみせますがね。ここまで来て計画を潰されるなど、たまったものじゃない!」
ゼオギルドもヘイグマンも、ツァーインの言葉が終わるまで次の言葉を口にはしなかったが、両者ともにツァーインにはチラリとも一瞥をくれることはなかった。尋ねるまでもなくツァーインの可能性を信じてるのか、はたまた、無理と言われようが選択肢には"やる"しかないからハナから意見を耳にするつもりがなかったのか、伺い知ることはできないが。
1つ目の疑問への回答に納得したゼオギルドは、もう1つの疑問を口にする。
「それと、イミューンのマヌケどものことなんですがね。あいつら、どーします? 明日、『インダストリー』にけしかけるついでに、救出する予定ですか?」
「いや。捨て置く」
ヘイグマンは全く思案することなく、冷酷な即答を口にする。
それを耳にしたゼオギルドは、「ホッ…!」と声を上げて鼻で笑う。そこへヘイグマンは、続けて自身の腹積もりを口にする。
「増援が得られなかったからとは言え、むざむざ捕まるのは無能だ。
とは言え、奴らが捕まったからと言って、我々が被る不利益はちょっとした物資が手に入らなくなってしまった程度だ。奴らは肝心の"バベル"については単語程度に知るだけで、その所在はおろか、実現理論など微塵も知らん。脳をスキャンされようが魂魄を解析されようが、『インダストリー』の連中は何一つ有益な情報を手に入れることは出来んだろう。故に、我々が手を煩わせ、積極的に制裁を加える間でもない。
明日の乱戦の中、生き残ればそれはそれで良し。死んだとしても、それはそれで構わん。彼らの命運は、彼らの努力と天運に任せておく」
部下の命を預かる上官としてはあまりにも冷淡な言葉に、ゼオギルドは肩を竦めて見せたが、だからといってその表情に非難の色が混じることはない。それどころか、ヘイグマンに同調するように冷たい笑いをハッ、と鼻から吐き出す。
「それ聞いて、安心しましたわ。
折角の乱闘祭だってのに、マヌケどもの尻拭いなんて興冷めを背負わされちゃあ、たまったモンじゃねぇですからね。
じゃ、オレは奴らのことなんてほっといて、ユーテリアのガキどもと楽しく遊ばせてもらいますわ」
「…お前の相手は、ユーテリアの学生だけでなく、残留市民たちもだ。それを忘れるなよ」
釘を刺すヘイグマンであるが、ゼオギルドは肝に命じたような様子を見せず、クルリと踵を返すと、手袋を脱ぎ捨てたままの右手を高く上げて退室の挨拶を見せる。
そのまま、開いたドアの向こう側へと姿を消してゆく、その時。ゼオギルドの背中に、ツァーインが興奮した笑い声をかけてくる。
「ゼオギルド君、それでは明日、明日! お互い目一杯楽しもうではないかっ!
君はチンケなネズミどもを小突き回して!
私は偉大なる"バベル"の完全なる産声を耳にして!
それでは明日、楽しもう! そして!」
閉まりゆくドアの僅かな隙間に、ツァーインは目一杯の張り上げた声を滑り込ませる。
「我らが偉業の産物たる、『天国』を片手に、祝杯を上げようではないか!」
その声を耳にしたゼオギルドが、上げたままの手を左右に軽く振ったように見えたが――直後、ドアはプシュンッ、と音を上げて堅く閉ざされたのであった。
◆ ◆ ◆
所変わって――アルカインテールの地下居住区へ向かう、トンネルの中。
強烈な追っ手から逃れた星撒部一同と、アルカインテール市軍警察たち(と、プラスアルファ…これはレナ・ウォルスキーのことである)は、屋根の吹き飛んだ装甲車に乗って一路真っ直ぐに坂道を下っていた。
装甲車は途中で転回し、今はきちんと前進している。追っ手から逃れる際に加速の補助をしていたロイや紫も役目を終え、もはやトラックの荷台と大差がなくなってしまった人員収納スペースで腰を下ろしていた。
とは言え、まるっきり力を抜いて憩っているのは、2人のうちではロイだけである。残る紫は一体何に従事しているかと言うと、治療魔術を用いてノーラの治療に当たっていた。
『冥骸』の実力者、"お姫様"こと亞吏簾零壱との死闘をくぐり抜けたノーラの体は、かなりの重傷であった。霊的人体発火による重度の火傷を負った右腕は勿論のこと、騒霊による激しい打撲を受けた身体には、鬱血だけでなく骨にヒビが入っている箇所が何箇所もあった。それどころ、なんと肋骨の一部が折れて、内臓に軽く突き刺さってすら居たのである。
「なんて言うかさ…怨場を大人しく食らってオエオエしてた方が、マシだったんじゃないの…?」
紫が心底痛々しい表情を作りながら、暖かな魔術励起光を放つ掌をかざして、ゆっくりとだが着実に損傷した体組織を治癒してゆく。
紫もまた、先の戦闘でかなり疲労をしたため、普段の彼女と比べれば治療魔術の効力は薄い。それでも、装甲車が向かう先にあるだろう、軍警察の拠点でノーラの治療を任せなかったのは、治療魔術の使い手としてノーラの重篤な症状の放置はマズいことを痛感したからだ。
魔術は旧時代の科学よりも可能性を大きく広げはしたが、万能ではない。旧時代の医療技術では不可能とされていたレベルの重篤な怪我の治療も、後遺症も傷跡もなく快癒させることは出来るが、それには時間制限がある。傷を負ったままある程度の時間――"程度"は傷の深さや種類による――放置してしまうと、その体部の定義に傷の定義が染み着いてしまうからだ。
その観点から言えば、ノーラの深い傷は非常に厄介な部類に入る。だから紫は、疲れた体に鞭打ってでも、ノーラの治療に当たるのだ。
「…ごめんね、相川さん。私がもっと、うまく立ち回れていれば…」
「ノーラちゃんも頑張ってくれなきゃ、私たちみんな、そのうちに疲れ果ててやられてたわよ。
そんな命の恩人をほっぽり出しておくなんて、いくら毒袋持ちの私でも目覚め悪いわよ」
「…本当に、ありがとうね、相川さん…」
ところで、治療を受けているのはノーラだけではない。ロイもまた、蘇芳とレナの2人掛かりによる治療を受けている。しかしながら、ロイの治療は紫がやってみせるような高度な治療魔術によるものではなく、練気や術符による、水準の劣る治療である。
しかしロイは、別段文句を口にすることなく、治療者2人と共にヘラヘラとだべりながら憩いを満喫している。
「うっひゃー…このわき腹の傷、スゲェ深いっての…。これ、もしかして、モツが見えてるんじゃない…?」
「お、そうなのか? そういや、なーんか両脇がスースーするなーって思ってたんだ。
そういや、スゲー腹減ってンだけどさ、これも腹に穴が開いたからなのかな?」
「いや…スースーするって…。普通はズキズキするとか、焼かれるような激痛がするとか、そう感じるンじゃねーのか…?」
「つーか、空腹を感じるのって、脳の空腹神経じゃんか…。胃袋が破けても、腹なんか減らないっての…。
腹減ってるのは、治療魔術で暴走君の代謝がスゲェ加速してるから、消耗したエネルギーを体が欲してるからでしょーが…」
「まぁ、理由なんてどーでもいいや。とりあえず、なんか食いてーな。大盛りのカレーライスとかありゃ、最高だなぁ!」
「…オレ達のキャンプまで戻れば、なんかご馳走してやるよ。今日の献立がカレーライスだったかどうかは、覚えてねぇけど…」
治療者2人は、満身創痍の激闘をくぐり抜けたとは到底思えないほど暢気なロイの様子に、ただただ呆れ果てた様子で苦笑を浮かべるのであった。
そんなロイ達の様子を横目で見ていた紫は、ノーラの方へ視線を戻し、その重傷具合を見ると、思わずプッと吹き出す。
「…どうかしたの?」
キョトンとしてノーラが尋ねると、紫はケラケラとした笑いに震える声で答える。
「いやね…朱に染まれば赤くなるって言葉は、ホントだなぁってしみじみ思ってさぁ…。
だって、ノーラちゃんって、クラスじゃホントに霧みたいに静かだってのに…昨日今日ですっかりロイに染められちゃって、今や我が部の立派な突撃要員になっちゃったなぁって…。なんか、可愛いメダカを育ててたつもりが、サメになっちゃったようなアベコベな感じがしちゃってね。可笑しくなっちゃったワケ」
対してノーラは、紫のからかい混じりの言葉に気を悪くするどころか、キョトンとした表情を崩さずに首を傾げる。
「突撃…要員…? そうかな…?
私はただ…自分にやれることをやろうと思ってるだけだし…」
「いやいやいや! 自覚がないだけで、素質在るって! 星撒部突撃隊の立派な一員になれる!」
「突撃班…? そんな集まり、この部にあったんだね…?」
本気で紫の言葉を鵜呑みにして聞き返すノーラに、紫の笑いはますます大きくなる。勿論、"突撃隊"というのは、ロイのように部員の中でも特に過激な行動派を一括りした表現に過ぎない。
しかし紫は、そこを指摘することなく、実際に存在する集団といった感じで話を進める。
「そうそう! ロイはそこの筆頭隊員ってワケ!」
「…それじゃ、隊長さんは…?」
「勿論、立花渚副部長に決まってるじゃん!
まー、昨日は相手との兼ね合いもあったから大人しかったからねー、あんまり突撃隊長って感じを受けなかったかもしれないけどね。
普段の副部長は、あんなんじゃないから!」
この言葉を聞いて、ようやくノーラの表情が変わり、引きつった苦笑が張り付く。と言っても、からかわれた事に気づいたというワケではない。昨日の立花渚が"大人しかった"という言葉に、苦笑を禁じ得なかったのだ。
昨日――都市国家アオイデュアでの一件では、初めこそ渚は静かであったが。結果的にはたった1人で山のような莫大な物量の天使達を蹴散らすと云う、恐るべき成果を上げている。これで"大人しい"となれば…普段の彼女は、山一つどころか山地を丸ごと吹き飛ばすような真似でもしているのだろうか?
やはり、"暴走部"と噂されている星撒部、それを率いる副部長だな、と感心する反面、畏怖の念が湧くのであった。
さて、星撒部の残る1人、蒼治・リューベインは、運転手のレッゾの隣の助手席に座り、粛々とした様子で彼と会話を交わしていた。
「…良いのか、兄ちゃん? 傷ついたお仲間の側にいてやらなくとも…?」
盛り上がっている後部の様子にチラリと視線を走らせながらレッゾが尋ねると、蒼治はハァー、とため息を吐いて目を伏せると、眼鏡を外して眉間を指で揉む。
「僕らは、学園の他の生徒達には"暴走部"なんて呼ばれてましてね。不名誉な呼ばれ方ですけど、部員の活気について言えば的を得た表現ですよ。
彼らなら、胴体を分断されても、上半身だけでも這いずり回るでしょうね」
「…マジかよ、ユーテリアの"英雄の卵"ってのは、マジでハンパじゃねぇなぁ…。
まぁ、レナを見てて、ハンパじゃねぇ人材が揃ってるんだろうなって実感はしてたんだが…。アンタらはレナどころじゃない、本物のバケモノだぜ…」
その言葉に蒼治は、ナハハ、と声を上げて苦い笑い声を上げた。
…直後、蒼治はキュッと顔を引き締め、眼鏡をかけ直すと、ガラスをキラリと輝かせながらレッゾに問う。
「ところでレッゾさん、一つ訊いても良いですか?
戦闘の前に、蘇芳さんが言っていた件について」
「ああ、"バベル"のことだな」
レッゾの厚い唇が紡いだ言葉に、蒼治は深く頷く。
「さっきの戦闘の前、蘇芳さんは言ってましたよね。それが、史上初の『握天計画』の成功例だと。
一体、どんな代物なんです? この都市国家の上空に、奇妙なほどに小さな天国がありましたが、それはその"バベル"が召喚したものということですか?
それに、そもそも――もし不快に感じたのなら、すみません――魔法科学研究を主体としているワケでない、鉱業主体のこの都市国家が、なんでそんな代物を持ってるんです?」
蒼治の言葉に含まれる複数の疑問に対して、レッゾはまず、"バベル"という代物の概要について答える。
「"バベル"ってのは、さっきの戦闘の前に蘇芳がチラッと言った通り、半生体で構築された『天国』召喚用の機関さ。
"半生体"って言う通り、機械機関部品と生体部品を混ぜ合わせて出来てる。この生体部品が、単に培養された人工細胞だとかなら、"パープルコート"の連中も存在を隠匿しなかっただろうが…蘇芳が"胸糞悪い"と言ったのは、その生体部品が多種多様の種族の人体によって構築されていることだ」
「…!!」
蒼治が息を飲み、全身の毛を逆立てるような激情に表情を歪める。
人体を使った実験装置の類は、しばしば魔法科学の研究者――とりわけ、『天国』や魂魄、定義論の研究者の垂涎の的となっているが、人道的な理由によって勿論作成は禁止されている。仮にそれを作成したことが世間に知れれば、死罪を賜っても文句を言えない重罪を課せられる。
「人体を使った、『握天計画』の実現装置というワケですか…! そんなものを、本来規制する側の地球圏治安監視集団が製造していたなんて…!」
「ああ、ホントびっくりさ。
俺たちだって、あの日…このアルカインテールが崩壊しちまった約1ヶ月半前、実際に起動した"バベル"を目にするまで、全くの寝耳に水だったからな。
アレが実は、秘密裏に数年前から製造が進められていたって知ったのは、避難民の中に混じっていた"バベル"プロジェクトの関係者から教えられてからさ。
…全く、今思い出しても身震いするぜ、アレの構造がどうなっているのかって話を思い出すとよぉ…」
レッゾは左手をハンドルから離すと、鳥肌立っている右腕をギュッと抱き締める。そのまま数瞬の間、ブルリと震えて無言を保っていたが…やがて再び、厚い唇を重苦しげに開く。
「兄ちゃんが言った通り、この都市国家の上空にある『天国』は、"バベル"が呼び出したものさ。
オレは専門知識なんて持ち合わせてないんで、プロジェクト関係者のヤツからの話も大半聞き流しちまっててよく覚えてないんだが…。"バベル"ってのは、魂魄を集めて認識の力を強めることによって、『天国』を呼び出すんだそうだ。
その"魂魄を集めて認識の力を強める"手段ってのが…クッソ忌々しい、生きた人体の癒合なんだそうだ。
"バベル"ってのはな、生きた人間の脊椎を繋いで作った、デッカい塔みたいな装置なんだよ」
ルッゾの言葉に、蒼治は苦々しい表情を浮かべたまま、無言を貫いて耳を傾けていたが…やがて眼鏡をグイッと直しながら「なるほど…」と呟いた。
魔法技術に対して造詣の深い蒼治は、詳細を欠いたルッゾの説明でも、自らの知識で内容を補うことで"バベル"の理論を理解したのである。
視認出来るものの、触れるのみならず、如何なる手段を以てしても干渉することの出来ない、超異層世界的存在『天国』。その正体を解き明かそうとする理論の1つに、"阿頼耶識的天国論"がある。
"阿頼耶識"とは、旧時代の地球を席巻していた宗教の1つ、仏教の用語に由来する仮想的な相の1つである。阿頼耶識相を認める理論によれば、現在"形而上相"として単一に扱われている形而上の存在定義は、実際は複数の相を持つ複雑な構造を持つ…としている。
世界構造における阿頼耶識相の役割は、事象の定義式を更に定義づける"動機"を記述することである。この動機は"種子"と名付けられた仮想の事象因子である。そしてこの種子は、現在の魔法科学の形而上相解析をもってしても微細構造が全く未解明である魂魄においても、その構造を担う因子であるとされている。
阿頼耶識相を認める理論における、魂魄…すなわち、生物における知性が世界を認識するプロセスとは、次のようなものだ。
まず前提として、魂魄には自身を存続させようとする原始的欲求があるとする。この欲求に従い、魂魄は種子を使い、自己の定義をより強固にしようと活動する。
定義は自己による自己認識によっても形作られるが、その場合の強度は非常に脆い。五感の効かぬ真闇の中に1人放り込まれた時のように、魂魄は自己の存在に不安を覚える。
そこで魂魄は、他の魂魄の種子からの自己の定義を集めることで、自身をより強固にする行動を取る。完全な孤独の中では、自分の生死すら疑問視してしまうものの、触れ合える相手がいることで客観性を得て、自己の存在をより強く認識できるように。
つまり魂魄は、感覚器が捉え脳が解釈した事象を得ることを起点とする受動的な認知を行うのではなく、まず自身が種子に動機付けられた認知を広げ、それに反響するようにして他存在の種子からなる定義をエコロケーションのように捉える能動的な認知を行っている、というワケである。
この能動的な認知を行っているとする理論は、同質の神経および脳構造を持っている同一種の別個体が、同一の事象から異なるクオリアを受ける事実の説明を記述していると言える。魂魄の個性によって認知の起点の環境が異なるために、跳ね返ってきた認知への刺激すなわちクオリアが異なるのは当然と言える。
では、この理論と『天国』がどう結びつくというのか。
阿頼耶識相を認める理論では、『天国』とは魔法科学を得た人類の魂魄が求める究極の客観性の具現化であるとされる。そのため、多数の魂魄の種子が発した究極の客観性への願望的認識が重なり合い干渉することで、阿頼耶識相に描画された、いわば"人類の願望が投射された存在"が生成されたという。それこそが、戴天惑星・地球で人類が目にすることの出来る『天国』であるということだ。
"人類の願望が投射された存在"であるために、『天国』は形而下的な性質を持たない。それがゆえに粒子性も波動性も持つことがなく、"触れる"ことが出来ないことも説明可能となる。
"阿頼耶識的天国論"には、以上のように、『天国』の性質の一部を合理的に説明できる理論である。しかし、欠点がないワケではない。
『天国』が認知に端を発する存在ならば、知性生物の個体ごとによって受けるクオリアが異なり、全く別の外観として捉えられることは十分に考えられるが、実際には人類は共通して同じ外観の『天国』を持つ。それは何故なのか?
そもそも、莫大な数の並列した異相世界の中、『天国』が描画されるのは何故、地球だけなのか?
これらの疑問に対し、"阿頼耶識的天国論"の支持者は、魂魄の構造と、地球が戴天惑星となった原因事象[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]の全容解明が進むことで、必要な修正を得て理論が完全になると主張している。
…"阿頼耶識的天国論"の妥当性はともあれ、魂魄を用いた半生体機関である"バベル"が『天国』を人工的に呼び出したとすると、この理論は全く的を得ていない駄論ではないということを証明していると言えよう。
魔法技術に長ける蒼治は、ユーテリアでの授業で"阿頼耶識的天国論"の知識を身につけていた。阿頼耶識相の考え方は、方術を初めとした術式の構築において非常に有益で柔軟な思考や方法をもたらしてくれるからだ。
その知識を持つが故に、蒼治は"バベル"の理論を理解した一方で、"バベル"実現の困難性も瞬時に理解する。顎に手を置き、眼鏡越しの細い目をさらに伏し目がちしながら、誰ともなしに呟く。
「魂魄を混合させて強大な認知機構を作り出し、その投射として『天国』を呼び出す…という理論は理解できる。
できるけど…人体において最も魂魄との干渉性が高い中枢神経部を接合したところで、魂魄自体を混合させることは出来ないんじゃないか?
シャム双生児や胎児内胎児の例のように、異なる魂魄を有する生物個体が中枢神経部で結合していても、魂魄はあくまで別個体として独立で存在している。もしも脊椎を接合する程度で魂魄混合が実現されるなら、シャム双生児はより強大な認知機構を持つ単一の魂魄を有する一生物個体とならなければいけないはず。でも実際にはそうなってはいないということは…」
蒼治の言葉は、同じく魔法技術に長け、且つ、魂魄に関する知識が深い者には理解されたかも知れない。しかし少なくとも、研究者でもなければ魔法科学の知識に長けるワケでもないルッゾにすれば、意味不明な言葉の羅列でしかない。ドレッドヘアの頭上に、大きな疑問符が浮かぶ。
「…兄ちゃん、何言ってンのか、全くチンプンカンプンなんだが…」
困ったようなルッゾの発言に、蒼治は複雑怪奇な思考の殻の中からハッと我に返る。
「すみません、興味のある分野の話題だったもので、つい深く考え込んでしまいました…」
バツの悪い笑みを浮かべながら、蒼治は紺色の混じる黒髪に覆われた後頭部をポリポリと掻いてみせる。
しかしすぐに顔を引き締めると、眼鏡をクイッと直しながら再び顎に手を置くと、虚空に視線を見上げて考え込む。
「"バベル"という装置の実現理論の詳細はともかく…。
そんな非常に高等な魂魄理論を根本に持つ装置が、どうしてこの鉱業都市で研究開発されたのか…やはり、どうも腑に落ちないですね。
鉱業と魂魄理論、その接点が殆ど見えませんし…」
「それを説明する為には、この都市国家の変遷について少し語らにゃならんね」
突如、ルッゾと蒼治の合間からニュッと顔を出して語ったのは、ロイの治療に当たっていたはずの蘇芳である。
「なんだ、蘇芳。賢竜の兄ちゃんの治療、もう終わったのか?」
「いやいや」
蘇芳はゴツい掌を左右にヒラヒラさせて否定する。
「レナが後は引き受けるって言うからさ、任せて来た」
「おいおい、防災部の本職が部外者に職務を丸投げしちゃいかんだろ」
ルッゾが眉間に皺を寄せて文句を語っていると、「良いンだよ、運転手のオッサン」と言う言葉が投げかけられる。
ルッゾがチラリと視線を後ろに向ければ、レナがこちらを見てヒラヒラと手を振っている様子が見えた。
「あたしが蘇芳のオッサンにやらせてくれって言ったんだ。
あたし、将来は地球圏治安監視集団で救助か福祉関係の仕事に就きたいと思ってるからさ。そのための実践練習ってことさ。
…とは言え、この都市国家の"パープルコート"の様子を見てるとよ、ホントに地球圏治安監視集団に就職するのが良いのか、疑問になってきたンだけどよ…」
「大丈夫だって、レナ」
ニカッと笑ってそう言葉をかけたのは、治療を受けて体中術符だらけになっているロイだ。彼はレナの頭に手を置いてポンポンと軽く叩きながら、言葉を続ける。
「今日、難民キャンプで見た"オレンジコート"の連中はマトモだったぜ。みんながみんな、この都市国家の連中みたいなヤツじゃねーだろ。
この都市国家の連中は…まぁ、言って見りゃ…不良みたいなもんだろ?
天下の地球圏治安監視集団サマサマが不良ばっかってことはないだろうぜ。だから安心しろって!」
するとレナは、ちょっと安堵したような笑みを見せたが…すぐに顔を不機嫌にむくれさせて、ロイの手を払い退ける。
「暴走君よー、何度言ったら分かンだよ!?
あたしはアンタの先輩なんだっての! あんまり気安くすんなよ! 先輩には経緯を払えってンだよ!」
「ンな堅苦しい事言うなよ、旧時代の古臭ぇ匂いがしてくるぜ?
同じ死線を潜り抜けてきた仲間じゃねーか、年上も年下もねーだろ」
「それはそれ、これはこれだっての! 礼儀知らずはこの先、社会を渡り歩くのに酷い目に遭うぜ!」
ワーワー騒いで言い合う2人を後ろ目に、蘇芳が肩を竦めてボソッと呟く。
「礼儀知らずで言えば、レナも大して変わらんだろ」
蘇芳の言葉はレナの耳には届かなかったらしく、レナは相変わらずロイにギャーギャーと噛みついている。
その様子に蘇芳は再び肩を竦めたが、これ以上レナ達の騒ぎに反応することは止めて、蒼治の方に視線を向ける。
「あーっと、"バベル"なんて代物がどうしてこんな鉱業都市なんかにあるのか、その経緯の説明だったな。
それについてはまず、どうしてこの都市国家がほぼ無制限に難民を受け入れ始めたか、から語らせてもらうぜ」
そして蘇芳は、次のような説明を語り始める。
アルカインテールは元来、周囲を囲むプロアニエス山脈が産する多種多様な魔法性質を有する鉱物――魔性鉱物と呼ばれる――に一攫千金を夢見る者達が集結して建設された都市国家であった。ゆえに当初、直接採掘に当たる鉱員は市民たちが担っており、難民などが入り込む隙などなかった。
鉱員は常に落盤や粉塵爆発といった命の危険に晒されてはいたが、彼らの鉱物資源採掘に賭ける熱は決して冷めることはなかった。と言うのも、鉱業は命の危険に見合うような莫大な富をもたらしてくれたからである。
アルカインテールが産する鉱物資源には、この宇宙のみならず、様々な異相世界で高い需要を持つ種類のものが数多く含まれていたのだ。金などには比べものにならないほどの価値を持つ鉱物資源が続々と取引され、アルカインテールは莫大な富を得るようになり、徐々にその勢力を増していった。
また、魔法科学技術に発達により、落盤や粉塵爆発といった従来の鉱業のリスクがほぼ完全と言っても差し支えないほどに回避できるようになっていったことも、鉱業熱が冷めやらぬ理由の1つであった。
しかし…永遠に続く繁栄など存在しない。隆盛の極みを迎えていたアルカインテールにも、ついに陰りが生まれる。
落盤を初めとしたリスクが消えた代わりと言わんばかりに、新たな、そしてより致命的なリスクが生まれたのだ。
それは、魔性鉱物――そのものが有する、いわゆる"毒性"である。
旧時代における放射性鉱物による放射能汚染が鉱員達の体を蝕んだように、特定種類の魔性鉱物が発する有毒の魔法性質が鉱員たちを苛み始めたのである。
魔法科学技術がこの問題の解決に乗り出したものの、次々と新種の、そして新しい毒性の魔法性質が発見されるため、リスクの発生と回避はイタチごっこの様相を呈してきた。
だが、今更莫大な富をもたらす鉱業を手放すことなど、アルカインテールの住人たちにはもはや考えられない。それでは、自分たちが危険に晒されず、且つ、富を得る方法はないか。
その解決策としてアルカインテールが打ち出した方策が、鉱業作業員として難民を使うことである。そして自分たちは鉱業企業の経営や、鉱業の関連の貿易や加工業を担う役割に転じたのである。
「…つまり、アルカインテールは『難民たちの楽園』なんて言われてましたけど、別に善意や人道的観点から難民を受け入れていたワケではなく、リスクを肩代わりしてくれる使い捨ての労働力と見なしていたワケですか…。
酷い話だと思います」
蒼治が不愉快そうに眉をひそめて苦々しく語ると、蘇芳はバツが悪そうに苦笑いしながら、やんわりと反論する。
「確かに、誉められた動機じゃないのは認めるがね。
でもな、難民たちの中には、そのリスクを認めた上で、自ら望んでこの都市国家で働くことを選んだ者も多いんだ。同じく命に関わるリスクを負うなら、成果が一攫千金になる可能性に賭けようとする気持ちは分からなくない。
それに、『楽園』ってのはあながち間違いってワケじゃない。採掘作業に従事する難民たちは十分な報酬を得ているし、生活水準だって一般市民とそれほど見劣りするものじゃない。そして万が一、鉱物による身体障害が発生した場合は、公営の医療機関が医療費を取らずに手厚く看護してくれる。この点を考慮すりゃさ、戦場や環境汚染地域に比べりゃ、十分『楽園』と言っても差し支えないと思うがね」
蘇芳の説明に、蒼治はそれでも納得しきっていない顔をしていたが、遂には首を縦に振って受け入れざるを得なかった。難民自体が事前をリスクを承知の上で、自分の意志で選択をしているのならば、蒼治がどうのこうの言える問題ではない。
蘇芳はそんな蒼治の態度に深入りすることなく、あくまでアルカインテールについての説明をひょうきんな様子で続ける。
「まぁ、次々に発見される新種の魔法障害への治療研究を常に行ってきたってことを考えると、このアルカインテールは研究都市の要素も持ち合わせていたワケだ。だから、何らかの魔法科学的な新発見や新発明がこの都市国家から発表されても、それほど不思議なことはないのさ。
…んである時、異相世界中の魔法科学界を揺るがしかねない大発見が、この都市国家で見つかったのさ」
こう前置きして、蘇芳は更に説明を続ける――。
発見の発端は、新種の魔法障害であった。
鉱員たちの身体が周囲の物体と融合してしまうという症状が報告されたのである。
この症状には、いくつか奇妙な点があった。1つ、患者は融合の際に生体器官の形状や機能を著しく損なっているにも関わらず、命に別状もなく、苦痛すら訴えることがないということ。2つ、患者の人格が融合前後で明確な差異が認められること。人格の変化には多種のバリエーションがあった、1つの共通点と大まかに2つの傾向が認められた。共通点としては魔法科学に対する知識や技術が劇的に豊富になること。傾向としては、自閉症のように単一の物事にのみ強烈な執着を見せて黙々と魔法科学的な観察や考察を続けるか、非常に世捨て人の賢者のように穏やかで落ち着きのある人格となるか、である。
この奇病は当初、形態が異形と化す以外には、致命的な症状が認められないことから、研究対象としての優先度は非常に低く設定されていた。しかし、患者数は日を追うごとに指数関数的に増加。さすがに看過ができなくなったアルカインテール政府は、この奇病を最優先の研究対象に認定することにした。
この奇病の解明を行うにあたり、1人の人物に白羽の矢が立った。当時からアルカインテールに駐留していた地球圏治安監視集団"パープルコート"軍団の駐在部隊指揮官ヘイグマン・ドラグワースによって推挙されたその人物の名は、ツァーイン・テッヒャー。敏腕の魔術医師にして、魂魄研究の全異相世界的権威を持つ人物である。
ツァーインが推挙された理由のとして、今回の奇病が人間個体の定義、ひいてはその形而上相での要素である魂魄が強く関わっていることが上げられた。ツァーインは申し出に快諾し、アルカインテールの公営医療機関で医師を勤めながら、この奇病――後に彼によって『D3S』、すなわち|定義歪曲型形態変質症候群《Definition Distorting and Disfiguring Syndrome》と名付けられた――の研究に取り組むことなった。
ツァーインという逸材は、アルカインテールに多大な成果をもたらした。彼はこれまで有効な治療法が全く発見されていなかった数々の致命的な難病の原理を次々と解き明かし、絶望の淵に立たされていた数多くの患者を救った。その功績ゆえに、鉱員として働く難民たちは彼のことを『聖人』と呼び、敬うどころか崇める者さえ現れた。
しかしその一方で、『D3S』の研究は難航していたようで、芳しい成果は上がっていなかった。…少なくとも、ニュースなどの情報媒体は成果を報じることはなかったし、市民や難民たちも天才的科学者と言えども『D3S』という難題は手に余る代物なのだと認識していた。
「ところが、その認識は誤りだったのさ。
いや、『D3S』の治療法は確立されなかったらしいから、その点で言えば成果は上がらなかった、というのもあながち間違いじゃないかも知れねぇ。
だが、『D3S』の研究でドクター・ツァーインは、別方向の多大な成果を上げていたんだ。彼の専門分野、魂魄研究において、な。
しかしドクター・ツァーイン、そして彼のスポンサーである"パープルコート"は、その成果を公表しなかった。その成果を基盤にした研究プロジェクトを秘密裏に進めたかったからさ。
そのプロジェクトってのが――そう、"バベル"なんだよ」
蘇芳はそう言葉を挟み、更に物語を続ける――。
ある時を境にして、突如ツァーインが表舞台から姿を消した。この出来事についてアルカインテールの報道機関どもは、相当の歳月と費用を費やしても肝心の『D3S』の治療法が発見できなかったことを苦にして、失意からのスランプ…または、鬱病のようなストレス性の精神疾患を得たのではないか、という無責任な憶測を語っていた。
一方、同時期のアルカインテールでは、魔性鉱物の毒性による殉職者や回復の見込みの立たない重篤な患者に対する接し方に変化が起こった。
殉職者については、これまでの方針では、その遺体を献体として治療法の研究に役立てるかどうか、家族に選択権が与えられていたのだが…それが補償金と引き替えに強制的に献体として接収されるようになった。また、重篤な患者は、強力な感染性が確認されない限りは、少なくとも強化ガラス越しに面会が出来たのだが…彼らは皆、強制的に事実上の隔離施設に移送され、面会は一切謝絶となった。
この方針についてアルカインテールは、症状研究によって患者の肉体が周囲の人間や環境に二次的被害をもたらす危険性が確認されたためだ、と説明している。
しかし、実際には…。
ツァーインの『D3S』の研究より極秘裏に得られた成果、"魂魄混合"の実験体として、彼らの肉体が使用されていたのである。
「ドクター・ツァーインが『D3S』からどうやって"魂魄混合"なんつー上等な技術を導き出せたのか、オレにはよく分からねぇし、説明されても多分理解出来ねぇだろうさ。
ともかく、ここで問題なのは、ドクター・ツァーインの"魂魄混合"研究が順調な成果を上げ続け、その研究手法が更にエスカレートしていったってことさ。
献体の対象を、魔性鉱物の殉職者や重篤な魔法障害患者だけで飽き足らず、一般の病死者や事故死者、末期の致死性疫病の患者にまで広げていったのさ。
…オレの嫁も病死したんだがさ、その体は献体にされちまって、墓の中は空っぽさ。とは言っても、当時は嫁がそんな実験の献体にされているなんて思っちゃいなかったけどな」
蘇芳が悲哀に満ちた苦々しさ力のない笑いに乗せながら、最後の言葉を語ると。蒼治はいたたまれない気持ちを覚えながらも、なんと反応して良いか分からずに、眉をひそめて小さく唸った。
そんな様子を見てとった蘇芳は、苦々しい悲哀を吹き飛ばした笑いでハハッと笑い、蒼治の肩をバシンッと強く叩く。それによって蒼治が思わず瞼を閉じて顔を歪めた所へ、勢いを取り戻した言葉を滑り込ませる。
「アンタにゃちっとも責任のない話なんだからさ、そんなに気に病むなよ。むしろ、辛気臭くしちまったオレの方こそ謝らねぇとな。
――ともかく、そうやって献体を集めて作り出したのが、人体を接合して作り出した、魂魄混合による『天国』召喚装置、"バベル"さ」
「なるほど…。アルカインテールが"バベル"と云う装置を持つに至った経緯はよく分かりました」
頷きながら蘇芳に言葉を返した時には、蒼治の顔からは悲哀の歪みは消え、普段の沈着冷静な、研究者のごとき客観性を併せ持つ表情に戻っている。
「となると、"パープルコート"はツァーイン・テッヒャーという科学者を推挙した時点で、"バベル"の構想を持っていたということになるのでしょうか?
そうなると、"パープルコート"の内部には、魔法科学――もっと言えば、魂魄分野に関する知識に長けた人物が存在するということになりますよね?」
「いやー、そこまでは分かんねーな」
蒼治の質問に、蘇芳は戦闘でグシャグシャになった髪を更に掻きむしりながら答える。
「プロジェクト関係者からは、そんな話は特に聞かなかったなぁ。まぁ、あいつらも"パープルコート"に召集された、いわば外部の研究者だからな、内部事情が分からないのは仕方ないことさ。
ただ、ツァーインによる『D3S』研究プロジェクト時代から働いていたヤツによれば、現場の雰囲気は少なくとも、純粋に患者を救おうって熱意に満ちていたようだぜ。
まぁー、ドラマとか映画とかでよくあるアレじゃねーかな。偶々上がった成果に欲をかいて、悪の道に進んじまうってヤツ。特にこの都市国家のケースじゃ、異相世界中の人間が咽喉から手が出るほど欲しがってる『天国』が手に入るかも知れないんだ、欲をかくなってのが難しいんじゃねーかなぁ」
「しかしですね…『天国』の扱いに秩序をもたらすはずの地球圏治安監視集団が、自ら秩序を破って、非人道的な『握天計画』に走るなんて、全く以て理解し難い話ですよ」
「いや、常日頃『天国』に近い地球圏治安監視集団だからこそ、道を踏み外したんだろう」
黙々と運転を続けていたルッゾが、突如として口を挟む。
「ヤツらは言わば、好物を目の前にちらつかされたまま、じっと耐え続けているイヌみたいなもんだ。いくら躾られてても、腹が減り過ぎたら、好物にかぶりついちまうのは当たり前ってもんさ」
「…そこを自制してこその地球圏治安監視集団、ひいては人間だと思うんですけどね…」
蒼治は眼鏡越しの細い眼に不快感と怒りの炎を揺らめかせながら、感情を必死に押さえ込んだ低い声で暗く呟く。
「…今回の件は必ず、地球圏治安監視集団本隊や、関連する超異相世界間組織に報告してやります。彼らは、厳正な罰を受けるべきです」
そんな台詞に対して、蘇芳やルッゾは期待か、はたまた諦観の言葉を語ろうと口を開いたが…直後、2人はその言葉を飲み込んでしまう。
と言うのも、屋根の吹き飛んだ人員収容スペースから、ロイの馬鹿に明るい声が張り上がったからだ。
「おっ! あれって、出口じゃねーか!?
ようやく、この狭っ苦しい所から出られそうだぜ!」
その言葉に反応した蒼治が視線を真っ直ぐ前方に向けると、確かに、四方を囲むコンクリートが途切れて、その向こう側に広がる開けた空間の片鱗が見える。
「おう! その通りだぜ、ドラゴンの兄ちゃん!」
蘇芳はグルリと首を回してロイの方へ向き直ると、ゴツい顔にニカッと大輪の笑みを浮かべる。
「あの先にあるのが、アルカインテールの地下居住区の1つさ!
そして、オレ達の今の住処でもある!」
そんな蘇芳の言葉と共に、装甲車はトンネルを抜け、開けた空間へと躍り出る。
- To Be Continued -