ANGER/ANGER - Part 3
「来やがれ、全身武器野郎!」
「来なさい…怨霊のヒト!」
2人は示し合わせたように、ほぼ同時に各の相手に向かって啖呵を切り、互いの敵に向かって更に接近する。
これを受けて『十一時』も"お姫様"も表情に激情を浮かべたが…より表情を激しくさせたのは、"お姫様"である。
彼女にしてみれば、今まで全く手も足も出ずにやられっ放しだった相手が、急に気力を取り戻して挑発してきたのだから、苛立ちを感じずにはいられなかったのだ。
"お姫様"は体の輪郭を蚊柱のように朧に揺らしながら、霊体を激流のように変化させて急接近する。その全身には勿論、霊障を引き起こすための強力な怨場を纏っている。かすっただけでも、皮膚や筋肉がどす黒く爛れ、場合によっては腐り落ちる可能性もあるだろう。
対するノーラは、右腕には重度の火傷、そして全身は酷い打撲と擦過傷に覆われてボロボロだ。疾走する一歩ごとに、電撃のような疼痛が脊椎から脳天へと突き抜けてゆく。
それでも、今のノーラは決して挫けはしない。激痛を気丈に噛み殺しながら、翠の瞳を不安で揺らめかすこともなく、真っ正面から一直線に"お姫様"と相対する。
ここで挫けては悲惨な最期を迎えてしまう、それだけは避けたい…という決意も勿論ある。しかしそれ以上に、ノーラの魂を支えるのは…ロイの存在だ。
彼がかけてくれた、力強い言葉。それがノーラの冷えかけた魂に、爽やかな真夏の太陽の暖かみを伴った勇気と希望をくれた。
(そうだ…ロイ君は、本当に希望の星を撒くヒトだ…!
ロイ君がくれた星の輝きが、こんなにも私に力をくれる!)
"お姫様"との距離、わずか十数センチ。ここで"お姫様"は、青い爪がギラつく貫手で、ノーラの顔面をねらって疾風のような一撃を放つ。
対してノーラは、身を屈めて貫手をやり過ごしながら、クルリと体を回転。"お姫様"の下に潜り込み、その病的で憎悪に満ちた顔と向き合いながら、愛剣を振るって"お姫様"の腹部に叩きつける。
"お姫様"はすかさず、腹部周辺の霊体を霧散させて、斬撃をやり過ごそうと試みるが…突如、彼女の漆黒の瞳が真ん丸く見開かれる。
グニュリ――霧散したはずの腹部が、綿飴が潰されるような衝撃を得る。そして"お姫様"は、あらぬ方向への急加速をもらい、全身を錐揉みに回転しながら横手に吹き飛ぶ。
(…!? どういう…ことだ…!?)
これまでほぼ余裕で受け流す――もとい、"突き抜け流し"てきたノーラの攻撃だと言うのに、明確な回避行動を取った上で、直撃を受けたのだ。一体何が起こったのか、"お姫様"は理解出来ない。
しかし"お姫様"は何時までも戸惑いに捕らわれることなく、体勢を立て直すと、再びノーラへと飛びかかりに向かう…が、その時にはすでに、ノーラの方から"お姫様"の方へ肉薄している。
「はぁっ!」
気合一閃、ノーラはコンパクトに振りかぶった愛剣を"お姫様"の中心線に向かって振り下ろす。満身創痍ながらも果敢な闘志と素早さで攻め続けるノーラに多少ならぬ驚愕を覚えながら、"お姫様"は全身を霧散化させながら急激に後退――する途中で、今度は右半身に叩き下ろされる強烈な衝撃を覚える。
慌てて状況を確認のために視線を走らせると…中途半端に霧散化した右肩から先が、ゴッソリと体からもぎ取られて、装甲車の外装に叩きつけられていた。
(何故…!? 何故、私の霊体が、こうも捉えられる…!?)
"お姫様"を襲う、困惑と動揺の衝撃。それが生み出した隙に、ノーラはすかさず滑り込む。一歩踏み出した左足で、装甲車の外装に叩きつけた"お姫様"の右腕を踏みつける。左足を覆う靴の裏には、『崩天』と共に対霊体用の[rb:魔化>エンチャント]]を施しており、足の裏は霊体を通常の物体と動揺に押さえ込んで固定する。
"お姫様"の右腕を左足に任せたのと入れ替わりに、ノーラの愛剣が跳ね上がる。ギラリと輝く銀閃は、"お姫様"の頭部を狙い、横薙ぎの斬風となって肉薄する。
対する"お姫様"も、いつまでも動揺に捕らわれてはいない。丸くした漆黒の瞳を剣呑に細めると、上体全部で仰け反って斬撃をやり過ごす。大気を引きずりながら吹き抜けてゆく斬風に、"お姫様"のベレー帽および奈落のような黒髪が、ユラユラと揺らめく。
直撃を受けずとも、霊体の端が揺らめく様を見て取った"お姫様"は、細めた瞳の内で怨恨を目一杯込めた呟きを漏らす。
(この娘…ここに来て、私への対霊体対応が的確になってきた。しかも…私の攻撃に、おどおどしなくなってる…)
先刻、さほど長い時間を費やしているワケでもなかった、仲間の男子生徒との対話が、娘の魂魄を強靱にしたようだ。向精神剤や感情操作魔術でなく、仲間同士の絆と云うヤツで、満身創痍の身体と精神のコンディションを整えてしまうのだから、人類というものは面白くも恐ろしいものだ。
(だが…自ら突っ込んで来るのならば、それはそれで好都合)
"お姫様"は、仰け反った鼻先を通過するノーラの左腕に目を付けると、自らの左手を延ばし、その手首をガッシリと握り込む。
掌には当然、霊障のための術式を練り込んである。握られたノーラの手首から、怨場と生体電流が干渉するパチパチと云う雑音が発生し、"お姫様"の掌の周囲の皮膚組織が墨汁よりなお暗い漆黒で染まる。皮膚組織の壊死が早速始まったのだ。
ノーラは骨の随にまで貫くジクジクした不快な鈍痛を覚え、眉根に深い皺を刻む。しかし、彼女の動きは止まらない。右足を跳ね上げ、"お姫様"の背中めがけて蹴撃を放つ。脚は蛍光色の魔術励起光を帯びており、僅かな時間に高速で対霊体用の身体魔化を施しているようだ。
対する"お姫様"も負けじと動く。蹴りが自分の背中に突き刺さるよりも早く、掴んだノーラの左腕をグイッと引っ張り、その勢いに騒霊の力を乗せて、ノーラの身体をいなしながら宙に浮かせる。ノーラの蹴りは虚しく虚空を切るのみとなった。
次いで"お姫様"は、ノーラの体を一気に振り下ろし、装甲車の外装へと頭から叩きつける。
途中、交錯する"お姫様"とノーラの視線。その時、"お姫様"はノーラの目つきに苛立ちを覚え、漆黒の瞳に憎悪の炎を灯す。攻撃を受けている最中だというのに、ノーラの翠の瞳はタカのように鋭く、怯えもなく、"お姫様"を捉えているのだ。
(…何故、そんな忌々しい眼を…!)
"お姫様"が胸中で叫んだ、その直後。ゴツンッ! と堅い一撃が脳天から突き抜け、"お姫様"の体がグラリと前傾する。ノーラが、身体魔化済の右足を巧みに操り、蹴りをベレー帽の中央に叩き込んだのだ。
(…!!)
思わぬ反撃で、"お姫様"の力が緩み、ノーラの体が解放される。逆さまの状態で宙空中で自由になったノーラは、すかさずネコのように体を回し、背中から装甲車の外装に落下。出来るだけ受け身ととって衝撃を減らすと、すかさずクルリと体を回して立ち上がる。
数メートルの距離を開け、対峙する2人。"お姫様"はややゆっくりと体を引き起こし、猫背の体勢でノーラを睨みつけると…その眉がピクリ、と跳ね上がる。
ノーラが手にする大剣の形状に、少なからぬ警戒を抱いたのだ。
彼女が定義変換で生成した刀身、それはシンプルながらも刀剣としては奇妙な形をしている。表面には機械機関の類は一切見えず、磨き抜かれたようにツルリとした平面をしている。一方で、刀身の幅は分厚く、まるで柄から金属の角材でも生えているようだ。斬るよりも、叩くことに向いた鈍器である。そして刀身全体は、一本の真っ直ぐ延びた刀身に、長さの異なる3本の金属製角材が平行に交差するような形状をしている。
旧時代の地球を席巻した宗教の1つ、キリスト教の十字架にも見えるし、原始的なアンテナにも見える。
刀剣としては奇妙な形状であるが、対霊体としては非情に合理的と言える。アンテナ状の形状は、電磁場性の身体を持つ怨霊を捉えるのには都合が良い。それに、宗教的神聖色の強い形状は、霊の魂魄に脅威を喚起しやすい。
ただし、形状は合理的ではあるが、相手にとって致命的な性能を備えているとは言い難い。先に述べた合理性は一般論的なものであり、霊体の個性によってはアンテナの形状も十字の形状も、さほど大きな効果をもたらさないこともある。
それでもノーラが、"お姫様"への克明な解析を捨てて、一般論的な形状を具現化させたのは、先刻に解析を重んじるばかりに後手に回った反省のためだ。
「最初っからゴチャゴチャ考えるより、まずはやってみりゃ良いんじゃね? で、うまくいかなけりゃ、そん時に考えりゃいいじゃねーか。
オレはいつも、それで乗り切ってるぜ?」
そんな言葉は、さっきロイと会話した時に耳にしたものの1つだ。
――そう、空回る考えよりも、まずはやってみる…! 足踏みなんてしてる暇なんて、ないんだから…!
ノーラは対峙もそこそこに、大剣を水平に構えると、一気に加速して"お姫様"へと接近する。右腕は重度の火傷を追っているし、左腕には壊死した細胞が呈する"お姫様"の手の痕がクッキリと浮かび上がっている。両腕共に、それぞれが激痛を訴えるものの、ノーラは身体魔化で痛覚を遮断。傷ついた筋細胞に鞭打ち、ギリリと大剣の柄を握り込む。
ブンッ! "お姫様"の間近まで迫ったノーラは、再び"お姫様"の白い顔面めがけて、横薙の一閃を振るう。烈風のような一撃を"お姫様"は身を屈めて回避する…が、彼女の頭上で、ベレー帽や黒髪がフルフルと震えながら、斬風に引きずられる。
(…この娘の対霊体能力が、確実に上昇してる…!)
"お姫様"は憎悪の冷気で表情を強ばらせながら、斬閃をくぐり抜けてノーラの腹部へと肉薄。貫手を作って、ノーラの腹腔内の内臓めがけて突き出す。
一方、ノーラは闘牛士のように身を半回転させながら、振るった大剣の軌道を巧みに急変。両腕の筋肉がビリビリとした麻痺で悲鳴を上げるのも気にせずに、ほぼ垂直に大剣を打ち下ろす。
「ぅあう…っ!」
"お姫様"の青い唇の合間から、凍えたような呻きが漏れる。大剣に生えた横棒の一端が、"お姫様"の背中にゴツリとめり込んだのだ。
霊体には内臓も骨格もないものの、対霊体用の打撃を喰らえば、その身には身体にさざ波立つような激痛の衝撃が走る。その不快感に"お姫様"は片目をギュッと閉じて、表情を酷く歪める。
更にノーラは身体魔化済の右脚で"お姫様"の顔面をねらって蹴りを放つが、"お姫様"は間一髪、霊体を蒸発させながら転移。ノーラより数メートル手前の地点へと移動する。
「…殺すぅっ…!」
"お姫様"は身を屈めた格好のまま、憎悪の炎がギラつく漆黒の瞳でノーラを射抜きながら、虚空を掴み込むように五指を曲げた右手を素早く振り上げる。転瞬、ノーラの体にゾワリと総毛立つような悪寒と痺れが走ったかと思うと、三半規管の狂いと共に身体がフワリと浮き上がった。騒霊の標的にされたのだ。
そのまま"お姫様"は腕を大きく振るうと、その動きに合わせてノーラの身体がブンッ! と振り回され、トンネルの壁へと叩きつけられる。
ゴギンッ! 盛大な衝突音と共に、破砕されたトンネル壁の破片と土煙がもうもうと発生する。しかし"お姫様"はこれで満足せず、再び右腕を振るい、土煙の中からノーラの身体を引きずり出す。
そのまま今度は路面に叩きつけようとしたが…途端に、"お姫様"の漆黒の瞳が憎悪を忘れ、驚愕に見開かれる。土煙から現れたノーラが、騒霊の力に引きずられながらも、"お姫様"の方へと飛び込んで来たのだ!
「ハァッ!」
気合一閃、ノーラは飛び出した勢いに騒霊の力を乗せて、雷撃のような斬撃を"お姫様"の上にたたき落とす。
(くそ…っ! また、この娘の対霊体能力が上がってる…!)
"お姫様"は騒霊発動のための集中を放棄し、即座に体を捻って斬撃をギリギリで回避する。
しかし、回避したノーラの大剣は装甲車の外装に激突することなく、その軌跡が急に跳ね上がる。腹部へと吸い込まれてゆく斬撃に対し、"お姫様"は霊体を蒸発させて逃れようとしたが…間に合わない。輪郭が大きくブレた腹部に大剣が突き刺さると、"お姫様"は大きく体を"く"の字に曲げた。
「っくあぅっ!」
青い唇から悲鳴を上げる"お姫様"を、ノーラの剣の横棒で引っかけて、まるで一本釣りのように持ち上げる。
「…セイッ…!」
そして換え声と共に、そのまま大円の弧を描いて、装甲車の外装に叩きつけた。
グニュリッ! 大剣の横棒の先端が霊体の奥深くまで沈み込んだ、鈍い粘度のような感触が腕を伝ってくる。これは相当こたえたようで、"お姫様"は漆黒の瞳をチカチカさせて、呆然と虚空を見つめている。
(…そろそろ…っ!)
ノーラは意を決して半歩後ずさりながら、空中で激戦を繰り広げているロイへチラリと視線を走らせる。
一方、ロイは『十一時』と爆発的な接近戦を繰り広げていた。
そう、絡み合うほどの間近での打撃や銃撃の応酬である。『十一時』は時折、体勢を立て直そうと後退することもあるが、ロイはガンガン前に出て、絶対に『十一時』の目前から離れない。
(こいつ…しつこい過ぎるぞ…!)
『十一時』はギリリと噛み合わせた口の中で毒づくと、ロイの背後に飛翔物体を回り込ませて接触させると、ローレンツ力による打撃を発生させたり、電磁場による不可視の斬撃を与えたりする。
それらの一撃一撃を浴びたロイは、その表情に苦々しい色を浮かべる。しかし、すぐに牙がゾロリと生え揃う口で凄絶な嗤いを浮かべると、血反吐を吐き出しながらも竜翼を力強く打って至近距離へともぐり込み、竜拳や竜脚、そして竜尾で嵐のような連撃を見舞う。
『十一時』は連撃をほぼ直撃で受けているものの、無色透明な電解質体液がドバドバ流れ出す傷口は、即座に泡状の増殖組織によって塞がる。よって、彼には致命的なダメージは刻まれていないものの…ロイの決して退かない、激流のような攻撃には精神が音を上げそうになる。
(なんなんだ、なんなんだ、こいつは…! 我々のように体組織を高速で再生できるワケでもない、着実に損傷を刻まれているというのに…! 何故、こいつの意志は折れずに、前進を続ける!?)
『十一時』の疑問符が消えきらない内に、ロイの拳が彼の頬面を捉える。ゴキリッ、と鈍く響く音は、『十一時』の重金属性の脊椎が脱臼する音だ。脊椎内を走る光ファイバー繊維がミチミチと裂断し、『十一時』の全身が一瞬ビクンッと痙攣を呈すると、直後に麻痺が駆けめぐる。
それでも癌様獣の高速再生性質は、即座に脊椎の快癒へ向けて組織再生を始めるが、それが完了するよりも早く、ロイの強烈な竜拳が左右に激しく振り回り、ゴキリゴキリと『十一時』の首を揺さぶり回す。
そのまま続ければ、『十一時』の脊椎がねじ切れ、首から上が吹き飛びそうにも見えるが…光ファイバー神経の回復を最優先にした『十一時』は、振り回される首をそのままに、臀部から飛び出した鋭利な2本の尻尾で、ロイの両脇を同時に刺し貫いた。
「ぎぅ…っ!」
たまらずロイは苦痛の呻きを上げるが、すぐに牙を噛み合わせ噛み殺すと。腹筋に力を入れて巌のごとく頑強にして、尻尾がそれ以上体内に侵入することを拒む。それだけでなく、収縮した筋肉で尻尾の動きをギッチリと押さえ込んだ。
「へ…っ! これで、離れられなくなったなぁっ、ボロマント!」
ロイはダラリと口元から吐血の幾筋も流しながら凄絶に嗤うと、『十一時』のくすんだ金髪をガッシリと掴み上げ、引き寄せる。そこへ自身の額を激しくぶつけると、ガキュンッ! と重厚な金属板が大きく凹んだような痛々しい音が響く。
衝撃に『十一時』が大きくよろめき、グラリと仰け反る。が、その直後、『十一時』の脊椎内光ファイバー神経が快癒。麻痺が解けた『十一時』は憤怒の炎を充血した左眼に灯すと、跳ね上がるように体勢を引き戻し、重金属の拳を振りかぶってロイの顔面をねらう。
対するロイも堅く握りしめた竜拳を突き出すと、両者の拳が壮絶な衝突を引き起こした。
巌ッ! 重厚な激突音と共に、爆発的な衝撃波が両者へ強風となって吹き付ける。
その最中、ロイの五指がパラリと形を崩した。見れば、竜鱗に覆われた手の甲は酷くひび割れ、激しい出血がドクドクと噴き出している。拳の衝突勝負は『十一時』の方に軍配が上がり、ロイの拳は無惨に砕けてしまった――一見すると、そのようにも見えただろう。
そして『十一時』もそのように考え、優越と侮蔑の嗤いをギラリと浮かべながら、拳を再加速。ロイの顔面を狙う…が。
ロイの体が、突然沈み込む。そして、砕けたように見えた拳で『十一時』の手首を捻り上げながら掴むと、そのまま肘間接を自身の肩の上に乗せて、背負う。
ズボリ…ロイの両脇から『十一時』の2本の尾が引き抜かれ、ポッカリと開いた脇腹の傷口からドバリと真紅の血液が噴き出す。しかしロイは苦痛を意に介することもせず、そのまま『十一時』の肘間接をゴキリと折り曲げながら、投げ飛ばした。
ビュウ――! 風を切りながら吹き飛んでゆく『十一時』は、眼下の装甲車の方へ向かって落下してゆく。しかし、『十一時』の快癒した光ファイバー神経は異常なほどの高速の反射速度で体勢を立て直しつつ、背部のバーニア推進機関を噴射して、ロイの元へ最接近を試みる。
が、その試行が実行に移されるよりも早く。ロイがヒュッと鋭く吸気すると…。
「行けえっ!」
咽喉よ裂けよと言わんばかりの絶叫を張り上げながら、爆発的な衝撃波と共に、極太の輝線の形状を呈する竜息吹を噴き出す。輝線の周囲には、もちろん、電磁場を宿すこと示す電光の輪が幾重にも取り巻いている。
対して『十一時』は、飛翔物体を尾から幾十個も射出すると、自身の眼前で5重の円陣を形成し、その1つ1つに電磁場の障壁を作り出す。これまで散々ロイに破られてきた電磁場障壁であるが、『十一時』とて馬鹿ではない。電磁場の周波数や魔化のパターンを調整し、ロイの竜息吹を封殺する陣容を整える。
それでも、ロイの竜息吹は軽々と3枚の電磁場障壁を打ち破り、4枚目でようやく、激しい電光の火花を飛ばしながら奔流がせき止められた。とは言え、激突によって生じた衝撃波は尋常ならざる爆風を生みだし、『十一時』の全開にしたバーニア推進機関の推力を持ってしても、ジリジリと後退してしまうほどだ。
しかし、『十一時』は決して諦めない。真紅の左眼で竜息吹を睨めつけながら、その術式構造の解析。その結果を4枚目、そして5枚目の電磁場障壁に反映し、竜息吹の影響を徐々に減衰させてゆくと、遂に後退が停止した。
――この調子で竜息吹を凌駕し、反撃に転じてやる。『十一時』の真紅の左眼の瞳孔がギュッと収縮し、輝線の奔流の向こうに居るはずのロイを視線で射抜く。
今度は『十一時』がジリジリと、奔流に逆らって前進を始めた頃のこと…。彼のセンサーが、背後から急接近する存在を検知し、警告信号を訴える。
――何だ? 思わず浮かんだ疑問符に突き動かされるまま、首を小さく回して、常人と変わらぬ右眼で背後の様子をチラリと伺った…その途端、彼の体がギクリと強ばる。
流星のような勢いで、こちらへと上昇してくるもの。それは、体を"く"の字に大きく曲げた、"お姫様"である。
「行けえっ!」
ロイはほんの数瞬前、そう叫んで竜息吹を吐き出した。叫びは、竜息吹に気合いを込めるための、いわば"儀式的な行為"であると、『十一時』は考えていた。
しかし、それは間違いである。
ロイが真に叫びを届かせたかったのは、竜息吹などではなく――装甲車の外装で戦う、ノーラであったのだ。
"お姫様"を意識混濁状態に追い込んだノーラが、チラリと上空のロイに視線を走らせたのは、ロイへ準備が整ったことを知らせたかったからだ。
先にロイが持ちかけた"作戦"を、実行するために。
その"作戦"の内容とは、次のようなものだ――。
「オレが戦ってる癌様獣と、ノーラが戦ってる怨霊。そいつらの共通して、なおかつ、オレ達が利用できそうなもの。それは、どっちも強烈な電磁場を操るってことだ。
そこで、こいつら2人をぶつけてやるのさ。
そうすりゃ、電磁場同士が干渉して、ヤツらはお互いにダメージを受けるはずさ。
…まぁ、実際にどれくらいの結果が望めるのかは、よく分かンねーけど…試さずにジリ貧になるよりは、マシだろ?」
そしてロイは自案に沿って、ノーラに…もとい、ノーラが放り投げてくれるはずの"お姫様"に向けて『十一時』を竜息吹で押し出したのだ。
一方、地上では、眼を回していた"お姫様"が素早く意識を回復し、前進を蒸発させながら体勢を立て直し、ノーラに向けて更なる憎悪と憤怒の眼差しを向けて身構えた。
が、この時ノーラは、"お姫様"からの反撃を警戒するよりも何よりも、ロイの叫びに応じることだけに集中していた。振り下ろしたままの大剣をクルリと回し、アンテナのように水平な横棒が3本広がる面を"お姫様"に向けて、烈風のように一歩踏み込みながら、大きく振り上げたのだ。
グニュリ…大剣の異様な刀身が、"お姫様"の霊体に沈み込み、圧縮した綿の塊のような手応えを伝える。この瞬間、ノーラは魔力を大剣へと一気に注ぎ込んだ。
ブゥン…古い電子機器が起動時に上げる電子的な雑音のような音が、静かに響く。と、同時に、大剣の刀身全体が電光色に包まれる。この色彩は、刀身が魔化された強烈な電磁場を宿した事を意味している。
この電磁場が"お姫様"の霊体を構築する電磁場に干渉し、彼女の体をすくい上げると、まるでゴルフショットのように急な放物線の軌跡を描きつつ吹き飛ばしたのだ。
宙空でグルグルと激しく縦回転しながら上昇してゆく"お姫様"であるが、早くも自身の霊体を構築する電磁場を操作し、回転運動に急ブレーキをかける。そのまま上昇もピタリと停止させると、宙からノーラを見下ろして青に染まった唇を憎悪に歪める。
だが、憎悪は表情を突き動かす以上の事象を誘発することはなかった。と言うより、"出来なかった"。
何故ならば。ノーラの横薙ぎの一撃によって、大剣から飛び出した横棒が、"お姫様"の腹部深くに潜り込んだからだ。
「がは…ぁう…っ!」
魔化された電磁場の鋭い衝撃が、"お姫様"の腹部を貫き、その向こう側へと烈風を振り撒く。この強力な一撃によって"お姫様"の霊体は壊れたモニターが映す映像のようにノイズまみれになりながら、大きく"く"の字に曲げる。そして衝撃に誘われるまま、"お姫様"の体は砲弾のごとく急上昇してゆく。
――丁度、ロイの竜息吹を耐え続ける『十一時』の背中へと目掛けて。
そして、視線を走らせたものの会費運動が追いつかぬ『十一時』と、"お姫様"の霊体が、遂に激突する。
パァンッ!
まるで、風船を叩き割った時のような甲高い破裂音が、トンネル中に響き渡った。
同時に、音の伝搬と共に全身の総毛を逆立てるホワホワしたような電磁場のさざ波が、青白い電光の球面を伴って広がる。
「うっわっ、なんだこりゃっ! ビリッときやがったっ!」
[[rb:涼月]]と対峙していた蘇芳が、軍服と皮膚の間で生じた静電気に苛まれて、ビクッと体を震わせながら声を上げた、その時。
「ぬおおおぉぉぉっ!?」
蘇芳の声を大きく塗り潰す絶叫が発される。その声の主は、蘇芳と相対していた涼月だ。
彼の体を覆う蒼い炎が一瞬にして消滅したかと思うと、むき出しになった鎧兜、そして骸骨の身体が膨大な年月を経て風化したかのように、ボロボロと小片へと砕けながら砂状に、更には霧状に細かくなって、足下から徐々に消えてゆく。
変化が起きたのは、涼月だけではない。装甲車上に広く分布していた影様霊達にもまた、異変が生じる。突如を激しく身をよじって悶える一方で、輪郭が激しくさざ波立つ。そして、塩をかけられたナメクジのようにジュクジュクとその体積を縮めてゆく。
涼月にせよ影様霊にせよ、彼らの異変の引き金となったのは、この場を支配していた怨場の突如とした欠落である。怨場の発生源である"お姫様"が『十一時』と激突した途端、ロイの狙い通りに電磁場の干渉が発生。それによって"お姫様"の形而下体を構築する電磁場が激しくかき乱されることで、存在定義にダメージを受け、怨場を維持するための集中を失ったのである。これにより、怨場の恩恵を受けて存在定義の依存対象が無くとも活動が可能であった『冥骸』の兵員達は、この場での存在の確立が困難になったのである。
「おぉのぉれえぇっ!」
涼月は怨場が消えた状況の中でも、なお存在を確立せんと、霊体に魔力を注ぎ込んで身体の崩壊をくい止めようと努める。が、その抵抗を行うだけで手一杯で、一歩たりとも動けない。
そこを見逃す蘇芳ではない。身構えながら一気に涼月との距離を詰めると、爆発的に気力が充実した掌底を突き出し、涼月の顎骨の付け根の辺りを強打した。
「オラッ、さっさと成仏しちまいなっ、枯れ木じいさんよぉっ!」
暴風のように突き抜ける気力の奔流が頭蓋を突き抜けると、打撃箇所を中心にして涼月の身体が砂塵へ、そして霧霞へと粉砕されてゆく。
「ぬううぅぅっ、わかぞぉぉぉっ!」
地縛霊に似つかわしい恨み言を残しながら、涼月の全身がついに霧散する。これによって彼は、蘇芳が言うように成仏を遂げた――つまり、魂魄が変質した――のか、または単に存在依存対象物の元へ引き戻されただけなのか、それは分からない。しかし、やっかいな戦力が1つ、確実にこの場から消え去ったのは確かである。
一方、怨場の消失によって蒼治、紫、レナの3人は体調不良が瞬時に快癒。蒼治とレナが互いの状況を確かめ合うように視線を交わす最中、紫はニヤリと嫌みを宿した嗤いを浮かべる。
「よーくもやってくれたわね、影法師風情がっ! お礼に、私から一発…!」
快癒によって気迫が充実した紫は、全身に魔装を発現させ、勇ましいフル装備を見せつけると。右腕部に装着された電極様機関にバスケットボールほどもある、苛烈な電撃の球体を作り出す。周囲の塵や大気を電離させてバチバチと雑音を立てるこれを、力一杯装甲車の床に叩きつけた。
「強ッ烈なヤツ、お見舞いしてあげるわっ!」
紫の怒声と共に、眩い電光の爆発が発生。これに包み込まれた影様霊は全身をブドウのようなボコボコの瘤だらけになると、さらにそのまま風船のように膨らみ…音もなく破裂し、消滅した。
さて、装甲車上の脅威が駆逐された一方で、宙空で衝突した『十一時』と"お姫様"は、互いの電磁場の干渉によって発生した大蛇のような極太の電流に雁字搦めになり、身動きが出来ない状態になっていた。どうやら、互いに異なる磁極を強烈に帯びてしまい、発生した引力によって絡め取られてしまっているらしい。
そこで両者は、各々の電磁場を調整して離脱を試みるのだが、呼吸が全く合わず、却って電流が激化するばかりだ。やがて電流は大気分子を電離させ、生成されたオゾンによる生臭い匂いが辺りに立ちこめ始めた。
両者の絡み合いを近場の宙空で確認したロイは、こちらにも伸びてくる電流の腕の回避を兼ねて、装甲車の方へと急降下。運転席のルッゾの元へ訪れる。
「なぁ! 運転手のオッサン!」
ルッゾの真横に並んだロイは、鼓膜を聾するバチバチという凄絶な雑音に負けないよう、声を張り上げる。
「あぁ!? なんだ、ドラゴンの兄ちゃん!?」
ルッゾは大きく首を回してロイの方へ向き直ると…ハッと驚愕と歓喜が混じった表情を顔に浮かべる。つい数瞬まで、"お姫様"の生体電流操作によって自由を失っていた身体が、思い通りに動くようになっているのだ!
念のため、と云った様子で、ルッゾは自身の左手に素早く視線を走らせる。すると、そこの上に覆い被さっていた青い爪を持つ白い手が消失しているの確認した。
そう、"お姫様"は自身の霊体を脅かす電磁場に対処するのに精一杯で、身体の一部を分離させて遠隔操作するだけの余裕を失ったのだ。
「おおっ! 動く、動くぜ! オレの身体!」
少し前までは沈着冷静そのものだったルッゾだが、爽快な解放感を身に受けて、両手をハンドルから放してガッツポーズを取ってはしゃいで見せる。直後、制御を失った装甲車がキュキュキュッ、と激しいタイヤの擦過音を立てながら蛇行を始めたので、慌ててハンドルを握り直した。
「危ねーなぁ、オッサン」
蛇行の際に装甲車にぶつかりそうになっていたロイは、額に冷や汗を浮かべながら安堵のため息を吐きつつ語る。
「ああ…済まない。つい…な」
心底申し訳なさそうに謝罪するルッゾの声音は、少し興奮の余韻が残るものの、元の冷静さを取り戻したといえる落ち着きようである。
「ともかくオッサン、身体の自由は戻ったみてーだな?
それじゃ、サッサとズラかっちまおうぜ! あの厄介なヤツらが、回復しないうちに、さ!」
「あ…ああ、その通りだ! 今がチャンスだなっ!」
ロイの言葉に同調するや早いか、レッゾは素早くギアをバックに入れると、思いっきりアクセルペダルを踏みつけて、全速力で後進を実行する。
屋根が吹き飛んだ人員収納スペースや、外装の側面では、急に逆方向に向いた加速度によって、乗員たちが吹っ飛びそうなほどにつんのめって体勢を崩す。
「バッカヤロー! バックするならするって、ちゃんと言いやがれッ! ブッ飛んじまう所だったじゃねーかっ!」
人員収納スペースでは、丁度車両の端っこに立っていたレナが、噛みつくような怒声を上げて抗議している。そこへレッゾは、片手を上げて謝罪の意を示した。
一方、ロイは装甲車の前面の方に回り込みながら、牙の生え揃った大口を開いて叫ぶ。
「蒼治ッ、ノーラッ! なんでも良い、出来る限りのありったけの迷彩方術を使ってくれっ!
紫ッ! 動けるなら、お前の剣についてる推進器で、車のバックを加速させてくれっ!
オレも、車を押してバックの加速を手伝うッ!」
言うが早いか、ロイは一気に急加速して装甲車のバンパーの辺りに激突。そのまま竜翼をバサバサバサッ! と激しく連続で羽ばたかせて、車の後進に更なる加速を加える。
一方、人員収納スペースでは、ロイの言葉に突き動かされて星撒部員達が素早く動く。
外装に居たノーラは、一度軽くジャンプして『宙地』を使うと同時に『崩天』を解除。重力方向に元に戻すと、もう一度『宙地』を使って人員収納スペースに飛び乗る。
ノーラが着地した地点は、丁度手近な位置に蒼治が立っていた。2人は視線を交わして小さく頷き合うと、各々手を突き出し、複雑怪奇な幾何学模様が描かれた方術陣を周囲にデタラメに展開。その1つ1つが、空間に様々な偽装クオリアをバラ撒いて、五感への欺瞞を施す。
他方、紫の方は魔装でフル装備のまま、運転席の方へ全力疾走。ルッゾの隣、助手席の座席に飛び乗ると、身を乗り出して刀身の背を前に向けた機械仕掛けの大剣を突き出す。転瞬、刀身の背に並んだ推進器が青白い魔力励起光を放ちながら、周囲の大気を吸い込んで爆発的に噴出。ロイと共に、装甲車のバックの加速に助勢する。
エンジン以外の力も得た装甲車は、砲撃のような加速を得ると、宙空で電流と共に絡み合う2人の脅威を残して、トンネルを地下方向に向けて一気に下ってゆく。
やがて、装甲車上から絡み合う2人が豆粒ほどの大きさに見えるほど距離が開いた、その時。
ピカッ! 強烈な閃光が、2人を中心にして発生する。どうやらようやく、『十一時』と"お姫様"が互いの電磁場が相反するように調整することができたらしい。ただ、互いに相当の焦燥と苛立ちを抱えていたらしく、電磁場は過剰なほどの強度を有していたようだ。そのため、『十一時』と"お姫様"は互いが同極になった瞬間、電光のような速度で真逆方向に弾け飛び、トンネルの壁に強かに激突したのだ。
これを見ていたレナが、中指を立てた右腕を大きく振るって、ゲラゲラと笑う。
「バーカ、バーカ、バケモノどもっ!
そんじゃサヨナラだぜっ、出来ることなら永遠に、なっ!」
そしてレナは制服の内側に両手を突っ込んでゴソゴソと漁ると、取り出したるは、大量の紙束。その表面には、黒紫色の墨で東洋風の書体で漢字と複雑な模様が描かれている。
この種の紙は、術符と呼ばれている。魔術発動媒体の1つで、黒紫色の墨を構成するフラーレンの分子構造の内部に封入された術式が、発動者の魔力集中を受けて、魔術現象を発現させるものである。工業用に大量生産されているものは、魔術の訓練を受けていない一般人向けに商店で売り出されているものもある。
レナの持ち出した術符は、彼女の手製のオリジナルだ。その効果は紙面に描かれた模様によって異なるが、概ね蒼治やノーラが現在発動させている方術陣同様、知覚に対する迷彩を空間に展開するものである。
方術陣と術符、この双方が入り乱れたトンネル内では、風景が壊れたモニターのように砂嵐状のノイズに覆われる。空間汚染ならぬ知覚汚染が発現しており、視覚がデタラメになっているのだ。この迷彩地点に入り込んでしまうと、突然底の見えない奈落の穴に延々と落下し続けたり、目の前に壁が現れたりといった、生々しい幻覚に苛まれることだろう。
こうして2人の敵の知覚を欺いた星撒部とその他の一同は、あっと言う間にその場を離れ、トンネルの奥深くへと消えてゆくのであった。
一方、その場に取り残された『十一時』と"お姫様"の2人は、それぞれほぼ同時に、叩きつけられたトンネルの壁から身体を引き起こす。
『十一時』は質量ある身体を重力に乗せてサッと落下し、"お姫様"は質量のない身体でフワリと舞うように路面に着地すると。またもや2人してほぼ同時に、装甲車が走り去った方向へと視線を向ける。
しかし、癌様獣や怨霊の知覚を以てしても、クオリアからして狂乱した空間を正常に捉えることが出来ない。双方は悔しがるように勢いづけてフイッと首を振り、視線を道の向こう側から視線を外した。
こうなっては、追跡を諦めざるを得ない。
目的を果たせなくなった2人であるが、彼らの緊張はすぐに解けるような事はなかった。と言うのも、視線を正面に戻した2人は、味方どころか目的遂行の競合相手と対峙することになったのだから。
両者の視線が紫電のように絡み合い、その中央に火花が散るかのような錯覚さえ覚えるような殺伐とした雰囲気が生じる。
剣呑な視線がぶつかり合うこと、たっぷり十数秒。先に動いたのは――"お姫様"である。
しかし、彼女は『十一時』に襲いかかったワケではない。ナイフのように鋭く細めた眼をそのままに、全身でプイッとそっぽを向くと。全身の輪郭をかき乱された煙のように大きく波打たせたかと思うと、蚊柱が霧散するように姿を消した。
彼女にしてみれば、『十一時』は確かに競合相手ではあるが、斃すべき仇敵というワケではない。彼女ら『冥骸』の悲願――"バベル"の奪取のためには、ここで収穫のない交戦に労力を使って兵力を損なうのは得策でないと判断したらしい。
さて、1人残された『十一時』は、知覚汚染された空間とは逆方向に向き直ると、背部のバーニア推進機関を起動させて、一気にトンネルを脱しようとするが…その動きが、ピタリと止まった。
丁度その時、トンネルが地震に襲われたようにゴトゴトと震え出す。そして天井に大きく蛇行する亀裂が生じたかと思うと、その隙間がメキメキと押し広げられてゆく。隙間の向こう側に見えるのは、暗い土ではなく…真紅に充血した巨大な眼球と、重金属の体表面。
「『胎動』か、何の用か?」
『十一時』は頭上に出現した巨大な癌様獣へ、個体識別名で呼びかける。『胎動』と呼ばれた巨大癌様獣は、先刻に星撒部が地上で戦闘を繰り広げていた際に出現した、胚と恐竜の間の子のような個体である。
「助勢…のはずだった」
『胎動』は亀裂の隙間から覗かせた小さな口をモグモグさせながら、大気を揺るがすような低いくぐもった声を出す。
「だが、遅かったか。
標的は、逃亡したようだな」
『胎動』は、星撒部と軍警察の一同が残した知覚迷彩由来のノイズまみれの空間へと真紅の眼球をギョロリと向ける。
「しかし、奇妙なことだ」
『胎動』は再びギョロリと眼球を動かし、『十一時』の真上に視線を戻す。
「あの知覚迷彩は彼等による目眩ましであることは理解できるが…。
何故、ここに怨場の形跡が残っている?
まさか、『冥骸』と軍警察どもが手を組んだとでも言うのか?」
「いや」
『十一時』は頭を振り、否定する。
「『冥骸』は、俺と彼らの交戦に便乗し、入り込んできただけだ。
謂わば、俺と『冥骸』は彼ら相手に"並闘"した、というところだ。
『冥骸』は相当の戦力を引き連れて来ていた。亞吏簾零壱を中心に、涼月、そして影様霊の兵員を十数引き連れていた」
「…その物量の戦力を相手にしておきながら、彼らは逃げおおせたと言うのか」
『胎動』の巨大な真紅の瞳が、驚愕と動揺でギュッと収縮する。同じ目的を狙って競合する間柄、癌様獣と『冥骸』の死後生命は幾度も交戦しており、互いの実力は痛いほど身に沁みている。特に、亞吏簾零壱――"お姫様"の正式個体識別名である――の脅威は、強力な再生能力とエネルギー充填能力を持つ癌様獣を以てしても、苦々しく歯噛みするほどのものである。
驚く『胎動』は、図体の割に小さな口でゴニョゴニョと呟く。
「私も今日、闖入者たちと交戦し、彼らが一筋縄ではいかない相手だとは痛感したが…まさか、それほどの実力者だとは…」
「皆、高い能力を有する個体ばかりだが、特に恐るべきは、賢竜の少年だ」
『十一時』は剥き出しになった真紅の左眼にロイの姿を回想すると、ギリリと牙が擦れる音を立てて歯噛みする。
「彼らの中では、正直、一番思慮は欠けている。だがそれ故に迷いはなく、本能的な抜群の戦闘センスと、強靱なメンタルを兼ね備えている。
彼の存在が、心が折れ欠けていた仲間のメンタルを快癒させ、損傷で低下したはずポテンシャルを引き上げさせた。その結果、優位であったはずの亞吏簾零壱は失態を犯し、俺も無様をさらす羽目になった」
『十一時』が言及しているのは、ロイのこと、そして彼が勇気づけて満身創痍の状態から戦意を取り戻したノーラの事だ。
「確かに、賢竜の少年の脅威度は高い。
だが、私としては定義変換を操る少女も侮れないと考えている。
彼女は、数量で圧倒的に勝る我々を前にして冷静に霊核の術式構造を解析し、一時は我々を追い込んだ」
「なるほど。あの少女、手より頭が回るが故に亞吏簾零壱相手には後手に回り、メンタルも相当衰弱していたが…ペースが噛み合えさえすれば、彼女自身だけでなく、彼女の仲間の戦力さえ引き上げる起爆剤となるワケか。
今後の交戦においては、考慮せねばならんな」
『十一時』は独り頷いて納得しながら、思考に忠告を刻みつける。
そして、すぐに視線を『胎動』に戻すと、彼に問いを投げかける。
「『胎動』よ、君がここに来たということは、地上の戦闘は終了したということだな?
地球圏治安監視集団が呼び寄せた外部人員の捕縛は、どうなった?」
すると『胎動』は、苦々しげに巨大な眼球を細める。
「捕縛は失敗した。
彼らを取得したのは、『インダストリー』の連中だ。
我らの敗因は、闖入者たちへの対処に戦力を裂きすぎたことだ」
「まさか闖入者が介入してくれるなど、誰しも予想できなかったことだ。君が気に病むことではない」
『十一時』は至って無表情に、極めて抑揚の少ない言葉を放っていたが、その内容は『胎動』への気遣いに満ち溢れている。こういった感情に配慮した知性的行動を鑑みると、超異層世界人権委員会がなんと言おうが、彼らには十分"人類"と定義されるに相応しい資質を有しているように思われる。
「…ともかく、これ以上ここで待機するのは無意味だ。帰投するとしよう。
『インダストリー』に遅れを取ったのは残念だったが、情報収集の手間を彼らが負ってくれたと思えば、さほど悔しくもない。彼らが新たな情報を得たならば、必ず何らかの行動に出る。そこに便乗して動けば、十分に巻き返しは出来る。
我々の目標はあくまで"バベル"の入手でありり、『インダストリー』その他の勢力の殲滅ではないのだから」
『十一時』はそう告げると、背部のバーニア推進機関を緩やかに噴射させると、『胎動』が覗く割れ目の中へと入り込む。そして『胎動』の恐竜のような重金属製の腹に掴まると、『胎動』は嫌な顔一つせず、身体をくねらせながら地中へ…いや、彼が作り出した転移用亜空間の中へと潜行する。
転移用亜空間を自作し、空間の瞬間転移を行うのは、『胎動』固有の能力の1つである。この能力を使用することで、『胎動』は己の巨大な体積を苦にすることなく、あらゆる場所に移動することが可能である。
…こうして『胎動』と『十一時』はトンネル内から離脱。アルカインテール地上部の地区まるごと一画を占拠して作り上げた、生体洞穴様の巣窟拠点へと帰投した。
- To Be Continued -