ANGER/ANGER - Part 1
◆ ◆ ◆
"バベル"。人型の癌様獣、『十一時』が口にしたその単語が、一体何を示すのか。星撒部の誰1人として、そのことを理解している者はいない。
しかし、彼らは直ぐに感づいた。その単語が示す存在こそ、現在のアルカインテールの戦争の元凶となった存在――蘇芳たちの言う"アレ"であることを。
それを裏付けるかのように、レナを含めたアルカインテール勢の3人は、表情に一様にギクリとしたような、困惑したような奇妙な表情を浮かべている。
そんな一同の様子を、充血し腫れ上がった左眼で一望した『十一時』は、殊更動揺の大きい蘇芳の方へ向き直り、ブラウンの右眼をギロリと細め、再び尋問を口にする。
「"バベル"は何処に在る?
語れ、この都市国家を治める軍警察の一員よ」
対して蘇芳は、ダラリダラリと額から噴き出す汗をそのままに、引きつった笑みを浮かべてみせる。
「お前さんも毎度毎度しつこいな、『十一時』よぉ。
だから言ってるだろ、オレ達は知らないし、もしも知ってたとしても…てめぇらには教えない、ってな」
「語らぬならば、それでも構わん」
蘇芳の拒否に、あっさりと応じる『十一時』であるが。微動だにしない表情や無機質な語り口とは裏腹に、苛立ったように臀部から生えた2本の金属製の尾をヒュンッ、と素早く振るう。
「お前の大脳皮質を直接スキャンするだけだ」
そう語る『十一時』の語調が、ほんの少しだけ堅く、鋭く…そして、鋼のように冷たく重い殺気に満ちているように聞こえた…その直後。
ガキュィンッ! 金属と、高い硬度を誇る物体が衝突する、甲高い耳障りな音が発生する。その音と共に、蘇芳は眼前で起きたコマ落ちフィルムのような高速の現象に、眼を白黒させる。
蘇芳の眼前には今、背からは漆黒の竜翼を、両足先を太い鍵爪を携えた竜脚に変えたロイが立ちふさがっている。彼が顔の高さまで上げた、人工太陽光の照明を受けてヌラリと輝く竜鱗に覆われた腕は、『十一時』の鋭利で強靱な尻尾をガッシリと受け止めている。
どうやら『十一時』は単に尻尾を振るっただけでなく、その鋭利な先端で蘇芳の顔面を横薙ぎに狙ったらしい。対してロイは、野性的とも言える反射神経で彼の攻撃に対応したのだ。
「テメェッ、いきなり…!」
鋭利な牙の林立したロイの口腔から、避難の言葉を吐き出される最中のこと。『十一時』の身体が突如、輪郭を霞ませて掻き消える。ロイの背越しにその光景を見送っていた蘇芳は、何が起こったのか理解できず、パチクリと瞬きをした。
直後、再びトンネル内に響く、ガキュインッ! という激突音。同時にロイの身体が沈み込み、まるで低い軌道のボールを受け止めたゴールキーパーのような格好をしている。そんな彼の開いた竜掌は、装甲車の床スレスレの位置から突撃してきた『十一時』の突き出した腕を掴んでいる。その腕の先には、ギラリと輝く凶悪な金属の円錐状突起が数個突き出しており、ロイの竜鱗に覆われた掌に数ミリ食い込んで細かな鮮血の流れを作り出していた。
痛々しい防御行動を取ったロイであるが、その表情は苦痛に歪んではいない。それどころか、血に飢え、獲物を狩ることを愉しむ猛獣のような凄絶な笑みを浮かべている。
「オッケェッ!」
叫びつつ、ロイは握った『十一時』の突起をブンッと上方向に振り回し、トンネルの天井目掛けて投げ飛ばす。一方、『十一時』は超人的な反応速度でヒラリと体勢を立て直すと、天井に着地し、ロイの次なる行動に備えて刺すような視線を眼下に向ける。
癌様獣の神経は、光ファイバーによって構築されている。故に、通電神経を有する並の人間に比べると、理論的には何十倍も素早い反射行動を取ることが可能だ。
しかし、そんな優秀な神経ネットワークを持つ『十一時』をしても、視界に度アップで映る光景には驚愕を隠せず、充血した左眼の瞳孔を思い切り開く。眼前に、間近にまで迫ったロイの姿があるのだ。しかも、筋肉のバネを極限まで引き絞った竜脚で、万全の蹴撃の準備を整えている。
「!!」
『十一時』は声にならない怒号を上げながら、胸部から顔面にかけて両腕を交差させて防御態勢をとる。更に、空中に待機させていた円錐状の飛翔物体を腕の手前に引き戻し、円陣を作ろうとするが――遅い。
(言葉なんていらねーよなっ! 不満をぶつけ合うなら、ブン殴り合いで充分だよなっ!!)
胸中で叫びつつ、ロイが竜脚を漆黒の烈風に変え、『十一時』の体軸中央目掛けて解き放つ。トンネルの人工太陽光の照明を受け、ギラリと凶悪に輝く鉤爪が、巨大な三日月を描いて『十一時』の飛翔物体を吹き飛ばしながら、交差した両腕に深い斬撃を与える。
斬ッ! 噸ッ! "斬る"と"叩く"を同時に喰らった『十一時』は、両腕に荒々しい渓谷のような傷跡を刻まれ、無色透明な電解質の体液を大量に撒き散らしつつ、トンネルの天井に激突。そのまま一度、小さめにバウンドして後方へと吹き飛んでゆく。
「おっしゃっ、やったか!?」
早くもガッツポーズを取り、ニィッと歯茎を見せて笑ってみせるレナであるが…。
「伏せてろ、レナ先輩サンよっ!」
間髪入れずにロイが雷鳴のごとき鋭い声を残し、背中の竜翼を大きくバサリと羽ばたかせて、車両の後方へ――『十一時』を叩き飛ばした方向へと、一直線に飛翔する。
対して、吹き飛んだはずの『十一時』は、白い外套の下、背部に装備した4機の小型バーニア推進機関を稼働させ、空中の姿勢を立て直すと共に、ミサイルのような猛スピードで装甲車へと追いすがってくる。常人なら骨格が剥き出しになるほどの深手を負った両腕は、癌様獣特有の再生力で、すでに泡状の組織再生が始まっている。
(追いつかせねぇよっ、マント野郎ッ!)
ロイは右の拳を岩のように固め、もう一羽ばたきして加速を得ると、ブワッと円状に広がる衝撃波を残して一気に『十一時』の眼前へと接近する。
「うぉわっ! こっちのことも考えろよ、"暴走君"!」
眼下ではレナが、荒々しくはためく長髪を必死に押さえながら叫んでいるが、そんな事は一切お構いなし。
ロイは烈風のような加速度に拳撃を乗せて、『十一時』の顔面ど真ん中を目掛けて一撃を放つ。
一方、『十一時』は再生途中の両腕を上げてブロックするような素振りは全く見せない。甘んじてロイの一撃を受けるかと思いきや、飛翔物体が超小型のツバメの群のように急旋回しながら顔面手前に飛来。6つ1組の円陣が縦に3つ並ぶように配置する。
(何だ!?)
疑問符を浮かべるロイだが、解き放った暴力を今更引っ込めることは出来ない。強烈な竜拳は、飛翔物体が作り出した円柱の領域の内部を通過してゆく。
途中、飛翔物体の円陣の中央に、淡い電光色が灯る。すると、ロイの腕の表面にパリパリと皮膚が粟立つような感覚が生じる。
その感覚が生じたのと、ほぼ同時に…。突如、ロイの拳撃が急激に減速する。まるで、不可視の弾性ネットに捉えられてしまったかのような有様だ。
更に、飛翔物体の円陣の内部で、電光色が強まった。転瞬、ロイの右腕にグンッ! と強烈な押し戻す力が発生。――いや、押し戻すどころの話ではない。体表の竜鱗をバリバリと剥ぎ取り、筋組織をビキビキと分解させるような、砲撃のような剛力が加わったのだ。
轟ッ! まるでそれは、不可視の槍にでも強打されたかのような一撃。ロイは、右腕から剥離した竜鱗をパラパラとまき散らしながら、全身で吹き飛んでトンネルの天井に激突。そのまま横方向に回転しながら一度バウンドしたが…それ以上体勢を崩れることを、天井にグッサリと突き出した竜尾で食い止める。
(やってくれるじゃねーかっ!)
激突時に顔面を強打したらしい、派手な鮮血が滴る鼻孔と口の端を荒々しく拭う。そして素早く金色の瞳で敵の姿を探すと…背部のバーニア推進機関を巧みに扱い、装甲車の方へ急降下する『十一時』の姿を発見する。
「させるかっ!」
ロイは竜脚と竜尾を天井に叩きつけ、その反動を得て烈風となって飛び出す。彼を送り出した天井には、悲痛な亀裂のクレーターがクッキリと残っている。
「おああっ!」
わざと叫びを上げながら『十一時』へと急降下するのは、彼の注意をこちらに向けるためだ。その思惑にうまくハマってくれたのか、それともロイの脅威度を鑑みてのことか、『十一時』はすぐにロイの方へと向き直ると、完璧に再生を終えた右腕を向ける。すると右腕の表面が4カ所、カパッと展開すると、その内側からは1つずつ機銃が姿を現す。そして間髪入れずに、狙いを定めることもなく掃射を開始する。
(ンな程度ッ!)
ロイはギラリと牙を輝かせながら剣呑に嗤うと、羽ばたく竜翼と、竜鱗が健在な左腕で弾丸を弾き飛ばしながら、さらに接近する。
ロイの方はこの対処で実害を被りはしなかったが、別のところで脅威を叫ぶ怨嗟が上がる。装甲車の乗員たちだ。
「うおわっ! 跳弾来るッ! 来るッ!」
叫ぶ蘇芳の言う通り、ロイが弾き飛ばした弾丸を含め、トンネルの壁に激突した弾丸が跳ね返り、装甲車上へ飛び込んでゆくのだ。この跳弾のことを見越して、『十一時』は掃射を術式弾丸ではなく実弾で行っているようだ。
「うひぃっ! 今、足下掠った!
ちょっ、誰か、どーにかしてくれよぉっ! 星撒部、おまえ達の撒いた種だろぉっ!」
レナが自棄気味の涙声を上げた、その直後。危険な跳弾の音があちこちからすれど、装甲車上に一発も着弾しなくなる。
この歓迎すべき状況を実現したのは、蒼治だ。装甲車の上部に防御用方術陣を大きく展開して、弾丸を防いでいるのだ。
「流石は、蒼治先輩。地味なサポート作業は馴れていらっしゃる」
蒼治の足下でへたり込んでいた紫が、ニヤリと陰を帯びた笑みを浮かべて語る。彼女が立ち上がっていないのは、先に連続行使した回復魔術による疲労から立ち直っていないためだ。そのため、魔装の維持もできなくなったらしく、今は汚れた制服姿に戻っている。
「こんな時にも毒舌か、相川…。
僕も疲れてるんだから、もっと英気を養えるような言葉の一つもかけてくれよ…」
直せぬズレた眼鏡越しに苦笑を浮かべながら、ため息混じりに蒼治は呟くのだった。
一方、上空では『十一時』に再肉薄したロイが鉤爪の輝く竜脚で、疾風のような回し蹴り、そして踵落としを連続で放っていた。
この攻撃に『十一時』の外套には大きな切り傷を刻むことは出来たものの、彼自身はバーニア推進機関を細かく調整しながら、二撃ともに無駄のない動きで回避する。
回避しながら、『十一時』はロイの視界が及ばぬ自身の体の陰で、8つの飛翔物体を一列に並べていた。その列の手前数センチのところに淡い電光色が縦長に灯った頃、『十一時』は飛翔物体の列をグルリと回してロイの方へと向ける。
その道すがら――ザリザリザリッ! と険悪な擦過音が響き渡る。一列に並んだ飛翔物体の延長線上にあるトンネルの壁が、不可視の大剣で削られたように、痛々しい亀裂を作り出しているのだ。
――いや、"ように"ではない。『十一時』は飛翔物体の一列によって、正に不可視の大剣を作りだしのだ。そして、その刃を用いて下方から、装甲車を通過するルートを用いてロイの体を両断せんとしているのだ。
(ヤベェッ!)
ロイは胸中で毒づきながら、竜翼を力強く一羽ばたきさせると、自ら不可視の大剣の目の前へと飛び込んでゆく。
自分一人だけならば、不可視とは言え線状にしか攻撃できない『十一時』の斬撃を飛び回って回避することは出来る。だが、装甲車は狭いトンネルの中、回避行動が出来る範囲が極々限られている。今回の一撃を防ぎ切るのは、無理だ。蒼治の防御用方術陣を頼ることも難しい、彼は跳弾の処理で忙しいし、また疲労の色も濃い。無理に方術陣の数を増やせば質が急激に低下し、攻撃を防ぎ切れなくなる可能性が高い。
(それなら…オレが受け止めるしかねぇだろうがっ!)
ロイは装甲車の前に立ちはだかるようにして空中に停止すると、竜翼を体の前で合わせて閉じ、更に両腕両足を亀のように縮めて完全な防御態勢を取る。
転瞬…ガガギギギュィィンッ! 鱗、そして肉を激しく削り取る、悲痛な騒音がトンネル内に木霊する。
「ぐうぅっ!」
ギリギリと歯噛みしながら、翼を深く抉る不可視の一撃に耐える、ロイ。焼け付くような激痛に、咽喉の奥では手負いの獣の咆哮が嵐のように渦巻いている。
数瞬の後。不可視の大剣はロイの竜翼の防御域を通過。再び、ザリザリザリッ、とトンネルの壁を削り斬り始める。途中、トンネルの照明器具が斬撃に晒され、バキバキと痛々しい音を立てて破砕、発光を停止した。
一方、身を呈したロイの行動は、見事に功を奏した。彼の背後では、装甲車が健在で全速力驀進を続けている。
しかし、ロイの払った代償は大きい。重ねた竜翼は切断されるに及ばなかったものの、クレバスのごとく深々とした裂傷が一文字に走っている。はぎ取られた竜鱗の合間には、健康的なピンク色を呈した筋肉が露わになっていたが、それもすぐにドクリと吹き上がる鮮血に埋もれる。
だがロイは、悲惨な裂傷に心を折られたりしない。
「呀ァッ!」
激痛を振り切るようにして叫び、そして漆黒の竜翼を烈風と共に力強く展開する。鮮血がビシャビシャと雨粒のように吹き飛んだ。
(こンの野郎ッ! 今度は、こっちが…)
一転、攻勢に転じるべく、傷ついた翼を羽ばたかせるが――ロイの眼からは攻撃的な光が、途絶えてしまう。何故ならば、視界で敵の姿が捉えられないからだ。
(…!? まさか、後ろにッ!?)
竜翼による防御行動で視界が塞がった好きに、後方に回り込まれて装甲車への接近を許してしまったのか? 脳裏に過ぎる焦燥に誘われるまま、素早く首を後ろへと振り向けた――その時。
視界の端、下方から…突如現れた、『十一時』。彼は装甲車を狙うではなく、ロイを確実に仕留めるため、彼の死角からの襲撃に備えていたのだ。
(マズッ!)
ロイが再び振り向き直る間にも、『十一時』はロイの胴体真正面に肉薄。腹部に、6つの飛翔物体で構成した円陣をグイッと食い込ませるほどに接触させる。
パリパリッ、と皮膚を帯電物質で撫でられるようなむず痒い感覚が腹部に生じたのを認識した、その直後。
噸ッ! 腹部を貫く、強烈な一撃! 装甲車の装甲を穴だらけにした不可視の一撃が、ロイの腹部で炸裂したのだ。メキメキ、と筋組織が暴力的に後方へ引っ張られて盛大な内出血を起こし、内臓がもぎ取られるような勢いでブルリと揺さぶられる。
「ッゲハァッ!」
鋭利な牙が並ぶ口腔を大きく開き、バケツを逆さにしたような大量の吐血をブチ撒けながら、隕石のごとき勢いで吹き飛ぶ、ロイ。不可視の一撃を喰らった腹部は貫通寸前なほどにボッコリと陥没している。この陥没に引きずられるようにして宙を一直線に飛んだロイは、激しく回転する装甲車の後輪すぐ隣の路面に激突する。
「ちょっ、だから"暴走君"、こっち来ンなってッ!」
ロイの着地地点の直ぐ傍に居たレナが、ビクッと体を後退させながら喚く。
その一方で『十一時』は、8つの飛翔物体を一列に並べ、不可視の大剣を生成。ロイという楯を失った装甲車を狙い、今度は上方向からやや袈裟切りに斬撃を繰り出す。再び響くザリザリザリッ、というトンネル壁の擦過音が、痛々しく乗員の鼓膜を震わせる。
「チィッ!」
舌打ちしたのは、蒼治だ。跳弾の対処された彼は、ズレた眼鏡を直す間もなく『十一時』へ向き直り、双銃を素早く構えて速攻で連射する。『十一時』に回避行動を取らせて、斬撃の軌跡を乱す算段だ。
しかし、蒼治の策の通りに事は進まない。
『十一時』は身体の周囲に、不可視の大剣の形成に使用していない飛翔物体を6つ1組の円陣にして、数グループ展開。飛来する蒼治の術式弾丸を、円陣内部の雲状雷光に捕らえる。すると、弾丸は先のロイの拳撃同様、不可視の弾性ネットに捕らわれたように急減速した後、弾け飛ぶように進行方向を逆転。一路、蒼治に向かって飛翔する。
「なっ!?」
『十一時』の使用した防御の原理が解析できず、困惑する蒼治であったが、ともかく跳ね返って来る攻撃を防がねばならない。あわてて方術陣を展開し、術式弾丸を受け止める。と言っても、蒼治が本気で魔力を込めて形成した術式弾丸だ、着弾時の威力は凄まじく、方術陣越しの衝撃波が装甲車の車体を大きく揺るがすほどだ。
「バカヤロッ、状況を更に悪くしてどうするンだよっ!」
またもレナが喚く一方で、不可視の大剣は進路を微動だにせず、着実に装甲車を運転席から収納スペースにかけて斜め一直線に切断するコースで降りてくる。
(くそっ! 自業自得ながら、方術陣をあっちに回すだけの余裕がないっ!)
ザリザリザリッ、という耳障りな擦過音が近寄るのを耳に入れ、蒼治がギリリと奥歯を噛みしめる。だが、不可視の大剣が迫り来る様子にチラリとも視線を向けるほどの余裕もない。
そんな最中、『十一時』の所業に対抗すべく立ち上がったのは、ノーラだ。華麗な装飾が施された黄金の愛剣を定義変換によって変質、パネルがめくれるような変換過程を経て雷光色に輝くビームブレードを形成し、不可視の大剣の到着を待ち受けて身構える。
そんなノーラの姿を見た『十一時』の充血した左目が、ピクッ、と不愉快そうに蠢く。
どうやらノーラの行動の中に、彼が懸念を抱くような"何か"があったようだ。
その懸念に気を取られていた、ほんの一瞬の隙。そこを見逃さずに突いて来たのは…先刻、路面に吹き飛ばされたロイである。
「おああっ!」
激痛の悲鳴を上げる全身を絶叫でむち打ちながら、竜翼を全力で羽ばたかせ、『十一時』の背後下方に追いすがった彼は、『十一時』の無防備に垂れた双尾のうちの右側を掴む。
「…」
転瞬、『十一時』はノーラの行動にひるんだ充血の左眼を無表情に戻す。同時に、ロイが掴む尾の表面が瞬時に変質。鋭い円錐の棘が幾つも伸び、ロイの掌を串刺しにする。
「ぐうぅっ!」
掌から脳天へ突き抜ける激痛に苛まれつつも、ロイは決して『十一時』の尾を離さない。それどころか、腕の筋肉に鋼のような剛力を込めると、一気に『十一時』の身体を振り回し、路面へと叩きつけた。
噸ッ! 鈍い激突音と共に、路面に派手な陥没が生じる。ロイの腕を通して、『十一時』の骨格が確実にひしゃげた感触が伝わってくる。
『十一時』を叩きつけた反作用を利用して、ロイは竜翼を一羽ばたきさせて急上昇。五体を投じたまま体勢を崩した『十一時』に眼下に見下ろしながら、ヒュッと鋭く吸気。そして牙の林立する口腔を開いた時には、口の手前に六角形の方術陣が展開する。この中心へ向けて、ロイは呀ッ! と咆哮。方術陣を突き抜けた絶叫を伴う呼気は、細く、しかし威力を針の先端のように収束した強烈な熱線と化して、『十一時』の身体の中心へと吸い込まれてゆく。
普段のロイならば、もっと広範囲に広がる竜息吹を放っているところであるが、今回は勿論、装甲車のことを考慮して余分な衝撃が拡散しないよう、ただし敵には深手を与えるよう配慮してある。
体勢を充分立て直していない『十一時』であるが、五体が動かなくとも、彼には迅速且つ精密に動き回る体外器官たる飛翔物体がある。今回も飛翔物体は瞬時にロイの攻撃に対応し、『十一時』の手前に10個1組の大きな円陣を組む。ロイの熱線の竜息吹が到達する直前、円陣の中央には例のごとく電光色が灯った――転瞬、熱線は円陣より数十センチ奥へと進み、『十一時』の胸の一部を炭化させたものの…急激に運動を反転。一路、ロイを目掛けて跳ね返る。
(おいっ、竜息吹まで跳ね返しちまうのかよ、アレは!?
どういう原理してんだ!?)
ロイが頭上で疑問符を浮かべている間にも、跳ね返った竜息吹がロイの顔面目掛けて接近してくる。ロイは今一度、ヒュッと鋭く吸気すると、今度は絶叫と共に氷雪の奔流を発射。熱線との中和を狙う。
轟ッ! トンネル内部を激震させる激しい爆音、そしても立ちこめる濛々たる水蒸気。特にロイの目前の水蒸気は濃く、視界が殆ど利かない状態だ。
それでもロイは耳を澄まし、鼻をヒクつかせて、爆発の隙に体勢を立て直したと考えられる『十一時』の所在を探る。
と、その時。ロイの眼前の水蒸気がポフッと掻き乱れたと思うと、その向こう側から鍵爪のようにとがった指先を持つ、重金属製の五指が現れる。器官を変質させた、『十一時』の腕だ!
ガシッ! ロイが回避する間もなく、『十一時』の腕は彼の顔面を掴む。そのまま『十一時』は背部のバーニア推進機関を全開にして飛翔。ロイの顔面をトンネルの壁に思い切り叩きつける。
ゴギンッ! 頭蓋骨の上げる痛々しい悲鳴が、トンネル内に響きわたる。
『十一時』の暴虐は、ここで止まらない。ロイを壁に押しつけたまま『十一時』はバーニア推進機関を引き続き全開にして全身。ザリザリザリッ! とロイの顔面をトンネルの壁に引きずりながら、前を行く装甲車の方へと接近してゆく。
「マズいッ!」
車上の蒼治がロイを救出すべく、双銃を構えて『十一時』を狙う。だが…この時の蒼治は、どうしたことか、指や腕の筋肉がブルブルと震えて止まらない。謝ってロイを撃ってしまうことに対する不安による生理活動だと解釈することも出来るかもしれないが、蒼治自身は納得しない。なぜならば…。
(なんだ…!? いつの間にか、僕の指や腕が、冷たくなってる…!
これも、あの『十一時』とか云う癌様獣の能力なのか…!?)
そう考えている側から、蒼治の吐く息が…いや、彼だけではない、装甲車に搭乗している者達全員の息が白く染まり、後方へとたなびいてゆく。
しかしこの時、この冷気の異変に不自由を感じたのは蒼治ぐらいなもの。他の者達は皆、固唾を飲んでロイと『十一時』の戦いに集中するばかりであった。
さて、蒼治が狙いを定め倦ねているうちに、ロイを引きずった『十一時』はとうとう、装甲車の真横に到達する。
『十一時』はロイを掴む腕に剛力を込めると、ロイを壁から引き剥がし、装甲車の方へと放り投げようと試みる。
――が、その試みが実行されるより早く、引きずられたままのロイが動く。大鎌のように鉤爪がギラリと閃く脚を思い切り動かし、自らの顔面を掴み上げる『十一時』の腕へと叩き込む。
斬ッ! 大気ごと切り裂いたような激しい切断音と共に、『十一時』の腕がちょうど腕間接を境にして両断。派手に電解質の体液を振り撒きながら、力を失った右腕がポイッと宙を舞う。
自由を得たロイは、更なる加撃行動に出る。壁に対して逆立ちするような格好を取りつつ、残るもう一方の脚で『十一時』の腹部を強打。『十一時』は飛翔物体による防御をする間も取れずに直撃を食らい、腹部に痛々しい深々とした鉤爪の刺し痕を3つ得ながら、流星のごとき勢いで反対側の壁へと吹き飛んでゆく。
「ップハァッ!」
『十一時』を引き離したロイは、水を張った洗面器から顔を上げたように大きく呼吸すると、壁に接した両腕を弾くようにして跳び上がり、装甲車の人員収納スペースへと着地。大きく肩で息をしながら、『十一時』が吹き飛んだ方向へと吊り上げた視線を投じる。
「ちょっと、"暴走君"よぉっ! こっち来られると、『十一時』がこっちに向かって来ちゃうじゃんかぁっ!」
悲鳴のような非難の叫びを上げるレナに、ロイはニヤリと苦笑を浮かべて応じるが、一瞥をくれる余裕はなかった。何故ならば、吹き飛んだ『十一時』が砲弾のように激突地点から飛び上がると、背部バーニア推進機関を全開にして即座に装甲車に追いすがって来たからだ。彼の切断された右腕、および重傷を負った腹部は、早くも泡状の組織に覆われて再生を始めている。
(高速再生に、ワケ分かンねー見えない攻撃…! そして、竜息吹さえ跳ね返す防御力かよ…!
なんて面倒な野郎だッ!)
胸中で毒付きながらも、ロイの顔はギラリと輝くナイフのような笑みが浮かんでいる。
(だけど、面白ぇっ!
こっちを見下すばっかで油断しまくりの『士師』どもに比べりゃ、よっぽど面白ぇヤツだっ!)
惨い擦過傷でボロボロになり、染みのようにジワリと噴き出す鮮血を右腕で拭い取りながら、ロイは両脚と両翼に力を入れ、『十一時』の迎撃への爆炎のごとき意欲を見せる。
…しかし、ロイ個人は戦闘を楽しめるとは言え、装甲車の乗員のことを鑑みると、ロイの状況は笑みを浮かべられるような楽観的なものではない。むしろ、不可解な攻撃および防御に対する有効な対策を見いだせていない分、徒な試行錯誤に労力を費やしてしまう不利点の方が大きいと言える。
それでもロイは、星撒部の掲げるスローガンの通り、絶望に抱えることなく根拠のない希望の躍動と共に、装甲車を飛び出そうとした。
その時だ。素早く接近して来たノーラに、トン、と肩を叩かれたのは。
「なんだよっ、ノーラ!」
ロイは噛みつくような勢いで言葉を吐き出しながら、憤怒に燃える視線でノーラの方を振り向く。ノーラが、彼の行動を引き留めようとするかと考えたらしい。
しかし、ノーラの表情を、輝きに満ちた美しい碧眼の双眸を見たロイは、その表情から怒りの炎をただちに消した。
彼女の顔に浮かんでいたのは、気弱な心配の表情ではない。少し悪戯っぽい、強気に背中を押す笑み。
「ロイ君、耳を貸して!
あの癌様獣の打開策、教えてあげる…!」
そしてノーラは、ロイの耳元に桜色の唇を近づけ、柔らかな微風のような言葉を紡ぐ。
鼓膜にくすぐったい囁きを得たロイは、転瞬、雷光に打たれ、その力を得た魔神のごとく凄絶な嗤い浮かべた。
「なぁるほどなっ!
サンキューッ、ノーラ!
そんじゃ…ッ! これまで散々やられた分、お返しして来らぁっ!」
「うん…っ! ロイ君なら、絶対に負けないよ…!」
ノーラの言葉に背を押されたロイは、烈風と言うよりも漆黒の光のごとき猛スピードで、『十一時』へ真っ正面から接近する。
対する『十一時』は、急に活力に満ちたロイへ怪訝な表情を見せることもせず、冷淡な無表情を崩さない。そして、ロイごと装甲車を両断すべく、8つの飛翔物体を1列に並べた不可視の大剣を作り出し、天井から振り下ろす。
ザリザリザリッ、とコンクリートを無惨な削り断つ耳障りな凶音が間近に接近して来るにも関わらず、ロイは嗤いを崩さず、防御態勢も取らずに『十一時』に接近する。
――いや、それどころか、自ら不可視の大剣の方へと飛び込んで行くのだ。
と言っても、ロイは何も無防備に飛び込んで行くワケではない。ギリリと握り固めた竜拳を脇で引き絞っている。まるで、その拳で不可視の大剣を叩き折ろうとでも言うかのように。
一見して無謀に見えるロイの行動あが…それを目にした『十一時』は、充血した左眼の瞳孔をギュッと収縮させた。動揺、とまでは行かないかもしれないが、明らかにロイの行動を警戒している。
『十一時』の収縮した瞳孔が特に見つめているのは、ロイの握り締めた拳だ。その拳は、単に漆黒の竜鱗の鈍い輝きで彩られるだけではない。拳の周囲を電光色の歪な輪が幾重にも取り巻いている。
ザリザリザリッ、という凶音がロイの直ぐ耳元でざわめき始める。不可視の斬撃を受けたロイの真紅の髪がジジジッ、と焦げたような音を立て――いや、実際に焦げて煙を上げている――ハラハラとその破片が舞い始めた頃。
「ッラアァッ!」
咆哮と共に、電光色の輪をまとった竜拳を、不可視の大剣の領域へと疾風の速度で叩きつける。
転瞬、不可視の大剣に異変が起こる。バチバチバチッ、と盛大な静電気が爆ぜるような音と共に、ロイの拳の周りにチカチカとした火花が散る。すると、不可視の大剣の軌道が急激にへし曲がり、あらぬ方向へグニョリと反れたのだ。これではロイや装甲車を一直線に両断することは出来ない。
「よっしゃぁっ!」
自らの所業の成功に凄絶な歓喜の声を上げながら、ロイは拳を不可視の大剣の領域の中に潜り込ませたまま、『十一時』へと更に接近する。
「…ッ!」
『十一時』の冷淡な無表情に亀裂が入る。堅く結んでいた一文字の口の端を歪ませ、ギリリと噛みしめる牙を覗かせる。だが、激情に思考を支配されてはいない。素早く12個の飛翔物体を己の身体の前方に展開し、6つ一組の円陣を2つ縦列に並べて、ロイの拳をその内部に取り込もうとする。先刻やってみせたように、ロイの一撃を弾き飛ばすつもりだ。
(でもなぁ、その手品のタネは、もう…ッ!)
しかしロイは先刻の経験を気にせず、あろう事か自ら『十一時』の飛翔物体の二重の輪の中へと竜拳を突っ込む。
この時、『十一時』の顔が交戦後初めて、明確な驚愕と怨嗟の表情に歪む。
二重の輪の中をくぐったロイの拳は、バチバチバチッ! と酷い漏電の騒音を奏でながら、一気に『十一時』の胸元へと肉薄。その最中、一切の減速も運動の反転も見受けられない。
ビキッ! ビキッ! 砂礫が擦り潰れるような音を立てて、飛翔物体が1つ、2つと破裂してゆく。どうやらロイの拳撃が生み出す"何か"が、飛翔物体の内部機構の負荷限界を突破し、破壊を引き起こしているのだ。
そして遂に、ロイの拳は『十一時』の不可視の楯を突き抜け、胸板を捉えた――!
ゴキゴキッ! 硬度のある金属が軋む悲鳴は、『十一時』のチタン合金の脊椎が竜拳の剛力でへし曲がる音だ。そして『十一時』の身体は、"く"の字より更に深く…茹で上がったエビのごとく大きくグルリと身体を丸めると、彼自身の身体が砲弾にでもなったように吹っ飛ぶ。
「ッカハァッ!」
呼吸器か、はたまた消化器か、そのいずれの器官から逆流した呼気を口腔から思い切り吐き出しつつ、逆流してきた内容物をぶちまけながら、『十一時』はトンネルの壁へと強かに叩きつけられる。その衝撃たるや、壁に大きなクレーター状の凹みが形成されるほどだ。
そこまでやっておいても、ロイは決して攻撃の手を休めない。ヒュウゥッ、と深く、じっくりと大気を肺一杯に吸い込むと――牙のぎらつく口腔の手前に六角形の方術陣を展開。呀ッ! と息吹を吐き出せば、方術陣を突き抜けた息吹は電光色の輪を幾重にも纏った、真夏の太陽のごとくギラつく輝線の奔流となって、トンネルの壁に沈む『十一時』へと驀進する。
「…ッ!」
『十一時』は噛み殺した叫びを上げつつ、迫り来る輝線の奔流を受け止めようとするかのように右腕を伸ばす。すると、伸ばした右腕の先に、飛翔物体の円陣が3つ縦列で展開。ロイの竜息吹を阻み、押し返そうとする…が。
バチンッ! バチンッ! バチンッ! 一気に3連続で発生する、風船が割れるような悲痛な音。その音が響くと共に、円陣の中心をロイの放った輝線がちっとも減速せずに堂々と通過。同時に、飛翔物体がまたもや何らかの外力を受けて負荷限界を超過してしまい、ボンッ! ボンッ! ボンッ! と小爆発を起こして破砕する。
今や『十一時』の不可視の楯は、ロイを困惑させることも、手こずらせることも出来ない。塗れた和紙のごとく脆弱な敷居となってしまった。
その現実を前に、『十一時』が憎らしげに充血した左眼を歪ませた、その直後。ロイの竜息吹が彼の真っ正面に直撃する。
轟ッ! 抉れたトンネルの壁が更に沈み込み、破砕を拡大させる中、網膜を灼くほどの眩い光の爆発が発生。トンネルに激震が爆走し、盛大な亀裂が走ると共にパラパラとコンクリート片を霰のように降らす。
その盛大な光景を眼にしていた装甲車上の乗員たちは、唖然とするよりも畏怖を交えた驚愕に苦笑いを浮かべてしまう。
「…うっわ、すっげぇ…」
蘇芳がただ1人、シンプルな感想を咽喉から絞り出す。
そのすぐ隣では、ロイに助言していたノーラが、"してやったり"と物語る得意げな表情を薄く浮かべて、笑んでいる。
先刻――。
ノーラがロイに耳打ちした、『十一時』攻略の足がかり。その内容は、次の通りである。
「あの癌様獣の技…あれは、魔化された電磁場だよ…!」
解析を得意とするノーラは、ロイの交戦中、『十一時』の性質および行動を形而上相からしっかりと、そして、緻密に情報を収集していた。その成果の一つが、『十一時』の扱う不可視の攻撃および防御の正体の判明である。
『十一時』の尾部から射出される飛翔物体は、編隊を組むことで魔化された電磁場を生成する。編隊を組んだ飛翔物体の近傍に発生する電光色は、電磁場の作用によって電離した大気が呈する発色である。
不可視の槍および楯は、電磁場が発するローレンツ力による加撃および物体の押し戻し。不可視の大剣は、電磁場を魔化された照射した地点の物体を異常荷電させて内部で強大な電流を引き起こし、その熱や運動エネルギーを用いた自壊の誘発である。
これに対抗する方法は、至って単純だ。『十一時』の発する電磁場を減衰させる電磁場を、こちらも生成すればよい。
ロイの拳や竜息吹がまとった電光色の輪は、彼が急拵えした電磁場生成の魔化である。
そしてノーラの導き出した打開策は、見事に功を奏した。ロイの電磁場を纏った攻撃は、『十一時』の電磁場の楯を無効化し、強烈な直撃を与えたのである。
凄絶に陥没した壁の中に埋もれた『十一時』は、重篤なダメージを受けていた。彼の腹部から下は、ロイの竜息吹によってゴッソリと欠損し、焦げた金属筋繊維が痛々しく剥き出しになった断面からは、大量の電解質体液がダバダバと流れ出ている。
癌様獣がいかに強力な再生能力を持っていようと、これほどの大きな身体欠損を短時間に復旧することはできない。
これが常人ならば、行動不能どころか、間違いなく再起不能であろう。
しかし、『十一時』の眼光からは、戦意が全く失われていない。
それどころか、充血した左眼が更に赤みを増して腫れ上がり、憎悪の業炎を灯す。
泡状に再生を始めた半身をそのままに、『十一時』は盛大にひび割れたトンネルの壁にガリリッと指を突き立て、身を起こす。そして背部に内蔵されたバーニア推進機関を解放し、稼働具合を試すようにバフッ、バフッと短い噴射を繰り返す。
『十一時』は、戦意を失っていない。
確かに、彼の魔化電磁場を用いた攻撃および防御の絡繰りは露呈してしまった。しかし、それらの攻撃が完全に機能しなくなったワケではない。
それに、『十一時』の武器は魔化電磁場だけではない。体内に内蔵された重火器をはじめとする数々の武装がある。そして、状況に応じて変質させることが出来る体組織がある。
これだけの武器があれば、戦うには充分だ。
ゴオォッ! 『十一時』がついに、背部バーニア推進機関を全開にして噴射。高速飛翔を開始する。凶をもたらす彗星のごとき勢いで一路目指すは、憎き仇敵たるロイだ。
もはや、装甲車は二の次だ。まずは、脅威度の高い賢竜を打ち斃す!
殺意を剥き出しにした『十一時』の顔は、凶獣のごとく凄絶に歪む。大きく開いた口腔の内側では、血肉に飢え、唾液が貪欲に糸引く牙がギラギラと輝いている。
この凶悪な出で立ちを目にしたロイは、臆するどころか、顔に張り付けた嗤いをますます大きくする。
(まだまだ、やる気満々ってか!
そういう形振り構わねぇ姿勢、嫌いじゃないぜっ!)
ロイは漆黒の竜翼をバサリッ、と力強く羽ばたくと、殺意の彗星と化した『十一時』へと一直線に接近する。
一瞬の後、両者は再び中空で、激突する。
轟ッ! 激突と同時に発生した轟音は、ロイの魔化された竜拳と、『十一時』の衝撃砲を搭載した拳とが打ち合った音だ。同時に、両者を中心にして球状に伝播した衝撃波がトンネルを大きく震わせ、壁や天井に細かなクラックを幾筋も走らせる。
「のぉわっ!」
衝撃波に晒され、大きく震えた装甲車の上では、誰ともなしに驚愕の叫びが上がる。
そんな彼らの叫びなど、両者の爆発のごとき打撃の連続の前には、強風の前に一瞬にして吹き消された蝋燭の灯火も同然だ。ロイは仲間が翻弄され、狼狽する姿を眼中に入れず、純粋とも言える殺意の塊と化した『十一時』の嵐のような攻撃への応戦にのみ集中する。
ある時は中空で、ある時は壁や天井に激突しながら…繰り返される打撃、銃撃、竜息吹の応酬。装甲車の後ろの様相は正に、暴発する積乱雲だ。
「…"暴走君"じゃなくて、"爆発君"に改名するべきじゃないのか…」
レナが頬をヒクつかせながら、苦々しく呟いていたが、その言葉はすぐに剛拳の激突音に掻き消された。
ロイと『十一時』の戦闘は激化の一途を辿るものの、一時的にでも『十一時』の標的から解放された装甲車には、奇妙な平穏の時間が訪れていた。
そして、この瞬間に至って初めて、乗員たちは気づいた。自分たちの吐く息が、真冬の深夜のごとく真っ白く染まっていることを。
この場所がユーテリアならば、この状況に対して疑問が沸くことはなかっただろう。現在は2月、ユーテリアが位置する北半球では真冬なのだから。
しかし、南半球に位置する在る下院テールでは、この時期は真夏である。魔法的な異常気象でも起こらない限り、大寒波が到来することなどあり得ない。そして今日この日の天気は、異常気象どころか、蒼天が遠く広がる穏やかな快晴だ。
地下に潜ったことで気温が下がっている、という理由も考えられなくはない。しかし、この都市国家を知り尽くしている蘇芳やレッゾも、この光景には眉間に深い皺を刻んでいる。
何か、異様な事態が起こっている。
そんな最中、紫が我が身をギュッと抱きしめると、ブルブルと震えながら疑問を口にする。
「ねぇ…さっきから、すごく寒いよね…? 軍警察の2人の様子からすると、このトンネルの仕様ってことは、なさそうなんだけど…」
すると蘇芳が、ゴツい両手をすり合わせつつ、ハァーと息をかけながら言葉を出す。
「この都市国家がこんなに寒くなるなんてこと…少なくともオレが生まれてから今までは、無かったぞ…。
それに、トンネル内は温度を一定に保つように調整されてるから、寒くなるなんてあり得ねぇ…。
一体、何が起こって…」
蘇芳が言葉の続きを言い掛けた、その瞬間。急激な変化が、装甲車に発生する。
◆ ◆ ◆
その時、装甲車は丁度、Y字路に差し掛かっていた。
とは言え、進行方向が分岐しているワケではない。地上からの道が1つの下り坂に合流しているのである。今、一同は地下の居住区を目指しているのだから、進むべき道は進行方向の下り坂一択である…はずだった。
しかし、運転手のレッゾはブレーキングもそこそこに、急激にハンドルを切って急転回すると、地上へ続く上り坂の方へ向かったのだ。
ギュギュギュギュッ! とタイヤが激しく磨耗する音が響き、装甲車は暴力的な慣性に曝されて、乗員たちは危うく車内から放り出されそうになる。いや実際、立ったままロイ達の交戦を見守っていたノーラは身体が浮いてしまい、そのままトンネルの壁へと吹き飛ぶところであった。それを止めてくれたのが、蘇芳と蒼治の男二人掛かりである。
「ありがとうございます、蘇芳さん、蒼治先輩…」
なんとか人員収納スペースに踏み留まったノーラが、ペコリと頭を下げて感謝の意を告げる。対して蒼治が"気にするな"と言わんばかりに両手をヒラヒラさせる一方で、蘇芳はノーラの様子の確認もそこそこに、ヒビ割れた巌のような激怒の表情を浮かべながら、レッゾに振り向いて怒鳴りつける。
「何やってンだよ、ポンコツ運転手ッ!
道が違うだろ! 下だよっ、オレ達が向かってンのは、下ッ!」
人差し指で下方向を差しながら叫ぶ、蘇芳。それを黙って聞いていたルッゾは、焦燥の冷や汗をビッシリと額に浮かべながら、唾棄するように返事する。
「ああっ、分かってるっ! やってる"つもり"なんだよっ!
つもりなんだが…くそっ! 身体が、言う事を聞かねぇっ! "取り憑かれ"ちまったっ!」
"取り憑かれた"――その言葉を耳にした途端、蘇芳の表情から激怒の炎が一瞬にして消えた。そして、入れ替わるようにして現れた次なる表情は――燃え盛る激怒とは真逆の、凍り付くような怯懦。
「おい…取り憑かれたって、まさか…っ!」
蘇芳は素早く運転席に身を乗り出し、アクセルを目一杯踏んで加速し続けるルッゾの身体へと視線を見やると…その表情が、更に青味を帯びる。
冷や汗をブッ垂らしながら、ギリギリと歯を食いしばり、両腕に血管が浮き上がるほど力入れている、ルッゾ。彼の努力とは裏腹に、岩石のごとく微動だにせず、ハンドルを真っ直ぐに保ち続ける両腕のうちの、左側…そこに、生理的な恐怖を喚起する不気味な存在が浮かび上がっている。ゴツゴツとして黒々としているルッゾの無骨な左の上に、まるで恋人に寄り添うかのように重なる、真っ白い左手が見える。その白さは、ホルマリン溶液に浸かってふやけた生物模型のような、全く生気を感じない気味の悪い白さだ。その中で唯一、彩りを添えているのは五指の先端、爪である。それは一つ残らず、覚めるような青一色で塗りつぶされている。
白い手は、手首から先が靄のように霞み、宙に消えている。非常に曖昧な消滅境界をよくよく見やると、ヌラリとしたビニール質の光沢を持つ黒い衣装の袖がチラリと見える。手の主はそれなりに派手なファッションを身に纏っていることが想像されるが、肝心の本体は蘇芳の視界には全く映らない。
しかし、蘇芳の脳裏には、この手の主の姿がまざまざと浮かび上がっていた。と言うのは…彼は、この手の主のことを、よく知っているからだ。
「おいっ、レナ! いや、他の学生さん達でも良いっ!」
蘇芳は疾風のように身体をひねって振り向くと、その烈しい勢いのまま言葉を飛ばす。
「誰か、呪詛に詳しい奴、いないかっ! すぐに、レッゾの奴を浄化してやってくれっ!
このままじゃ…」
言い掛けた、その瞬間。装甲車を全体を包む、ゾワリと皮膚を粟立てる悪寒。同時に、蘇芳は――いや、彼だけでなく、装甲車上に居るほぼ全ての乗員が、頭蓋内で脳を激しく揺さぶられたような強烈な目眩と嘔吐感に駆られる。
「ぐっ…な、なんだ…これは…っ」
蒼治はこみ上げる胃の内容物を押し留めようと口元に手を置きながら、口の中に広がる苦く酸っぱい味と共に苦しげに声を上げ、膝を付く。
「ちょっ…疲れ切った身に、これ…キツすぎ…おぇっ…」
紫は顔を真っ青にして俯くと、己を鼓舞しようと精一杯揶揄を込めた呟きの語尾でついに耐えきれなくなり、少量ながら胃の内容物を吐き戻してしまった。
「ゲホゲホッ…やっべぇ…まさか、この強烈な神経介入は…っ!」
レナが吐き戻しそうな咳を繰り返しながら、何かに思い当たったらしく声をあげようとしたが、「うぉえっ!」と酷い咳を上げながら、素早く口元に手のひらを当てる。男勝りなほどに気丈だった彼女の顔は今や、弱り果てた病人のような苦渋の表情をしている。
この散々たる状況の中、たった1人だけ、比較的平然と立ち尽くしている者がいる。ノーラである。しかし彼女も、何もせずに平静を保っているワケではない。彼女の身体の輪郭には、淡い蛍光色を呈した魔術励起光が灯っている。彼女は素早い身体魔化によって、三半規管を中心とした神経系統の外的介入を阻止したのだ。
(これって…強力な、"怨場"だ…!)
ノーラは装甲車が悪寒に包まれた直後、自分たちを襲った事象の正体を瞬時に理解していた。彼らは、言わば、"呪われた"のである。
今、装甲車を包む悪寒を作り出しているのは、"怨場"と呼ばれる魔法科学的ゲージ場の一種である。電磁場と非常によく似た性質を持つ力場であり、実際に電流や磁束を発生させる性質も持つが、電磁場との明確な相違点は魂魄との相互作用を持つ点にある。すなわち、非生命物質よりも生命体に対してより強力に作用し、形而下においては生体電磁場に対して『狂化』と呼ばれる異常を引き起こす。その結果、生物は体温の低下や激しい嘔吐感といった不快な現象に曝されることとなる。
この怨場を発生源として有名なもの。それは、存在定義の大半を形而上相に依存し、魂魄に対して容易にアクセスできる存在――すなわち、死後生命達である。
そして、ルッゾの左腕に重なる、真っ白い手。それは明らかに、手の主が幽霊の類の種族であることを示している。
更に言えば、このアルカインテールで、軍警察であるルッゾ達に危害を加えてくる死後生命となれば、思い当たるのは1つしかない。先刻、蘇芳が言及していた戦争荷担勢力の一派である、『冥骸』だ。
(この車の近くに、『冥骸』の一員がいる…! それも、怨場の強度から見て、相当の実力者…!)
ノーラは脳裏でそう分析はするものの、直ちに怨場の発生主を探すような真似はしない。確かに、発生主を撃破すれば怨場の発生は停止するだろうが、撃破までにどれほどの時間を費やすことになるか、見当が付かない。…それほどに、敵は厄介な相手だ。
そこでノーラはひとまず、怨場の影響を緩和すべく、装甲車に中心とした浄化方術陣の展開を試みようと、意識を集中し始めたのだが…。
ノーラの行動開始とほぼ同時に、装甲車上に漆黒の煙が幾つも出現する。気配を伴うそれらは、トンネルの天井まで達することなくモコモコと幾つかの塊にまとまると…人型の形状を取った。のっぺりとした漆黒一色で塗りつぶされた、軍服を着込んだらしき10余りの存在の正体は…影様霊だ! その手には、銃剣を差した単発式の長銃を携えている。
「嘘…! なんで、こんなとこに影様霊がでるワケ…!?
こんなに、明るい所なのに…!?」
相変わらず口元に手を当てながら、えずくようにして紫が驚きの声を上げる。
彼女が驚くのも無理はない。影様霊は通常、影に依存して生活する存在である。しかし、このトンネル内は照明が多く、影は正午の時間帯の外界ほどの小さく、延びるほどの大きさもない。しかし、装甲車上に現れた影様霊どもは、光溢れる床にしっかりと両足をつけて、堂々たる臨戦態勢を整えている!
この異様な状況が成立するということは、この場に影と同様の定義が形而上相上に存在することを意味する。それを可能にするものの一つが、正に怨場なのであるが、10を越える数の影様霊を固着させるほどの強さとなると、電磁場で例えるならば大気分子を電離させるほどの強度に等しい。
ルッゾの手を掴み、彼の生体電流を支配して身体を操作する『冥骸』の戦闘員の実力たるや、正に恐るべし、だ!
装甲車上には、更にもう1つ、人型の存在が床下からズズゥ…と粘りけの強いマグマのようにせり上がってくる。初めこそ、影様霊と同様に漆黒一色を呈する不定形であったそれは、やがて人型の形を取ると共に、色彩を纏って具現化する。
こうして現れた、新たなる『冥骸』の戦士とは…くすんだ赤い色に染まった、所々に破損が目立つ武士の鎧兜を着込んだ、背丈の高い男…のようだ。
"ようだ"と表現したのは、この戦士の顔や体格から性別が判断できないからだ。何故ならば、鎧兜の合間から垣間見えるこいつの身体は、皮膚も筋肉も内臓も全く纏わぬ、風化してやや褐色掛かった色合いを見せる骸骨であったからだ。単なる屍と異なるのは、眼窩の奥にゆらめく青白い光が瞳孔のように存在することと、骨と骨の合間には椎間板や筋といった緩衝組織の代わりに、眼窩の輝きと同じ色の炎が詰まっていることだ。
「ハァイヤァッ!」
骸骨武士は舌も頬もない口を開き、野太い中年男性的な声を上げると、両手に掴んだ長槍をグルリと振りかざし、手近にいた蒼治へ突き刺す。
「なっ…このっ!」
未だ嘔吐感に苛まれ続けている蒼治は、手にした双銃を胸元で交差させ、突き出された槍先を受け止める。ガキィンッ! と堅く力強い衝突音が響いた直後、体調不良の蒼治の腕は槍の一撃によって跳ね上げられてしまい、且つ、全身を巡る痺れのような衝撃に体勢が崩れる。骸骨武士は一切の筋肉を持たぬというのに、凄まじい剛力の持ち主のようだ。
「エイッ!」
骸骨武士が、流れるように動く。疾風の勢いで槍を引き戻しつつ、防御が崩れた蒼治の方向へ、ダンッ! と云う激しい音を立てながら踏み込む。そして、がら空きの胸にもう一度、槍先を繰り出す。
この有様を見送っていたレナや紫が、一瞬後に訪れるであろう惨劇を予測して、ゾワリと皮膚を粟立てる。
しかし、彼女らの悪夢は、現実のものとはならなかった。
ガギィンッ! 激しく金属が打ち合う音が響き、骸骨武者の槍がビリビリと打ち震えながら停止する。この防御を見事成し遂げたのは、蒼治の前に素早く立ち塞がった、ノーラだ。愛用の黄金の大剣の腹で、槍先をしっかりと受け止めている。
大丈夫ですか? とノーラが背後の蒼治に気遣いの言葉をかけようと口を開きかけた、その時。
「小癪なッ! 者共、やれぃっ!」
骸骨武士が稲妻のごとく声を上げる。転瞬、装甲車上の全ての影様霊たちが一斉にガサガサと動き始める。銃剣を振り回し、弱った蒼治に、紫に、レナに、蘇芳に、襲いかかり出したのだ。
「ンもうッ! こっちが弱ってるからって、いい気になってぇっ!」
燃え盛らんばかりの怒気をはらんで叫んだのは、疲労と嘔吐感の二重災厄に苛まれている紫だ。彼女は素早く右腕だけに魔装を発現させると、籠手状の装甲に内蔵された電極を解放。バチバチと青白い電光を放つそれを、握り締めた拳と共に思い切り装甲車の床に叩きつける。
「ヘナチョコ影ども、さっさと失せろぉっ!」
叫びと共に、電極から眩い青白色の輝きの爆発が発生する。先刻、ビル内部で影様霊どもに襲われた際に用いた、電磁場による攻撃だ。
「ヌゥッ!」
骸骨武士が眩しげに両の眼窩を籠手で覆われた腕を覆う。その一方で、輝きに曝された影様霊どもも仰け反ったり自らの身体を掻き抱いたりと、激しい反応を見せる。
紫の攻撃は、確かに、一定の成果を上げた。影様霊どもは先刻と同様、体表に水脹れのような腫れを幾つも得ると、痛々しくもがいて苦しんだ。その有様に、紫は痛快そうにニヤリとほくそ笑んだのだが…。
直後、彼女の笑みが凍り付く。
ゾワッ…! 装甲車を包み込む、さざ波のような不快感の衝撃。それは、強烈な怨場による波動が走り抜けたことによる知覚現象である。
「うぐぅっ!」
紫は、天地が逆さにグルリと回転したかのような酷い目眩と共に、食道の入り口まで一気にこみ上げてきた吐瀉物に苛まれ、口元をしっかりと押さえてうずくまる。
苦悶を得たのは、紫だけではない。影様霊達に睨みをきかせていた蒼治とレナも、顔を真っ青にして思わずその場に膝を吐く。彼らの口の中にも、苦くて酸っぱい不快な味が一杯に広がっている。
運転席のレッゾに至っては、不快感に耐えきれず、ハンドルへと盛大に吐瀉物を吐き戻してしまったくらいだ。しかし、不気味な白い左手に身体を操作されている彼は、不快感で意識が混濁しかけようとも、脚はしっかりとアクセルを踏み続け、キビキビとハンドルを切っている。
怨場の波動の影響を比較的逃れたのは、予め身体魔化で防御を整えたいたノーラと、そして意外なことに蘇芳である。蘇芳は身体魔化こそ使用してはいないものの、怨場による波動で自立神経が狂化した瞬間に、上着の胸ポケットに忍ばせていた錠剤を口に含み、噛み砕いたのだ。この錠剤は神経電流を正常にする霊薬である。それでも怨場の影響を完全に免れることはできず、軽い船酔いのような感覚に襲われている。
さて、この怨場の波動が駆け抜けた直後、紫が得た驚愕は己の身体の異変に関するものだけではない。影様霊達の身体に起こった変化もまた、彼女の目を丸く見開かせた。何せ、相反する電磁場によって重度の火傷にも似た症状を受けた影様霊達の身体が、高速で逆再生するかのようにあっと言う間に快癒してしまったのだから。
影様霊達は何事も無かったように即座に体勢を立て直すと、銃剣を鋭く振りかざして紫に、蒼治に、レナに、容赦なく襲いかかる。
「く…そぉ…っ!」
症状が一番重篤な紫は、相変わらず口元を押さえながら、倒れ込むようにしてグルリと身体を回転させ、3人の影様霊の斬撃からなんとか逃れる。しかし、目眩のような不快感を得た最中に回転運動をしたものだから、彼女はますます強烈な嘔吐感に苛まれてしまう。腿をペタンと床に着けたまま、ガックリとうなだれたまま、動けなくなってしまった。
この致命的な隙を影様霊達は見逃さない。空振った銃剣を巧みに翻すと、素早く踏み込みながら紫の身体へと突き立てに向かう。3つの漆黒の凶刃が、ヒュッと禍々しい風切り音を立てて、紫の柔らかな肉へと接近する。
ノロノロとした動かした視線で、凶刃を見送ることしか出来ない紫が、非業の最期を終えるかと思われた、その瞬間。
ガガガガッ! 鼓膜をつんざく連続射撃音が響いたかと思うと、カキュン! カキュン! カキュン! と鋼の悲鳴が上がり、影様霊の銃剣があらぬ方向へと大きく逸れる。
何事かと慌てた影様霊が、掃射音の発生源へと無貌の視線を向けると。そこには、顔面を蒼白にしながらも気丈に双銃を構える、蒼治の姿がある。
加えて、彼のすぐ隣では…。
「とぉりゃっ! うざってーンだよ、この影野郎どもっ!」
同じ顔面を蒼白に染めながらも、何処から取り出したのか丈の長い刀を振り回して闘犬のように威嚇する、レナの姿がある。
「相川っ! こっちに来れるかっ!? 僕がサポートするから、ゆっくりで良い、こっちに来いっ!」
蒼治はそう叫ぶが早いか、早くも紫および蒼治に向かって銃剣を構えた影様霊に銃弾を浴びせ、牽制する。彼の術式銃弾は、対霊体用にカスタマイズしたものらしく、銃剣のみならず影のような身体に着弾しても、彼らの身体に大きな衝撃を与えて体勢を崩させている。しかし残念ながら、霊体の定義構造そのものを撃破するには至らない。
とは言え、完全な撃破に至らなかろうが、紫にとっての貴重な逃走の機会が生まれたことは事実だ。四つん這いになってノロノロ、ズルズルと這いずって、蒼治やレナが居る方へと確実に逃れてゆくのであった。
一方、ノーラは骸骨武士との交戦を続けていた。
「エイヤァッ!」
稲妻のごとき激しいかけ声と共に、強大な槍を渦潮のようにグルグルと操りながら、流れるような動作で薙ぎ払い、突き、そして叩きつけてくる。
対するノーラは、フゥッ、と小さく呼吸する音を立てる以外は、至って無言で対応している。愛剣には特に定義変換を作用させず、デフォルト状態とも言える美麗な装飾のついた金色の投身を華麗に振り回し、重く鋭い槍の一撃一撃を受け止めてはいなす。
ノーラは骸骨武士とは異なり、殆ど攻撃に転じることをせず、もっぱら防戦一方である。それは骸骨武士の攻めが反撃の隙を与えぬほどに激しいから、と言うワケではない。ノーラのお家芸とも言える、戦闘を通じた敵の性質分析に集中しているためだ。
(この場を支配してる怨場の発生源は…どうやら、この死後生命じゃないみたい…。
怨場の発生源を叩きたいところだけど…このこの死後生命を放っておくと、蒼治先輩たちの状況が苦しくなる…!)
この骸骨武士は、影様霊に比べて格段の実力を有している。それは、ノーラが形而上相を通して認識した骸骨武士の魔力の大きさや、長槍を軽々と振り回す体裁きからも容易に知れる。体調不良な蒼治達が相手をするには、かなり厳しいだろうと、ノーラは判断していた。
「防いでばかりかっ、女子!」
ノーラの防戦の意図を介さぬ骸骨武士は、舌があれば大きな舌打ちでもするような苛立った声を上げる。
「やはり女子は女子じゃなっ! いくら時代が移ろおうとも、力無き事は変わらぬなっ!
つまらぬ相手じゃっ、速やかに葬り去るべしっ!」
長槍をグルングルンと身の回りで振り回しながら、饒舌に豪語する骸骨武士。その間接をつなぐ青い炎がゴォッと音を立てて大きく燃え上がると、骸骨武士の鎧兜は溶け込むように炎と同化する。今、骸骨武士は血肉の代わりに炎を全身に纏った姿へ成り果てる。炎は長槍にも伝わり、ビンと直立していた柄がクニャリと湾曲すると、先端の槍先を残した炎の鞭と化す。
「ハァイヤァァァッ!」
骸骨武士は歯が剥き出しの口を大きく開いて叫びながら、炎の鞭をビュンビュンと大きく振るう。その勢いで発生した烈風もまた、青い炎をまとって周囲に焦熱をばらまく。誘発する炎も交えた炎の鞭は今や、線ではなく歪な球状の面となる。
炎の輝きが華やかなほどに派手な攻撃の演出であるが、ノーラは目を白黒させることもなく、落ち着いて愛剣を構えたまま、骸骨武士と対峙する。そして、彼の一挙一動を形而上相から分析し、着実に彼の性質を脳裏で暴き出してゆく。
(この死後生命…骨霊かと思ったけど、違う…。骨格部分は確かに物質だけど、あれを叩き折っても、この死後生命のダメージにはならない…。
そうか…この死後生命、自我が芽生えるほどの強力な残留思念を持った、地縛霊だ…! 多分、大昔に城攻めにあって、炎に撒かれて命を落としてる…)
そこまで分析してから、ノーラは少し小首を傾げる。相手が"地縛霊"であるという事実に、違和感を感じたからだ。
"地縛霊"は霊体生命の中でも、自我を持ちやすい種族であるが、存在定義を特定の土地や物体に強力に依存するという弱点的性質も持ち合わせている。彼らは依存土地・物体から遠く離れて活動できない、というのは通説であるのだが…。この骸骨武士に関して言えば、一見して、彼の存在依存対象である土地および物体が見当たらない。
(怨場を発生させている"誰か"が、この死後生命の存在定義の確立に助力しているんだろうけど…。
そんな事が出来る死後生命なんて…どれだけの魔力を有してるって言うの…!?)
目の前の骸骨武士よりも、目に見えぬ怨場の発生主への危機感を強める、ノーラ。
その移り気を覚ったようだ、骸骨武士はこめかみの骨に青筋を立てんばかりの怒声を上げる。
「わしを目の前にして興を殺ぐとはっ! このわしを愚弄するか、小娘がっ!」
怒り心頭になった骸骨武士の眼窩がギュッと険悪につり上がり、額には小指ほどの長さの角が1対、ニュウッと飛び出す。表情筋は無くとも、頭蓋骨を形成している霊体を巧みに操作することで、ある程度の表情を形作れるようだ。
激しい表情と連動して、鞭と化した長槍を振るう腕の動きもまた、一段と激しくなる。正に竜巻を連想させる動きを見せたかと思えば、バシンッ! と装甲車の床を鞭身で強かに打つ。転瞬、骸骨武士の周囲を囲っていた半球状の炎流が解け、コウモリの群のように四方八方へとザワザワと飛び散る。こうして大気を炙って風景に歪みを生じさせる焦熱を振り撒く一方で、床に叩きつけた鞭身を激しくも器用に操り、獲物へ迅速に襲いかかる大蛇の動きでノーラの下半身を狙う。
骸骨武士のこの攻撃を目の前にして、ノーラは回避に転じるどころか果敢に前進しつつ、愛剣に対してようやく定義変換を発動させる。パネルがめくれあがるような動きで刀身の所々が回転しながら、体積と形状を急変させた挙げ句に、愛剣が成した新たな姿とは…カタツムリの群が密集したかのような曲がりくねったパイプが集まった、奇妙な大剣である。パイプの先端からゴウゴウと音を立てて勢い良く噴き出しているのは…水、ではなく、なんと真紅に輝く炎である。
ノーラはこの奇妙な大剣を無駄のない洗練された動きで振るい、迫り来るコウモリの如き炎波を斬り払った後に、装甲車の床へ刺突。鎌首をもたげるようにして槍先を上げ、ノーラの腹部へと迫っていた炎の鞭を叩き払う。
「むぅっ!」
骸骨武士が、感心と焦燥を交えた声を上げる。ノーラが叩き払った鞭は、見た目以上に大きな衝撃を受けて派手に吹き飛びながら、纏っていた炎の大半を消火されてしまう。
骸骨武士は、まさか自らの炎が別の炎によって打ち消されるとは、夢にも思っていなかったらしい。
この好機を見逃さず、ノーラは素早く床から剣先を引き抜くと、クルリと転身しながら骸骨武士へと肉薄。大きな横振りの斬撃を放ち、骸骨武士の胸部を狙う。
「なんのぉっ!」
骸骨武士は鋭い息吹と共に声を上げながら、あらぬ方向へ逸れた鞭を引き戻しつつ、素早く後退する。しかし、ノーラの剣は刀身のパイプから一斉に大きな火柱を噴射。ギラつく真紅は、青い炎に包まれた肋骨を炙る。
その直後…。
「んぐあぁっ!」
骸骨武士が、顎間接が外れるほどに大口を上げて絶叫した。ノーラの愛剣から噴射された炎に炙られた肋骨が、ビキビキと細かくひび割れたかと思うと、細かい砂礫状の粒子へと分解して中空へ流れ出し消えていったのだ。この現象は、物質として骨組織が破壊されたことを意味するものではない。地縛霊たる彼の体は霊体で構成されているゆえ、胸部を定義している霊体の術式の定義が崩壊してしまったことを意味する。
ノーラの炎を纏った攻撃は、炎の霊体である骸骨武士に対して、的確にして抜群の効果を上げたのだ。
実は地縛霊は、自らが得意として操る要素を、存在定義の弱点としている場合が多々ある。この矛盾した事情は、地縛霊の発生プロセスに起因している。
地縛霊とは、非業の死への強烈な拒絶反応を拠り所として、死すべき魂魄が再定義されて生まれた生命体である。これゆえに、彼らは非業の死の要因となった事象を忌み嫌いながらも、生まれながらにしても最もよく慣れ親しんでいるという、奇妙な構図が生まれる。
例えば、海で溺死した者から発生した地縛霊は、文字通り嫌と言うほど海水を経験している。そのため、彼の魂魄は形而下相・形而上相問わず海水の情報に精通することになる。ゆえに、彼は海水に関する魔法現象を操作するのに長けることになる。一方で、彼を一度死に至らしめた海水は、彼の魂魄に深い心傷を刻んでいる。そのため、自身の手が及ばない海水に対しては全く安心できず、魂魄の構造が不安定化してしまう…といった具合だ。
ノーラが相対している骸骨武士は、火災による焼死を悔やんで地縛霊化したものだ。ゆえに炎の扱いに長けながらも、炎が存在定義を脅かすほどの弱点となっているのである。
「おのれっ! 小娘ごときが、武士たるわしに…っ!」
悔恨と憎悪の恨み言を口にしながら、体勢を立て直そうとする骸骨武士。対してノーラは、一言の無駄口も発することなく、厳しく引き続いての攻勢に出る。身を低くしながら、ダンッ! と床を蹴りつけて骸骨武士に負いすがり、炎を纏った奇剣を烈風の勢いで突き出す。
「おお…っ!」
骸骨武士は恨み言の続きを驚きの声で塗り潰しながら、腰椎に甘んじて刺突を受ける…と思いきや。彼の顎骨がニヤリと歪み、"してやったり"といった表情を作る。同時に、腰椎のほぼ中央が上下に分離すると、ノーラの剣撃は空しく虚空を突き出すだけとなる。
肉体を持たぬ霊体が具現化した存在である骸骨武士は、通常の形而下生物のような肉体の制約を受けることなく、身体の脱着すらも自在に操ることが出来る。
「バカめがっ、わしとお前では戦いの年季が断然違うわっ!」
分離し、宙を舞う骸骨武士の上半身で、頭蓋骨がケタケタと笑う。その一方で、炎を失った鞭を引き戻して元の長槍へと変化させると、思い切り上段に振りかぶり、
「カァッ!」
気合いと共に、ノーラの頭上めがけて一気に振り下ろす。
しかし、素早い反射速度で骸骨武士へと視線を上げたノーラの顔は、一片の驚愕も恐慌に浮かんでおらず、凪いだ海原のように静かだ。そして怜悧に長槍の動きを見切りながら、突き出した大剣を振り上げて骸骨武士の上半身を狙う。
その最中、骸骨武士が更なる攻めの一手を投じる。分離した下半身がモゾリと動いて丸く固まると、獲物に飛びかかるトラの如き獰猛さでノーラへ襲撃をかけたのだ。
ノーラの意識が頭上に集中している今こそ、下方への意識が疎かになっているだろうと判断しての奇襲だ。
しかし、ノーラは"霧の優等生"と賞されるだけの機転と慎重さを持ち合わせる人物である。視界の端でしっかりと骸骨武士の下半身の動きを察知すると、脚部に身体魔化を発動。襲いかかる炎塊を、文字通り一蹴する腹積もりだ。
だが…ノーラが機転を効かせて対応するまでもなく、骸骨武士の奇襲は立ち消える。
それを実現したのは、炎塊の横合いから猛獣のごとく突っ込んで来た、蘇芳だ。
「凄ッ!」
炎塊に肉薄した蘇芳は呼気一閃、突進の脚を止めたかと思うと、その勢いを右腕に乗せて、回転を効かせた掌底を突き出す。同時に、突き出された腕は旋風を引き起こす魔力を纏うと、炎塊にインパクトした瞬間、ドンッ! と純白に輝く光の小爆発を引き起こす。
「ぐあっはぁっ!」
分離していた下半身を爆発と共に吹き飛んだと同時に、骸骨武士の浮遊する上半身も大槌に思い切りブッ叩かれたように縦回転しながら吹き飛び、トンネルの壁に激突する。
「フゥ…」
掌底を突きだした蘇芳は、ゆっくりと息を吐きながら、舞い踊るようにユルリと手足を回しながら体勢を立て直し、ダンッ! と云う激しい足踏みと共に構えを取る。その途端、彼の身体からビュウゥッ! と吹雪のような魔力の波動が吹き出し、ノーラの薄紫の髪を掻き乱した。
蘇芳が使った、骸骨武士を吹き飛ばした攻撃および構えの動作――それは、"練気"と呼ばれる身体動作を使った魔力錬成技術である。この技術で以て構築された魔力は特に"気力"と呼ばれ、形而下から魂魄に対して直接作用することが可能だ。これ故に、形而下では分離していた骸骨武士も、魂魄に直接打撃を叩き込まれたために、形而上相では密接な位置関係にある上半身も吹き飛んだのである。
「大丈夫かい、大剣女子ちゃん!」
ノーラの眼前で力強く身構える蘇芳は、チラリとノーラにウインクを伴った視線を投げる。これに対してノーラは、キョトンと拍子抜けした間抜けな表情で、ぼんやりと首を縦に振る。
相対していた骸骨武士は、影様霊に比べれば段違いの実力を有するが、怨場の影響をうまくかいくぐったノーラにしてみれば、恐るべき強敵と言うほどの相手ではなかった。特に苦戦を強いられているワケでも無いところへ加勢が来たものだから、とっさに喜びがこみ上げるワケでもなく、どう反応して良いか戸惑ってしまったのだ。
だが、ノーラが蘇芳に感謝の念を抱かなかったのは、正解の反応と言える。何故ならば、蘇芳はノーラを助ける意図で戦闘に介入したワケではなかったのだから。先に彼女にかけた"大丈夫かい"という言葉も、骸骨武士を相手したことへの気遣いというワケではなく、単にノーラの状態が万全であるかを確かめる意味が強い。
戸惑えるほどの余裕のあるノーラの様子を見た蘇芳は、満足げに首を縦に振ると、続けてこう語る。
「怨場の影響がないようなら、一つ頼まれてくれないか? 代わり、あの"じいさん"の相手はオレがやるからさ」
蘇芳の言う所の"じいさん"とは、骸骨武士のことである。確かに彼は、年老いてなお盛んな老雄の声音を持っていた。
「見ている限り、君は相当の実力の持ち主だ。その腕を見込んで、あの"お姫様"の相手を…この怨場の作り手の相手をしてほしい」
語り口からして、蘇芳はこの怨場の作り手のことを見知っているようだ。"お姫様"と呼ぶからには、その死後生命は女性らしい。…そういえば、ルッゾの腕に重なっていた白い手は、女性のそれであった。
「このままじゃ、車は地上に引きずり出されちまうし、君の仲間もレナも力尽きちまう。
怨場さえ無くしちまえば、『冥骸』の兵力は存在を維持できなくなって、すぐに撤退するはずだ、だから…」
蘇芳が頼みの言葉を重ねるよりも早く、ノーラは表情をキュッと引き締めると、素早くコクンと首を縦に振って了承する。直後、愛剣の定義変換を解除し、魔力を怨場の解析へと集中させながら、その場から駆け出す。
そこへ…!
「カアァッ! 何処へ行くかっ、アバズレがッ!」
吹き飛んだ骸骨武士が上下半身を合体させ、巨大な炎の塊となってトンネルの壁から飛び出し、ノーラへと突撃してくる。
ノーラはそれをほんの一瞬だけ、横目でチラリと見やったが、身構えることなく駆け続ける。このそっけない対応に、骸骨武士は更に怒りを滾らせると、再び長槍に青い炎を纏わせて鞭と化して振り回す。
再びバラ撒かられる、コウモリの群の如き炎の飛沫。そして、その合間を稲妻のように迅速なジグザグ動作で駆け抜ける、炎の鞭。その槍先が、凶暴な炎の輝きを受けて禍々しくギラリと輝く。
見る見るうちにノーラの背中へと肉薄する槍先だが…それが少女の柔肌に食い込むことは、なかった。
槍先の前には、鋼のごとき肉体を持つ蘇芳が疾風のように現れると、練気によって堅固な気力を纏った腕で裏拳を繰り出すと、岩のように固めた手の甲で槍先をガキンッと跳ね返したのだ。
蘇芳の助力を気配で感じたノーラはチラリと視線を走らせて、目の動きで感謝の意を表するが、蘇芳はそんな彼女のことを見てはいない。東洋武術的な独特の構えを取って、骸骨武士に全神経を傾けている。
「あんたの相手はオレが勤めるぜ、涼月のじいさんよぉ!」
…そう、この骸骨武士の姿をした地縛霊には、涼月という個体識別名がある。ただし、この名が彼の生前の名と同一であるかどうかは不明だ。死後生命達は自身の無念に関する記憶は生前から強く引き継いでるものの、その他の記憶は…例え自分の名前や家族構成さえ…すっかりと忘れてしまいがちである。
名を呼ばれた涼月は、鞭から炎を払って長槍に戻し、些か大仰な構えを取ると、憎らしげに顎骨を動かす。
「またも貴様か、小童っ! 幾度も幾度も、わしらの悲願を挫きおって…! 此度こそは、その首頂戴ししてしんぜようっ!」
怒れる涼月に対して、蘇芳はクックッと心底愉快そうに笑う。
「この歳になっても小童なんて呼んでくれるたぁ、嬉しいねぇ。オレもまだまだ若いんだなぁって気になれるわ」
蘇芳の茶化した台詞に、涼月は律儀にも反応を返す。フフン、と誇らしげに鼻で笑いながら、構えを少し崩して胸を張り、得意そうに語る。
「このわしからすれば、齢を百や二百重ねたところで、皆小童よ!」
その台詞に、蘇芳はますます笑みを深める。その表情には、純粋にやり取りを面白がる意味も勿論込められていたが、それ以上に"思う壷だぜ"と云う安堵の想いが強い。
市軍警察の一員ではあるものの、純粋な戦闘員ではない蘇芳が、実力者たる涼月との交戦を自ら申し出た理由が、ここにある。――涼月は、非常にノリが良いのだ。言葉をかければ、打たれた鐘が音を響かすように、一々反応を返してくれる。そこに、付け入る隙が見い出せる。
蘇芳の練気の実力は、防災部内で護身用に教わった基本の型に、彼独自の鍛錬を加えた程度のものに過ぎない。強烈な怨場の中で多大なアドバンテージを得た涼月を斃しきることは、不可能であろう。
だが、足止めをするだけならば、役割を十分に果たせるはず。
蘇芳は今一度、その場で床をバシンッ! と踏みつけながら、東洋武術的な構えを取ると、涼月の方へと伸ばした右腕の先端で"掛かって来い"という風にクイクイと指を動かす。
「何はともあれ、じーさんよ。女の子は女の子同士に任せておいて、俺たち野郎どもは野郎同士、むさ苦しくヤり合おうじゃねぇか!」
そんな蘇芳の言葉を涼月はハンッと笑い飛ばすと、腰を低く落としながら長槍を真っ直ぐ蘇芳の顔面へ向けながら、やはり律儀に返事する。
「あの小娘が、"御方様"とやり合うだと?
それこそ滑稽の極みよっ! "御方様"に適う生物だと、この世には…ッ!」
涼月が、無い肺に対してヒュッと鋭い呼気を送り込みながら、蘇芳へと踏み込むと。
「おらぬわっ!」
叫び声と共に、烈風のように長槍を突き出す。
「それはどうか…ねっ!?」
蘇芳は身をよじり、鼻先ギリギリで長槍をやり過ごした後、気力が鎧のように充実した体躯で驀進し、涼月の懐へと潜り込む。
「若い娘のピッチピチの生命力ってのも、バカにゃあ…」
語りつつ、気力を岩のように凝固させた拳を握り込むと。
「出来ねぇぜっ!」
稲妻のような叫びと共に、全力で涼月の腹部にめり込ませる。
「ふっぐうぅっ!」」
インパクトの瞬間、爆発的に吹き抜けた気力の奔流に、涼月は思わず身体をくの字に曲げるが…半歩後退するだけで踏み留まる。
「良い気になるでないわっ、小童ぁっ!」
涼月は耐え抜いた胆力を誇るように叫び上げつつ、退いた後ろ足を引き戻しつつ、膝蹴りで蘇芳の腹部へ反撃を放つ。
「小童だからこそ、良い気になるんだよっ!」
対する蘇芳も、先の一撃とは反対の拳を握り締めて、涼月の頭蓋骨の頬を狙った二撃目を放つ。
――こうして、騒がしい叫びのノリの応酬を伴った肉弾戦が幕を開けた。
- To Be Continued -