Tank! - Part 1
◆ ◆ ◆
――途方に暮れる。
眼下に広がる光景を目にした途端、ノーラ・ストラヴァリの頭の中はその言葉で一杯に埋め尽くされた。
(…確かに、言い出したのは私で…自業自得と言われてしまうと、それまでなんだけど…)
健康的な褐色の肌を呈する可憐な顔には今、ひきつりまくった苦笑が浮かんでいる。桜色の唇は、歪んだ丸の形にぼんやり開き、フルフルと戦慄いている。頬には冷たい汗が一筋、厭らしくジットリと流れ落ちて不愉快な痒みを跡に残す。翡翠色の瞳の奥では、混乱と失意がグチャグチャに渦巻き、今にも泣き出しそうな形で潤んでいる。
(これじゃあ、"あの娘"に希望を届けるどころか…私の心がポッキリと折れかねないよ…)
少し考えて見れば、就学前の児童であろうとも、"この仕事"が大変な困難を伴うことを容易に判断できるであろう。
しかし、"あの時"のノーラは『霧の優等生』と評価される怜悧な判断をかなぐり捨て、感情の赴くがまま、自身満々に己の胸を強かに叩きながら、全く淀むことなくこう言い切ってみせたのだ。
「大丈夫だよ…任せておいて!
私が必ず、あなたが置いてきてしまった希望の星を、届けてみせるから…!」
――あの時、きっと自分は、眼を真夏の太陽のように輝かせ、不死身を誇る伝説の英雄でもあるかのような、やたらと眩しい笑顔を浮かべたんだろうな…。そんなことを思い返すと、現在の窮地と相まって、ノーラの胸中に嵐のごとき羞恥が轟々と音を立てて渦巻く。穴があったならば、頭のてっぺんまでその中に潜り込むことだろう。
(バカバカバカバカ…私の大バカ!)
渦巻く羞恥が胸中から溢れ出し、全身に満ちるような感覚に苛まれたノーラは、思わず両手で顔を覆うと、声の出ない叫びを上げつつ身体をくねらせながら悶える。
そんな彼女の肩に…優しくも暖かな手のひらが、ポン、と置かれる。その穏やかな衝撃を受けて、ノーラはゆっくりと首を巡らして手のひらの主を見やる。
手のひらの主は、ノーラの右斜め後ろに立っている。ボブカットに切り揃えられた艶やかな黒髪に、神秘的な輝きを湛える赤みがかったブラウンの瞳。"希望学園都市"ユーテリアの生徒にして、ノーラのクラスメートである少女、相川紫だ。
ノーラの湿った翡翠色の視線を受け止めた紫は、肩をすくめつつフッ、と小さく息を吐くと。同情をたっぷりと込めて瞼を伏せつつ、首を左右に数度振るう。
「分かる。分かるよ、ノーラちゃん。
私にも、経験あるよ」
紫はゆっくりと眼を開くと、遠い、遠い空の方へと視線を投げる。その視線が捉えているのが、過ぎ去りてもはやどうにもできない日々であることは、ノーラにも容易に理解できる。
紫は薄い桜色の唇から、深いためいきと共に言葉を次ぐ。
「あれも丁度、ノーラちゃんと同じく、入部したての時だったなぁ。
憧れの副部長と同じ時間を共有できることが嬉しくてたまらなくてさ。身体が空気みたいに軽く感じて、何処にでも行けそうな、そして何でも出来そうな気がしたものよ。それに加えて、副部長に一刻も早く認められたい、って欲もあったわね。
それで…先輩たちが止めるのも耳に入れずに、独りで突っ走って…何も考えずに取りかかったものの、2時間、3時間と時が過ぎてゆくうちに、段々と意気揚々としていた情熱が冷めていって…深夜過ぎにようやく終えた時には、ボロッボロになってうんざりしてたっけ…。
ああ…ホント懐かしいなぁ…」
「相川さん…」
眩しげに目を細めながら過去を見つめる紫に、ノーラはポツリと声をかける。その声音の中には、過去の紫へ向けた痛々しいほど実感の伴った同情と、同じ経験を持つ者同士に求める同調感が伴っていた。
しかし――。
「でもね…」
紫がふと想起を打ち止めて、瞼を閉じ――再び開いた時には、神秘的なブラウンの瞳の中にギラリと灯る激しい炎が見える。それは決して、冷たい悲観を包み込んで暖めてくれるような、穏やかな炎ではない。
ニンマリとつり上がる、紫の口角。瞳の内の炎と相まって、その表情が告げる感情は――コールタールのようにドス黒くて粘っこい、揶揄。
「今のノーラちゃんみたいに、他の人を巻き込むことはしなかったけどねー」
ナイフのように鋭い半眼ジト目を作り、肩の高さまで両手を上げながら首をすくめつつ、刺々しい皮肉を口にする、紫。顔に浮かべているヘラヘラした笑いは、ノーラに向けた露骨な嘲りである。
そんな紫の言葉と態度から発される、ズキズキと突き刺さるような威圧感に、ノーラはビクンと身体を縮こめる。それからモジモジと両手の指を絡め回しながら、なんとか紫の非難を鎮められる言葉がないかと、必死に頭を巡らすが…。重苦しい十数秒の沈黙の間、何一つ良い言葉が浮かばなかったノーラは、ついに降参する。ガックリとうなだれると、血の気が引いて白っぽくなった唇を小さく震わせながら、か細く呟く。
「…ごめんなさい」
ノーラがやっとこ絞り出した謝罪の言葉を耳にしても、紫の不機嫌な翳りに光が差し込みはしない。それどころか、片眉を跳ね上げて露骨な苛立ちの表情を作り、ガッチリと腕を組んで冷たい視線を投げてくる。
ここに至っては、ノーラにはもはや紫に返せる言葉はない。しゅん、と目を伏せて、小さくため息を吐く他に、取るべき行動が頭に思い浮かばなかった。
…と、そんな具合の悪い所へ、突如として割り込んでくる快活な少年の声。
「おい、紫。なんでノーラを謝らせてるんだよ? 何も間違ったことしてねーだろ?」
紫の背後、右手斜め後ろの方から上がった声。それを耳にしたノーラと紫の両名は、ほぼ同時に声の主へと視線を巡らす。
そこに居たのは、燃えるような真紅の髪に、力強く太い漆黒の爬虫類的な尻尾を持つ、制服の上からでも分かる引き締まった体格の少年。"希望学園都市"ユーテリアの1年生の中では最も知名度が高いであろう男子生徒、ロイ・ファーブニルである。
彼は手にした紙袋の中から、不格好なドーナッツを取り出しては牙がギラリと光る大口へと放り込み、モグモグと咀嚼しながら言葉を続ける。
「希望のためなら、コンビニへの買い物だろうが、戦争の仲裁だろうが、やってのける。それがオレ達、星撒部だろ?
ノーラはただ、そのポリシーに従って、今回の仕事を引き受けただけだ」
「そうは言ってもねぇ、あんた…ものには限度ってモンがあるでしょうよ」
紫はヒクヒクと眉を振るわせながら、腰に両腕を置いて上体を倒し、ロイに詰め寄る。
「実現出来る算段があってこその、希望でしょ?
口先でだけ出来ると言っておいて、実際やってみたら出来ませんでした、ってパターンはね、最も人を傷つけて絶望させるのよ!?
そういう無責任なことは絶対にやるなって、部長がいっつも言ってたでしょ!?」
「だけど、副部長は今回の件、大絶賛してたぞ?」
新たなドーナッツを取り出し、一口に頬張りながら、モゴモゴとロイが反論する。彼はかなり食い下がっているが、だからと言って紫をやりこめて黙らせよう、としているワケではない。事実を事実として淡々と語っているだけだ。
咀嚼回数もそこそこに、ゴクンとドーナッツを飲み下したロイは、さらにこう続ける。
「それに、出来ないことじゃないだろ、今回の仕事は。
何も、小指一本で惑星をぶっ壊して欲しい、なんて頼まれたワケじゃねーんだし」
「…脳筋なアンタらしい言葉ねー。
アンタのそのオメデタいオツムなら、砂漠の中から一本の針を見つけろ、っていう仕事でも、時間さえかければなんとかなるって思えるんでしょうねー」
紫が翳った嘲笑を浮かべながら語った皮肉に対して、ロイは一瞬キョトンとして身体の動きを停滞させたが。やがてまた、紙袋からドーナッツを取り出して、口に放り込みつつ答える。
「…え、そういうもんじゃないのかよ?」
こうなると紫はもう、はぁ~、深いため息をついて、首を左右に振るばかりだ。ロイをやりこめようとする試みについては、白旗を上げた。
しかし、単に引き下がる紫ではない。ノーラに向けたような鋭い半眼ジト目を作ると、ロイの持つ紙袋を指さして非難する。
「ていうか、アンタ、物を食べながら喋るの止めなさいよ。すんごく、ウザく感じるんだけど」
するとロイは困ったように頭の後ろを掻きながら答える。
「いやー、折角、アイツらの手作りをもらったんだしさ。作りたての美味しいうちに食わないと、勿体ないじゃんか」
そんな答えを耳にした紫は、ため息の代わりに、ハンッ、と鼻で笑い、もう関わりたくないとばかりに視線をロイから外したのだった。
こうして、非難と揶揄に満ちた一連のやり取りが終わった、その時。
「何はともあれ、だ」
3人の1年生の背後から、尖った石のように堅く生真面目な声が響く。
一同が振り向き、注目を一心に受けた"声の主"は、一片のはにかみも見せることなく、眼鏡をキラリと輝かせながら人差し指でクイッとその位置を直しつつ続ける。
「僕たちが今、やらねばならないことは、事態の困難さを掘り起こして再認識することでも、不平を口にして時間を空費することでもない。
建設的で実効性のある手だてを考えだし、完遂までのプランを立てることだ」
そして声の主は、丁寧に磨き抜かれた眼鏡のレンズ越しに細長い目から放つ鋭い眼光を、紫のトゲトゲしい言葉を受けてションボリしているノーラに向ける。それを認識したノーラは、切れ味の鋭いナイフを思わせる眼光には自分への怒りが含まれていると考えてしまい、ビクッと身体を震わせて硬直してしまう。
それを見た声の主は、ちょっと慌てた様子で面長な表情を崩すと、またもや眼鏡をクイッと直す。この動作は彼にとって、気持ちを切り返るためのスイッチのようである。そして動作を終えた時には、細長い目を穏やかな弧に曲げている。
「ノーラさん。今、自分を責めたとしても、問題の解決の助けになりはしないよ。
それよりも、もっと前向きに、そして頭を柔らかくして、どんな手だてがあるか、どんな事なら出来そうか、考えた方が良い」
巌のような安定感のある低め声音に、春風を思わせる安心感のある響き。それを耳にして、ノーラはようやく表情から思い詰めたぎこちなさを消す。
「…ありがとうございます、蒼治先輩。
そうですよね…正式入部初日から、私が絶望に染まってしまうのはダメですよね…」
ノーラを元気づけたこの男は、星撒部所属の3年生、青みがかった黒髪と痩身長躯にまとった純白のローブが特徴的な陣部、蒼治・リューベインだ。部内では会計の立場にあり、暴走したがちな部活動のブレーキ役を勤めている苦労人でもある。
今回の難題を前にしても、嵐の中に平然と立つ巨木のごとく泰然自若といられるのは、そんな彼の立場柄に起因するのかも知れない。
「…副部長と一緒に居ない時になると、みょ~に良い気になりますよね、先輩って」
紫が腕を組んでジト目を作り、目上相手だというのに気後れを感ずることもなく、嫌味を口にする。その言葉は、彼女が常々蒼治に対して不満を抱いていたが故、というワケではない。単に、蒼治の態度と比べると、多大な危惧を抱いて事の発端者であるノーラを非難している自身が、非常に卑小な存在のように感じたが為の、逆恨み的な反撃だ。
しかし、蒼治は紫の反撃にムッとなることもなく。素直に受け入れて、恥ずかしそうに苦笑いする。
「確かに、ね。渚の突飛な言動には、どうしても調子が狂わされちゃうんだよね。
あいつとももう、約2年の付き合いになるんだし、そろそろ慣れなきゃと思うんだけどね」
実に素直な回答だが、紫には面白くない。眉根に皺を寄せつつ片眉を上げて不満を露わにすると、唾棄するように別の不平を口にする。
「それはどうでも良いですけど…。
今回の件、私だって建設的かつ実効性のある妙案の1つも出れば、ノーラちゃんにブチブチ文句言うような可愛くないマネ、しませんよ。
でも、今回の件は、いくら頭を捻っても、頭が痛くなるだけ。解決案の"か"の字だって、思い浮かびませんよ。
蒼治先輩なら、この馬鹿ロイと違って、砂漠の中から針を探し出す作業の不毛さが理解できますよね?」
紫は左隣に立っているロイを指す。するとロイは露骨に不満を顔に表して、片眉をビンッと跳ね上げ、握った拳を顔の高さまで上げる。そしてギラリと牙が輝く口で、紫に文句を言おうとするが…その行動は、蒼治の更なる平静な言葉に遮られる。
「確かに、まともに正面からぶつかっては、君の言う通り不毛だろう。
だが、僕たちは旧時代の地球人類とは違う。僕たちには、創意工夫によるとてつもない可能性を秘めた、魔術を初めとした魔法科学技術がある」
「確かに、旧時代と違って取り得る選択肢は広がりましたけどね…」紫はやはり納得せず、腕組みを解かぬまま続ける、「広がりはしましたけど、決して無限大になったワケじゃないですよ。魔法科学技術だって、万能じゃないんですから」
「それは僕だって、百も承知だよ」
蒼治が乾いた笑みを小さく浮かべる。しかし直後、彼は眼鏡の位置を直して気持ちを切り替えて、表情を刃のように鋭い生真面目なものに引き締める。
「それを加味した上でも、今回の作業は決して不可能じゃないと思う。
第一、渚があれだけ自信満々で快諾したんだ。完遂の算段があってのことだろう。あいつだって、出来るといって人に希望を持たせておいて、やっぱり出来ませんでしたと言うのは最低の行為だと分かってる。初めから無理なものを、勢いだけで引き受けるほど間抜けなヤツじゃないさ」
渚のことを引き合いに出されると、紫は勢いを失って顔を俯かせる。先に言っていた「副部長を尊敬している」という言葉に偽りはないようだ。
しかし…気配が萎んだ上でなお、紫はブツブツと語る。
「確かに…副部長がそう言うなら…信じたいですけど…。
でも…でも…ほんの昨日…」
「昨日?」
眉を潜めて尋ねる蒼治に、紫はブツブツと続ける。
「副部長…折り紙のノルマを1人千個にしておいて…一番先に初めに挫折してましたよね…。
ああいうのを見ていると…副部長への尊敬が消えたりはしませんけど…安心して信じ切ることも出来ないです…」
その言葉に、蒼治は眼鏡の位置を直す間もなく、表情を大きく崩して肩を下げる。――勢いだけで物事を言う実例が、こんな間近にあったとは…。
「だ、だけど!」
蒼治はフルフルと両手を振りながら、この場に居ない渚を必死に擁護する。
「そういう勢いに乗る時っていうのは、部内の活動だけで! お客さんに対しては、流石に、そういう考えなしの行動はしないよ!
うん、しない…。
しない…と…思う…」
語るに連れて、蒼治の勢いが失われてゆく。今、彼の頭の中では、今回の仕事を快諾した時の渚の様子が何度かリプレイされている。そしてその有様を注意深く、そして冷静に鑑みているうちに…渚への確信が、一滴の墨が大量の水の中に滴り落ちて盛大に拡散するかのように、ブワリと大きく揺らぐ。
(…あの時の渚…ノータイムで今回の仕事を引き受けたな…。
それに、今回の人選…能力を鑑みた上での適材適所というよりも…場の流れ、みたいな感じ…というより、そのものだったな…)
紫の失意が伝言感染してしまった蒼治は、それまでの泰然自若とした態度は何処へやら、どんよりとした感情の翳りを背負って、肩を落とす。
自分を励ましてくれた蒼治までも絶望に沈んでしまった今、折角穏やかな気持ちになったノーラもまた、感情の奈落へと落ちる。2人の胸中を漆黒に染めてしまった責任を感じ、お腹の高さで指をモジモジと絡めると、消え入りそうな声で謝罪する。
「…ごめんなさい…。私が、よく考えずに、安請け合いしてしまったから…」
「い、いや!」
蒼治が背負った翳りをなんとか捨て去り、慌てて手を振ってフォローする。流石は星撒部のブレーキ役、後輩のテンションの落下にもすかさず歯止めをかけようとする。
「ノーラさんが全責任を感じることはないよ! 本来なら、経験のある僕ら2年生が、しっかりと判断してあげなきゃいけないんだから!
もしも今回、僕らの部が初黒星を負う羽目になっても、その責任はあの時点での最高責任者の渚にあるのであって! ノーラさんは、そんなに気に病む必要はないんだよ!」
蒼治の必死さに、ノーラは微笑みを浮かべたものの、それは微風にも吹き飛ばされそうなほどに弱々しい。そんな風に減じた気力下においては、ノーラは蒼治に感謝を述べることもできなかった。
天上の積乱雲がズーンとのし掛かってくるような、酷く重苦しい雰囲気が場を支配する。
石のように固まってしまったのではないか、と疑いたくなる空気の中で…ただ1人、正に"空気を読まない"態度で身も心も軽々しく在る者がいる。
――ロイである。
今頬張っているドーナッツが最後の1つだったらしい、空になった紙袋を片手でクシャクシャと丸めて制服のポケットに突っ込むと。モグモグ咀嚼しながら、どんよりと曇った3人に向き直り、飄々と言い放つ。
「こんなところでゴチャゴチャ言い合ってたり、考えたりしてても、始まんねーだろ?」
そして、ゴクリと口の中のものを一気に嚥下すると。ロイの顔に浮かぶのは、曇りなど一気に吹き飛ばしてしまいそうなほどの熱気が籠もった、ギラギラした笑み。
「出来る、出来ない、じゃねぇ。
――アイツのために、やる。それしかねぇだろ?」
そしてロイは、気力満々といった風体で足を肩幅に広げて立つと、バシンッ、と大気を激震させるような立てて自らの拳と掌を叩く。直後、彼は体中に満ちた気力に導かれるまま、小走りで走り出す。
「ちょっ…! 考えもなしに、何処行くのよ!」
紫が慌てて手を伸ばしながら言葉で制するが、ロイは少し歩幅を縮めただけで踏み留まることなく、顔だけをこちらに向けて答える。
「だから、言ったろ? ここでゴチャゴチャやってても、始まンねーってさ!
とにかく、ぶつかってみるンだよ! こんな遠くから眺めてるだけじゃ、何も分かンねーしさ!」
そう言い残すが早いか、ロイは即座に前へと向き直り、先より素早い歩調で駆け出す。
その背中を見送っていた紫は、やれやれ、と言った感じで苦笑を浮かべて首を左右に振っていたが…。
「脳筋バカが独りで突っ走っても、成果なんか出ないわよ」
見る見る内に遠のくロイの背中に向けて、皮肉たっぷりに呟くと、彼女のまた小走りでロイを追う。ノーラたちの横を過ぎる彼女の横顔は、やはり苦笑が浮かんでいたが、その眼にはキラキラと躍動する誇らしさが宿っていた。
この場を去る2人に続くように、ゆっくりと歩み出すのは、蒼治である。身にまとった純白のローブをゆるやかにはためかせながら、あくまでマイペースに先に歩いた2人を追う。
「…確かに、ここから眺めてるだけじゃあ、あまり収穫はないね。
しっかし…良い手だてもない今から、あそこまで気合いを空費すると、肝心なときに息切れするぞ?」
先頭を駆けて行ったロイを窘めるような一言を口にするが、それを聞き入れるべき人物はすでに、視界から消えてしまっている。そんな有様に、自分こそ心配を空費してしまったと自嘲して、蒼治は眼鏡の向こうで苦笑い。そのままペースを上げることもなく、かと行って脱力するでなく、スタスタと歩き続けるのであった。
最後に、ノーラだけがこの場に残ったが…彼女は去って行く3人をすぐに追うことはしない。顔に不安の翳りを張り付けたまま、はぁー、と小さくため息を吐くと。再び、眼下に広がる光景へと視線を投じる。
直面している問題の困難さを、網膜にしっかりと焼き付けようというかのように…。
今、ノーランたち4人が訪れているこの場所は、プロアニエス山脈。約30年前に発生した惑星規模の魔法現象災厄『混沌の曙』によって生まれたこの大山地は、地球の北半球の中でも亜寒帯の広がる北方地域に属する。
地球の他の山脈地域に比べると、高度はさほど高くはないが、錐のように急峻な山々が針山のように連なっているのが特徴だ。
またこの山地は、『混沌の曙』の影響により、地球での有数の魔法性鉱物の産地としても知られている。産出される魔法性鉱物の中には生物にとって有害な魔法現象を引き起こすものも多いため、まともな植物が大きく育たず、大地の表面は赤茶色の岩肌と、魔法的環境に適用し葉緑素を失った暗色の地衣類ばかりで覆われている。
ノーラたちは、この厳しい山岳地帯の中からピョッコリと突き出した、結構な広さを有する崖の上に居たのだ。
そして、この崖の下に広がるのは…急峻な山脈の巨大な腕に抱かれるようにして存在する、真円形の人工物の集合。終端が地平線の向こうに隠れて見えないほどの広大な面積を持つそれは、プロアニエス山脈の中に唯一存在する都市国家、アルカインテールである。
この都市国家の最大の特徴は、周囲のプロアニエス山脈の鉱物資源を利用した鉱業である。その知名度は地球のみならず異層世界の国家にも知れ渡っている。国土には飛行機は勿論、宇宙船や次元航行艦用の空港が多数存在し、収集した魔法性質含有鉱石の輸出を盛んに行っていた。
また、地球圏治安監視集団庇護下都市国家であるこの国では、鉱業の労働力の担い手を確保するため、積極的に難民を受け入れては労働力の補充に当てていた。そのため、地球の難民からは『地上の楽園』としばしば称されていた。
一方で、都市の外観は『地上の楽園』という言葉には全く似つかわしくないほどに無愛想であった。無骨な鉱物加工用の工場を初めとして、オフィスビルは単なる背の高い灰色の直方体。住宅地も企業がオーナーとなって開発された地域が多く、似たような規格の家が建ち並ぶ。
一応、プロアニエス山脈の風景を目当てとする観光客用に、外縁地域は少し気取った風貌をしていたが、それでも"希望学園都市"の華やかな住宅地にさえ遠く及ばない、お粗末なものであった。
――と、ここまでアルカインテールの都市について解説してきたが、その全てを過去形で言及してきたのには意味がある。
現在、このアルカインテールは壊滅してしまったからである。
ノーラの眼下に広がるこの都市は今や、ゴミ溜めと形容するにも無惨な有様だ。建造物は悉くなぎ倒され、瓦解したコンクリートが砂利敷の様に所狭しとひしめしている。そんな様子が地平線までビッシリと広がっているのだ。
アルカインテールをこのような無惨な姿に変えた原因は、戦争である。多数の勢力がこの都市国家を舞台に熾烈な交戦を繰り広げた挙げ句、どこぞの勢力によって次元干渉兵器が投与されてしまった。その結果、国土は瓦礫の山と化した上で、生物が生存するには極めて困難なほどの深刻な空間汚染が残留している。
こんな崩壊しきった都市国家を前にして、ノーラが帯びた途方に暮れてしまう使命。それは――この広大な瓦解の山から、たった1つのクマのヌイグルミを見つけること、だ。
もしもこのアルカインテールの都市が健在であったとしても、非常な難題であることには変わらない仕事だ。
一応、依頼主からは手がかりをもらっている。しかし…。
ノーラは制服のポケットを漁り、丁寧に畳まれた1枚の紙を取り出すと、気の進まぬ緩慢な動作で開く。そうして展開された白色無地の紙の上に、依頼主から提供された唯一の"手がかり"である、鉛筆書きの絵がある。それは明らかに少女漫画に影響を受けた画風且つ、非常に歪なタッチで描かれたクマのヌイグルミの絵だ。特徴など全く掴めない、幼稚過ぎる描写技法の絵画であるが――それは致し方ないことだ。
何故ならば、この絵を描いた依頼人は、幼い少女だからだ。
(一生懸命描いてくれたのは、嬉しいけど…。
正直、これじゃあ、何の助けにもならないんだよねぇ…)
ノーラの顔に苦笑が浮かばずにはいられない。
こんな無茶ぶりな仕事を引き受けてしまった…という時点で、十分にノーラは気が滅入っているのだが。こうして現地を訪れてみると、ノーラの胸中にもう1つ、懸念事項が生まれる。
それは、崩壊したアルカインテールの都市のほぼ中央上空に存在する、小さな小さな"蜃気楼"的存在。
天から地へと延びる、長大な長方形が3つ固まったそれは、『戴天惑星』と呼ばれる地球の名物、『天国』である。
しかし、この『天国』は、他と比べて余りに異質だ。面積の小ささもさることながら、外観もあまりに無機質でそっけない。ユーテリアの上空にあるものや、昨日訪れたアオデュイアのものは、もっともっと個性的な外観をしている。
この奇妙な『天国』を見ていると、心が安らぐどころか、ざわついて仕方がない。
(…この都市国家、何か厄介な背景を背負ってそうな気がする…)
仕事は酷い難題だし、現場にはひどくイヤな雰囲気が漂っている。すぐにでも投げ出して帰りたい気分になるが、そうはいかない。
無責任に仕事を放棄してしまっては、希望の星を世界に振り撒く星撒部の部員の名折れだ。
(それに…言い出した私が真っ先に折れちゃったら…付き合ってくれているみんなに、申し訳ないもんね…)
ノーラは義務感よりも、仲間への申し訳なさを原動力にして、ようやくゆるゆると足を動かして山を下る道を歩き出す。
(自業自得とは言え…今日はホントに、厄日だなぁ…。
悉く、歯車が噛み合わない感じだよ…)
蒼治の背中すら全く見えなくなってしまった山道をトボトボ歩きながら、ノーラは現在に至る今日1日を振り替えりつつ、長い長い溜息を吐く――。
◆ ◆ ◆
歯車の狂いの始まりは、どこからだっただろうか?
遡るに、真っ先に思い当たったのは――本日の未明、午前2時半である。
そんな時刻にノーラが何をしたのかと言えば…普段に比べて遅すぎる就寝、である。
普段のノーラの就寝時間は、午後10時だ。ユーテリアの学生の中では、かなり早い部類に入る。何故こんな早い時刻に睡眠を取っているかと言えば、単に彼女が"眠たがり"だからである。最低8時間の睡眠を取らないと気が済まないのだ。加えて、これまで部活動を初めとした課外活動をやって来なかった為、夕方から夜にかけての時間に特にすることがなかった、というのもこの事情に拍車をかけている。
そんな彼女が、何故に今日に限ってこんなに遅い時刻に就寝することになったか、と言えば。星撒部の打ち上げに参加していたからである。
この打ち上げでのお祝いの対象は、3つある。1つ目は、昨日、都市国家アオイデュアで発生した"獄炎の女神"による非道な『求心活動』と対決し、勝利を収めたことに対して。2つ目は、アオイデュアでの本来の仕事である、アイドルグループのコンサートの手伝いが依頼人の大満足する形で終えられたことに対して。そして3つ目は、ノーラが星撒部への入部を決めたことに対して、だ。
打ち上げは、部の内外でも美人と名高い2年生女子生徒、アリエッタ・エル・マーベリーの入れた絶品ココアによる乾杯で始まった。その後、場所を仮部室である第436号講義室から食堂に移すと、大量のオードブル類を特注しての一大パーティーの様相を呈した。
ちなみに、ユーテリアの食堂は基本的に24時間営業である。これは、自由を気風とするユーテリアにおいては、深夜や早朝でも学園内で活動を行う学生が少なくないからであり、彼らのいかなる食事のリズムにも対応するための配慮である。
このため、星撒部のパーティーは閉店時間など気にすることなく、目一杯大騒ぎをしていたのであった。
「…と、いうワケなのじゃよ。まったく、このロイと来たら、本物のバカタレじゃわい。
ノーラ、おぬしもこやつと行動を共にする時は、よくよく用心せいよ!」
「ちょっ、副部長! あれをオレだけの所為にするのは、納得いかねーぞ!!
副部長だって、超ノリノリだったじゃねぇかっ! なぁ、紫! 副部長のことをよく見てるお前なら、分かるだろ!? 言ってやってくれよ!」
「…まぁ、確かに、結果としては副部長もノってたけどさ。
でも、きっかけを作ったのは、どう考えてもアンタじゃん。アンタが突っ走ったから、仕方なくみんな付いていったワケでさ。
アンタ、自分が『暴走君』って呼ばれてるの自覚してる? もうちょっと自重しても、バチは当たらないと思うわよ。
…そうですよね、蒼治先輩? 毎度尻拭いさせられている身の上としては、どうです?」
「…ロイだろうが渚だろうが、同じことだよ…。
ホント、そろそろいい加減にしてくれ…先生たちと各所に頭を下げに回っている時に、どれだけ胃が痛くなる想いをする羽目になるか…君たち、全然想像できてないだろ…」
「なーにが、胃が痛くなる想い、じゃ! わしらは常に! 悪いことなど一片もしておらぬ!
蒼治、おぬしは堂々とその事を訴えてくれば良いのじゃ!
それが出来ぬというのなら、やはりわしが直々に!」
「それだけは、ホント、勘弁してくれ…切実に。
ノーラさん、くれぐれもこいつら暴走コンビに毒されないでくれよ…」
「は、はい…。努力します…」
「ところで、ノーラっち! 今日の仕事終わりに話してた、アリエッタ先輩とのランチだけどさ! 明日はどうせヘロヘロになってるだろうから、明後日にしようと思ってるんだけど、どーかな!
アリエッタ先輩も、どうですか!?」
「ナミトちゃんの提案通りで良いわよ。場所は、本校舎に近い位置の食堂が良いのだけど…問題ないかしら?」
「あたしもそこら辺でやろうと思ってました!
ノーラちゃんも良いかな? もし、昼前に遠くの演習棟なんかで授業を受けるんなら、また考えるけど?」
「あ、大丈夫だよ。明後日は、演習系の訓練は入れるつもりがなかったし…」
「じゃ、これで決定しよう!
よーし、楽しいランチになりそうだぞーっ!」
「…ところで、イェルグ。さっきの、ロイ達の話題で思い出したのですけど」
「ん? なんだよ、ヴァネッサ?」
「あの時…あなた、やけに女性に囲まれる機会がありましたけど…?
…疚しいことしてないでしょうね!?」
「おいっ、フォークを顔に突きつけるなよ!
あれは、ホント、たまたまのそうなったんだってこと、もう説明しただろうが!
もう何ヶ月も経った時の事だろ、今更話題にすんなよ!」
「なんですの、その言い草! 夫婦の間には過去も未来もないのですわ!
浮気という不誠実な汚点は、決して消えない深い傷となって、2人の生涯に永遠につきまとうのですわよ!
我が偉大なるアーネシュヴァイン家の婿として、恥ずかしくない振る舞いをするように常々考えて行動なさいと、何度口を酸っぱくして言い聞かせれば済むのかしら!」
「だから、終わったことだろう!
それに、オレはまだお前の婿じゃないっての!
第一、あの時女の子に声掛けまくってたのは大和であって! オレは単なる成り行きだっての!」
「ちょっ、先輩!? なんでいきなりオレに話題を振るンスか!?
オレは、先輩たちの夫婦仲には全く関係ない人間ですよね!?」
「…大和、もしかしてアナタ、あの時イェルグを唆したのではないでしょうね…?
そう考えると、色々辻褄が合いますわ。アナタってば、ずーっとイェルグと一緒に行動しておりましたしね…」
「ちょっ! ですから、なんでオレに矛先が向くンスか!?
イェルグ先輩も…って、イェルグ先輩!? 何処行くンスか! 先輩!?」
――と、まぁ、よくも次から次へと尽きぬものだという程に途絶えることなく話題が供給され、その度に大きな笑いやら叫びやらがドッと溢れるのであった。
その最中、滑稽な光景を何度か目にしたノーラは、普段物静かな彼女には珍しく、ケラケラと声を立てて笑うこともあった。特に、大和に向けられた女性陣からの辛辣なからかいには、大和への同情と共に、声を上げられずにはいられない愉快さがこみ上げてしまったものだ。
「…大和くん…くふふ…それは、ダメだよ…ふふふふっ…女の敵そのものだね…!」
ノーラもまた、笑いながらからかいに荷担していると、クラスメートである紫が目を丸くしてこちらに視線を注いでいた。
「…ノーラちゃんって、そんな顔もするんだ…この1年、教室で何度も顔を見てきたけどさ…いやぁ…全然想像できなかったよ、そんな風に笑うところ…」
大笑いと共に溢れ出した涙を拭きながら、紫の指摘を耳にしたノーラは、自身すらも胸中で大きな驚きを抱いた。こんな風に声を立てて笑った記憶など、故郷にいた時ですら存在しない。幼い頃から厳格な教育環境に晒され続けてきたノーラは、自分でもてっきり、表情筋が岩のように凝り固まってしまったのだと考えていたが…どうやらそうではなかったらしい。
ノーラはここぞとばかりに顔を目一杯緩ませ、まるで無邪気な幼子のような笑いを浮かべると、弾むような口調で紫に答える。
「うん…! 私自身、知らなかったけど…出来たみたい…!」
すると、隣に座っていた渚が突如、叩きつけるような勢いで肩を組んでくる。
「笑いは健康長寿の薬じゃと言うぞい!
笑えい、大いに笑えい! 今まで笑えなかった分、ここで爆笑してしまえい!」
すると紫がすかさず、嫌味の陰を帯びた苦笑を浮かべて渚に語る。
「先輩…そういう言い方してると、ホントに老人くさいですよ」
そう言われてムッと来るほど、渚は狭量ではない。却ってハッハッハッ、と高々と笑い飛ばす。
「そうじゃ、そうじゃ!
実はわしは、今年で120歳を数える、鬼婆じゃわい!」
そこでノーラは、至極真剣な表情を作り、固唾を飲む動作までしてみせながら、語る。
「やっぱり、そうだったんですね…。
その個性的な言葉遣い…どうにもしっくり来すぎてると思ってたんですよ…。そのお歳なら、納得できます…」
すると渚は、慌ててパタパタと両手を振って否定する。
「い、いやいやいやいや! 冗談に決まっておろうが!
わしは見た目の通り、うら若き17歳じゃ!」
ノーラは渚の慌てようを直視して、しばしそのまま固まっていたが…やがてニンマリと口角をつり上げると、ケラケラと声を上げて笑い始める。
「ふふふっ…! 冗談です、冗談ですよ、先輩…っ!
からかっちゃいました…!」
すると渚はギラリと歯を見せて剣呑に笑い、ノーラの頭を掴むとこめかみに中指の間接を立てた拳をあてがい、、グリグリと押しつけてくる。
「こ・や・つ・め・が~!
入部初日だからと、はしゃぎおって~っ! おしおきじゃっ!」
「い、痛…っ! 痛いですっ、先輩…っ!」
ノーラは涙を浮かべながら、笑いながら痛がるのであった。
――と、このような賑やかな時間が長々と続き…ようやく終わりを迎えた時、日付を跨いでいた。
打ち上げの終わりでは、部員一同で円陣を組み、手を合わせて「星撒部ーっ、サイコーッ!」と叫びながら拳を振り上げて、締めとした。
その後、渚を筆頭とした2年生一同は、1年生を解散させて、自らは宴会の後片づけに当たり始めたのだが…。ノーラはこっそりとその場に残ると、2年生に混じって後片づけの手伝いに従事していた。
そんなノーラの姿を見て、渚が呆れたような溜息を交えつつ、こう語ったものだ。
「おぬしときたら、ホントにバカがつくほどに生真面目じゃのう。
第一、おぬしは今回の打ち上げの主賓じゃぞ? 自分のお祝いを、自分で後片づけするなど、滑稽きわまりないではないか。
それにおぬし、入部初日にしてあれほど動き回ったのじゃ。相当疲れが溜まっておるはずじゃ。早々に帰って、休んだ方が賢明じゃぞ?」
しかしノーラは、首を横に振って渚の好意を受け取らなかった。
「いえ…私、好きでやってるだけですから…。
それにこれは、私から皆さんへの、ささやかな恩返しなんです…」
"恩返し"という言葉に、渚を初めとして2年生達は首を傾げたが。ノーラはそれ以上深く言及することなく、ただ穏やかに微笑んで、テーブルの上を丁寧に拭き始めた。
恩返し…その言葉には、星撒部に対する沢山の感謝が含まれている。例えば、ユーテリアに在籍していることに気後れを感じていた自分を、何隔てなく暖かく迎えてくれたこと…苦楽を共にする、真なる仲間を手にいることができたこと…自分では持ち合わせていないと思っていた希望や笑顔を、持つことが出来るようになったこと…等々だ。
これらの感謝にほっこりと体が温まったノーラは、普段の就寝時間を2時間以上も回っているというのに、睡魔を感じるどころか熱い興奮を感じ、体を動かさずにはいられない衝動に駆られていたのであった。
結局ノーラは、2年生たちと共に後片づけを最後まで成し遂げたのであった。
「主賓じゃったというのに、手伝ってもらってすまなかったのう」
「いえいえ…本当に、好きでやっていたことですから…」
「じゃが、飛ばしすぎはホント、体に毒じゃぞい。
こんな時間まで付き合わせた身の上で、こう言うのもなんじゃが…なるべくゆっくり休むのじゃぞ。良いな?」
「はい。ご心配いただいて、ありがとうございます」
答えるノーラは、夜中に大輪の花を咲き誇る月下美人のごとく、煌びやかで元気な笑顔を見せたのだった。
解散後もノーラの興奮は冷め切らなかった。"何かと動いていないと気が済まない"と訴えるムズ痒さが全身を這い回っていた。この衝動を発散させるべく、ノーラは真夜中の時間帯だというのに、移動魔術を使わず徒歩で自室を目指すことにした。
ノーラを含め、大半のユーテリアの生徒は、公営の学生寮で暮らしている。ユーテリアの抱える生徒数は莫大なものだから、寮の数は当然ながらかなり多い。これらの寮は全て、学園地区に隣接した地域――一般に、『学生居住地区』と呼ばれている――に建設されており、生徒たちはここから通学している。
ここで一つ、留意すべき点がある。それは、学生居住地区は学園地区に隣接しているとは言え、非常に面積が広いため、割り当てられた寮の場所によっては学園までの道のりが非常に長くなり得る、ということだ。徒歩通学ではとてもでないが時間が掛かりすぎる場合は多々ある。ゆえに、学生たちは公共交通機関を利用したり、地区内に点在する移動方術陣を利用したり、はたまた自前の移動魔術を駆使したりして、通学を行っている。
ノーラの場合、自室のある寮は幸いにも学園に比較的近い位置にあり、徒歩通学もそれほど苦ではない。とは言え普段の通学では、魔術の実演訓練も兼ねて、移動用魔術施設を利用している。
…さて、ノーラの帰宅の様子に話を戻そう。
美しい造形の石タイルで舗装された道を早足で進むノーラを包む深夜の光景は、非常に静かで、穏やかで、そして美しかった。
天空には雲の姿は一切見えず、煌々たる冷たい輝きを放つまん丸の月や、天一面を覆う豪勢な城塞を逆さまにしたような蜃気楼的存在――『天国』がよく見える。少し残念なのは、ユーテリアの街の光によって、夜空一面を覆っているはずの星の姿が点々としか見えないことだ。
月光に照らされた学生生活地区の光景もまた、素晴らしい。旧時代の地球の華やかな中世世界に存在した貴族屋敷を思わせる学生寮が立ち並ぶ光景は、昼間ですらも人々に感嘆の溜息を催させるというのに。淡い光とぼんやりした陰影を伴ったこの時間帯においては、昼間以上に幻想的な印象が深くなっている。
道中、ノーラの他に人の姿は見あたらなかったが、代わりに清掃用の暫定精霊達の姿が幾つか目についた。彼らは足のない小人の姿をとって、小さな箒とちりとりで丁寧に道を掃き清めている。その隣を通り過ぎようとすると、彼らはのっぺらぼうの顔でこちらを見上げ、
「こんばんわ! 遅くまでご苦労さまでした! お気をつけてお帰りください!」
と、子供のような甲高い声で親しげに労いの言葉をかけてくれる。その行動はおそらく、生産時点からプログラムされた形式ばかりの挨拶でしかないであろう。それでも、上機嫌なノーラの更に弾ませる燃料には十分になり得た。ノーラはふと足を止めて屈み込み、精霊ののっぺらぼうな顔に出来るだけ目線を合わせると、天空に煌々と存在する月にも負けぬ輝く笑顔をニッコリと浮かべる。
「お気遣い、ありがとうね…。
そちらこそ…夜遅くのお仕事、ご苦労様。工業用の精霊だからと言って、あまり根を詰めないで…ほどほどに、お仕事してね」
ノーラが労い返すと、精霊ののっぺらぼうの顔にサッと赤みが差し、照れ照れと頭の後ろを掻く動作をしてみせる。生命の定義たる魂魄を持たずして生まれる暫定精霊であるが、この動作を見ているとまるで意志も感情質も兼ね備えた一個体の生物のようだ。よほど凝ったプログラムをされているのか、はたまたは、本当に自我が芽生えて人権を持ち得た固定精霊と呼ばれる精霊なのかも知れない。
そんな人間臭い精霊に手を振って別れを告げると、ノーラは再び小走りになって、自室のある寮へ目指す。
緩やかな夜風が吹いて、ノーラの美しい淡紫色の髪をフワリと撫でる。地球の北半球の温帯域に位置するユーテリアの2月は冬だ。しかし、学園都市国家を収める"慈母の女神"の影響により、ユーテリアは四季を通して非常に穏やかな天候に恵まれている。とは言え、この時期は他の季節に比べて気温は低い。吹いてきた夜風も、皮膚をギュッと引き締めるような冷たさを含んでいる。
だが、興奮の熱に浮かされている今のノーラには、ちょうど良い心地よさを運んできてくれる。
両腕を一杯に広げて、まるで幼子が飛行機のマネをするかのように、体中に夜風を浴びつつ、歩調を早めて帰り路を進む。
――そうして10分ほど進んだ後。ノーラはついに目的の寮に辿り着いた。
その学生寮の外観を簡単に表現すれば、縦長の直方体だ。しかし詳細に見れば、壁を彩る色とりどりのタイルや、古風な貴族屋敷を思わせる屋根、そして屋根の隅に設置された小さな天使像など、凝った美麗な趣向がいくつも目立つ。
気取った白塗りの木製窓は、幾つか灯りが点っている。こんな夜更けに部屋の主たる学生は、勉強に勤しんでいるのか、それとも余暇をのんびりと過ごしているのか。何にせよ、全ての窓が真っ暗になっているよりも、人の暖かみが感じられるようで、ほっこりとした気持ちになれる。
高さが3メートルほどもある大きな木製の玄関扉を開け、ノーラは内部へと進入する。内観も外観に引けを取らない、美麗な趣向が施されている。天上にぶら下がった照明はシャンデリアのようだし、床には何某かの神話の場面を再現した豪奢な絨毯が敷かれている。白っぽい壁紙には、目にうるさくない程度に花柄のパターンが配置されている。ロビーの奥に見える階段の手すりはツヤツヤに磨かれており、また、芸術品のような形状美を醸し出している。ここに足を踏み入れた来訪者は誰もが、即座にほっこりとした気持ちになれることだろう。
ノーラの自室は、この建物の5階にある。興奮はまだ冷めていないとは言え、流石に階段を駆け上がるほどの気力はなかったので、素直にエレベーターで自室に向かう。
アンティーク調の壁付け照明が優しく照らし出す廊下を伝い、自室に至ったノーラ。室内は、まるで高級マンションのような広々とした空間が広がっている。浴室、キッチン、トイレは当然のように完備。部屋はリビングと寝室を含め、なんと4室も用意されている。生徒が生活するには十分過ぎる造りである。
寮の部屋は構造を作り替える工事をしない限り、自由なカスタマイズを認められている。大半の生徒はこの気風に甘んじて、自分たちの個性を目一杯表現した内装を作り出す。しかし、ユーテリアの在籍を心苦しく思い続けて来たノーラは、部屋をカスタマイズする気などなれなかったため、ほとんど初期状態のままだ。それでも十分、清潔感と解放感に満ちた洒落た内装がしっかりと整えられている。
ノーラは寝室に直行すると、サクラの花のパターンがあしらわれた寝具一式が揃っているフカフカのベッドに腰を下ろし、ふぅ、と小さく息をついて一休みする。
――その途端。ノーラの体に、急激な変化が訪れる。
強すぎる輝きを放ち続けていた電球が、突如フィラメントが焼き切れてしまい、一切光を放つことがなくなってしまう――そんな風に、ノーラの体から一瞬にしてフッと力が抜け落ちると。瞼を鉛に変える強烈な睡魔に襲われたのだ。
自室という安堵に満ちた空間に入ることで、興奮やそれに伴う緊張が一気に抜け落ちてしまったらしい。これらが押さえ込んでいた疲労が、一気に噴出したのだ。
(うわ…すっごい、ダルい…)
帰路を小走りで踏破してきた勢いは何処へやら。ノーラの動きはカタツムリのようにズルズルとした緩慢な動きになる。ノソノソと脱ぎ捨てた制服をクローゼットに仕舞うことすら、酷く億劫だ。
(1日くらいだから、生活リズムが崩れても問題ないと思ってたけど…。
甘かったなぁ…)
入浴時には、浴槽の内外問わず、何度コックリコックリと居眠りをしたことだろうか。結局、入浴には普段の倍ちかい時間を費やすことになってしまった。
浴槽での度重なる居眠りによってすっかりのぼせてしまったノーラは、睡魔も手伝ったフラッフラの足取りでベッドにたどり着くと、糸の切れた操り人形のように倒れ込む。
そのまま眠り込みたくなるが、暗転を急ぐ意識を何とか押さえ込みつつ、芋虫のようにベッド上を前進して、枕元にたどり着く。そこからサイドテーブルへと手を伸ばし、掴んだのは…ベッドと似たピンクの色調をした丸い目覚まし時計だ。
(ちゃんと設定しておかないと…!)
焦点がぼやけまくる視界を凝らしながら、目覚ましのアラームを設定するノーラの姿には、睡魔を打ち倒さんばかりの意地が見える。こうまで起床時間に拘るのには、勿論、理由があるのだが…その詳細はすぐに述べることになるので、ここでは言及しないで置こう。
目覚まし時計のアラームがしっかりとオンになっていることを確認したノーラは…そのまま毛布を被ることもなく、ベッドの上にうつ伏せになったまま泥のように眠り込んだ。
- To Be Continued -