EP79 商人コルテ
EP78において、商人がクウたちの前を通り過ぎた後、徒歩で1時間ほどの距離で安堵していたという描写で「その程度の距離で安心しすぎでは?」という指摘がありました。
たしかにその通りなのですが、実はこの描写は間違いではありません。徒歩1時間という距離は生物学、心理学、数学的視点から考察した結果となっています。
……が、確かにEP78の描写ではそれに関する説明が入っていませんでした。裏設定も知り尽くしている作者ならではの弊害ですね。思い込みで執筆するとこういうこともよくあります。
急いでEP79にて描写を追加しました。その調整で昨日投稿する予定だった分を投稿できなかったことをお詫びします。
こういった読者視点での指摘はありがたいですね。これからも疑問を感じられたら指摘してくださると幸いです。ありがとうございました。
後書きに詳しい説明を書いておきます。
ここで書くと若干のネタバレになりますので。
狭い馬車の中に数条の光が差し、眩しさで目を覚ます商人のコルテ。ぼんやりとした思考の中、周囲を見渡しながら状況を確認していく。
見慣れない毛布に包まれた自分の体。隣にはもうすぐ14歳になる息子のリックが眠っており、静かな寝息を立てている。ゆっくりと体を起こすと、腰回りや背中にじんわりとした痛みが走り、コルテは思わず眉を顰める。
(そうか……昨夜はソラさんとフィリアさんに毛布を借りて馬車で眠ったのか)
盗賊に奇襲されて基本的な野営道具を全て置いて来てしまったため、テントや毛布の類も失ってしまったのだ。流石に冬の時期に毛布もなく馬車で眠るのはどうかと察したクウの好意で借りたものを今は使っている。
固まった体をほぐしつつ毛布から抜け出し、もう一枚の上着を着る。せめて服や下着だけは馬車に積んであったことが幸いした。馬車に残っているのは自分たちの衣類と僅かな食料、そして故郷で待つ家族や隣人たちへの必要物資ぐらいだ。積んでいるものが少なかったからこそ馬車の中で眠るだけのスペースが確保できたし、盗賊から逃げるときにもそれなりの速度が出せた。確かに野営道具を失ったことは痛いが、損害は軽微なものだった。
改めて奇跡的な生還だったのだコルテは安堵する。
「コルテ、起きているか?」
「ええ、起きています」
馬車の外から声を掛けられて即座に返答するコルテ。もちろん声を掛けたのはクウ改めソラだ。しっかりとした野営道具を持っている二人は外でテントを張って休息を取っていた。コルテの馬車はその際に設置した魔除け簡易結界魔法陣の恩恵に与っている。
「フィリアが朝食を作った。あんた達も一緒にどうだ?」
「ほんとうですか? 是非ともお願いしたいですね」
コルテはそう言いつつ馬車から出る。
黒髪黒目という珍しい見た目の少年だが、かなりの実力者であるということをコルテは知っている。コルテが見せられたギルドカードはソラが幻術で偽装したものだが、実際はSSSランクのレインともまともに戦えるほどの戦闘能力を有しているのだ。それにCランクでも実力者という括りに入ることには変わらない。
(ウチの息子とも変わらない程度の見た目なのに、兄妹そろって実力者だというのか)
そんなことを考えつつ昨日の盗賊たちを思い出す。
馬に乗って追い立ててくる異色の盗賊団。各地を移動していた彼らの噂を知らなかったために、コルテは酷く恐怖を覚えながら必死で鞭を打っていた。自分たちの馬にも無茶をさせたことは自覚していたが、それでもそうするしかない状況だったのだ。
馬車には大切な息子が乗っている。諸事情で金目の物も置いては行けないが、何よりも故郷で帰りを待つ妻の宝だけは死守せねばならなかったのだ。そのときのコルテは通常の何倍もの速度で頭を回転させていたのだが、どう考えても切り抜けられるとは思えない。馬車を繋いでいる分だけ自分たちの馬の方が先に体力が尽きることは明白だった。加速する思考で周囲の景色はゆっくりと過ぎていき、焦りだけが積もっていく。
だが、そんなときに前方に見えたのがソラとフィリアの野営の光だった。「もしかしたら自分たちの代わりに襲われてくれるかもしれない」という思いと「彼らにも忠告しなければ!」という二つの思いがせめぎ合ったのだが、結局は通りすがりに声を掛けるだけに留めた。
振り返ることもせずにひたすら馬車を走らせ、そして遂には馬の体力が尽きてしまう。
もうダメか……そう思って振り返ったときには既に盗賊たちはいなかった。まだまだ警戒は解けないが、どちらにせよ馬を休ませなければ動くことも出来ない。魔除けの結界陣すらも置いて来てしまったので、魔物にも注意しなくてはならないのだ。
そして馬を休めて1時間後にソラとフィリアの二人に再び出会うことになる。
コルテは奇跡的なこの出会いに感謝しながら馬車に戻って未だに眠っているリックの体を揺らした。
「リック、起きなさい」
「ん……ふぅ……」
コルテと同じような仕草をしながら起き上がるリック。そのあたりも親子で似ているのだろう。そんな息子に苦笑しながらコルテは口を開いた。
「フィリアさんが朝食を用意してくれたそうだ。一緒にどうかと言われているから起きなさい」
「……わかった」
リックは目を擦りながら体を起こし、グッと背を伸ばす。パキパキと体の鳴る音がしたが、やはり窮屈で堅い場所での睡眠では疲れが取りきれなかったのだろう。
二人が馬車から降りると、周囲にはおいしそうな匂いが漂っていた。朝日を眩しそうにしていたリックもその匂いで一気に目を覚ましてキョロキョロと見渡す。
匂いが漂ってくる馬車後方へと歩みを進めると、ソラとフィリアは火を囲むようにして座っていた。木で出来た器にはスープが注がれており、コルテとリックの分もしっかり用意してある。
「おはようございます、フィリアさん」
「おはようございます」
「ええ、おはようございます。コルテさんにリックさん」
既に先ほどソラとは出会っているので、コルテはフィリアにだけ挨拶をする。リックもそれに倣って挨拶をし、フィリアも笑顔でそれに返した。
「ではせっかくの温かいスープも冷めてしまいますので早速いただきましょう」
「そうだな。二人も適当に火の前に座ってくれ」
促されるままにコルテとリックは座り、4人で火を囲む形になる。
見た目は平然としているコルテだったが、内心では大いに驚いていた。それもそのはずで、普通はこういった旅で温かいスープを飲むようなことはまずない。よほどの大商人か貴族クラスならばよくあることなのだが、細々と営んでいるコルテには夢のまた夢といった話だったのだ。
(恐らくアイテム袋の類を持っているのでしょうね。昨晩は暗くてよく見えなかったけど、明らかにテントや鍋のようなものを持っている様子は無かった。Cランクで所持しているのは珍しい)
アイテム袋は高価だが、それなりに稼いでいる冒険者なら持っていることは多い。尤も収納の規模は大型バッグ2つ分程度であるため、部屋一つ分ほどの収納スペースのあるソラのアイテム袋は格が違うのだ。伊達に王城で貰ったわけではない。それでも無限に収納できる虚空リングがあるので、実のところアイテム袋は用済みに等しいのだが……
そんなことは知らないコルテは、スープのおいしさや柔らかいパンに驚きつつも朝食を進めたのだった。
「それで御二人はどういった理由で旅をしていたのですか?」
「俺たちの旅の理由か?」
「ええ」
朝食担当のフィリアが食器や鍋類を片付けている間に、コルテはふとソラに質問する。
すっかり貴族らしさが抜けて洗い物をしているフィリアも耳を傾けながらそれを聞いていた。ソラとフィリアの本当の旅の理由を話すわけにはいかないので、ソラが適当な言い訳をするならばしっかりと聞いておかなければならないからだ。
そしてソラはフィリアの予想通り、本当のことは言わないように話し始める。
「俺たちは知り合いに頼まれてね。同僚が不調らしいからその手助けに行くんだよ」
「ほう、そうでしたか」
ソラは嘘は言わないようにしながら返答する。
知り合いは虚空神ゼノネイアであり、同僚を幻想竜ファルバッサと置き換え、不調とは弱体化の呪いのことを指している。
ソラの《森羅万象》のように嘘を看破できる系統の能力を危惧しての対策だ。この手の能力は相手が明確に嘘をついている場合のみ反応するので、本当のことを言わないだけならば気づかれることはない。コルテやリックは嘘を見抜く系統の能力を所持していないことは確認済みなのだが、これから出会う人が持っていないとは限らない。矛盾を生じさせないためにも各人ごとで言い訳をするよりも初めから話を統一させておいた方がいいだろうと判断したのだ。
案の定、コルテは疑うこともなく「なるほど」と頷く。
「ちなみにあんた達はなんで護衛も無しにこんなところを?」
「私たちですか? 実は故郷に帰るところでしてね。私は春から冬の始まりまでを商人として各地を周りながら辺境にある故郷の村に冬の物資を運んだりもしているのですよ。物資と言っても服の類ですがね」
「普通は隊商として家族と共に世界を旅したりするんじゃないのか?」
「ええ、普通はね。私のようにしている人は少数派ですね」
コルテは苦笑しながら説明する。
彼の故郷の村は一般の商人が来ないほどの辺境地域なのだ。また、魔族領域が近い東側というのもあって魔物も多く、旅人ですら滅多にこない。一応ではあるが、過去に1度目の召喚勇者が魔族の砦を攻めた時に駐屯村として利用されたことがあるらしい。
ともあれ普段は誰も来ないような田舎であり、物流も乏しいの一言。食料品は自給自足で賄えても、その他の必要物資で手に入らないものがある。そこで村からの売りに出せるものを売って、外から物資を買い込んでくる代表のような存在がいる。それがコルテの一族なのだ。
危険なことを任せているだけあって村の中では優遇されているそうだが、1年のほとんどを家族と共に過ごせないのは寂しいものがあると語るコルテ。だが、だからこそ必ず帰ろうという気持ちになれるのだと笑いながら言ったのだった。
「まぁ、要するに村から御遣いに出ているような立場なので護衛がいないのですよ」
「それはまた無責任だな」
「そうでもありません。自分の身は自分で守るのが辺境のルールです。それに辺境村は一つではありませんからね。私と同じような仲間も何人かいます。私だけ甘える訳にもいきませんよ」
「それでも立派な仕事ですね」
片づけを終えたフィリアがソラとコルテの会話に混ざる。洗った食器や鍋類はたたんだテントの側に積み重ねられており、後はソラが虚空リングに仕舞うだけの状態だ。
「フィリア、お疲れ」
「いえ、そろそろ私たちも出発の準備をしましょう」
ソラは頷きながら立ち上がり、荷物に手を触れて虚空リングに収納していく。その光景に目を奪われたコルテとリックだが、ソラが空間収納の魔法道具だと言えば納得していた。
いや、Cランクでそのような高レベルの魔法道具を保持していること自体には納得していなかったのだが……
それでも本職の商人とは少し違うコルテは虚空リングを見ても変な欲を出そうとはせず、むしろソラに対して尊敬の念を送っていた。欲があったとしても、自分が逃げるしかなかった盗賊を全滅させたソラに歯向かうようなことはないだろう。冒険者ランクCというネームバリューもあるのだから、余程のバカでない限りは手出しをしようとは思わない。
そんなソラに目を向けながら、コルテはふと良い考えを思いついた。
「ソラさん、フィリアさん……よろしければ私たちの馬車にご一緒しませんか?」
「は?」
「え?」
ソラは荷物を収納する手を止め、フィリアもソラと声を重ねて返事をする。
元々のソラの考えとしては「日本人流助け合いの精神」で手を差し伸べただけだった。もちろんソラとフィリアの旅に余裕があったからこそ出来たことだが、この後はコルテとも別れるつもりでいた。もちろんフィリアはソラの言うことには従うので同様である。
驚くソラとフィリアにコルテは言葉を続ける。
「私共とお二人の進行方向は同じみたいですし、歩くよりも馬車の方が早いのは明白。助けて下さった恩もありますから、是非とも乗ってください。お二人の目的地は存じませんが、お別れするまでは馬車で送らせていただきます」
真面目な顔つきで申し出るコルテだが、もちろん打算もある。人族領域の東側は魔物が多い。それ故に冒険者であるソラとフィリアが馬車に乗っていたら緊急時には助けてくれるかもしれないと思ったのだ。
ソラとフィリアにしてもコルテの思惑は理解しているが、馬車に乗ることで進行速度が早まることは間違いないのだ。このまま持ちつ持たれつで利用し合うのもいいかもしれない。そう考えて二人はコルテに返事をする。
「ああ、それならお願いするよ」
「ええ、そうですね」
「本当ですか。ではすぐに馬車の用意をしますね」
そう言ってコルテも立ち上がり、息子のリックにも手伝わせながら近くの木につないであった馬を解放して軽く撫でてやる。長年を共にし、昨日は無理をさせて盗賊から逃げ切ってくれた相棒とも呼べる存在だ。今日もよろしく! という思いを込めて馬と馬車を連結させる。
そしてその間に荷物を片付け終わったソラとフィリア、そしてリックは馬車の方へと乗り込み、コルテは御者台に座る。
「では出発します」
コルテの言葉と共に馬車は動き出した。
さて、「なぜ商人は徒歩で1時間ほどの距離で安心していたのか?」ですね。
どういった計算でこの距離を算出したのかを追記しておきます。
まず、一般的に中学生程度の歩行速度は早歩きで時速6kmほどです。それなりに体力のあるクウとリアの歩行速度は時速8kmと仮定しています。つまりは1時間の徒歩で移動できる距離は8kmということになりますね。
コルテの馬は極度の緊張下にあったとは言え、馬車を引いていたので時速40kmだと仮定しました。この速度は8kmを12分で走破します。
そして同様にコルテ自身も命の危機的な状況で生存本能が極大に増加し、思考速度が上昇していると考えました。その加速率は5倍としています。つまりコルテの体感としては12分×5=60分=1時間と感じられる訳です。しかもこれはクウたちの野営地を通り過ぎてからの話であり、実際は遥か後方からずっと追いかけられていました。
そして馬が疲労で走れなくなって「もうダメか……」と振り返れば既に盗賊はいないという状況です。逃げ切ったと安心してしまうものだと思いませんか?
これは裏設定ですが、コルテが盗賊に奇襲を受けてから30分間も全力で逃げ続けていたということにしてあります。その内12分はクウたちの側を通り過ぎた後ですので18分間は盗賊に追い回されていたことになります。体感で80分も追い回されていたコルテのストレスを鑑みてこのような構成にしました。当然常に5倍も加速しているわけではないでしょうが、それに近い状態は維持されていると仮定しています。
ちなみに30分という時間は、馬が馬車を付けた状態で、極限状況下、全力で走り続けられる時間を想定しています。
まぁ、ともかくこれらの条件で方程式を立てて計算した結果が8kmという距離でした。予想外にピッタリな数字になってビックリです。そしてクウたちの歩行速度を時速8kmと仮定することで、徒歩1時間の距離という結果になります。
余談ですが思考加速の件について。
思考速度5倍というのは早すぎないか? と思われるかもしれませんが、意外とそうでもありません。作者は将棋を嗜んでいるのですが、残り時間30秒という時に自分が追い込まれている状況では、頻繁に思考加速が発動しています。このときの加速率が2~3倍程度です。
ましてや命の危機が迫った状況ならば5倍程度は十分あり得ます。
よく車と正面衝突する直前に「世界がゆっくりになった」と語る人がいますが、それも生命の危機を察した脳が活性化されている状態と言えます。
人の可能性というかポテンシャルは思っている以上に高いですよ。