EP55 試練②
一寸先すらも見えない暗闇の中、ただそこには一つの呼吸音だけが聞こえている。あまりに広すぎる空間であるためにその呼吸音も響くことなく消えていくのだが、それ以外に音のない世界であるため十分に聞こえた。
そしてゆっくりと規則正しかった呼吸音も遂に途絶えて、代わりに呟くような声が聞こえてきた。
「……随分と長く眠っていたようだ。体中が痛い」
クウはスッと体を起こして固まった関節を伸ばしていく。パキパキと気持ちのいい音がして幾分かはマシになったのだが、それでも要所要所に痛みが残る。魔剣ベリアルですらも歯が立たない漆黒の地面で寝ていたからだろう。本来なら寝袋の一つでも用意しておくべきなのだが、もともとクウは迷宮攻略を目的としてアイテム袋の中身を整理してきていたので、野営セットは持ち合わせていなかったのだ。
そしてしばらくは簡単な体操や筋肉を伸ばす柔軟をして体をほぐしていった後、改めて座り直して今の状況を思い出し始めた。
(幻想竜ファルバッサとかいう竜のせいでこの場所に転送させられた。おそらく脱出することが試練。空間は無駄に広くて光も届かない。そして俺の魔法は効果がない……)
MPが切れるまで大量の魔法を撃ち続けたが、何の反応もなかった。もともと魔法を使って脱出できないようになっているのか、新しい魔法を開発しなければならないのかは不明だったが、少なくとも今試していないのは《虚の瞳》だけになった。
(まぁ、虚空迷宮の特殊効果は幻術だし、その90階層の試練なら幻術に類するものである可能性は十分に高いからな。期待はできる……はずなんだが、《虚の瞳》は目を合わせることが前提だから生物以外には効果がないんだよな……)
目を合わせただけでMP消費もなく幻術をかけることのできるチート能力であっても、逆に合わせる目が無ければ無意味な能力へとなりさがる。暗闇に満ちたこの世界が幻術によるものだという推察は良かったのだが、そもそも精神値が5,000以上も上の相手であるファルバッサが作り上げた幻術を破ることができるはずがなかった。
仮にこの空間に魔物がいたならば地道にレベルアップするという手段もとれたのだが、生憎クウ以外には誰も何もいない。
(しいて言うならば、スキルレベルを上げることが出来るぐらいだな)
考えられる限りでは脱出は不可能と結論付けたクウだが、それで諦めたわけではない。試練なのだとしたら正解の方法は必ず存在するはずなのだ。
「俺のスキルでは不可能だとすれば、この空間自体に何かしらの仕掛けがあると考えた方がよさそうだな。とすれば、この空間のどこかに解除するための起点か何かがあるんだろう。……無駄に広くて何も見えないとかムリゲーすぎる」
広さも不明であり、暗闇のせいで自分がどこにいるのかも分からない状況では無暗に動き回りたいとは思わなかった。それにこの世界がもしテーブルのような場所だったら、つまり端まで行くと奈落に墜ちてしまう世界だとすれば、うっかり足を踏みはずす可能性もあるのだ。
「……ともかく慎重に行くしかないな。《光灯》で無駄にMPを消費したくはないし、盲目の障害者になった気持ちで歩き回ってみるとするか」
千里の道も一歩より、と心の内で唱えて歩き出すクウ。
樹刀の鞘に収められた木刀ムラサメで数歩先の地面を確かめながら少しずつ歩みを進めていく。樹刀の鞘の先が漆黒の地面を打つ音とクウの足音だけが聞こえる中、クウは少し考え事をしていた。
(空間を壊す方法か……地球で読んだ本ではどんな方法があったか……? 漫画やアニメ、ゲームの世界だったら刀で空間ごと切断する技とかあったよな。物理的に不可能だけど魔法があればできるのか? 魔法はある意味イメージ通りに願い事叶えてくれるものだしな……でも時空間属性が必要になる……あっ!)
ピタッと動きを止めて、いつだったか王城や【ヘルシア】の冒険者ギルドの書物庫で得た魔法の知識を思い出していく。
時空間属性
時や空間を司る特殊属性の一つ。才能を持っている者は極端に少なく、魔法陣で習得する方が一般的となる。ただし、魔法陣式の時空間魔法は大したことはできない。せいぜい空間拡張や指定空間時間減速、加速を使える程度である。
詳しい後天的習得方法は分かっておらず、生まれつき時空間魔法のスキルを持っている者以外に使えたという記録はない。
回復、結界、時空間、付与、召喚の特殊属性は基本7属性と違って生まれ持っての才能でのみ習得できるという説もある。
(特殊属性は後天的に習得できないと書いてあったけど、それは時や空間がどういったものなのかを理解していないからだとも考えられる。時間や空間の科学関連書物を思い出せ……)
クウはその場で座り込んで、地球で得た知識を思い出していく。
時間や空間の概念は高校物理では習わないため、頼りになるのはテレビや興味本位で読んだ科学書だけだ。
時間、空間、座標、エネルギー、ワームホール、一般相対性理論、光速、ブラックホール、事象の地平線、ビッグバン……
正確な理論は知らないが、知識として得ていた語を思い浮かべて時間と空間の概念をイメージしていく。
(一般相対性理論によると重力は空間の歪みだという。ブラックホールは極大まで空間を歪めた超重力空間であり、時間が圧縮されるらしい。そして光は一定距離を進むときにかかる時間が常に同じ……だったか?)
まずは引力を生み出す闇魔法《暗黒重球》から闇魔法と空間魔法の関係性を考えてイメージしていく。重力によって歪められる空間を知覚できれば空間を扱うきっかけになると思ったからだ。
「《暗黒重球》!」
暗闇であるため、同じ暗黒色の《暗黒重球》を見ることは出来ないが、クウは確かに体が引かれる感覚を覚えた。そして暗黒球を定位置に保ったまま周囲のある湾曲した空間をイメージしていくと、少しばかり引力が増えた。
そのことにほくそ笑みながら、さらにイメージを固めて空間を捩じ上げる。MPは想像を絶する勢いで減少していくが、関係ないとばかりに作業を続けた……
「くそっ!」
結局MPを使い切っただけで、時空間属性をスキル化することはできなかった。《暗黒重球》の威力が上がったのがせめてもの救いだろう。
最終的にMP切れで気絶するまで《暗黒重球》を使い続けたのだが、空間を操るという感覚を掴むことはできなかったのだ。
「いや、まだあきらめるのは早いな。光魔法で時間の概念を試してみるか」
光速は秒速30万kmで一定だということで有名だが、正確には『一定距離を進むときにかかる時間が常に同じ』なのだ。
例えば秒速10mで走る電車の中を秒速3mで歩いたとしたら、その人は実質、秒速13mで移動していることになる。これが相対速度という考え方だ。
しかし、秒速10mで走る車のヘッドライトからでた光の速度は秒速30万km+10mとはならない。光は必ず秒速30万kmのまま変わらない。理由としては、光が秒速30万kmになるように時間が引き延ばされるからだ。これが相対性理論の考え方になる。
光は約30万km進むのに、必ず1秒かかる。それ以上にもそれ以下にもならない。『一定距離を進むときにかかる時間が常に同じ』とはこういうことだ。
つまり、光を知ることで時間が捻じ曲がる概念を知覚できる可能性がある。上手くいけば時間魔法を習得できるかもしれない———
「いや、無理だな」
そもそも光の速さを人の目で感じることが出来ないので、どう頑張っても無理だった。それでも僅かな希望に縋って走りながら《流星》を撃ち続けたのだが、どう頑張っても時間の歪みを感じることは出来なかった。
当然ながら、時空間属性はスキル化されていない。
「やっぱり世の中そう上手くはいかないものだな。小説やアニメの主人公なら出来たのかもしれないけど、現実は世知辛い」
MPを大きく消費して疲れたクウは、倒れこむように寝転がって目を閉じる。
何度もMP切れを起こしては眠っていたので、本来なら一体どれほどの時間が経ったのかは不明だったのだろうが、異世界から持ってきた腕時計のお陰で10時間以上経っていることが分かっていた。
太陽の光がないこの世界にいたら、いずれは止まってしまうのだが、それでも今はありがたい。茫然としながらしばらく時計を眺めていた時、クウはふとあることに気付いた。
「そう言えば喉も乾かないし、お腹も空かない。どういうことだ?」
10時間以上も魔法を使い続けたり歩いたり走ったりしていたというのに、疲れはしても空腹や喉の渇きは全くなかった。食事と言うエネルギー摂取が無ければ生きている人間は活動出来ないハズである。クウは自分の顔が青ざめていくのが分かった。
「おい……まさか既に死んでいるんじゃないだろうな……。この真っ暗な空間は死後の世界だとでもいうのか!? 笑えない冗談だ!」
声を張り上げて叫ぶが、その声は反響することなく闇に吸い込まれる。
クウ自身は強がっていたのだが、誰もいない、光も届かないこの幻術世界に閉じ込められてから、すっかり精神が弱っていた。脱出の方法を考えて試していくことで希望とやる気を保ち続けていたのだが、もう既に限界が近づいていたのだ。
(俺は永久にこの暗い場所に閉じ込め続けられるのか……? いや、俺の心臓は動いているんだから生きている! だが、それなら空腹を感じないのはおかしい……)
グルグルと思考が渦巻いて呼吸も荒くなっていく。
法則の分からない世界に、情報の欠けた現状、何故か空腹を感じない体……異世界に召喚されたときですら落ち着いていたクウは、今まさに混乱して取り乱していた。
「俺はそもそも生きているか? この世界に閉じ込められたまま脱出する方法はないのか? だったらどうして装備はそのままで魔法もスキルも使える?」
心臓の音も呼吸も早くなり、バランス感覚を失ってクウはその場で倒れる。右手で胸を押さえると、普段では考えられないほどに心臓が拍動していた。全身から汗が吹き出し、呼吸はさらに荒くなっていく。
指先が痺れ、涙や鼻水、唾液が止まらなくなる。
―――過呼吸
一時的に呼吸が出来なくなり、それでも何とか息を吸おうとするために起きる現象だ。正しい知識を持っている者が近くにいれば、ゆっくり呼吸をすることを促したり、袋を口元に当てて呼吸を落ち着かせることが出来たのだが、パニックになって思考の鈍っているクウは不可能なことだった。
「はぁ……ぜぇ……かは、はぅ……がはぁっ……!」
痺れで手足が動かせなくなり、頭の中には「死」という言葉が渦巻いていく。クウが過呼吸だと理解していれば、この程度で死ぬなど有り得ないことは分かったのだろうが、混乱する今の状態では無理だった。
(優奈……悪い……)
鈍った意識が薄れていく中、最後に頭に浮かんだのはクウの前から消えてしまった幼馴染の姿だった。
過呼吸ってマジでしんどいです。
もし近くで過呼吸に陥った方がいらっしゃれば、励ましながらゆっくり呼吸をするように促してあげましょう。





