EP408 極限の物理
真っ黒に染まった球状の領域が出現した。
光すらも飲み込まれ、あらゆる物理法則が通常の機能をしなくなる暗黒の地帯。それがブラックホールに存在する『事象の地平線』の内側である。
『事象の地平線』周囲では空間が歪み、あらゆるものが吸い寄せられる。
勿論、アジ・ダハーカも同様だった。
これが通常のブラックホールならば、情報次元の独立化によって無効化できただろう。固有情報次元を境界面として物理法則から切り離せば、あらゆる自然現象を無効化できる。
しかし、《崩黒星》はクウの意思力が込められた術だ。情報次元レベルで防御を張ったとしても意思次元がそれを破る。
「これは一体!?」
「分からん。空間が歪んでいるぞ」
アジ・ダハーカの頭に乗っているオリヴィアとザドヘルは慌てた。この二人はブラックホールという現象を知らないので、この術がどういった特性を持っているのか理解できない。
二人に分かるのは、黒い領域に吸い込まれているということ、そして空間が歪んでいるということだけだった。
「脱出は出来るか?」
「アジ・ダハーカに転移させれば不可能じゃないわ」
「恐らくは奴が張った結界の外に脱出しなければ、この術からは逃れられん。急げ!」
この歪んだ空間は奇妙過ぎる。
アジ・ダハーカの傷から生まれた邪龍たちも《崩黒星》に吸い込まれているのだが、黒い領域に近づくほど吸い込まれる速度が下がっているように見えるのだ。しかし、現実としては黒い領域に近づくほど引力は強くなっている。
普通ならば吸い込まれる速度が上昇していくはずだ。
常識を覆すような現実を前に、ザドヘルは術から逃れなければならないという焦燥に駆られた。理解不能な術を不用意に喰らうのは悪手だからだ。
「やりなさい、アジ・ダハーカ」
オリヴィアは巨大すぎる眷属に命令を出した。「千死追憶」の特性には、空間系の能力もある。準超越者級なので、転移ぐらいは余裕だ。
《崩黒星》のせいで空間が歪み、演算に多少の狂いが生じる。だが、それを空間系能力で捻じ伏せ、転移術を完成させた。
アジ・ダハーカの巨体はオリヴィアとザドヘルと共に消失し、《黒死結界》の内部からも脱出した。ただし、脱出した先では遠征部隊が死霊勇者エイスケと戦っているだろう。そこで、転移先は自分たちが潜伏している場所に設定した。
以前の戦いに敗北し【アドラー】を捨ててから拠点にしている場所。
そこへと移動した。
「景色が変わった……転移は成功か?」
「ええ。拠点まで一気に転移したわ」
強い日差しが二人を照らし、周囲の海で反射して煌めく。眩しさで二人は目を細めるが、すぐに慣れた。時間が昼間になっているのは、時差の関係だろうと二人は考える。
オリヴィアはアジ・ダハーカを消して、拠点にしている島へと降り立った。
すると、すぐに良く知る気配がする。
二人の主、魔王オメガの放つ気配である。
「ようやく戻ったか。遅すぎだぞ」
「はい、ただいま戻りました。しかし遅過ぎとは? まだ一日も経っていませんが……?」
オメガの問いかけに首を傾げながら答えたのはザドヘルだった。
しかし、それでもオメガは不機嫌そうな雰囲気を変えずに二人を責める。
「何を言っている。一か月以上も連絡なしだったではないか。流石の我も心配したぞ」
「は?」
「魔王様、何を……?」
一か月。
それはオリヴィアとザドヘルを驚かせるのに十分だった。二人にとっては一日だったはずである。夜中に死霊勇者を投下した後、クウと戦っていた。絶対に一か月という長期間ではない。
「まさか……?」
オリヴィアが能力で死霊勇者エイスケとリンクを作ろうとする。それで向こうの状況を把握しようと考えたのだ。しかし、当然のようにエイスケは消滅していた。
恐らく、倒されたのだろう。
ただ、それは確認のやりようがないことを示していた。
「一体何が……」
「わからん……」
二人は狐につままれたような表情を浮かべるのだった。
そしてしばらくの後、本当に一か月の時間が経過していたことを知ることとなる。
◆ ◆ ◆
一方、《崩黒星》を発動したクウは即座に《黒死結界》から脱出していた。《崩黒星》は無差別に効果をもたらすので、すぐに脱出しなければクウも被害を受けてしまうのである。
「さてと。運が良ければ、超越者を数週間は封印できるな」
クウはそう呟きつつ、魔神剣ベリアルを取り出した。すると、瘴気が溢れて収束し、一人の美女へと変化する。
「あらマスター。もう終わったの?」
「取りあえず封印しておいた。ベリアルは《黒死結界》を維持しておいてくれ」
「別にいいけど……こんなので超越者を封印できるのかしら?」
「正確には封印じゃない。時間を減速しているだけだからな」
「時間を減速?」
ベリアルの疑問に対して、クウは簡単に答えた。
「本物のブラックホールを作った。あれは超重力で時間の流れを変化させるからな。事象の地平線近傍では、時間の流れが限りなく緩やかになる。それを利用しているだけだ」
詳しい説明には一般相対性理論が絡むので省略したが、この理論はかなり難解だ。エネルギー(E=mc^2よりエネルギーと質量は等価)の増大に従って重力は増大し、空間を捻じ曲げるというのが大まかな説明となる。
裏を返せば、空間が曲がることで重力が生じるという捉え方も出来る。
ちなみに空間は三次元空間に時間要素を加えて四次式となっている。つまり全空間におけるエネルギー分布から、空間湾曲の時間変化を観察できる式というわけだ。
ブラックホールはそれを逆手に取り、かなり雑だが、次のように考える。
(dτ/dt)→∞
dτは空間座標の微小変化であり、dtは時間の微小変化だ。時間変化に割合あたりで空間変化を考えると、エネルギー(つまり質量=重力)分布を算出できる。
逆に、ブラックホールのように重力無限大では、エネルギー無限と考えることができる。つまり、上記の式であるように(dτ/dt)→∞が成り立つのだ。
ここで(dτ/dt)が無限になるためには、dtが限りなくゼロに近くなければならない。つまり時間変化が殆どない。言い換えれば、時間の流れがものすごく遅くなる。
だから、超重力の付近では時間が殆ど停止してしまうのだ。
「暫くはオリヴィアとザドヘルを閉じ込めておける。あのアジ・ダハーカって奴の対策が出来るまでは放置だな。それに、折角の機会だ。超越者を封印している間に、こっちも戦力を整えられる」
日を改めてアリアとリグレット、ユナを呼び、オリヴィアとザドヘルを叩くのも良い。だが、どうせ逃げられるだろう。それならば、相手の戦力が低下している間にこちらの戦力を整えるのだ。
それがクウの考えである。
「ふぅん。それならいいわよ。結界を維持しておくわ」
「ああ、頼む」
クウはベリアルに頼みごとをした後、次に下を見下ろす。
遥か下方では、マーブル模様に光を放つ球状の結界が構築されていた。更に言えば、その周囲を遠征部隊のメンバーが取り囲んで心配そうにしている。
クウが解析した結果、界を区切ることで内部に広い領域を作り出す高度な結界であると分かっている。そして、スキル異常が起こっている現段階で、あのような魔法が使えるのは一人しかいない。
(桐島か……)
結界まで張っているということは、戦闘が発生しているということだろう。それこそ、勇者たちが相手でなければならないほどの強敵だ。
クウは《真理の瞳》で解析を続け、結界の内部にまで情報次元を探る。
情報次元を探れば、空間遮断など意味をなさない。あっという間に解析され、クウは内部の情報を知ることが出来た。
(あれは……デス・ユニバース? オリヴィアの奴、どさくさに紛れてとんでもないものを……)
デス・ユニバースはステータスに縛られた存在であり、クウからすれば大したことはない。しかし、一般人からすればとんでもない強敵だ。幾らセイジたちでも無理がある。
「助けるか。死なれるのも嫌だし」
クウはそう呟いて、翼を消してから降下し始めた。ベリアルもそれに従い、音もなく着地する。同時に、クウはフードを被って顔を隠した。
そしてセイジの発動させた結界に近寄る。
すると、クウとベリアルの姿に気付いたユークリッドが話しかけてきた。
「君たちも無事だったのか!」
「ああ、ユークリッドも無事そうだな」
「それよりも勇者たちが結界に入ったまま出て来なくてね……どうしたものかと……」
ユークリッドだけでなく、皆が困っていた。空間を遮断されているので、彼らにはどうしようもないのである。今はエイスケの攻撃で負傷した者たちを治療するぐらいしか出来ていない。
戸惑いつつ、勇者たちが出てくるのを待っていた。
「で? 敵は?」
「どうやら先代勇者らしい?」
「…………はぁ?」
「精霊部隊の隊長さん……ミミリスさんだっけ? 彼女が言っていたよ。多分……アンデッドになって復活したんじゃないかな? 確か先代勇者ってこの砦で死んだんだよね?」
それを聞いて、クウはオリヴィアのやったことを大まかに理解した。
先代勇者エイスケがこの砦で戦死したことはユナから聞いている。それを利用して、オリヴィアはエイスケの死霊を送り込んだのだ。恐らく、人為的なものだとは思われないだろう。自然な形で勇者に強敵をぶつけることが出来る。
そしてセイジがそれを乗り越えた時、超越化する可能性がある。
デス・ユニバースとはそれほどの強敵だからだ。
(となると……邪魔した方がいいな)
クウはそう判断した。
どうせ助けるつもりだったの丁度いい。クウは結界に目を向ける。そして「魔眼」を使い、セイジの結界に穴をあけた。この程度、《神象眼》を使えば簡単である。
これにはユークリッドも驚いた。
「こ、これは……?」
そして彼の叫びに皆が注目し、結界の穴を見て驚いた。全く割れる気配のしなかった結界に、人が通れるぐらいの穴が開いていたのである。驚くのも当然だ。
わらわらと人が集まってくる中、クウはそれらを無視して中へと踏み込んだ。勿論、ベリアルもそれに続いて結界の中に踏み込む。
「ちょ、ちょっと待ってくれ少年!」
ユークリッドは制止を掛けるが、クウは止まらない。
そしてベリアルが結界の穴を通り抜けた瞬間、その穴も閉じてしまった。ユークリッドを始め、それを見ていた者たちは慌てて穴の開いていた位置を手で探るが、元の結界に戻っている。
「どうなっている? 確かに穴が……」
「何か仕組みでもあるのか?」
「いや、分からない」
「あれはギルド協力者だったよな。一体どうなって……」
「とにかく結界を調べるぞ。中に入る方法があるかもしれん!」
クウとベリアルの姿が消えた後、冒険者たちを中心として結界を調べ始めるのだった。
一般相対性理論は私も詳しく理解していません。
私なりに本を読んで解釈したものが今回の文章です。本職の方が見れば激怒してしまうような適当なものかもしれませんが、ご了承を。
 





