EP316 忘却された歴史④
「……う」
シンが目を覚ますと、そこは清廉とした空間が広がっていた。目の前には清らかな泉が湧き、様々な草花が風に揺れている。仄かな香りがシンの嗅覚を刺激したことで、ようやく思考を覚醒させたのだった。
(そうだ。俺はあの巨人に負けて……)
たったの一瞬だった。
千手観音のように無数の腕を出現させたメギドエルは強すぎた。一撃ごとに空間を歪める効果が付与されており、ダメージを負うたびにシンの霊体は乱された。形を保てなくなり、徐々に体が削られていく感触も思い出せる。
そして思い出すと同時に身震いを起こした。
最近は戦場に身を置いていたとはいえ、あれほどボロボロにされるのは初めてのことだった。圧倒的な実力差を思い出すと、それだけで背筋が凍る。
だが、そんな寒気を掻き消すような甘い声がシンの隣から聞こえて来た。
「目が覚めたようだねシン・カグラ」
「っ!?」
咄嗟に右隣りへと目を向けると、そこには木にもたれ掛かって腰を下ろしている金髪の青年がいた。ブルーの瞳は宝石のようで、肌は白く、全体的に整った容姿をしている。そして彼の中性的な声を聴くと、どこか陶酔したかのような感覚に襲われた。
だがシンはそれを振り払い、警戒心を強めて距離を取る。
「あなたは誰だ?」
「私かい? 私は■■■■■だよ」
「は?」
「■■■■■さ。いや、ダメだね。やはり名乗れない。封印されてしまった弊害か」
ブツブツと呟きながら青年は近くの花を手折る。
そしてそれを鼻へと近づけ、香りを楽しんでからシンに流し目を向けた。
「そうだね。今の私は名無しだ。名無しの邪神なのさ」
「な……に……?」
衝撃を受けるシン。
だが、青年の言葉を事実だと示すかのように別の気配、堕天使メギドエルの気配が現れた。僅か一瞬で自分を倒した者の気配である。忘れるはずがない。
シンが振り返ると、やはりそこには三対六枚の黒い翼をもつ巨人堕天使メギドエルがいた。
前門の邪神、後門の堕天使。
まさに絶体絶命である。
だが、焦るシンに対して、邪神は手折った花を愛でながら優しく語り掛けた。
「そう緊張することはないよ。私は君に危害を加えるつもりなどない。私にとって君は大きな可能性を秘めた存在なのだから。今のところはね……」
「今のところ……?」
「そうさ。私は虚空神のせいで力を封印されてしまってね。だが取り戻す方法はある。そのカギを握っているのが君なのだよ。虚空神どころか、エヴァン六神全ての加護を持つ君が……ね」
あ、色々やばい。
シンがそう悟った時には既に遅かった。
いや、堕天使メギドエルに敗北した時点で既に手遅れなのだ。後悔するしないの問題では無い。シンをこの世界に送り出した六神の話では、邪神は天使と同等レベルまで弱体化しているという話だった。
しかし、なりたて天使であるシンと比較すれば話は変わってくる。権能を使いこなしていないシンでは弱体化した邪神と堕天使を同時に相手にするなど不可能だ。
つまり、邪神の提示してくる話には全て『はい』か『Yes』で答えなければならないのである。
「私と契約を結ぼう。もしも承諾してくれるなら、君は天使という殻を破り、神に至ることも出来る。とてもいい条件だと思わないか?」
「はい、是非とも了承させてください!」
「そうだろうね。まぁ断ると……え? 了承するのかい?」
「死にたくないので!」
前後を挟まれ、交渉の余地すらないと考えているシン。だが、実は断ったところでいきなり殺されるというようなことはなかった。
何故なら、邪神は封じられた自らの権能を取り戻すためにシンが必要なのだ。それは絶対なので、ここで不用意に殺したりはしない。邪神はそれを見越して幾つかの妥協案も考えていたのだが、シンはそこまで思い至らなかった。
(ふむ。思ったより頭が悪いようだ)
これは邪神にとって好都合である。
わざわざ好イメージの湧きやすい場所に連れてきた上、逃げられる可能性を考慮しても拘束していなかったのだ。全てはこの交渉を上手く運ぶためだったのだが、どうやら必要なかったらしい。それなら、初めから恐怖を前面に出しても問題なかった。
これからの予定をすぐに脳内修正した邪神は、警戒を解いてしまうような甘い声でシンに語り掛ける。
「了承してくれるなら話は早いよ。契約といったけど、何も難しいことをするわけじゃない。この契約が成れば、君は新しい神に至るのだからね。心配はないよ。勿論、対価は頂くけどね」
「対価……? まさか俺の魂!?」
「……流石に超越者の魂を奪い取るのは難しいね。まぁ、身構える必要はないよ。私が君に求めるのは『名前』なんだから」
「名前?」
シンは首をかしげて言葉を返す。先の問答で顔を青くしていたが、今は安心して元の顔色に戻っていた。シンもこれまでの会話である程度は邪神に心を開いたらしく、より警戒を弱めていた。これなら楽に契約を済ませることが出来そうだと考えた邪神は、笑顔を崩すことなくシンの疑問に答える。
「神にとって名とは力だよ。私も■■■■■という名を持っていたのだけど、虚空神ゼノネイアに封印されてしまったのさ。そのせいで今の私には殆ど力が残っていない。残滓とも呼べる状態なのさ。魂が神格を有しているから、邪神という形を保てている。けど、新しく名前を得ることが出来れば別だ。私は再び力を取り戻し、邪神から神に戻ることが出来るだろう」
「つまり……俺があなたに名前を付けるってことですか?」
「それは少し違うね。君の名前を半分貰う。その対価に私は神格を君に分けてあげよう。そうすれば魂の格が一段階上がり、神と同等になることが出来る。私の名を封印した虚空神の加護を持つ君の名前なら、そこから魂の回廊を構築し、権能を取り戻すことも出来るはずなんだ」
「俺の名を……」
「ああ、心配はいらないよ。君の名前を半分だけ貰う。それで十分だ。君が全ての名を失い、結果として力が消失することは絶対にない。私の神格に誓ってもいい」
正直、シンにはその誓いが信じられるのか分からない。邪神を名乗っている以上、その言葉を鵜呑みにすることが危険であることは理解している。
ただ、同時に断れないことも理解していた。
(ええい! 毒を食らわば皿まで! 名前でも何でも渡して神になってやろうじゃん!)
シンはある意味で振り切れていた。
もうエヴァン六神の頼みや自分の矜持より、生き残ること、そしてより面白い方へと思考が傾いていた。元が平凡だったが故に『天使になったんだから神もいける!』という思考へと落ち着いてしまったのである。
邪神が言うのなら出来るのだろう。
そう考えたシンは邪神との取引に応じてしまった。
「そうかい」
首を縦に振るシンを見て、邪神は甘い笑顔を浮かべる。
そうしてこの日、邪神は名前を貰い、シンは神格を手に入れた。
邪神カグラ。
最下位光神シン。
この二体が誕生したのである。
◆ ◆ ◆
その後、光神シンは自分の能力について理解を深めていた。取りあえずの目標は、無生物しか干渉できない状態から生物にも干渉できるようにすることである。
シンはその一環として大量の因子を集め、新しい生物を構築していた。
「うーん。上手に形が定まらない……」
因子は揃っているし、能力上は不可能ではないはずだった。しかし、シンは自分が生物を創造するということに疑問を持っていたのである。人としての記憶が強いので、物は創れても生物を創るなど有り得ないという根底が残っていたのだ。
それ故、意思力を根源とする権能も充分に発動できず、生物を創造するには至らなかったのである。
「ダメかい?」
「難しいですね」
「理論上は可能なはずだけどね。困ったな」
邪神カグラもシンの能力研究に協力しているのだが、やはり上手くいかない。カグラは元神として、シンのどこに問題があるのか理解している。人としての記憶があるゆえに生命創造という事象に歯止めがかかっていると気付いているのだ。
しかし、それを指摘すれば余計にシンは意識してしまうだろう。
生命創造からさらに遠のく結果になる。
上手く誘導して、コツを掴ませる必要があった。
「そうだね……まずは依り代を用意して、形ある状態から始めてみようか」
「依り代?」
「うん。分かりやすく言えば、ロボットという依り代を用意して、動作プログラムを君が入力することだね。そうすれば簡単な生命になるだろう?」
「なるほど」
「動物の死体を使うと死霊術に近くなるし、まずは植物を依り代にしてみようか」
「わかりました」
元は日本人なので、ロボットを作るという発想ならイメージできる。
近くにあった木を依り代に因子を送り込み、組み合わせ、新種族を構築する。植物に親和性を持たせるため、植物の意思を理解できるエルフの種族特性を多めに混ぜた。色々な種族の長所を取り込むために、ドワーフたちの器用さやヴァンパイアの知能、獣人竜人の運動能力、人魚族の水中活動能力の因子を混ぜ、容姿は人間をベースにしていく。
さらについでとばかりに、自分が天使だった頃の因子も混ぜ込んだ。
普通ならば相当なカオスを巻き起こす合成だが、それを調和させるのがシンの権能【伊弉諾】である。
(アルラウネみたいな植物人間が出来るはず!)
シンは集中して因子を組み立て、権能を使って調整していく。絵のないパズルを組み立てるような難解さだったが、寝食が必要ない神であることが幸いし、シンは延々と作業を続けることが出来る。依り代という型があることで因子も嵌め込みやすく、数か月が経つ頃には完成していた。
これまでは一か月かけても殆ど進まなかったので、大きな進歩である。
「出来た……!」
依り代とした木から手を放し、シンは安堵の息を吐く。
あとは生命の根底となる魂を入れれば生命としては完成だ。そして神となったシンは、世界のシステムに「理干渉」を実行することで輪廻の中にある魂を入手することが出来る。巨人種が侵攻したことで余っている適当な魂を引っ張り、「因子操作」で依り代に合うよう調整してから、その魂を入れた。
ちなみに、魂の操作については神の先輩である邪神カグラの意見を参考にしている。
魂は因子を混ぜた依り代にピッタリと嵌り、歪ながらも生命として機能し始めた。
「うん。初めてにしては上手だね」
「邪神に褒められるとなんか微妙な気分だけど……」
「これでも私は一柱で世界を支えていたこともある。神としての権威は低いけど、仕事は出来る神だった。自分で言うのもアレだけどね」
「この世界は六柱も神がいるし、確かにそれなら優秀かも」
「まぁね。だけど、この世界の神は神域協定の仕事を持っている高位神格ばかりだからね。私のように世界の管理だけをしているわけではないのさ。だから一概には比べられないかな?」
「なるほど」
二人がそんな話をしている内に、依り代となった木が変異する。シンの因子改造と魂の注入によって普通の木から逸脱し、一つの生命として生まれ変わった。
ポンッ……と気が抜けたような音がして、木の根元に一糸纏わぬ少女が出現する。その姿は普通の人間と同等であり、これにはシンもカグラも驚いた。
少女は目の前に立つシンとカグラを交互に眺め、最後にシンの方を見つめつつ呟く。
「……パパ?」
「へ?」
光神シンはようやく生命を一つ創造したのだった。





