EP221 血呪の雨
夜空を塗り替えるほどの激しい黄金のオーラが放たれてネメアは真なる姿を顕す。大きさとしては十メートル程度でしかないが、ネメアの象徴とも言える九本の尾は二十メートルもの長さを誇っている。つまり、頭から尾の先までを含めれば三十メートルほどになるのだ。尤も、尻尾は丸めているため、それほどの長さには見えないのだが……
”ネメアか。クウが上手く呼んできたようだな”
”ウチの迷宮の上でこんな化け物が暴れてるなんてビックリやで。あいつ何なん?”
”詳しくは分からぬ”
”つまり何となくの心当たりはあるんやね”
”そういうお主もあるのだろう?”
”そやね”
ネメアとファルバッサはオロチを挟みながら会話をする。会話の内容はクウにも分からないことが含まれていたのだが、あまりよろしくない内容だということは察することが出来た。
しかし、魔力も体力も残っていないクウにとっては、そんなことよりも今を生き残る方が重大な問題である。今すぐにでも眠りたい気持ちを抑えつつ、クウは翼を展開してファルバッサの背中へと降り立ったのだった。
「クウ殿」
「シュラムか」
空から近づいてくる気配には気づいていたため、シュラムも驚いたような表情はしていない。そして同様にアシュロスとエルディス、ヴァイスも同様だった。感知系スキルのないミレイナだけは気付いていなかったのだが……
クウはそんな彼らに軽く見渡した後、ファルバッサに向かって話しかける。
「おいファルバッサ。ネメアを連れて来たぞ。これで勝てるか?」
”まぁ、少なくとも負けはせぬだろうさ。倒すのが難しいのは変わらぬが”
「なんだ……? あんまり自信が無いみたいだけど」
”思ったより奴は手強い。我の権能を押しのけて術を発動させることも出来るようだ。権能の力は我の方が上だが、十二も首があるのは厄介だな。手数が違いすぎる。シュラムたちにも手伝ってもらってようやく対応できるほどだ”
「……六十年前は圧倒出来ていたんじゃないのか? 前に聞いた話ではそんな印象だったけど」
”六十年前は完全な召喚ではなかった。龍頭の部分だけが顕現していただけだったからな。力もそれだけ削がれていたから我だけでも問題なかった。それだけの話だ”
レイヒムは血の契約によって超越者であるオロチを条件付きで召喚できた。何十年というディレイタイムを使って召喚しても部分的にオロチを召喚できるのみであり、オロチを操ることも出来ない。だがそれで十分と言えるだけの強さがあったことも確かだった。
だが超越者同士の戦いでは部分召喚が大きな枷となる。
六十年前はこのお陰でオロチとレイヒムを追い詰めることが出来たのだった。
尤も、マヌケにもファルバッサはレイヒムの《怨病呪血》の呪いで潜在力を封印されることになり、結局敗北してしまっている。
「ホントに大丈夫か?」
”何とかしてみせよう。我が防御、ネメアが攻撃を担当する”
そっか、とクウが返事をする前にネメアがオロチへと仕掛けた。特にクウとファルバッサの会話が聞こえていたわけではないのだが、ネメアは自分が攻撃を担当するべきなのだと理解していたのである。ファルバッサの【理想郷】が防御向きの権能であることは分かりきっているのだ。
”消えてしまい。《融解の毒》”
オロチの背後で存在感を放っていたネメアが先制攻撃を仕掛ける。十二の龍頭を以て周囲を警戒しているオロチからすれば不意打ちにもならない攻撃なのだが、回避するには攻撃範囲が広すぎた。
ネメアは権能【殺生石】によって毒物を自在に操ることが出来るため、広範囲に対する攻撃を最も得意としている。巨体を有するオロチは、ネメアにとって攻撃の当てやすい的でしかないのだ。「粒子操作」「性質改変」の特性によって対象を溶かし尽くす毒を撒き散らした。
””””シャアアアアア!?””””
被害を受けた四つの龍頭が絶叫を挙げながらのたうち回る。その度に【帝都】が破壊されていくのだが、すでに獣人たちは避難しているので死者も負傷者もいない。それだけは救いだった。
ネメアの毒はオロチの「龍鱗」の性質すらも貫通して溶解させ、肉が解ける嫌な音がした。いや、正確には霊素の結合が無理やり破壊される音だ。超越者の肉体は莫大な数の霊力粒子――霊素――が意思力によって結合されている。ネメアの《融解の毒》は物質を分解するに留まらず、意思力にも侵食して霊素の結合を破壊することが出来た。「龍鱗」で防御できないのも当然だった。
オロチは残りの龍頭で即座に抵抗する。
”開け【深奥魔導禁書】。余が求めるは『抵抗の書』『結界の書』”
身体を溶かされた痛みで暴れまわる四つの龍頭に対して、残りの八つはネメアやファルバッサを警戒したりする一方で、二冊の書を展開しつつ魔法を完成させる。
”弾き返せ、無敵の盾よ。《祓邪神盾》”
”ん?”
魔法が発動された瞬間にネメアは違和感を覚えた。「粒子操作」によって操っていた毒が、オロチへと浸透しなくなったのだ。まるで何かに弾き返されているような……
”ネメアよ。状態変化系の能力を完全に遮断する結界のようだ。まずはそれを破らねばならぬ!”
”面倒やねぇ”
ファルバッサは「竜眼」と「理」の合わせ技によって情報次元を解析し、オロチの発動した術を理解してネメアに伝える。多彩な魔術や秘術を使うオロチの手数は能力面でも厄介だ。
本来ならネメアの《融解の毒》によって魔素結合すらも破壊され、結界も意味を為さないはずなのだが、オロチは意思力を多重に乗せることで抵抗していたのである。ネメア自身も「並列思考」の性質を所持しているのだが、さすがに並列して意思を重ねることは出来ない。オロチの「並列思考」は十二ある龍頭のお陰で「並列意思」とも呼べるほどに強化されているのだ。不利な戦いの中で、オロチも自身を進化させていたのである。
”ファル。風の法則をウチに渡して”
”よかろう”
ファルバッサは【理想郷】で支配している領域内の法則の内、空気粒子に関係する法則関連をネメアに明け渡した。いや、むしろネメアの能力を手助けするようにと法則を弄る。
だがその隙にオロチが次の一手を打っていた。
”開け【深奥魔導禁書】。余が求めるは『血の書』『侵食の書』『精神の書』”
ファルバッサが法則を改変している内にオロチは三つの書を展開し、魔法陣を構築する。大規模に広がった魔法陣は徐々に巨大化しながら【帝都】を丸ごとを覆いつくし、さらに拡大を続けていた。夜の暗闇の中で赤黒い魔法陣が輝き、ファルバッサの背中からその光景を見ていたクウたちは背筋が凍るような気分になる。
同じく危機を感じ取ったファルバッサとネメアも発動される魔法に備えた。
”嘆きの血の雨よ、降り注げ。《神罰:終末の第二》”
「並列意思」の性質へと進化したオロチは、もはやファルバッサの魔術妨害では止められない。意思力を多重に展開することで無理やり突破されてしまうのだ。
オロチが発動した神罰級の秘術は超広範囲に渡って効果を齎した。
「なんだこれ?」
「どうした」
「いや……上から水が……雨?」
【帝都】だった場所で繰り広げられている巨獣の決戦を遠目にしつつ逃げていた獣人の一人が呟いた言葉に、近くに居た者が反応した。
砂漠地帯で雨は非常に……非常に珍しい。それこそ一生で一回だけ見ることが出来るかどうかといったところだ。獣人や竜人の寿命を考えれば、三百年に一回程度ということになる。それだけに雨という単語すら知らない者もいたほどだった。
そのため、上空から落ちて来た水滴に獣人たちはちょっとした騒ぎになる。
しかしすぐにそんな余裕は無くなった。
「待て……これって水じゃないぞ!」
「これは……血か?」
嗅覚が敏感な獣人はすぐに振ってくる水滴の正体に気付いた。闇夜で見えていないため気づきにくいが、それは確かに血の匂いだったのだ。
そして降ってくる血の雫は徐々に数を増やして雨の如く砂漠の大地に注がれる。
さらにそれと並行して血の雨に触れた獣人たちにも変化が起きた。
「がっ……あ……」
「うぐぅ。うあぁ」
「や、止めてくれぇぇぇっ!」
「いやああぁぁっ!?」
「ああ……あああああ……」
「ふううぅぅ……ああ」
「ぐふっ。あが……」
次々と獣人たちが倒れ、苦しそうに呻き始めた。それを茫然としながら見ることになった周囲の獣人たちも、次の瞬間に精神をゴッソリと削り取られるような感覚を得て同じく倒れる。
身体の苦しみではなく精神的な攻撃。
血を媒体とした精神攻撃の呪いを広範囲に撒く。
災害のように降り注ぐ血の大雨は生命を呪いながら大地に溜まり、血の海を形成する。そしていずれは地下へと侵食し、大地から地下水、地下水から河川、河川から海へと流れて超広範囲の生物に呪いの効果を与えるのだ。
この血に触れた生物は自身のトラウマや苦手とするものを根源として終わらない苦しみを受けることになる。そしていずれは自ら死を選ぶことになるだろう。
降り注ぐ血の雨を回避できたのはファルバッサと背中に乗るクウたち、ネメア、そして狐獣人の首長ローリアだけだった。
「これは……なんと恐ろしい」
獣人たちの避難に動き回っていたローリアは血の精神攻撃を防いでいたのだ。
ローリアは展開されていた赤黒い魔法陣を見た瞬間に悪寒に襲われていた。そしてすぐに全力で《気纏》を発動させ、精神攻撃に耐性を付けたのだ。本来ならローリア程度の《気纏》では防ぎきれないのだが、ファルバッサが【理想郷】で妨害していたお陰で、どうにか耐えきることが出来ていたのである。
しかしローリア以外は耐え切れなかった。
それがこの結果である。
ローリアの呟きは砂漠を転がりながら苦しむ数万人の獣人を見たからこそだった。
「ああ……九尾様」
ローリアは天九狐ネメアに祈る。狐獣人の崇める九尾の狐が顕現したことには驚いたが、今は頼れる神に祈ることしか考えられない。人智を越えたヒュドラに対抗できるのもまた、人智を越えた神獣しかいないだろう。
もちろんネメアにはローリアの願いなど届いていない。
しかし期待に応えるかのように、ネメアは権能を使用した。
ネメアを包む黄金のオーラが一層輝き、丸められていた九本の尾が扇状に開かれる。ネメアの権能である【殺生石】に含まれる「粒子操作」「性質改変」「変化無効」の性質が融合され、本来の効果を顕したのだった。
第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
ヨハネの黙示録8章8~9節
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