EP143 VS.オロチ、レイヒム③
洪水が天から押し寄せてきたような、そんなことを彷彿させる大雨に打たれているオロチは、その巨大な体を横たえながら思考していた。
(余が傷を負うとはな……)
オロチは超越者である。
ある条件を満たすことで世界のシステムから完全に逸脱し、神の片鱗たる力を行使する存在。そんなオロチがたった一人の人間に傷を負わされているのは許しがたいことだった。
【深奥魔導禁書】を使って大雨を降らせたところまでは良かった。だが、現実に近い幻術の煮えたぎるマグマの海に大量の水がぶちまけられたことで水蒸気爆発を引き起こすことになったのだ。
オロチを飲み込むほどの溶岩海が引き起こした水蒸気爆発の規模は並みではなく、その衝撃は龍鱗を突き抜けて内部まで及んでいた。
「全く、いきなりこんな雨を降らせないでくださいよ。私の《魔障壁》が間に合わなかったら死んでたじゃありませんか」
”知らん。その程度で余は死なぬ”
「いえ、あなたではなく私が死にます」
透明宝玉の龍頭の上で青白い障壁をドーム状に展開しながらレイヒムは文句を言う。圧倒的な能力を誇るオロチはまだしも、レイヒムでは水蒸気爆発に耐えきれるはずがない。しかしオロチが《開け天の窓》を発動する直前に《魔障壁》を展開していたお陰でギリギリ生き残ることが出来た。
「もう私の魔力は尽きそうですよ」
レイヒムは溜息を吐きながらそう語る。
まず竜人の長であるシュラムと三将軍のザントの攻撃を防ぐために《魔障壁》を使用し、オロチを召喚するために《召喚魔法》の《神獣降臨》を発動させた。この時点でレイヒムの魔力は三割程度になっており、そして先ほどの水蒸気爆発を防いだ《魔障壁》で殆どの魔力を持っていかれたのだ。
だがオロチは横たえていた体を持ち上げつつ面倒臭そうに口を開く。
”ふん、初めから余の力で竜人共ごと殺し尽くせば良いものを……”
「ダメですよ。彼らは全員……とはいかずとも、それなりの数を捕獲する必要があるのです。殺してしまっては意味がありません」
やれやれ、といった口調のレイヒムにオロチは少し苛立ちを募らせる。
だが元々からレイヒムには竜人を殺すつもりはなかったのだ。いや、寧ろ殺さないように慎重に戦いを進めてきたほどだ。何度も竜人を攻めたてて疲弊させ、最後にオロチを召喚して戦意を根こそぎ奪い取る。
それが元の計画だった。
しかしそれは予想外の存在の介入によって失敗に終わる。竜人の間で神獣と崇められるファルバッサが舞い戻ってきたのだ。それだけでなく、白いマントを羽織った謎の人物の攻撃もあって現在のような状態に陥っていた。
誰が悪いわけでもなく、完全に運がないとしか言いようがない。それだけにオロチの苛立ちは、全て白マントの人物……つまりクウに向けられていた。
”余の手を煩わせた奴は必ず殺す”
オロチはそう言いつつ、レイヒムの返事も聞かずに今使用している魔法を停止した。
その瞬間、ガガガガガガ! と言う音が周囲を支配し、レイヒムの声は全く届かなくなる。先程まではオロチが空気振動を操作することで雨の音を遮断し、それによって会話していたのだ。しかしそれが解除されてしまった以上は、何を言おうとオロチの耳には届かない。
(はぁ……オロチの機嫌を取るのも難しいですね。まぁ今回はいいでしょう。どうせ私たちの邪魔をした竜と白マントは殺すつもりですしね)
レイヒムは若干諦めつつも、オロチの行動を許容する。彼にとって最重要は竜人を大量に確保すること。それを邪魔するのなら殺してしまっても問題ないのだ。
今の魔力が切れたレイヒムではクウもファルバッサも殺すことは出来ないし、そもそもレイヒムの戦闘能力はそれほど高くない。それをオロチが代わりにするというのだから反対する理由などないのである。
オロチは穿つような雨の中、首の一つが言葉を口にする。
”開け【深奥魔導禁書】。余は雨を望まない《閉じろ天の窓》”
すると鍋をひっくり返したかのように降り注いでいた大雨は徐々にその勢いを弱くしていった。神罰級の魔法は基本的に停止する方法がなく、無理やり止めるならば専用の停止魔法を使う必要があるのだ。
本来《開け天の窓》は放置すれば四十日は降りやまない。そのため中和術式である《閉じろ天の窓》を使う必要があった。
「ふぅ……雨を防ぐだけでも《魔障壁》が魔力を消費してましたからね。助かりました」
雨足が弱くなり、徐々に空が晴れていくのを見てレイヒムは胸を撫で下ろす。見れば上空に広がっていた半径一キロにも及ぶ巨大魔法陣も消えており、いつも通りの砂漠の晴れ模様が存在していた。
ただし大雨に晒された大地は砂漠の砂と混じって広大な泥沼と化しており、もはや立つことすら出来ないだろう。巨体のオロチは元から体の半分ほどを砂に埋めているため、あまり害もないのだが。
クウの顕現させたマグマの海も完全に掻き消され、いつの間にかオロチが幻術を打ち破っていたことを示していた。
「溶岩も消えてますね」
”当然だ。余の【権能】を使ったのだ。あの程度の溶岩など消えて当然だ”
しかしオロチもレイヒムも、あのマグマの海が幻術だったことには気づいていなかった。もちろんそれ程リアルに近い幻術を生み出すクウの《幻夜眼》が強力であることも理由に挙げられるのだが、最も大きな理由はオロチの分析能力が意外と低かったことだろう。
オロチはその強さ故に相手や、相手の能力を分析することなく叩き潰すことが出来る。危機を感じ取る本能も薄れ、分析能力が非常に低下していたのだ。
そうでなければキングダム・スケルトン・ロードすらも超えるオロチがクウの幻術を即座に破れないハズがないのだ。
幻術と気づかず、魔法の力技で捻じ伏せようとしていたオロチのミスである。
”開け【深奥魔導禁書】”
しかし幻術すらも魔法の力でゴリ押しできるのも事実。
そしてその力は再びクウへと向けられようとしていた。
鎖が解き放たれた黒い魔導書がパラパラと捲られ、中から魔法陣が飛び出していく。
”余が欲するは『闇の書』『血の書』『魂の書』”
描かれていた魔法陣から三冊の本が飛び出し、それもまた勝手に開かれていく。その三冊の本からも新たな魔法陣が描かれていき、複雑怪奇な紋様を描く。それはエヴァンの人の身では再現できないような非常に高度な術式であり、とある異世界の魔王が使うと【深奥魔導禁書】には記載されているものだ。
”余の手となって働け《冥道血導》”
魔法の発動と同時に魔法陣はオロチが作った泥沼へと沈んでいく。そして数拍の後にゴゴゴ……と振動が鳴り響き始め、それは徐々に強まっていく。その振動は縦に横にとランダムに引き起こされ、透明宝玉の龍頭の上に乗っていたレイヒムも思わず両手両膝を着いて耐えていた。
地球基準にしてにして凡そ震度八。それは建造物が崩壊し、地面がひび割れるレベルである。オロチの長い胴が振動を柔軟に受け流すことで、レイヒムの感じる震度は幾らか減少していたが、それでも立ち上がることは難しい。
それでも何とか踏ん張って龍頭の上から地面を見下ろすと――――
――――広大な泥沼から無数の黒い手が次々と這い出てきた。
◆◆◆
「ぐっ……」
クウもレイヒムと同様に、強く揺れる地面に翻弄されて……はいなかった。
魔力による防壁を張る《魔障壁》は、応用すれば足場のように使うことが出来る。泥沼と化した砂漠の大地から逃れるために、空中に足場を作っていたのが幸いしたのだ。
とはいっても、周囲は震度八ほどの揺れを見せているのだ。そのせいでクウも酔ってしまい、揺れてもいないにも拘らず膝を着いて耐えていた。
「またオロチが何かやってるのか……?」
余りの激しい揺れにクウは周囲を確認することが出来ない。全ての景色がぼやけて見えるため、周囲が今どのようになっているかの情報が入ってこないのだ。
《森羅万象》の解析も対象を視認するという条件があるので役に立たない。
なんとか魔力を感知することでオロチが魔法を発動していようとしている事だけは理解していた。
「この魔力は拙いな」
普通では有り得ない想像を絶する魔力量。
今のクウが全力を注いでも足りない魔力による干渉が空気中の魔素を震わせ、大規模な魔法が発動されようとしていると教えてくれる。その威力は超範囲殲滅魔法に並ぶと思われ、クウの持つ魔法の中では《特異消失点》が例として挙げられる。
しかしクウが魔力の練り上げと演算に一時間ほどかけて発動する魔法を一瞬で発動しようとしているオロチは異常の一言だ。
それが【深奥魔導禁書】の能力であり、ファルバッサがオロチには絶対に勝てないと語る理由の一つである。
数多の命を一度に葬り、地形すらも変えてしまう超範囲殲滅魔法を潤沢な魔力を使用して詠唱もなく放てるというのは圧倒的な有利だ。いや、圧倒的な理不尽だと言っても過言ではない。
『ア”ア”アアア”アァアァアア”アア”アアアァッ!』
まるで地獄の底から聞こえてきたかのような叫び声が木霊し、無数の黒い手が泥沼から出現する。何かを求めるかのように伸ばされた手は空を切り、そして力なく泥に沈む。だが次の黒い腕が伸ばされ、それもまた沈んでいく。その繰り返しだった。
クウはと言えば、黒い腕が這い出てくるのを見た瞬間、咄嗟に翼を展開して遥か上空へと逃れていた。
纏わりつくようにしてクウの《魔障壁》に手が伸ばされている光景はさすがにホラーであり、逃げの一手を取らざるを得なかったのだ。
「あんな感じに『おいでおいで』しているホラー画像があったよなー」
キロ単位で広がっている泥沼から無数の手が『おいでおいで』と招いている光景となれば地球のホラー画像など比ではないだろう。その手に捕まればあの世へ誘われるなどという都市伝説も付き物だが、目の前の黒い手は本当にあの世へ送ってくれるに違いない。そうクウは確信していた。
「これは空を飛べなかったらヤバかったかもな。空中移動できる絶対的優位性を思い知らされるよ」
黒い手は何度も空を切っては崩れて泥に沈んでいくのだが、それを繰り返すたびに腕の伸びる距離が増えている。クウのいる遥か上空までは全く届いていないのだが、地上に居れば間違いなく捕まっていただろう。いや、このまま放置していたとしても、いつかはクウの元へと届くかもしれない。
だからこそクウは目の前の事象を消し飛ばすことを決意した。
「この範囲なら《滅亡赫星雨》かな?」
オロチの四つの首を穿った《滅亡赫星雨》は広範囲に「消滅」の特性を孕んだ雨を降らせる魔法だ。一回で黒い腕を全て消せるわけではないだろうが、どうせ黒い腕の反撃がクウの元まで届くわけではないのだ。
そう考えてクウは魔力を練り上げ、詠唱を始める。
「『終末の誘い、災いの日
月は染まり、空は堕ちる
天より下る滅び――――』
っと拙い!」
だがクウは高速で迫る魔力の塊に気付いて咄嗟に回避した。コンマ数秒前までクウが居た場所を赤色の光線が通過する。クウの体を易々と飲み込めるほどに太い光線を放てるとすれば、その相手は一人……いや、一匹しかいない。
「くっ、完全にあいつのことを忘れてた」
炎属性の赤い光線に続いて、冷気、雷、衝撃波といった各属性に関する魔法が次々と飛来する。当然ながら各属性を司るオロチの十二の首がやっている事であり、クウは落ち着いて魔法を発動させることが出来なくなった。
地上にはあの世へ誘う漆黒の手。
天空では止むことのない魔法の雨。
クウには逃げ場が残されていなかった。
 





