三度目の婚約破棄は、さすがに予定外です
眩しいシャンデリアの光が、大理石の床に長い影を落としている。
王城の一角にある私的な談話室。そこは、私――公爵令嬢セリア・ヴァリエールにとって、本来なら安らぎの場であるはずだった。
この国の筆頭公爵家の嫡子として生まれ、幼い頃から王太子殿下の婚約者としての教育を叩き込まれてきた。立ち居振る舞い、教養、外交。そのすべてにおいて私は「模範」であることを求められ、そして応えてきた。
だが今、目の前に座る銀髪の美青年――王太子ルーカス殿下は、冷え切った紅茶のカップを置き、事もなげにこう告げた。
「セリア。急で申し訳ないが、君との婚約を白紙に戻したい」
(……は?)
私の思考が、一瞬だけ真っ白に染まった。
口角を数ミリ上げ、優雅に茶を飲む動作を維持したまま、必死に内面の動揺を押し殺す。
いや、おかしい。計算が合わない。
だって、今は私の『三度目』の人生なのだ。
一度目の人生。
私は彼を狂おしいほど愛していた。愛ゆえに、彼の周囲に現れる女性すべてを敵と見なし、公爵家の権力を振りかざして徹底的に排除した。その果てに待っていたのは、彼自身による冷酷な断罪と、広場での処刑だった。
あの時、首元を冷たい刃が通り過ぎた感覚は、今でも夢に見るほど鮮明だ。
二度目の人生。
一度目の反省を活かし、私は彼と関わることを極端に恐れた。婚約者という立場がありながら、「病弱」を装って王都の夜会を欠席し続け、領地の別邸に引きこもって静かに過ごそうとした。
だが、それが災いした。私が不在の間に公爵家が他派閥の政争に巻き込まれ、私は「王家への不忠」と「敵対勢力との内通」という身に覚えのない罪を擦り付けられ、またも獄中で命を落とした。
逃げても死ぬ。戦っても死ぬ。それが私の運命なのだと、死の間際に悟った。
だから、この三度目の人生。
私は、生存するために一つの結論を出した。
それは『無害な空気』になることだ。
公爵令嬢としての職務はそつなくこなし、殿下に対しては執着も見せず、かといって疎遠にもならない。ただの背景の一部のように、誰にも迷惑をかけない礼儀と誠実な仮面を維持し続けてきた。
嫌がらせもしない。引きこもりもしない。ただ、礼儀正しくそこに在るだけの害のない婚約者として。
その努力が実を結び、今日まで不穏な予兆は一つもなかったはずだ。
なのに、なぜ?
「……殿下。畏れながら、その理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
私は震えそうになる声を喉の奥で押さえ込み、あくまでも冷静に、淑女の微笑みを浮かべて問いかけた。
ここで取り乱してはいけない。処刑台への階段は、いつも些細な綻びから始まるのだから。
「理由か。……端的に言えば、君が何を考えているのか、私にはさっぱり分からないからだ」
ルーカス殿下は、サファイア色の鋭い瞳で私を射抜いた。
「君はいつも私の隣で、非の打ち所のない礼儀を保っている。私の失言には寛容に微笑み、私の公務には完璧なサポートを添える。だが、そこに『セリア・ヴァリエール』という一人の女性は存在しない。君はただ、王太子の婚約者という役割を演じているだけの、精巧な人形のように見える」
(……ええ、その通りです。だって死にたくないんですもの)
心の中で毒づく。
人形の何が悪いというのか。一度目のように愛を叫んで処刑されるより、よほど建設的ではないか。
「私はこれから、この国を背負って立つ。その傍らに必要なのは、感情のない人形ではない。共に悩み、共に笑い、時には私に異を唱えることのできる……一人の人間だ」
殿下は、ふっと窓の外に視線を向けた。
「最近、学園に編入してきた男爵令嬢……リリィを知っているか? 彼女は君とは正反対だ。魔力は乏しく、マナーも拙い。だが、彼女の瞳には強い輝きがある。私を王太子としてではなく、ただの『ルーカス』として叱ってくれたのは、彼女が初めてだった」
(うわ、出た。一度目と同じ……!)
私の脳内で、警報が鳴り響く。
一度目の時も、似たような令嬢が現れて私は発狂した。
しかし、今回は違う。私は嫉妬なんて微塵もしていない。
「左様でございますか。殿下がそれほどまでに心を動かされる女性に出会えたこと、婚約者として喜ばしく思います」
私は平穏に生きていきたいという思いから心の底から、祝福の言葉を述べた。
「……喜ばしい、だと?」
なぜか、殿下の眉が不機嫌そうに寄った。
「ええ。殿下が幸せであれば、私にとっても幸福でございます」
「君は……本当に、私が他の女を愛すると言っても、その程度の感想しか抱かないのか?」
「私は殿下の所有物ではありませんし、殿下の心も私の所有物ではございません。感情という不確かなものに縛られ、国益を損なうことこそ、公爵令嬢としてあるまじき行為ですわ」
完璧。我ながら、模範解答だ。
これで殿下も「やはりこの女は愛がない」と納得し、円満に婚約を解消してくれるはず。
身の安全を確保した上で、公爵家の権威を保ちつつ、平穏な余生を――。
「……セリア。君は、自分の命が惜しいだけなのではないか?」
その言葉に、心臓が跳ねた。
ドクン、と耳の奥で嫌な音がする。
「な、何を仰るのですか、殿下」
「今の君の言葉には、信念ではなく『恐怖』が混じっているように見える。何に対してかは分からないが……君は、私と深く関わることを、本能的に避けているように見える」
殿下が椅子から立ち上がり、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
一度目の記憶が蘇る。断罪の場で、彼はこうして私に歩み寄り、冷たく死を宣告したのだ。
恐怖で足が竦みそうになるのを、気合だけで耐える。
「……殿下の思い過ごしにございます」
「そうだろうか。君はいつから、私の淹れたお茶を一口も飲まなくなった? かつて、君は私が淹れた茶が世界で一番好きだと言っていたはずだが」
私は、テーブルの上に置かれたカップを見つめた。
確かに、今日のお茶は彼が自ら淹れたものだ。
一度目の人生で、私はお茶に毒を盛られたことがある。それがトラウマとなり、三度目の人生では、たとえ殿下の前であっても、出されたものにすぐ口をつけることはしなくなっていた。
いつ、毒を盛られるか分からない。いつ、死への階段を突き落とされるか分からない。
(でも…、私この人生で殿下の入れたお茶を世界で一番好きと言ったかしら…)
「……それは、単に好みが変わっただけでございます」
「好み、か。……まあいい。婚約破棄の件、正式な手続きは追って連絡する。今日はもう下がっていい」
殿下は背を向け、悲しそうに窓の外を見つめたままそう言った。
私は震える手でドレスの裾を掴み、深く一礼して部屋を出た。
廊下に出た瞬間、壁に背を預けて大きく息を吐く。
心臓が痛いほど脈打っている。
(どうして……どうしてこうなるのよ)
完璧だった。完璧に立ち回ったはずだった。
一度目のように傲慢に振る舞わず、二度目のように逃げ出さず、ただ忠実に「役目」を果たしてきた。
なのに、三度目も結局、私は彼に捨てられるのだ。
死の足音が、また近づいてくる。
婚約破棄された公爵令嬢。王家に泥を塗った存在。
もしこのままリリィという令嬢が一度目の人生のように聖女か何かに選ばれでもしたら、邪魔者になった私はまた消される。
あるいは、家を追われた私が他国のスパイに狙われ、二度目の時のように濡れ衣を着せられるかもしれない。
(絶対に……絶対に嫌。三度目も死ぬなんて、冗談じゃないわ!)
私は唇を噛み締め、前を向いた。
婚約破棄されたのなら、次の手を打つしかない。
公爵令嬢としての権力、これまで培ってきた知識、そしてニ度の人生という情報の経験。
それらをすべて使って、今度こそ私は生き残ってやる。
だが、この時の私はまだ気づいていなかった。
ルーカス殿下が、なぜあの時、あんなにも悲しそうな目で私を見ていたのか。
そして、なぜ彼が私の「変化」を、まるで以前の私を知っているかのように指摘したのか。
王城の夜は、まだ始まったばかりだった。
―・―・―
自室に戻った私は、すぐさま侍女たちを下がらせ、一人でクローゼットの奥から革鞄を引っ張り出した。
現金、宝石、身分を偽るための平民の服。
もしもの時に備えて準備していた「逃亡セット」だ。
(婚約破棄された以上、この王城に私の居場所はない。実家に帰れば、また二度目のように政争の道具にされて暗殺される危険があるわ)
ならば、家も名前も捨てて隣国へ逃げるしかない。
そう決意し、荷物を詰めていたその時だった。
「――随分と、手際がいいな」
ビクッと肩が跳ねる。
振り返ると、バルコニーの窓枠に寄りかかるようにして、ルーカス殿下が立っていた。
夜風に銀髪を揺らすその姿は一枚の絵画のように美しかったが、今の私にとっては死神にしか見えない。
「で、殿下……!? なぜ、このような夜更けに淑女の寝室へ……」
「君が早まった真似をする前に、渡しておくものがあってね」
殿下は懐から分厚い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
中から見えたのは、隣国への通行許可証と、見たこともない額の小切手だった。
「……これは、何の罠ですか?」
「罠ではない。君がこの国を出るための手形だ。追っ手はかからないよう、私が手配しておく」
「なぜ、そこまで……っ」
意味が分からない。
数時間前に婚約破棄を突きつけてきた男が、なぜ私の逃亡を手助けするのか。
訳の分からない状況に、三度目の人生で張り詰めていた糸が、プツリと切れる音がした。
「私をからかっているのですか!? 婚約破棄の次は、私に国を捨てろと? そうやって油断させておいて、また一度目の時のように、私を断罪台に立たせるおつもりなのでしょう!」
叫んだ瞬間、しまった、と口を両手で覆った。
感情が昂るあまり、絶対に言ってはいけない言葉を口走ってしまったのだ。
静寂が、部屋に落ちる。
殿下は驚く様子もなく、ただ悲痛に顔を歪めて、私を見つめていた。
「……やはり、君も『記憶』があったのだな。セリア」
「っ……」
「お茶の淹れ方、私の些細な癖への反応。君は完璧に隠しているつもりだったのだろうが、時折見せる怯えた瞳が、私には痛いほど分かった。……君は、私に殺された記憶を持っているのだろうと」
頭の芯が痺れるような感覚に襲われる。
「君も」と言った?
やり直しているのは、私だけじゃなかった。目の前にいるこの人も――過去の記憶を持ったまま、この三度目の世界を生きているというの?
「殿下、まさか……」
「ああ。時間を巻き戻したのは、私だ。王家の隠し宝物庫にあった、時を戻す禁具を使った。私の寿命と引き換えにな。まさか君に記憶が引き継がれているとは思わなかったが」
「な、何を馬鹿なことを……! そもそも、一度目の私を処刑したのは殿下ご自身ではありませんか!」
叫ぶ私に、殿下は自嘲するように笑った。
「君が犯した罪は、他国の要人を巻き込む大罪だった。あのまま他国に身柄を引き渡されれば、君は間違いなく凄惨な拷問を受けて殺されていた。……だから、私が直々に裁いたのだ。せめて、苦しまずに逝けるように」
「え……」
「私が君を憎んで殺したとでも思っていたのか? 一度目の時、確かに最初はリリィに心が揺れたこともあった。けれどそれはすぐに思い違いだと気づいたんだ。どんな時でも私を支えてくれていたのは、君だとすぐに思い直したから。でもその時には君はもう罪を犯した後だった。君を救えなかった自分が許せなかった。私はただ、君を愛していたから。だから時を戻したんだ」
予想外すぎる真実に、私は言葉を失う。
あの冷酷な断罪は、彼なりの慈悲だったというの?
「二度目は、君を政治の表舞台から遠ざければ安全だと思った。だから私は君を遠ざけ、領地に留まらせた。……だが、それが仇となって君は他派閥の陰謀に巻き込まれ、孤立無援のまま殺された」
殿下の顔が、苦痛に歪む。
二度目の人生、彼が私を避けていたのは、嫌っていたからではなく……私を守るためだった。
「そして、この三度目だ。禁具は壊れ、もう時は戻せない。だが、三度目の君は死の恐怖に怯え、感情を完全に殺してしまった。『無害で完璧な淑女』……まるで精巧な人形だ。私は、君をそんな風に生きさせるために時を戻したわけじゃない」
殿下は静かに歩み寄り、私の手を取った。
その手は、かつて断罪の剣を振り下ろした時のように冷たくはなく、震えるほど温かかった。
「男爵令嬢のリリィの件も、嘘だ。君に少しでも人間らしい感情――嫉妬でも、怒りでもいいから取り戻してほしくて、わざと彼女の話題を出した。だが、君はそれすらも笑顔で受け流した」
「殿下……」
「だから、婚約を破棄した。王太子の婚約者という『標的』の立場から、君を完全に解放するために」
ああ、なんというすれ違い。
彼はずっと私を助けるために孤独に時間を巻き戻し、私は彼に殺されないために必死に心を殺していた。
お互いがお互いを想っていたのに、すべてを知っているからこそ、恐ろしくて、罪悪感で、何も言えなかったのだ。
「……殿下は、本当に大馬鹿者です」
「否定はしない。元はといえば一時でも他の女性に目移りしてしまった私が悪い…。私は、君を幸せにできない無能だ」
「……それでも、殿下は婚約破棄をして、私を逃がして……一人で全派閥の陰謀と戦うおつもりだったのでしょう? この最後の人生で」
私は彼の手を強く握り返した。
三度目の人生。もう死ぬのはごめんだ。でも、彼を一人残して逃げるのは、もっとごめんだ。
「その小切手はお返しします。……婚約破棄も、撤回していただきます」
「セリア? しかし、私のそばにいれば君はまた危険に……」
「三度目の人生、今度こそ二人で生き残りましょう。……完璧な淑女ではなく、一度目よりもしたたかで、二度目よりも図太いこの私と一緒に」
私は、三度目の人生で初めて、心の底からの笑みを浮かべた。
「私が求めているのは、あなたから逃げる未来ではありません。あなたと共に生きる未来ですわ、ルーカス様」
殿下は少し驚いたように目を見開き――やがて、今まで見たどんな笑顔よりも、優しく、人間らしい笑みを浮かべて私を抱きしめた。
「ああ……三度目の正直と、いこうか」
こうして、私の三度目の予定外な婚約破棄は、開始わずか半日で撤回された。
このすれ違い続けた不器用で愛おしい男を、今度こそ私が絶対に幸せにしてやろうと、心に強く誓いながら。
―・―・―
三度目の人生は、これまでの二回が嘘のように、輝きに満ちたものとなった。
婚約破棄騒動の翌日から、私たちは手を取り合い、学園と王宮に巣食う不穏な芽を一つずつ摘んでいった。
私は「人形」という仮面を捨て、公爵令嬢としての権力と二度の人生で得た知識をフルに活用した。時には冷徹に、時には大胆に。周囲から「鉄の王妃」と呼ばれるようになっても、私の隣にはいつもルーカス様の穏やかな微笑みがあった。
私たちは結婚し、国は未曾有の繁栄を遂げた。
子宝にも恵まれ、平和な日々が何年も、何十年も続いた。
けれど、幸福な時間の裏側で、私たちは知っていた。
あの日、ルーカス様が私のために支払った「代償」の期限が、刻一刻と近づいていることを。
それから数十年後。
夕刻の光が差し込む王城の離宮。
かつて私たちが語り合った中庭が見える寝室で、ルーカス様は静かに横たわっていた。
その銀髪は白銀へと変わり、顔には深く刻まれた皺がある。けれど、私を見つめるサファイアの瞳の輝きだけは、あの頃と少しも変わっていなかった。
「……セリア。君は、今でも私の淹れた茶が、世界で一番好きだと言ってくれるかな」
震える声で問う彼の手を、私は両手で包み込んだ。
魔法の禁具によって削られた彼の寿命は、本来ならもっと早く尽きていたはずだった。愛の力か、あるいは執念か。彼は今日この日まで、私の隣で生き抜いてくれた。
「ええ、もちろんですわ、ルーカス様。……でも、今日くらいは私が淹れたお茶を召し上がってくださいませ。ずっと練習して、あなたより上手になったのですから」
「ふふ、それは楽しみだ……。だが、少し、眠いんだ」
ルーカス様の呼吸が、ゆっくりと浅くなっていく。
私は涙を堪え、彼の額に自分の額を寄せた。
「セリア。……私は、幸せだった。一度目に君を失い、二度目に君を救えず、三度目にようやく、君の心に触れることができた。……時を戻したことに、一点の後悔もない」
「私もです。……三度目があって、本当によかった。あなたを、心から愛しています」
ルーカス様は、満足そうにふっと微笑んだ。
その指先から力が抜け、王城に静寂が訪れる。
悲しみはあった。けれど、私たちの心に絶望はなかった。
何百回、何千回と繰り返されたすれ違い。
命を懸けて繋ぎ止めた、三度目の人生。
私たちはもう、時を戻す必要などない。なぜなら、この一生で分かち合った愛は、永遠という時間を超えるほど深いものだったから。
「……おやすみなさい、ルーカス様」
私は彼の冷たくなり始めた手に、最後の手向けとして、東方領のダージリンの香りを添えた。
――もし、四度目の人生があるのなら。
次は、魔法も禁具も、後悔もない世界で。
ただの少年と少女として、最初から「愛している」と言い合える日々を過ごしましょう。
「これからも愛してます」
ここまでお読みいただきありがとうございました!
よろしければ評価してくださると励みになります。
よろしくお願いいたします。
補足です!
1度目の人生の時にルーカスは男爵令嬢のリリィに目移りしたという描写がありますが浮気はしていません!
言い寄られて自分を全て肯定してくれる彼女のことを良い女性だなと思ってしまったという設定です!それを見た一度目のセリアは嫉妬心から徐々におかしくなってしまったという流れになります…!




