第9話 匿名の書簡
宴が終わると、城は嘘みたいに静かになる。
さっきまで百人以上の大使や貴族が行き交っていた回廊には、もう人影がない。蝋燭の残り香だけが漂っている。蜜蝋の甘い匂いと、消えかけの煙。
レオン殿の執務室に呼ばれたのは、他の出席者が全員退出した後だった。
「少し時間をもらえるだろうか」
宴の最中とは、声の質が違った。外交官の声ではない。もっと、素の声だ。
執務室に入ると、暖炉に火が入っていた。ヴェルデの夜は冷える。山岳国家の秋は、平地の冬に近い。
机の上に、一通の古い手紙が置いてあった。
茶色く変色した封筒。三年以上前のものだろう。封蝋はすでに割れている。何度も開封された形跡があった。
「座ってくれ」
レオン殿は窓際に立っていた。こちらを見ている。いつもの「窓の外を見る」ではなく、真っ直ぐに。
「一つ、告白しなければならないことがある」
告白。その言葉で、鎖骨の下がどくんと跳ねた。
「……お聞きします」
「三年前の冬。公国は危機に瀕していた」
知っている。三年前の冬、ヴェルデ公国は隣国のカルディア王国との国境問題で孤立しかけていた。カルディアが山岳部の領有権を主張し、他の大国はヴェルデの味方につくことを避けた。小国が大国に潰される。そんな光景を何度も見てきた。
「あの時、一通の匿名の書簡が公国に届いた。差出人の名前はなかった。ただ、六カ国の外交力学を分析した上で、公国が取るべき交渉戦略が、驚くほど正確に記されていた」
レオン殿が、机の上の手紙を指し示した。
「この書簡がなければ、公国は翌春まで持たなかったかもしれない。匿名の知恵者が提案した戦略に従って交渉を進め、なんとか窮地を脱した」
私の手が、ひざの上で固くなった。
「その書簡の内容は、六カ国すべての外交儀礼と政治的利害関係を精密に把握した人間にしか書けないものだった。しかも、ヴェルデ公国に好意的な人間。そんな人物は限られる」
レオン殿が一歩、近づいた。
「筆跡で、わかった」
空気が止まった。
「三年前から、ずっとわかっていた。あの書簡を書いたのは、ヴィオレッタ殿、あなただ」
音が消えた。暖炉の薪が爆ぜる音も、窓の外の風の音も、全部消えた。聞こえるのは自分の鼓動だけだった。
覚えている。三年前の冬。夫の書斎で外交書簡を処理していた夜。
各国からの情報を整理していて、ヴェルデ公国の窮状を知った。小国が孤立している。外交力はあるが、情報が不足している。カルディアの真の意図を読み解く手がかりがあれば、突破口が開けるはずだと思った。
侯爵夫人の名前で出せば政治問題になる。ルシアンに相談する選択肢もあったが、「外交のことはお前に任せる」が口癖の夫が、他国への匿名支援を理解するとは思えなかった。だから匿名にした。一人で書いた。あの夜も、東棟からマリアンヌ嬢の笑い声が聞こえていた。
誰にも言わなかった。
なのに。
「……なぜ、黙っていたのですか」
声が掠れた。
「あなたは人妻だった」
短い言葉だった。
「人妻が他国に匿名で助言を送ったと公にすれば、あなたの立場を危うくする。ヴァルトシュタイン侯爵が知れば、外患の嫌疑をかけられかねない。だから黙っていた」
レオン殿の、いや、レオンの目が、揺れていた。
「黙って、ただ感謝していた。外交宴で顔を合わせるたびに、本当のことを言いたかった。あの書簡のおかげで公国は救われた、と。でも言えなかった。あなたを守るために、黙るしかなかった」
三年。三年間、この人は私の秘密を一人で抱えていたのだ。知っていて、気づいていて、それでも黙って、ただ、隣にいた。
「感謝だけでは、なかったが」
息が、一瞬止まった。比喩ではなく、本当に止まった。肺が動かなくなった。
「外交宴で、いつも隣の席を確保した。茶葉の好みを覚えた。招聘状を出した。確認事項と言って毎日通った。全部、あの書簡から始まっている」
全部。
外交宴の隣の席。あれは偶然ではなかった。茶葉。偶然じゃなかった。招聘状の追伸。確認事項。差し入れ。全部、全部、三年前のあの一通から始まっていた。
目の奥が熱い。何かが込み上げてくる。泣くな。泣くなよ、私。泣くな。六カ国の大使の前で泣かなかった女が、ここで泣くな。
三年間、この人は知っていたのだ。匿名の書簡を書いたのが私だと。知っていて、黙っていて、ただ、隣にいた。
「ヴィオレッタ殿」
「……はい」
「いや。ヴィオレッタ殿、ではなく」
レオン殿が言葉を探していた。外交官が。三カ国と渡り合える交渉の達人が。好きな人の前でだけ、語彙が消える人が。
「名前で、呼んでほしい」
静かな声だった。震えてはいなかった。でも、大切に扱われている言葉だった。たくさんの夜を越えて、ようやく口に出された言葉。
暖炉の火が、ぱちり、と鳴った。
「三年は長かった。でも、今、ここで、この名前を言えることが」
レオン殿の声が、ほんの少し掠れた。
「嬉しい」
涙は出なかった。でも、視界の輪郭がにじんだ。
私は、笑った。
口元が勝手に動いた。作り笑いではなかった。鎧の笑顔でもなかった。外交宴で使う完璧な微笑みでもなかった。
ただの、ヴィオレッタ・シュテルンという二十七歳の女の、不格好で、下手くそで、でも本物の笑顔だった。
「レオン、と」
声が上擦った。恥ずかしい。六カ国語を操る女が、たった三文字の名前を呼ぶのに、こんなに緊張するなんて。
「……レオン」
呼んだ。名前を。肩書きも敬称もなしで。
レオンが、レオンが、目を見開いた。それから、少しずつ、不器用に笑った。笑い慣れていない人の笑い方だった。
耳が赤かった。首まで赤かった。浅黒い肌に赤みが差して、暖炉の灯りに照らされて、その顔が。
きれいだった。
六カ国語の語彙をすべて動員しても、今のこの人の表情を描写する言葉が見つからない。フェリシア語にもラドニア語にもエスタード語にもない。ヴェルデ語にもない。どの言語にもない。
七つ目の言語が必要だった。この人のためだけの。
「……ありがとう」
レオンが言った。たった五文字。外交の天才の、外交とは無関係な五文字。
暖炉の火が燃えている。窓の外には、ヴェルデの山が星明かりに浮かんでいる。
五年間の疲労が、三年間の秘密が、二ヶ月の距離が、今、この部屋で静かに溶けていくのを感じた。




