第8話 六カ国の宴
マリアンヌ・フォーゲルのドレスは、赤かった。
深紅のベルベット。胸元にルビーのブローチ。金糸の刺繍が裾に広がる、見事な仕立てのドレスだった。社交界ならば称賛を浴びただろう。
ここは六カ国合同外交宴だ。
赤い宝石はフェリシア国において「血の誓約」を意味する。婚姻の席でのみ身に着けることが許される色だ。外交宴で赤い宝石を着けるのは、フェリシアに対する重大な無礼にあたる。
マリアンヌ嬢が入場した瞬間、フェリシアのロゼ大使の表情が凍った。
「あら。ヴァルトシュタイン侯爵のご代理ですか」
ロゼ大使は共通語で言った。声に温度がない。
「はい。マリアンヌ・フォーゲルと申します。この度は」
「そのブローチ。フェリシアの風習をご存じない?」
マリアンヌ嬢の顔から笑みが消えた。何を言われているのかわからない顔だ。
覚書には書いた。「フェリシア国では赤い宝石を身に着けてはならない」と。読んだのだろうか。読んだとして、なぜ赤を選んだのだろう。ルビーが似合うからか。ルシアンが贈ったブローチだからか。
それ以上は考えなかった。私の問題ではない。
ロゼ大使が席を立った。フェリシアの副使も続いた。隣のテーブルのラドニア大使グレイルが顔をしかめ、エスタードの大使が溜息をついた。
三カ国の大使が同時に不快感を示す。外交宴でこれほどの事態は、私の記憶にはない。
さらに、マリアンヌ嬢はエスタードのカルロ大使に左手で乾杯をした。ラドニアでは左手の乾杯が禁忌だ。隣のテーブルのラドニア使節団の表情が石のように固まった。
一つの失態なら笑って許される。二つならば「慣れていない」で済まされる。三つ目は意図的な侮辱と見なされる。国際慣例上、そう解釈される。
マリアンヌ嬢にその意図はなかっただろう。ただ知らなかっただけだ。でも外交の場では、無知は罪だ。
「ヴィオレッタ殿」
隣で、レオン殿が低く声をかけてきた。
「見るか」
「見ています」
今夜、私はヴェルデ公国の参事官としてこの宴に出席している。白いドレスに銀のアクセサリー。ヴェルデ公国の色だ。地味に見えるかもしれない。でも六カ国の外交官は知っている。ヴェルデの白と銀は「誠実と中立」を意味する。
マリアンヌ嬢の深紅とは、対照的だった。
◇
宴が進むにつれ、状況は悪化した。
マリアンヌ嬢がラドニア大使に共通語で話しかけた。グレイル大使はラドニア語で返した。マリアンヌ嬢が固まった。通訳を探して周囲を見回すが、誰も助けない。
エスタードの大使が条約の話を持ち出した。条約文はエスタード語で書かれている。マリアンヌ嬢は条約文を見て、首を横に振った。「……共通語に訳していただけますか」。大使の目が冷えた。
宴の後半。
各国の大使が、私のところに来た。
ラドニア語で。フェリシア語で。エスタード語で。
「ヴィオレッタ殿。お変わりなく」
「ロゼ大使。フェリシア語でのご挨拶、光栄です」
「あなたが戻ってきて安心した。前回の宴から、この広間は随分と寂しかった」
「大使閣下。お世辞がお上手ですわ」
「お世辞ではない。あなたがいない外交宴は、通訳もいない外交宴だ。つまり」
「つまり、宴ではなく沈黙の食事会ですね」
ロゼ大使が笑った。周囲の大使たちも笑った。この笑いの中に、マリアンヌ嬢は入れない。共通語しか話せない人には、今の冗談の何が面白いのかもわからないだろう。
それが、残酷だった。残酷だけれど、事実だった。
◇
宴の終盤。
私が給仕係からワインを受け取ろうとしたとき、見知らぬ男が近づいてきた。
「ヴィオレッタ・シュテルン殿ですか。ヴァルトシュタイン侯爵家の使者でございます」
使者。ルシアンの使者が、この場に来ている。
「侯爵からのお言葉をお伝えします。『お力をお貸しいただきたい。領地の交易路が窮地に瀕している。あなたの外交力が必要だ』と」
力を貸せ。
五年間、力を貸し続けた結果が「冷たい妻」で、「外交の仕事も引き継ぎます」で、マリアンヌ嬢の涙の被害者面で。
それを全部捨てた今になって、力を貸せ、と。
怒りが来るかと思った。でも来なかった。代わりに来たのは、五年前とは違う種類の疲労だった。呆れに近い。もう驚かない。この人はそういう人だったのだと、今ならわかる。
使者の目を見た。若い男だ。命じられて来ただけだろう。この人に罪はない。
だから、穏やかに言った。
「六カ国の条約文、お読みになれますか?」
使者が目を瞬かせた。
「侯爵にお伝えください。条約実務には、最低でも三カ国語の読み書きと、各国の外交儀礼への精通が必要です。それを担える人材を、侯爵ご自身でお探しになることをお勧めいたします」
使者の顔が青くなった。そんな人材がいないことは、もう分かっているのだろう。
「それでは」
微笑んだ。完璧に。でも今回の笑顔は、鎧ではなかった。自分の選択を確信している人の笑顔だった。
◇
宴が終わった。大広間から人が引いていく。蝋燭の炎が揺れている。
マリアンヌ嬢は、宴の途中から姿を消していた。ドレスの赤が侮辱だと気づいたのか、三カ国の大使に無視されたからか。おそらく両方だろう。
回廊を歩きながら、レオン殿が隣にいた。今夜は一度も私の隣を離れなかった。公式には「公国の代表として同行」だろうが、あの人が他の大使と話している間も、常に私が見える位置にいた。
レオン殿が口を開いた。
「今夜は、見事だった」
褒められた。また褒められた。でも今回は茶器を落とさなかった。成長だ。
「ありがとうございます」
「……ヴィオレッタ殿」
声の調子が変わった。「確認事項」の声ではない。もっと低い。もっと慎重な。
「何を」
言いかけて、止まった。レオン殿の口が開いて、閉じて、また開いた。言葉が形になる前に砕けているのが見えた。
「……いや。今日は、もう遅い」
そう言って、視線を逸らした。顎の線が強張っている。
「何?」
「忘れてくれ」
二度目の「忘れてくれ」。前回と同じ言葉。でも今回は、声が少し震えていた。
この人が言いかけていることの輪郭が、ぼんやりと見え始めている。でもまだ、名前をつける勇気がない。
月が出ていた。白い月だ。あの夜、侯爵邸の書斎で一人、外交書簡を処理していた夜と同じ月。
でも今夜は、隣に人がいる。
それだけで、月の色が違って見えた。




