第7話 名前のない距離
条約の第三条、二項。レオン殿が差し出す書面の、指先ばかり見ていた。
いつからだろう。書類の内容ではなく、書類を持つ手を見るようになったのは。長い指だ。インクの染みがひとつ、右手の中指についている。外交官にしては珍しく、自分で書類を書く人なのだと前に聞いた。
「ヴィオレッタ殿。第三条の但し書きについて、意見をいただきたい」
「はい。ヴェルデ語の『相互互恵』と、エスタード語の『相互互恵』は、法的な範囲が異なります。エスタード語の方が狭義で、交易品目に限定される解釈が主流です。ですので」
仕事の話をしているときは大丈夫だ。言語と法律と外交の話なら、いくらでも言葉が出てくる。問題は、それ以外の瞬間だった。
間接支援計画の詰めの作業を、二人で進めていた。ヴァルトシュタイン領北部への物資支援を、ヴェルデ公国の外交政策として正式に位置づける。そのために必要な書類を作成し、公国議会への提案書をまとめる。
レオン殿と私の仕事のやり方は、驚くほど合った。
私が論点を整理すると、レオン殿がそれを政策的な文脈に落とし込む。私が各国の文化的配慮を指摘すると、レオン殿がそれを交渉戦略に組み替える。まるで一つの思考が二人の頭で動いているような、そんな感覚。五年間、一人で全部やっていたのが嘘のようだ。
「これで提案書の骨子は完成だな」
「ええ。北部への支援物資の調達ルートも確保できました。レオン殿の情報網のおかげです」
「情報網は公国の財産だ。俺の功績ではない」
この人は、手柄を自分のものにしない。ルシアンとは正反対だ。
(比べるのはやめよう)
やめようとして、やめられない。どうしても比べてしまう。五年間の夫と、ここでの二ヶ月の同僚を。
ルシアンは外交の話をすると退屈そうな顔をした。「お前に任せる」が口癖だった。任せるのは信頼ではなく、無関心だった。レオン殿は違う。私の意見に反論するし、私の提案を練り直すし、「ここはこうした方がいい」とはっきり言う。
対等に議論してくれる人と仕事をするのが、こんなに心地いいとは。
それは不公平な比較だとわかっている。でも、比べずにはいられなかった。
◇
昼食の時間に、カイが食堂にやってきた。
「ヴィオレッタ様。大使が差し入れを預かってほしいと」
また干し果物だった。今度は蜂蜜漬けの木の実もついている。
「カイ殿。大使殿は、いつもこうなのですか」
「え? いつもって」
「差し入れです。他の外交官にも、このように」
カイが首を傾げた。天然というか、空気を読まないというか、この青年は嘘がつけないタイプだ。
「いいえ。ヴィオレッタ様だけですよ。大使がいつもヴィオレッタ様のお話をされていて。この前も『彼女の条約案の構成は完璧だ』って。あと、お茶の好みが同じだって嬉しそうに、あ」
カイの口が止まった。遅い。
「カイ」
廊下の向こうから、声がした。低い。大使の声だ。普段の倍ほど低い。
「少し来なさい」
「え、大使、でも今」
「今すぐ」
カイが連行された。そう表現するしかない速度だった。廊下の角を曲がる瞬間、レオン殿がこちらをちらりと見た。
首筋が赤い。浅黒い肌に赤みが滲んでいる。
一人になった食堂で、私は蜂蜜漬けの木の実を一つ口に入れた。甘い。ひどく甘い。
それから廊下に出て、誰もいないことを確認してから、壁に額をつけた。
動けない。
カイの言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。「ヴィオレッタ様だけ」。「嬉しそうに」。「お茶の好みが同じ」。
膝の裏が汗ばんでいる。喉の奥がきゅっと詰まって、息がうまく吸えない。壁が冷たくて、それだけが救いだった。
(落ち着きなさい、ヴィオレッタ。あなたは二十七歳の外交官でしょう。壁に額をつけている場合ではないでしょう)
そうだ。外交官だ。六カ国語を操る。国際条約を起草する。大使相手に交渉する。それが私の仕事だ。
なのに今、同僚に褒められていたと聞いただけで、壁にへばりついている。
目を閉じて、ゆっくり息を吐く。吐いて、吸って、吐いて。
……おさまらない。
足音が聞こえて、慌てて壁から離れた。通りすがりの書記官に「お加減が悪いのですか」と聞かれ、「いえ、壁の材質を確認していました」と答えた。意味がわからない。自分でも意味がわからない。六カ国語を操る女の最新の発言が「壁の材質を確認していた」。我ながら外交官失格だ。
◇
午後。執務室で提案書の最終確認をしていると、レオン殿が来た。いつもの「確認事項」ではなく、今度は本当の用件だ。
「提案書の文言で、一つ迷っている」
「どの部分でしょう」
「『人道的配慮に基づき』という表現。エスタード語で訳すとき、ニュアンスが変わらないか」
本物の質問だ。嬉しかった。この人が本気で迷ったとき、私に聞いてくれることが。
「エスタード語では『人道的配慮』は」
説明している途中で、レオン殿が口を開いた。
「君の交渉術は……その……いや、提案書の」
文が止まった。
「提案書の……文体が……ええと、今日の書類の整理も……いや、そうじゃなくて」
レオン殿の顔が、見たことのない色になっていた。浅黒い肌に赤みが差している。目が泳いでいる。外交官として三カ国と同時に渡り合える人が、今まさに自分の言語能力と格闘している。
言い直しが三回。「いや」が二回。そして最終的に、黙った。
「……忘れてくれ」
忘れられるわけがないのだけれど。
レオン殿が退室した後、私は机の上の提案書を眺めた。文字が読めない。さっきの「忘れてくれ」が頭の中で反響している。
あの人の目を見ると、言葉を扱う仕事をしているのに、言葉が出なくなる。
それはレオン殿も同じらしかった。
言葉のプロが二人、お互いの前でだけ言葉を失う。皮肉だ。笑えるはずなのに、笑えなかった。胸の奥が、じんと温かかった。
(また誰かを信じていいのだろうか)
五年前、私はルシアンを信じた。信じて、盾になって、疲れ果てた。
もう一度信じて、もう一度裏切られたら。今度は、立てない気がする。
でも。
あの人の赤い耳を思い出すと、信じたくなる自分がいる。それが怖い。怖いのに、嫌ではない。
窓の外の山に、夕日が沈んでいく。明日は外交宴の準備が始まる。ヴェルデ公国の代表として、六カ国の宴に出る。
同じ宴に、マリアンヌ・フォーゲルも出る。
あの夜と同じ広間で、私は今度こそ、自分の名前で立つ。




