第6話 交渉の席
報告書の文字は、私が教えた書記官の筆跡だった。
ヴェルデ公国の情報網は、小国とは思えないほど精緻だ。各国の公式発表だけでなく、貴族社会の噂話、商人の動向まで集約されている。レオン殿が「小国が生き残るには耳が命だ」と言っていたのを思い出す。
報告書の中に、ヴァルトシュタイン侯爵領の動向があった。
三カ国が条約更新を拒否。ラドニア、フェリシア、エスタード。残るヴェルデ、カルディア、ザーレンの三カ国のうち、ヴェルデは私が在籍しているので事実上の中立。カルディアとザーレンも態度を保留している。
ルシアン侯爵が自ら交渉に出たらしい。
報告書に、その顛末が淡々と記されていた。ラドニア大使との会談。ルシアンは共通語で話しかけた。グレイル大使は母国語であるラドニア語で返答した。
通訳はいなかった。マリアンヌ嬢が「通訳は不要です。私が対応します」と申し出たが、ラドニア語の最初の一語で固まったという。
交渉は、始まる前に終わった。
グレイル大使は、わざとやったのだろう。共通語で話すこともできたはずだ。でも、母国語で返した。それは「あなたとは対等に話す気がない」というラドニア式の意思表示だ。ルシアンはそれを知らない。知っていたのは、私だけだった。
フェリシアとの交渉でも同じことが起きた。フェリシアのロゼ大使は、かつて私と組んで通商条約をまとめた人だ。その大使が、ルシアンの顔を見て一言。
「条約文の原本を確認させていただきたい。フェリシア語で」
ルシアンは読めなかった。条約文を自国語で読めない領主と、誰が交渉するだろう。
(そうなるだろうとは、思っていた)
思っていた。わかっていた。でも、報告書の文字を追う目が少し熱かった。怒りだ。ルシアンへの怒りではない。あの人の外交的無能さに怒っても仕方がない。軍事は得意なのだ。ただ「舌」が握れなかっただけで。
怒りの矛先は、もっと別のところにあった。
五年間。
五年間、あの交渉を一人で回していた私を「冷たい妻」だと社交界に吹聴した男。「外交の仕事も引き継ぎます」と笑った女。その二人がいま、交渉の席で恥をかいている。それを読んで、私は。
スカッとしていいはずだ。痛快であるべきだ。なのに、胸の奥にあるのは爽快さではなく、じくじくとした痛みだった。あの交渉の席にいた各国の大使たちが、私の名前を出しながらルシアンを見下ろしている姿が浮かぶ。
私の五年は、あの男を守るためにあった。その守りがなくなった結果を見て、嬉しいかと聞かれたら。
嬉しくはない。ただ、仕方がない。
◇
翌日。レオン殿の執務室に呼ばれた。
「ルシアン・ヴァルトシュタイン侯爵から、公国に正式な要請が来た」
レオン殿の表情は、いつもの穏やかさが消えている。外交官の顔だ。
「内容は?」
「ヴィオレッタ・シュテルン殿の帰還を求める、と。公国が引き抜いたのではないかという抗議も含まれている」
引き抜き。あの人はそう思ったのか。妻が自分の意志で出ていったとは、考えられないのだろう。
「どうされますか、大使殿」
「断った」
即答だった。レオン殿の目に、いつもとは違う光があった。冷たい、とまでは言わない。でも、温かくもなかった。
「元・妻でしょう。そしてヴィオレッタ殿は今、我が国の外交官です。正式な手続きを経て着任した参事官を、他国の要請で返すことはできない。これは外交上の原則です」
正論だ。完璧な正論。外交官として一点の曇りもない返答。
ただ、「元・妻でしょう」の一語に、ほんの少しだけ私的な感情が滲んでいた気がしたのは、気のせいだろうか。
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。当然のことだ」
レオン殿が一瞬、口を開きかけた。何かを言いかけて、飲み込んだ。そして天井を仰いだ。
顎の線が、わずかに強張っている。
(今のは何を言いかけたの)
聞けなかった。代わりに、別のことを聞いた。
「領民への支援の件。考えがまとまりました」
レオン殿がこちらを向いた。
「直接は関わりません。でも、方法があるなら、第三者を通じた間接支援を提案したい」
「具体的には」
「ヴェルデ公国として、ヴァルトシュタイン領北部への人道支援物資の提供を、交易再開の条件交渉に組み込む。私が直接手を出すのではなく、公国の外交政策として位置づける」
レオン殿が、少し目を細めた。
「公国にも利がある。ヴァルトシュタイン領の交易路は我が国にとっても重要だ。人道支援を梃子に交渉を有利に進められる」
「理解が早くて助かります」
「元からそう提案しようと思っていた。……君が、自分で言い出すのを待っていただけだ」
待っていた。この人は、答えを出すまで待ってくれた。五日間。その五日の間に一度も「どうするんだ」と聞かなかった。毎日来たのに。干し果物を置いていっただけで。
「レオン殿」
「何か」
「……いえ。ありがとうございます」
「条約の確認事項がまだ残っている」
残っていない。もう全部終わっている。この人は本当に、好意を仕事の口実にする天才だ。いや、天才というには不器用すぎる。ヴェルデ語で「確認事項」という単語を、この二ヶ月で何回聞いただろう。五十回は超えている。
わかっているのに、否定する気にならなかった。
「では、確認事項をお聞きします」
「……あ。ええと」
レオン殿の目が泳いだ。用意していなかったのだ。確認事項を。
「エスタードの……暦法について」
「先月お伝えしましたが」
「もう一度」
「承知しました」
こういうやり取りが、なぜか嫌ではなかった。五年間、夫との会話で一度も感じなかったものがここにある。なんと呼べばいいのかはまだわからないけれど。
◇
その夜、もう一つの報告が届いた。
マリアンヌ・フォーゲル嬢が、次の六カ国合同外交宴に「侯爵夫人代理」として出席すると宣言したという。
六カ国の外交宴。ドレスコードに各国の文化的意味がある宴。フェリシアでは赤い宝石が禁忌。ラドニアでは白い花の髪飾りが喪を意味する。エスタードでは左手の指輪が「夫を亡くした」の印。
一つでも間違えれば、外交問題になる。
マリアンヌ嬢は、それを知っているのだろうか。
報告書を閉じた。それは、もう私の問題ではない。
ただ、次の外交宴には、私もヴェルデ公国の代表として出席する。
同じ宴に。同じ広間に。
肩甲骨の間が、すうっと冷えた。




