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あなたの妻を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第6話 交渉の席

報告書の文字は、私が教えた書記官の筆跡だった。


ヴェルデ公国の情報網は、小国とは思えないほど精緻だ。各国の公式発表だけでなく、貴族社会の噂話、商人の動向まで集約されている。レオン殿が「小国が生き残るには耳が命だ」と言っていたのを思い出す。


報告書の中に、ヴァルトシュタイン侯爵領の動向があった。


三カ国が条約更新を拒否。ラドニア、フェリシア、エスタード。残るヴェルデ、カルディア、ザーレンの三カ国のうち、ヴェルデは私が在籍しているので事実上の中立。カルディアとザーレンも態度を保留している。


ルシアン侯爵が自ら交渉に出たらしい。


報告書に、その顛末が淡々と記されていた。ラドニア大使との会談。ルシアンは共通語で話しかけた。グレイル大使は母国語であるラドニア語で返答した。


通訳はいなかった。マリアンヌ嬢が「通訳は不要です。私が対応します」と申し出たが、ラドニア語の最初の一語で固まったという。


交渉は、始まる前に終わった。


グレイル大使は、わざとやったのだろう。共通語で話すこともできたはずだ。でも、母国語で返した。それは「あなたとは対等に話す気がない」というラドニア式の意思表示だ。ルシアンはそれを知らない。知っていたのは、私だけだった。


フェリシアとの交渉でも同じことが起きた。フェリシアのロゼ大使は、かつて私と組んで通商条約をまとめた人だ。その大使が、ルシアンの顔を見て一言。


「条約文の原本を確認させていただきたい。フェリシア語で」


ルシアンは読めなかった。条約文を自国語で読めない領主と、誰が交渉するだろう。


(そうなるだろうとは、思っていた)


思っていた。わかっていた。でも、報告書の文字を追う目が少し熱かった。怒りだ。ルシアンへの怒りではない。あの人の外交的無能さに怒っても仕方がない。軍事は得意なのだ。ただ「舌」が握れなかっただけで。


怒りの矛先は、もっと別のところにあった。


五年間。


五年間、あの交渉を一人で回していた私を「冷たい妻」だと社交界に吹聴した男。「外交の仕事も引き継ぎます」と笑った女。その二人がいま、交渉の席で恥をかいている。それを読んで、私は。


スカッとしていいはずだ。痛快であるべきだ。なのに、胸の奥にあるのは爽快さではなく、じくじくとした痛みだった。あの交渉の席にいた各国の大使たちが、私の名前を出しながらルシアンを見下ろしている姿が浮かぶ。


私の五年は、あの男を守るためにあった。その守りがなくなった結果を見て、嬉しいかと聞かれたら。


嬉しくはない。ただ、仕方がない。



翌日。レオン殿の執務室に呼ばれた。


「ルシアン・ヴァルトシュタイン侯爵から、公国に正式な要請が来た」


レオン殿の表情は、いつもの穏やかさが消えている。外交官の顔だ。


「内容は?」


「ヴィオレッタ・シュテルン殿の帰還を求める、と。公国が引き抜いたのではないかという抗議も含まれている」


引き抜き。あの人はそう思ったのか。妻が自分の意志で出ていったとは、考えられないのだろう。


「どうされますか、大使殿」


「断った」


即答だった。レオン殿の目に、いつもとは違う光があった。冷たい、とまでは言わない。でも、温かくもなかった。


「元・妻でしょう。そしてヴィオレッタ殿は今、我が国の外交官です。正式な手続きを経て着任した参事官を、他国の要請で返すことはできない。これは外交上の原則です」


正論だ。完璧な正論。外交官として一点の曇りもない返答。


ただ、「元・妻でしょう」の一語に、ほんの少しだけ私的な感情が滲んでいた気がしたのは、気のせいだろうか。


「ありがとうございます」


「礼には及ばない。当然のことだ」


レオン殿が一瞬、口を開きかけた。何かを言いかけて、飲み込んだ。そして天井を仰いだ。


顎の線が、わずかに強張っている。


(今のは何を言いかけたの)


聞けなかった。代わりに、別のことを聞いた。


「領民への支援の件。考えがまとまりました」


レオン殿がこちらを向いた。


「直接は関わりません。でも、方法があるなら、第三者を通じた間接支援を提案したい」


「具体的には」


「ヴェルデ公国として、ヴァルトシュタイン領北部への人道支援物資の提供を、交易再開の条件交渉に組み込む。私が直接手を出すのではなく、公国の外交政策として位置づける」


レオン殿が、少し目を細めた。


「公国にも利がある。ヴァルトシュタイン領の交易路は我が国にとっても重要だ。人道支援を梃子に交渉を有利に進められる」


「理解が早くて助かります」


「元からそう提案しようと思っていた。……君が、自分で言い出すのを待っていただけだ」


待っていた。この人は、答えを出すまで待ってくれた。五日間。その五日の間に一度も「どうするんだ」と聞かなかった。毎日来たのに。干し果物を置いていっただけで。


「レオン殿」


「何か」


「……いえ。ありがとうございます」


「条約の確認事項がまだ残っている」


残っていない。もう全部終わっている。この人は本当に、好意を仕事の口実にする天才だ。いや、天才というには不器用すぎる。ヴェルデ語で「確認事項」という単語を、この二ヶ月で何回聞いただろう。五十回は超えている。


わかっているのに、否定する気にならなかった。


「では、確認事項をお聞きします」


「……あ。ええと」


レオン殿の目が泳いだ。用意していなかったのだ。確認事項を。


「エスタードの……暦法について」


「先月お伝えしましたが」


「もう一度」


「承知しました」


こういうやり取りが、なぜか嫌ではなかった。五年間、夫との会話で一度も感じなかったものがここにある。なんと呼べばいいのかはまだわからないけれど。



その夜、もう一つの報告が届いた。


マリアンヌ・フォーゲル嬢が、次の六カ国合同外交宴に「侯爵夫人代理」として出席すると宣言したという。


六カ国の外交宴。ドレスコードに各国の文化的意味がある宴。フェリシアでは赤い宝石が禁忌。ラドニアでは白い花の髪飾りが喪を意味する。エスタードでは左手の指輪が「夫を亡くした」の印。


一つでも間違えれば、外交問題になる。


マリアンヌ嬢は、それを知っているのだろうか。


報告書を閉じた。それは、もう私の問題ではない。


ただ、次の外交宴には、私もヴェルデ公国の代表として出席する。


同じ宴に。同じ広間に。


肩甲骨の間が、すうっと冷えた。


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― 新着の感想 ―
 え、やらかしまくっててまだやるの?? 侯爵になにか怨みが?
ずっと気になってるのだが、、 他国から人道支援を領地にするらしいが まず自国(主人公の母国)は支援ないの? 自国の関係ある他領地からの支援ないの? 貴族のサロンで主人公(冷たい妻)いるから 元旦那は…
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