第5話 手紙
その手紙は、ヴェルデ産の上質な封筒には入っていなかった。
安い紙だった。茶色い、ざらざらした包装紙のような封筒。宛名は私の名前だが、文字が揺れている。書き慣れていない人の筆跡だ。
差出人の名前はなかった。ただ、封を開けると、二つ折りの便箋と、もう一枚、子供の字で書かれた紙切れが入っていた。
便箋の方を先に読んだ。
「ヴィオレッタ奥様。突然のお手紙をお許しください。エルダです」
エルダ。侍女頭のエルダだ。あの人が、こっそり手紙を送ってきた。
「侯爵領の状況をお伝えしなければと思い、筆を取りました。奥様がお去りになってから二月が経ちました。領地は、申し上げにくいのですが、大変なことになっております」
読み進める。手が冷たくなっていく。
外交の崩壊が、交易路に波及していた。三カ国との条約更新が滞り、交易商人たちが別のルートを使い始めた。関税収入が激減し、領地の財政が圧迫されている。それだけならまだいい。
問題は、交易路が止まったことで物資が入ってこなくなった地域があることだ。侯爵領の北部、山間の小さな集落。冬の備蓄用の穀物を交易で調達していた地域。
「北部の集落では、冬を越せるだけの食糧が確保できておりません」
エルダの文字は、ここから乱れ始めていた。
「侯爵は軍事の対応に追われており、北部の民のことまで手が回っていないようです。マリアンヌ様は、奥様の覚書を読んでおられますが、各国への要請の仕方がわからないとのことで」
覚書。あの引き継ぎ用の覚書を、マリアンヌ嬢が読んでいるのか。読んだとして、行間に書かなかったことが読めるはずがない。たとえば、ラドニアに穀物の緊急融通を頼むときは、まず大使夫人に季節の贈り物を送ること。それがラドニア流の「お願い」の作法だということ。覚書には「ラドニア大使に書簡を送る」としか書いていない。
ペンを握る力が弱い老女の字が、一行ごとに震えている。
そして、もう一枚。子供の字の紙切れ。
「おくさまへ。おくさまがいなくなってから、おとうさんのおみせがしまりました。おかあさんがないています。ふゆがこわいです。おくさま、かえってきてください」
紙を、机に置いた。
静かに置いたつもりだった。でも、指が。指の先が、微かに震えていた。
(これは、私の問題ではない)
そうだ。私はもう侯爵夫人ではない。離縁した。法的に、制度的に、完全に無関係だ。あの領地の民を守る義務は、ルシアン・ヴァルトシュタイン侯爵にある。私にはない。
(私には、ない)
なのに。
子供の字が、目の裏に焼きついて消えない。「ふゆがこわいです」。あの北部の集落には、冬になると雪が腰まで積もる。交易路が止まれば、食糧の備蓄は。
だめだ。考えるな。
考えるな、ヴィオレッタ。あなたはもう盾じゃない。もう誰かの代わりに走らなくていい。ここで、自分の仕事をして、自分の人生を。
でも。
あの子供は何歳だろう。字を覚えたばかりの年齢。五つか、六つか。「ふゆがこわい」と書いた小さな手は、今どこで何をしているのだろう。
(関係ない。関係ない。私の、責任じゃ——)
だめだ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
関係ないと思おうとしている時点で、関係なくない。五年間、あの領地で暮らした。外交宴の裏で書簡を捌きながら、北部の集落に物資が届くよう手配したのは私だ。あの交易路を守ることが、あの子供の冬の食糧になることを知っていたのは私だ。
制度的には無関係。
でも感情が、許さない。
手紙を握ったまま、目を上げた。ヴェルデの山が、白く光っている。ここは安全で、穏やかで、私を認めてくれる場所だ。ここにいれば、もう疲れなくていい。
なのに。
「ヴィオレッタ殿」
扉の向こうから、声がした。レオン殿だ。
「入っても?」
「……どうぞ」
声が掠れていた。自分でもわかった。レオン殿が入ってきて、私の顔を見て、一瞬止まった。
「何かあったのか」
敬語が、消えていた。いつもの「ヴィオレッタ殿」ではなく、「何かあったのか」。口調が変わる瞬間を、初めて見た気がする。
手紙を差し出した。説明する言葉が見つからなかった。六カ国語を操る女が、自分の感情を説明する言語を持っていなかった。
レオン殿が、黙って手紙を読んだ。子供の紙切れも。
長い沈黙があった。
「ヴィオレッタ殿」
敬語が戻っている。でも、声の温度が違った。
「それは、君のせいじゃない」
知っている。わかっている。わかっているのに。
「……わかっています」
「でも」
レオン殿が、少し間を置いた。窓の外を見ない。私を見ている。
「君が助けたいなら、方法を一緒に考えよう」
一緒に。
その言葉は、「条約の確認がしたい」とは違った。口実ではなかった。「味見をしてほしい」とも違った。建前ではなかった。
初めて、この人が本音を言った気がした。
でも私は、うなずけなかった。「助ける」とも「助けない」とも言えなかった。
助けるということは、もう一度あの領地と関わるということだ。もう一度、誰かの盾になるということだ。せっかく降ろした鎧を、また着るということだ。
でも、助けないということは。
あの子供の冬を、見捨てるということだ。
「少し、考えさせてください」
それだけ言うのが精一杯だった。
レオン殿は頷いた。何も付け足さなかった。急かさなかった。「正しい答え」を押し付けなかった。ただ、部屋を出ていくとき、机の上に小さな包みを置いていった。山岳地方の干し果物だった。
包みの横に、メモが一枚。レオン殿の字で「公務ではない」とだけ書いてあった。
……この人は、ずるい。こういうところが、ずるい。
一人になった部屋で、子供の手紙をもう一度読んだ。
「おくさま、かえってきてください」
帰れない。帰らない。でも。
でも、何もしないでいられるほど、私は冷たくなれなかった。
窓の外の山が、夕日で赤く染まっている。
干し果物を一つ、口に入れた。甘酸っぱい味が広がる。噛むと、じわりと蜜が出てくる。美味しかった。美味しいのに、鼻の奥がつんとした。
答えは出ない。出ないまま、日が暮れた。
ただ一つだけ、わかったことがある。
「もう関係ない」と言い切れる人間は、最初から関係を持たない人だ。五年間、あの領地で生きた私には、その言葉は使えない。
使えないとわかっただけで、十分だった。答えは、明日考える。




