第4話 公国の風
ヴェルデ公国の空気は、薄くて冷たくて、透明だった。
山を越えた瞬間にわかった。空の色が違う。平地の空は水色だけれど、ここの空は紺に近い。高地の空だ。肺に入る空気が鋭くて、一息ごとに目が覚める。
馬車の窓から見える街並みは、石造りの建物が山肌に沿って並んでいる。白い壁に灰色の屋根。飾り気は少ないが、清潔で整然としている。小国の首都にしては品がいい。
正門に着くと、衛兵が敬礼した。外務卿からの招聘書を見せると、すぐに通された。
中庭を抜けて、外交局の建物に入る。石の廊下は足音がよく響く。空気が冷たい。でも不快ではなかった。侯爵邸の甘い香水の匂いよりも、ずっと呼吸がしやすい。
「お待ちしておりました」
廊下の先に、レオン・ヴェルデ大使が立っていた。
白の軍服。浅黒い肌。黒髪を後ろに撫でつけている。外交宴で見る姿と変わらない。ただ、ここでは少しだけ、ほんの少しだけ肩の力が抜けている気がした。
「ようこそヴェルデ公国へ、ヴィオレッタ殿。長旅でお疲れでしょう。お部屋にご案内いたします」
完璧に公式な態度。声も表情も隙がない。さすが外交官だ、と思った。
用意された部屋は、小さいが清潔だった。山が見える窓。木の机と椅子。書棚には公国の法律書が数冊。そして。
机の上に、茶器一式と、見覚えのある茶葉の缶が置いてあった。
ヴェルデ公国産の山岳茶。私が好きな銘柄だ。
(なぜ、知っている?)
二年前の外交宴で、レオン殿に勧められて以来、取り寄せていた茶葉。それを私が気に入っていることを、この人は知っていたのか。外交宴の場で「美味しい」と一言言っただけのはずなのに。
荷物を整理する手が、少し止まった。自分の鞄からも同じ茶葉の缶が出てきて、机の上に二つの缶が並んだ。
……考えるのはやめよう。
◇
翌日から、外交局での仕事が始まった。
ヴェルデ公国は小国だが、地理的に大国の間に位置しているため、外交が生命線だ。大使が少人数で複数の国との折衝を担当しており、有能な外交官は常に不足している。
私に任されたのは、エスタード王国との通商条約の改定案作成。エスタード語の原文を読み、ヴェルデ語と共通語の対訳を作り、改定のポイントを整理する。
三日で終わらせた。侯爵家にいた頃は四カ国分を同時にやっていたのだ。一カ国分なら余裕がある。
それでも、仕事の質は落とさなかった。エスタード語には独特の敬語体系がある。王族向けの文体と貴族向けの文体が異なり、さらに条約文には専用の法律文体がある。それぞれの微妙な違いを訳し分けるのは、辞書を引くだけではできない。文化の肌触りを知っている者にしかできない仕事だ。
レオン殿が、完成した書類を読んだ。一頁目を読んだ時点で、ページをめくる手が止まった。
「……素晴らしい」
顔を上げた。レオン殿の目が、書類ではなく私を見ていた。
「翻訳の正確さだけではない。エスタード側が受け入れやすい言い回しに調整されている。君の翻訳は」
一瞬、口元が動いた。何かを言いかけて、飲み込んで、もう一度口を開いた。
「君の翻訳は芸術だ」
手が滑った。
茶器が机の端に当たり、危うく倒れかけた。慌てて押さえる。中身はこぼれなかった。でも、耳の先が熱い。首まで熱い。なんだこれは。
「ヴィオレッタ殿? 大丈夫ですか」
「は、ぇ、ええ。大丈夫です。はい」
何語だ今のは。六カ国語を操る女が、どの言語でもない音を発した。外交官として致命的だ。
「……手が、滑っただけです」
レオン殿が何か言った気がしたが、聞こえなかった。顔が熱すぎて聴覚が機能していない。
◇
それから、レオン殿が毎日私の執務室を訪ねるようになった。
「条約の第七条について確認したいのですが」
「はい。どの部分でしょう」
「……全部です」
全部。昨日も全部でしたけれど。
「あと、エスタードの歳時記について。文化的背景の確認を」
「それは先週お伝えしましたが」
「……もう一度お聞きしたい」
レオン殿は、確認事項を口実に毎日来る。確認事項は初日で終わっている。二日目からは、質問の内容が明らかに苦しくなっている。昨日は「ヴェルデ語の表現で迷っている箇所がある」と言っていたが、レオン殿はヴェルデ語のネイティブだ。
(この人、来る口実を探している?)
いや。考えすぎだ。
そう思いたかった。でも、来るたびに「これは公国の名産だから味を見てほしい」と何かを持ってくるのだ。山岳地方の干し果物。蜂蜜漬けの木の実。高地で育った葡萄のジュース。
全部、私の好みに合うものばかりだった。偶然にしては、あまりに正確だ。
「大使殿。毎日いらしてくださるのはありがたいのですが、確認事項はもう終わっているのでは?」
一度、思い切って聞いてみた。レオン殿の視線が泳いだ。一拍の間。二拍。
「……公国の風土に慣れたか、確認したかった」
それは確認事項とは呼ばない。でもそう言うと、この人はまた黙り込んでしまいそうだったので、指摘しなかった。
◇
ある日、レオン殿の部下のカイという若い外交官と、書庫で出くわした。
「ヴィオレッタ様。いつもありがとうございます。大使がいつもヴィオレッタ様のお話をされていて」
「え」
「この前の翻訳のことも、条約案の構成のことも、あとお茶の好みが同じだって嬉しそうに」
「カイ」
廊下の向こうから、レオン殿の声がした。低い。明らかに低い。普段の倍くらい低い。
「カイ。少し来なさい」
「あ、大使。今ヴィオレッタ様に」
「今すぐ来なさい」
カイが連れ去られた。廊下の角を曲がる直前、レオン殿がちらりとこちらを見た。耳が赤かった。
一人残された廊下で、私は壁に額をつけた。
動けない。奥歯の裏側が痺れている。こめかみが脈を打っている。
(落ち着きなさい、ヴィオレッタ。あなたは外交官でしょう)
外交官だ。六カ国語を操る外交官だ。なのに今、どの言語でも「この状況」を適切に表現する語彙が見つからない。
壁の石が額に冷たい。その冷たさだけが頼りだった。
……だめだ。おさまらない。
夜。一人で窓から山を見た。星が近い。平地では見えない星まで見える。冷たい夜風が頬に当たる。
ここでは、盾にならなくていい。
誰かの名代でなくていい。
ヴィオレッタ・シュテルンとして、仕事をして、認められて、それで。
それで、何だろう。
あの人の目を見ると、言葉を扱う仕事をしているのに、言葉が出なくなる。
それが何なのか、まだ名前をつける勇気がなかった。




