第3話 引き継ぎの朝
実家の朝食は、甘い卵焼きの匂いがする。
シュテルン伯爵家の食堂は、侯爵邸に比べれば小さい。テーブルは六人がけ。窓の向こうに小さな庭があって、この季節は白い花が咲く。名前は知らない。母が生きていた頃に植えたものだと父が言っていた。
「ヴィオレッタ。卵焼きのお代わりは」
「いただくわ」
父、シュテルン伯爵は、離縁して帰ってきた娘に何も聞かなかった。ただ「おかえり」と言い、翌日から当たり前のように朝食を共にしている。白髪が増えた。五年前はもう少し黒かった。
甘い卵焼きを食べながら、ぼんやりと思う。ここ五年、朝食をゆっくり味わったことがなかった。侯爵邸での朝は、書簡の確認から始まる。食事は片手で摂るもので、味わうものではなかった。
卵焼きが、やわらかくて甘い。それだけで少し泣きそうになるのだから、よほど疲れていたのだろう。
一週間が経った。
実家での暮らしは穏やかだった。外交書簡は来ない。社交宴もない。笑顔の鎧を着なくていい朝が、こんなに軽いとは思わなかった。庭の白い花を眺め、父と食事をし、書庫で好きな本を読んだ。ラドニアの叙事詩を原語で読む。これは仕事ではなく、ただの趣味だ。仕事でなく言語に触れるのは、久しぶりだった。
そんな日々の中、父の元に出入りする商人から、侯爵家の噂が届いた。
「ヴァルトシュタイン侯爵家、外交が大変なことになっているそうですな」
父は何も言わなかった。私も聞かないふりをした。でも、耳は勝手に拾ってしまう。
マリアンヌ嬢が、早速「侯爵夫人代理」として外交実務に手をつけたらしい。最初の仕事は、ラドニア国から届いた書簡への返答だった。
ラドニア語で書かれた書簡。
マリアンヌ嬢は共通語しか話せない。ラドニア語はおろか、フェリシア語もエスタード語もヴェルデ語も読めない。侯爵邸には翻訳ができる者が一人もいなかった。私以外には。
書簡は二週間、返答されないまま放置されたという。
それだけではなかった。フェリシア国との通商条約の更新期限が迫っていたが、更新に必要なフェリシア語の書式を作成できる者がいなかった。マリアンヌ嬢は共通語で書式を送ったらしい。フェリシアの外務官が「正式な書式ではない」と突き返したとか。
私が五年間守ってきた六カ国との実務関係が、ひとつ、またひとつとほつれ始めている。糸を紡いだ者がいなくなれば、布は解ける。当然のことだ。
ラドニア大使が不快感を示した、と商人は言った。あのグレイル大使が。「ヴィオレッタ殿ならば翌日には返答があったのだが」と呟いたとか。
(……そうでしょうね。翌日どころか、当日中に返していたわ)
思わず口の端が上がった。すぐに引き締める。もう私の問題ではない。
もう、私の問題ではないのだ。
◇
その翌日。父が朝食の席で封書を差し出した。
「お前宛だ。ヴェルデ公国の外務卿から」
正式な招聘状だった。
ヴェルデ公国外交局への参事官としての着任を正式に打診する旨。待遇、住居、職務内容が簡潔にまとめられている。公国の紋章入りの上質な紙。格式の高い書式だ。
そして末尾に、前にも見た手書きの一行。
レオン・ヴェルデ大使の署名の下に、インクの色が少し違う追伸。
「当方の外交局は、優秀な人材を常に求めております。お茶の準備も万端です。 レオン」
公式な招聘状の末尾に、私的な一文。外交官としてはやや型破りだ。この人は普段の交渉では隙のない正確さで知られている。その人がわざわざ手書きで一行を足した。
父に見せた。
「ヴェルデ公国か。小さいが、外交力では大国に引けを取らない国だな」
「ええ。レオン・ヴェルデ大使は、有能な方よ。小国の立場で大国と渡り合う交渉術を持っている」
「会ったことがあるのか」
「外交宴で。三年ほど前から」
父は茶を一口飲んだ。
「お前の目が、五年ぶりに光っているな」
「そんなことないわ」
あるのかもしれない。新しい場所で、私の力を正当に評価してくれる人がいる。そう思っただけで、胸の奥の何かが少しだけ軽くなった。
「行きたいのか」
「……行きたい」
言ってから、驚いた。行きたい。行きたいと言った。私が。五年間、誰かの盾になること以外の欲望を口にしなかった女が。「行きたい」が、こんなに真っ直ぐに出てくる。出てきてしまった。もう飲み込めない。
父が頷いた。
「行きなさい。お前の力は、お前のために使いなさい」
その言葉が、離縁届よりもずっと重かった。
父は茶碗をテーブルに置いた。それから、少し照れくさそうに付け加えた。
「……母さんもそう言うだろう」
庭の白い花が、風に揺れていた。母が植えた花だ。名前を、今度こそ調べよう。自分のために知りたいことを知る。そういう時間が、これからはあるのだ。
◇
旅の準備をしながら、リーゼが泣いた。
「奥様、ヴィオレッタ様。ヴェルデ公国って、山の上なんでしょう。寒いんでしょう。お体に気をつけて。手紙、書きますから」
「ありがとう、リーゼ。あなたも元気でね」
リーゼは侯爵家の使用人だ。ついてくることはできない。この子とも、もう毎日は会えない。
荷物を最終確認する。着替え。語学書。資格証明書。そして、ヴェルデ産の山岳茶の缶。
缶を手に取ったとき、掌にかすかな温もりを感じた気がした。気のせいだろう。金属の缶が温かいはずがない。
リーゼが最後に、小さな包みを差し出した。
「これ、エルダさんから預かりました。ヴァルトシュタイン家から、こっそり」
開けると、刺繍入りのハンカチだった。エルダの手仕事だ。端に小さく「お嬢様の門出に」と縫い取りがある。針目が少し乱れている。泣きながら縫ったのだろう。
胸の奥がきゅっとした。この感覚に、名前をつけない方がいい。つけたら泣いてしまう。
馬車に乗る。今度は実家からの出発だ。
父が門の前に立っている。手を振らない人だ。ただ立って、見送る。それが父なりの「がんばれ」だと知っている。
ヴェルデ公国まで、馬車で三日。山を越え、国境を越え、新しい国へ。
窓の外に広がるのは、秋の野原だ。金色の穂が風に揺れている。五年間、外交宴の窓からしか見なかった景色を、今は自分の馬車で通り過ぎていく。
誰かの名代ではなく。
誰かの盾でもなく。
ヴィオレッタ・シュテルンとして。
道の先に、山が見えた。ヴェルデ公国の山だ。白い峰が、朝の光を受けて輝いている。
あの山の向こうに、お茶の準備をして待っている人がいる。
まだ笑う気にはなれない。でも、口元が少しだけ緩んだ。それで十分だった。




