第2話 白い朝
夫が愛人の名前を呼ぶとき、いつも少し声が高くなる。
五年も一緒にいれば、そのくらいはわかる。マリアンヌ、と呼ぶ声には甘さがあって、ヴィオレッタ、と呼ぶ声にはそれがない。五年かけて確認するほどのことでもなかった。最初の一年で十分だった。
「話がある」
朝食の席で、ルシアンはそう言った。金髪碧眼の美丈夫。軍装が似合う肩幅の広い男。この人の外見に見合う妻であろうと、私は五年間、社交界で笑顔を作り続けた。
「マリアンヌを正式に迎え入れたい」
銀のスプーンがスープの表面に触れる音が、やけにはっきり聞こえた。
「離縁の手続きを進めてほしい」
私は顔を上げた。夫の目を見た。碧い目。この目に見つめられて胸が高鳴った頃が、確かにあった。今は何も鳴らない。
微笑んだ。
「承知いたしました」
ルシアンの眉が動いた。怒りでも悲しみでもなく、困惑の表情。この反応を予想していなかったのだろう。泣くか、怒るか、すがるか。彼の想像の中の「妻」は、そのどれかだったのだと思う。
「……それだけか」
「はい。それだけです」
私はスプーンを置いた。ナプキンで唇を拭き、立ち上がる。
「離縁の法的要件は、私の方で確認いたします。不貞の証拠は十分ですので、妻側の一方的離縁が認められる判例に該当いたします。書類は三日以内にご用意いたしましょう」
ルシアンの顔から血の気が引いた。不貞の証拠、という言葉が効いたのだろう。三年間、私が知らないと思っていたのだ。
「ヴィオレッタ」
「補償金の算定は、婚姻時の取り決めに基づきます。持参金の返還と、婚姻期間中の貢献分。外交実務の評価額については、王家の基準に準拠いたします」
言葉が、するすると出てくる。外交の場で鍛えた話術だ。感情を交えず、事実を並べ、相手に反論の余地を与えない。この技術を夫に使う日が来るとは思わなかった。
「待ってくれ」
「待つ理由がございません」
ルシアンの目が見開かれた。椅子から立ち上がりかけた体が止まる。この人は戦場では冷静だと聞く。騎士団を率いる姿は堂々としていて、部下からの信頼も厚い。それは本当だろう。軍事の才能は本物だ。
ただ、「剣」は握れても「舌」は操れなかった。それだけのことだ。
「ヴィオレッタ、話し合おう。まだ」
「侯爵。話し合いは、双方に議題があるときにするものです。私の議題はたった一つ。離縁です。そちらの議題は?」
返事はなかった。一言で足りた。
◇
書斎で離縁届の草案を書いた。
法律書を確認し、必要事項を埋める。ペンの動きは正確だった。五年間で何百通もの条約文を起草した手は、自分の離縁届でも迷わなかった。
扉を叩く音。
「奥様」
エルダだった。盆に茶を載せて入ってきた老女は、私の机の上の書類を見て、立ち止まった。
「奥様。本当に、よろしいのですか」
「ええ」
「五年間、ずっと、この家のために」
「だからよ、エルダ」
声が少し揺れた。自分でも意外だった。ルシアンの前では完璧だったのに、この人の前では崩れそうになる。五年間、誰よりも私のそばにいてくれた人だ。
「もう十分やったわ」
エルダの目から涙が落ちた。皺だらけの手で盆を握りしめている。
「奥様を、お嬢様を、お引き止めする権利は、私にはございません。ですが」
「ありがとう、エルダ。大丈夫よ」
大丈夫。私はいつもそう言う。いつか本当に大丈夫になる日まで、そう言い続けるのだろう。
◇
三日後。
離縁届を夫の書斎の机に置いた。署名と印は済ませてある。あとは夫の署名と、王家への届出だけだ。
ルシアンはいなかった。マリアンヌ嬢と外出中だと侍従が言った。その方が楽だった。
書類の隣に、短い手紙を一通。
「疲れたの。怒ってるんじゃないの。ただ、疲れたの」
一文だけの手紙。それが、五年間の結婚生活への、私の最後の言葉だった。
怒っていないというのは嘘ではなかった。怒る力も、もう残っていなかった。五年分の外交宴。五年分の書簡処理。五年分の笑顔の鎧。五年分の東棟から聞こえる笑い声。全部、全部、全部。喉の奥が焼けるように熱いのに、目からは何も出ない。枯れたのだ。五年かけて、枯れた。
その重みに名前をつけるなら、怒りではなかった。疲労だった。
荷物はすでにまとめてあった。外交書類は書斎に整理して残した。引き継ぎ用の覚書も作った。各国大使への対応マニュアル。季節ごとの宴の礼儀作法。禁忌事項のリスト。フェリシア国では赤い宝石を身に着けてはならない。ラドニアでは左手で乾杯しない。ヴェルデでは。
マニュアルを書きながら、思った。こんなものを読んで、マリアンヌ嬢に何がわかるだろう。文字にできることなど、外交のほんの表層にすぎない。言語の温度。声の間。視線の角度。それは紙には写せない。
でも、もう私の問題ではない。
馬車に乗った。荷物の中に、ヴェルデ公国産の山岳茶の缶がある。あとは着替えと、数冊の語学書と、外交官としての資格証明書。結婚前に取得した個人資格だ。離縁しても失われない。この証明書だけは、誰にも渡さなかった。
侍女頭のエルダが、馬車の窓越しに手を握ってきた。何も言わなかった。ただ、その手の力が、五年分の「ありがとう」を伝えていた。
「元気でね、エルダ」
「はい。お嬢様も」
奥様ではなく、お嬢様と呼んだ。もう侯爵夫人ではないのだ。それが、少しだけ嬉しかった。
馬車が動き出す。
振り返らなかった。
窓の外を、白い朝の光が流れていく。シュテルン伯爵家、実家までは馬車で半日。その半日の間、私は何も考えなかった。何も考えないことが、こんなに楽だとは知らなかった。
実家の門が見えたとき、涙は出なかった。
ただ、深く息を吸った。
肺の奥まで冷たい空気が入った。五年ぶりに、鎧を脱いだ気がした。
玄関で父が待っていた。白髪の多い穏やかな人。何も聞かず、ただ「おかえり」と言った。
「ただいま」
その四文字が、こんなに難しいとは思わなかった。
翌朝。実家の書斎で朝食を取っていると、父が封書を持ってきた。
「お前宛だ。ヴェルデ公国の紋章がある」
手紙ではなかった。正式な書簡だった。ヴェルデ公国の外務卿の署名入り。
封を開ける。文面は公式な招聘状だった。ヴェルデ公国外交局への所属を正式に打診する旨。そして末尾に、別の筆跡で一行。
手書きだった。レオン・ヴェルデ大使の署名の下に。
「お茶の準備はできています」
喉の奥が、かすかにほどけた。




