第17話 六つの言葉
議事堂の「鷲の間」で六カ国語が響いたのは、建国以来初めてのことだったらしい。
後でカイがそう教えてくれた。「歴史的瞬間でしたよ」と嬉しそうに。本人はそのとき議場にいなかったのだけれど。
朝。演説の前に、インク壺の蓋が開かなかった。
固い。力を入れても回らない。冬の寒さで金属が収縮したのだろう。両手で握って、歯を食いしばって、ようやく開いた。指先にインクが飛んだ。右手の中指。黒い染みがつく。
(……演説の前に、これ)
溜息をついて、指を拭いた。拭いても微かに残る。まあいい。外交官の手にインクの染みは勲章だ。誰かがそう言っていた。誰だったか。
議事堂への道を歩く。石畳に薄く雪が残っている。革靴の底がきしむ。空は晴れていた。冬のヴェルデの晴天は、空が紺色になる。高地の空。息を吸うと肺の奥まで冷たい空気が入る。
「鷲の間」の扉の前で、一度止まった。
扉は重い樫の木で、鷲の彫刻が施されている。翼を広げた鷲。ヴェルデ公国の紋章。私の国ではない。でも、私の仕事場だ。
扉を開けた。
◇
円形議場に、六十名の議員が座っている。保守派は右翼、革新派は左翼、中立派が中央。教科書通りの配置だ。
オットー・ハーゲンが最前列にいた。白髪を短く刈り込んだ老人。腕を組んで、こちらを見ている。敵意ではない。品定めの目。「何を言うか見てやろう」という目だ。
傍聴席に、レオンがいた。
目が合った。一瞬だけ。レオンの表情は読めなかった。外交官の仮面。五日前から、ずっとあの顔だ。
視線を切った。今日、あの人のことは考えない。
議長が名前を呼んだ。「シュテルン参事官。発言を許可する」
立ち上がった。議場の中央、演壇に向かう。靴音が石の床に響く。六十人の視線が集まる。
演壇に立った。手元に草稿がある。五日かけて書いた。だが、読まない。暗記した。六カ国語のすべてを。
手が冷たい。暖炉のない議場は、冬は底冷えがする。石の床から冷気が靴底を通して伝わってくる。
深く息を吸った。
ラドニア語で始めた。
「尊敬なる議員の皆様。まず、グレイル・ラドニア大使の書面をお伝えいたします」
古典体の格調高い発音。ラドニア語を聞いた議員の半数が、身を乗り出した。この言語をこの議場で聞くのは初めてだろう。
グレイル大使からの支持書面を読み上げた。「ヴィオレッタ・シュテルン殿の外交的貢献は、ラドニアにとっても代え難いものである」。老大使の格式ある文面が、ラドニア語の響きに乗って議場を満たした。
次にフェリシア語に切り替えた。
「続いて、ロゼ・フェリシア大使の書面でございます」
フェリシア語は格式と温度の両立が求められる。ロゼ大使の書面は短かった。「彼女は六カ国の外交を一人で支えた。代わりはいない」。簡潔で、それゆえに重い。
エスタード語。法律文体で、条約改定の具体的成果を数字で示した。関税率の改定で交易収入が二割増加した事実。法的除外規定の挿入で交渉が三ヶ月短縮された事実。数字は嘘をつかない。
カルディア語。議場がざわめいた。敵国の言語をこの場で使う意味を、議員たちは理解した。「カルディアの脅威に対応するには、カルディア語を読める人間が必要です。この議場で、カルディア語の外交書簡を原文で読める方は、何名いらっしゃいますか」
沈黙。
誰もいない。私以外には。
共通語に戻した。
「私は三ヶ月前、この公国に着任しました。短い期間です。ですが、この三ヶ月間で、エスタードとの通商条約改定案を完成させ、ラドニア・フェリシア両国との信頼関係を維持し、カルディアの領土要求に対する初動対応を行いました」
声が、少し震えた。怖い。六十人の前で自分の功績を語るのは、他国の大使と交渉するより怖い。でも、止まらなかった。
「私の忠誠を疑うなら、この条約文をお読みください。六カ国語で。すべての一語に、私の仕事が刻まれています」
オットーの表情が動いた。眉が上がった。驚きではない。感心に近い。
そして、最後に。ヴェルデ語。五日間書けなかったヴェルデ語の一文。
結局、前夜にようやく決まった言葉。
「私はこの国の人間ではありません」
議場が静まった。
「ですが、この国の言葉で仕事をし、この国の法を学び、この国の茶を飲み、この国の山を毎朝窓から見ています。私の母が若い頃、この国を訪れました。白い花を持ち帰りました。ヴェルデリアを」
声が少し掠れた。
「外の人間だからこそ、見えるものがあります。六カ国の言葉を持つ者だからこそ、つなげる橋があります。それが私の価値です。その価値を、この議場で証明させていただきました」
座った。
沈黙が、三秒。五秒。
拍手が起きた。最初は中立派の一人から。次に革新派。そして、中立派の残りが続いた。
保守派は拍手しなかった。だが、オットーが小さく頷いたのを、私は見逃さなかった。
◇
採決は、法案否決。賛成二十一、反対三十六、棄権三。三分の二に遠く及ばなかった。
議長が否決を宣言したとき、オットーは無言で席を立った。負けを認めた顔ではなかった。だが、今日この場で争っても勝てないと判断した顔だった。あの老人は、引き際を知っている。
議場を出ると、冬の空気が頬に当たった。冷たい。でも、清々しかった。議事堂の外壁に積もった雪が、午後の日差しで溶け始めている。雫が石壁を伝って落ちていく。
廊下で、レオンが待っていた。壁にもたれて、腕を組んで。傍聴席から降りてきたのだろう。
目が合った。
「……見事だった」
それだけ。短い。でも、声が震えていた。外交の天才の声が。
何か言おうとした。口が開いて、閉じて。レオンはそのまま踵を返して、廊下の奥に消えた。足取りが少しだけ速かった。
一人残された廊下で、私は演壇で握りしめていた草稿を広げた。しわだらけだった。五日かけて書いた草稿を、演壇の上で読まずに丸めていたのだ。
右手の中指に、朝のインクの染みが残っていた。
勲章だ。誰かが言っていた。
思い出した。レオンだ。着任した最初の週に、「外交官の手にインクの染みは勲章だ」と。
勲章を見つめながら、廊下で立ち尽くした。泣きはしなかった。でも、鼻の奥がつんとした。冬の空気のせいだ。
カルディアの問題は、まだ解決していない。議会の承認は得たが、国境の脅威は消えていない。
だが今日、一つだけ証明した。
私はここにいていい。




