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あなたの妻を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第14話 議場の風

法律というのは、知らなかった者を守ってはくれない。


外交官として何百本もの条約文を読んできた。法の文言の一語が国の命運を変えることを知っている。なのに、自分の足元にある法律の一条を見落としていた。


オットー・ハーゲン議員が法案を正式に提出したのは、彼の指摘から二週間後のことだった。


「非公国籍者の機密文書アクセスに関する議会承認法案」。外国籍の公務員が機密文書にアクセスするには、議会の三分の二以上の承認が必要、というもの。今の議会構成では、保守派が三分の一を超えている。つまり、否決できる。


法案の写しが執務室の机に届いたとき、私は朝の茶を飲んでいた。山岳茶の苦みが、いつもより鋭く舌に触れた。


条文を三回読んだ。一回目は共通語で。二回目はヴェルデ語の原文で。三回目は、法律家の目で。


公国法第四十七条。条項の存在は知っていた。だが「外務卿の招聘は議会承認に相当する」という慣例を信じ込んでいた。慣例は法律ではない。オットーはそこを正確に突いた。カルディアの脅威で機密レベルが上がり、平時なら問題にならない条項が息を吹き返した。


条文の余白に、オットーの手書きのメモがあった。「国を守るのは法であり、善意ではない」。丁寧な字だった。悪意で書かれた字には見えなかった。それが余計に厄介だ。


(見落としていた。私が。私が、見落としていた)


五年間、他人の法的書類の穴を塞いできた女が、自分の立場の法的根拠に穴を残した。侯爵家で何百通もの条約文を起草した手が、自分自身の着任手続きを確認しなかった。


「委員会を通過した」


レオンが来たのは昼過ぎだった。声に温度がない。報告する声ではなく、堪えている声だった。


「採決は七対三。保守派が中立派の一部を取り込んだ」


七対三。思ったより差がある。中立派の切り崩しが進んでいる。


オットーの議会工作は手堅い。二十年の経験がある政治家だ。法案の文言も隙がない。「外国人を排斥する」とは一言も書いていない。「適切な承認手続きを経ること」と書いてある。正しい。ただ、その「適切な手続き」のハードルが三分の二なのだ。事実上の排斥を、手続き論で包んでいる。


(この手口、私が条約交渉で使うのと同じだわ)


敵の有能さを認めるのは不愉快だが、事実は事実だ。


「本会議は?」


「二週間後」


机の上のエスタード語の条約案に目が落ちた。朝から作業していた書類。この書類が「機密」に分類されたら、私はもう触れることができなくなる。


「ヴィオレッタ」


レオンの声が変わった。低く、慎重になった。何かを言う前に言葉を選んでいる顔。相手が「決めた」と過去形で言うとき、それは交渉の余地がないということだ。外交官の勘が、嫌な予感を伝える。


「一つ、決めたことがある。公的に、君との距離を取る」


音が。


遠くなった。


窓の外の雪も。議事堂の鐘も。全部。


「俺と君の関係が、オットーの攻撃材料になっている。大使と参事官の私的関係が公国の外交判断を歪めている、という論法だ。その口実を潰す」


正論だ。条約交渉なら、私も同じ手を使う。相手の攻撃材料を先回りして潰す。基本中の基本。


だが潰されるのが自分の——自分たちの距離だと、基本が胸に刺さる。


「共同執務室を解消する。俺は大使公邸に移る。業務連絡は書面で」


条約の条文を読み上げるように。一条ずつ。丁寧に。


共同執務室の解消。朝の茶が一つになる。向かいの机が空になる。「確認事項」がなくなる。


「君を守るために、これが最善だと判断した」


守る。


守る、と言った。この人が。


頭が変になった。ぐちゃぐちゃだ。ルシアンの「お前に任せる」が聞こえる。レオンの「守る」が聞こえる。二つの声が重なる。違う声なのに、同じ場所に刺さる。私の意志を聞いていない、という場所に。


任せる。守る。任せる。守る。どっちも、私が何をしたいか聞いてない。どっちも。


五年前は「どうでもよかった」から平気だった。今は「どうでもよくない」から、こんなに。


ルシアンに距離を取られたとき、何も感じなかった。あの人は最初から近くにいなかった。距離を取ったのではなく、もとから遠かっただけだ。


レオンは違う。この人は近かった。向かいの机にいた。毎朝茶を淹れていた。条約の文言で迷ったとき、名前を呼べば振り向いてくれた。その距離が、今、引き剥がされようとしている。善意で。正論で。外交官として正しい判断で。


正しいから反論できない。正しいから余計に苦しい。


「レオン」


声が出た。出たけれど小さかった。小さすぎて、自分の喉からそれが出てきたのかもわからなかった。


レオンは聞こえなかったのだろう。もう一度呼ぶべきだった。喉が動かない。六カ国語が全部沈んで、一語も浮かんでこない。


「明日から、手配する」


それだけ言って、レオンは出ていった。扉が閉まった。丁寧に、静かに。乱暴に閉めてくれた方がまだましだった。その丁寧さが善意だとわかるから。善意で距離を取られることの、どうしようもなさ。怒鳴られた方が楽だ。怒鳴り返せるから。


一人になった。向かいの机にレオンの筆跡が残った書類。右上にインクの染み。いつもここに落とす人だった。茶器が二つ。二つの茶器が並んだ机。明日からは一つ。


窓の外で雪が強くなっていた。ヴェルデの冬の雪は音がしない。静かに降り積もる。石畳の上に薄い白が広がり、衛兵の足跡がついては消される。


侯爵邸を出た朝を思い出す。あの時は自分で選んで出ていった。今は選んでいない。選ばされている。


レオンは善意で言っている。侯爵邸で五年間「善意のない放置」を受けた私には、「善意のある距離」の方がましだということも、わかっている。


ましだからといって、嬉しいわけではない。


茶器を一つ、棚に戻した。レオンの分。茶渋がうっすら残っている。少し濃いめに淹れる人だった。一ヶ月で知った。


棚の奥に仕舞い込むのはやめた。手前に置いた。見える場所に。すぐに取り出せる場所に。


暖炉の火が落ちている。薪を足す人がいない。立ち上がって、自分で一本くべた。火の粉が散った。


まだ何も決まっていない。法案は本会議を通っていない。レオンの距離も。


今夜は暖炉の火を見ている。一人で。薪が崩れる音だけが、石の壁に小さく響いている。

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