第12話 白い花の名前
父からの手紙は、いつも便箋二枚きっかりだ。
三枚目を使わない。一枚で済む内容でも、必ず二枚目の途中まで書く。几帳面なのか不器用なのか、たぶん両方だ。白髪の穏やかな人の、ペンの運びが目に浮かぶ。
今回の手紙も二枚だった。ただし、内容がいつもと違った。
「ヴィオレッタ。お前がヴェルデで元気にしていると聞いて安心している。寒くなってきたから厚い外套を送る。それから、一つ、話しておきたいことがある」
父が「話しておきたい」と前置きすることは珍しい。この人は大抵、結論から言う。前置きがあるということは、言いにくいことだということだ。
「お前の母、テレーゼのことだ。母さんが若い頃、ヴェルデ公国を訪れたことがあった。嫁ぐ前の話だ。シュテルン家の遠縁がヴェルデに住んでいて、一夏を山で過ごしたらしい」
母。
テレーゼ・シュテルン。私が九つの時に病で亡くなった。思い出は断片的だ。柔らかい手。低い歌声。そして、庭に植えた白い花。名前を知らないまま、十八年が経っている。
「庭の白い花は、母さんがヴェルデから持ち帰ったものだ。名前は確か、ヴェルデの言葉で呼んでいた。すまない、正確には覚えていない。だが、母さんはあの花が好きだった。『山の空気の匂いがする』と言っていた」
手紙を持つ指が、少し強くなった。
母がヴェルデにいたことがある。あの白い花はヴェルデの花だった。そして私は今、ヴェルデにいる。
偶然だ。偶然に意味を見出すのは、外交官の仕事ではない。だが。
便箋を折りたたみ、封筒に戻した。封筒の角が少しだけ曲がっている。父が封をするときに力を入れすぎたのだろう。この人は手紙を書くのが得意ではない。それでも二枚きっかり書いてくる。
◇
昼食の後、レオンの執務室を訪ねた。
「少し聞きたいことがあるのだけど」
「何か」
「白い高山花で、春に咲く、ヴェルデ原産の……」
「ヴェルデリアか」
即答だった。
「知っているの?」
「公国の春を告げる花だ。リンデン谷に群生地がある。雪解けの後、最初に咲く」
レオンが立ち上がり、書棚から一冊の図鑑を引き出した。ヴェルデの植物誌。頁をめくる。白い五弁の花の挿絵が描かれている。
これだ。庭で見た花。母が植えた花。
「ヴェルデリア。学名はステラ・アルピナ・ヴェルデンシス。『ヴェルデの星の花』の意味だ。標高千メートル以上の岩場に自生する。寒さに強く、雪の中でも根を枯らさない」
レオンが図鑑の頁を指でなぞった。
「花弁は白。中心部に薄い紫の筋がある。花言葉は……」
一瞬、間が空いた。
「……花言葉は、うろ覚えだ。後で調べる」
花言葉をうろ覚え。この人が植物の学名まですらすら言えるのに花言葉だけ曖昧なのは、たぶん嘘だ。何か言いにくい花言葉なのかもしれない。追及はしなかった。
「ありがとう。母がヴェルデから持ち帰った花だったの。名前をずっと知らなくて」
「テレーゼ殿がヴェルデに?」
驚いた。母の名前を出していないのに、レオンは知っていた。
「……どうして母の名前を」
「シュテルン家の親族記録は、招聘の際に確認した。テレーゼ・フォン・シュテルン。旧姓ライヒェルト。ライヒェルト家はヴェルデに分家がある」
調べてあった。招聘の時に。私を公国に招くために、家系まで調べた。それは外交官として当然の準備だろう。当然の。
「リンデン谷に群生地がある。春になったら」
レオンの声が止まった。口が開いて、閉じて、もう一度開いた。
「いや。春の計画はまた後で」
またこれだ。言いかけてやめる。外交の席では一語の曖昧さも許さない人が、私相手だと文章の途中で立ち往生する。
「春を楽しみにしているわ」
それだけ言った。それ以上は言わなかった。図鑑のヴェルデリアの挿絵が、窓からの光を受けて白く光っている。
母がこの花を好きだった理由が、少しわかる気がする。白くて、強くて、冷たい場所で咲く。
◇
翌日。楽しみにしている場合ではなくなった。
朝一番でレオンに呼ばれた。執務室に入ると、机の上に封蝋が割れたばかりの書簡が広げてあった。紋章はカルディア王国。
「カルディアが、ヴェルデ南東部の山岳領の領有権を正式に主張する書簡を送ってきた」
レオンの声に私情はなかった。完全に外交官の声だ。
書簡を読んだ。カルディア語で書かれている。六カ国語のうちの一つ。格調高い文体だが、要求は露骨だった。ヴェルデ公国南東部のグリューネ山脈一帯を、カルディアの「歴史的領土」であると主張している。
三年前と同じだ。いや、三年前より踏み込んでいる。前回は「協議を求める」だった。今回は「返還を要求する」。
「各国への対応は」
「これから決める。君の意見が聞きたい」
私の意見。参事官としての意見。レオンは判断を独断せず、まず私に聞く。ルシアンの「お前に任せる」とは違う。あれは丸投げだった。これは、対等な相談だ。
「まず、エスタードとラドニアへ同時に情報共有の書簡を送りましょう。カルディアの要求を六カ国の枠組みの問題として位置づける。ヴェルデ一国の問題にしないことが最優先よ」
「同じことを考えていた」
レオンが頷いた。その顎の角度が、ほんの少し上向きだ。「見事だ」と言わない代わりの、小さな敬意。言葉にしなくても伝わるものが、一ヶ月で増えた。
各国への書簡を、二人で分担して起草した。私がエスタード語とラドニア語、レオンがフェリシア語と共通語。ヴェルデ語は二人で。
書き上がったのは夕刻だった。窓の外は既に暗く、松明の灯りが石畳を橙色に染めている。
「明日、議会への報告も必要になる」
「ええ」
議会。ヴェルデ公国は議会制だ。大公は高齢で権限を委譲しており、外交の重要案件は議会の承認が必要になる。
「議会には、さまざまな意見がある」
レオンの言い方が少し慎重になった。「さまざまな意見」。外交官が慎重に言葉を選ぶときは、厄介な話が隠れている。
だがその日は、それ以上は聞かなかった。
カルディアの書簡を鞄にしまい、執務室を出た。廊下の石壁が冷たい。息が白く見える。ヴェルデの冬は、本格的だ。
部屋に戻って、父の手紙をもう一度読んだ。「山の空気の匂いがする」と母が言ったという、白い花。
ヴェルデリア。ヴェルデの星の花。雪の中でも根を枯らさない。
その花の名前を知れたことが、今日一番の収穫だった。カルディアの書簡より、ずっと。




