第11話 七つ目の朝
名前を呼ぶだけのことが、こんなに難しいとは思わなかった。一ヶ月経っても。
「レオン」
朝の執務室で声をかけると、向かいの机で書類を広げていた人が顔を上げる。黒髪の下の目が、一瞬だけ柔らかくなる。ほんの一瞬。すぐに外交官の顔に戻る。
「何か」
「エスタードからの回答書、第三条の但し書きの訳が少し硬いわ。『相互互恵の精神に則り』を法律文体にすると、ヴェルデ語では義務寄りに聞こえる。もう少し柔らかくした方が先方も飲みやすい」
「確認する」
書類を受け取る手が、私の指に触れた。一瞬だ。紙一枚の厚さほどの接触。レオンの指先が引っ込む速度が、わずかに遅かった。
……気のせいかもしれない。気のせいだといいのだけれど、気のせいだと自分に言い聞かせるのは、もう諦めた。
窓の外に、初雪が降っている。ヴェルデの冬は早い。山の頂はとうに白くなっていたが、首都ヴァイスベルクにも雪が降り始めると、街の空気がぴんと張り詰める。石畳の上を白いものがちらちらと舞っていて、執務室の窓硝子に小さな結露がつく。
この窓から見える景色を、毎朝見ている。もう一ヶ月。信じられない。
一ヶ月前、この人の名前を初めて呼んだ。たった三文字。レオン。七つ目の言語。それから毎朝、同じ部屋で書類を広げ、条約の文言を議論し、時々カイが的外れな差し入れを持ってくる。その繰り返しが、こんなに心地いい。
「レオン。冬至祭の外交招待状の草稿、今日中に仕上げるわね」
「頼む。ラドニア向けはヴィオレッタに任せた方がいい。格式が独特だから」
「ラドニアの冬至祭は旧暦で数えるから、実は他の五カ国より三日早いの。知ってた? 招待状の日付を新暦で書くと失礼にあたるのよ。フェリシアは逆に新暦しか使わないし、エスタードは両方併記するのが慣例で」
レオンがこちらを見ていた。書類を持つ手が止まっている。
「……何?」
「いや。楽しそうだと思って」
楽しそう。各国の暦法の違いを語って楽しそうと言われるのは、おそらくこの世界で私だけだろう。まあ、聞いてくれる人がこの世界でこの人だけなのだから、お互い様だ。
昼前にカイが来た。両手に紙袋を抱えている。
「ヴィオレッタ様。リンデン谷の蜂蜜が届きました。冬の花から採れた最後の一瓶だそうです」
「ありがとう、カイ殿。わざわざ持ってきてくれたの?」
「大使に頼まれまして。『冬の業務用の補給物資だ』と」
業務用の補給物資。蜂蜜が。山岳茶に入れて飲む蜂蜜が、業務用。この人の好意の変換能力は相変わらずだった。レオンの方を見ると、書類に視線を固定している。耳の後ろが、ほんの少し赤い。浅黒い肌でも、一ヶ月も隣にいればわかる。
「カイ。余計なことを言うな」
「え? 事実を申し上げただけですが。大使が市場で三軒回って選んだって」
「カイ」
声が一段低くなった。普段の倍くらい低い。この声を聞くのはもう何度目だろう。
「……下がれ」
カイが去った後、蜂蜜の瓶を机に置いた。琥珀色の中に、小さな気泡が閉じ込められている。瓶を傾けると、とろりと中身が動く。冬の花の蜂蜜は夏のものより色が濃い。味も深い。
「いただくわ。……ありがとう、レオン」
「公務だ」
公務。まあ、そういうことにしておこう。
◇
午後。エスタードとの通商条約の改定案を仕上げて、レオンに渡した。
「第七条の文言、三案作った。A案はエスタード寄り、B案はヴェルデ寄り、C案が折衷。私のお勧めはC案だけど、交渉の入り口にはA案を見せて、B案に誘導する方がいいかもしれない」
レオンが三案を読み比べた。一頁目で眉が動く。二頁目で顎に手を当てる。三頁目で。
「これは……」
頁をめくる手が止まった。
「C案の第三項。エスタード法の判例を踏まえた除外規定を入れてあるのか。これがあると、向こうの法務官が反対しにくくなる」
「エスタード語で法律を読むと、共通語にはない含意が見えるの。判例の引用は先月の改定案には入れなかったけど、今回は必要だと思って」
レオンが書類から目を上げた。
「……見事だ」
出た。この言葉。前回は茶器を落としかけた。その前は壁に額をつけた。学習しているのだ、私は。今回は大丈夫。今回こそは平静を保つ。
「ありがとうございます。当然の職務ですので」
窓の結露が、一筋、つうっと流れ落ちた。それを目で追った。追いながら、椅子の肘掛けを掴んでいた。指が白くなるほど。
「ヴィオレッタ。窓がどうかしたか」
「……結露の、流れ方が。気になって。ヴェルデの窓硝子は気泡が少ないから、水滴の軌道が均一になるのだと思うのだけれど」
何を言っている。何語だ、今のは。六カ国語を操る女が、窓の結露の物理学を語っている。
レオンの口元がわずかに緩んだ。笑っていない。笑ってはいない。でも、目尻の皺が。
「窓硝子の品質について、後で資料を送る」
「……いりません」
おさまれ。おさまれ、私。二十七歳の外交官が、褒められるたびに奇行に走るのは、いい加減にやめたい。やめたいのだけれど。
◇
夕方。情報部の書記官が、封書を持ってきた。
「参事官殿。南東部の監視哨からの報告です」
レオンと二人で、報告書を開いた。
ヴェルデ公国の南東、カルディア王国との国境付近。通常より多い数の軍旗が確認されたという。ただの演習かもしれない。だが、カルディアは三年前にもヴェルデの山岳領を主張した国だ。
「三年前は、匿名の書簡が助けになった」
レオンが、低い声で言った。
三年前。私が侯爵夫人だった頃、匿名で送った外交戦略の書簡。あの一通がヴェルデを救った。そしてレオンはそれが私の筆跡だと気づいていた。三年間、黙って。
「今は匿名の必要はないわ」
「ああ。今は、隣にいる」
その言い方。レオンは時々、短い言葉で致命的なことを言う。外交官のくせに、好意に関してだけ、妙にストレートになる。本人にその自覚はなさそうだけれど。
「……報告書の分析を始めましょう。カルディアの意図を精査する必要があるわ」
「ああ。暖炉に薪を足す。少し冷えてきた」
暖炉の薪が崩れて、小さな火の粉が暗がりに散った。レオンが薪をくべる背中を、一瞬だけ目で追った。軍服の肩幅が、暖炉の灯りに照らされて影を作る。
窓の外で、雪が強くなっていた。白い粒が、夕闘の灯りに照らされて金色に見える。
ヴェルデの冬が来る。この国で迎える最初の冬だ。冷たい空気と、温かい茶と、隣にいる人。
一ヶ月前、七つ目の言語を覚えた。三文字の、小さな言語。
その三文字を呼ぶたびに、まだ少し、指先が温かくなる。
でも、今はそれでいい。今は、それでいい。




