第10話 新しい名前
七つ目の言語は、たった三文字だった。
レオン。
声に出すたびに、まだ少し、耳の先が熱くなる。六カ国語を操る女が、三文字の名前を呼ぶのにいちいち動揺するのだから、人間というのはおかしなものだ。
あれから一ヶ月が経った。
ヴェルデ公国の秋は深まり、山の頂には雪が降り始めている。朝の空気はさらに冷たくなった。でも、執務室の窓から見える景色は美しい。紅葉した森と、白い峰と、澄んだ空。
この景色を毎日見られることが、まだ少し信じられない。
◇
間接支援計画が、動き始めていた。
ヴェルデ公国の外交政策として、ヴァルトシュタイン領北部への人道支援物資の輸送が正式に承認された。私が起草した提案書がそのまま採用された形だ。レオンが、大使としてのレオンが、議会を説得してくれた。
「公国にとっても利がある。ヴァルトシュタイン領の交易路は我が国の経済にも直結している。人道支援と実利を両立させる外交は、小国の生存戦略として正しい」
そうレオンは議会で演説したという。カイが嬉しそうに報告してくれた。カイは相変わらず空気を読まないが、こういう時には頼もしい。
支援物資を積んだ馬車団が、北部の集落に向けて出発した。穀物と毛布と薬草。冬を越すのに最低限必要なもの。
直接手を出したわけではない。私の名前は支援物資のどこにも入っていない。ヴェルデ公国の外交政策として、公式に行われた人道支援だ。
でも、あの子供は冬を越せる。それだけで十分だった。
◇
ルシアンの後日談は、公国の情報網を通じて断片的に届いた。
マリアンヌ嬢は、外交宴の一件の後、社交界から姿を消した。三カ国の大使を同時に侮辱した「赤いドレスの女」の噂は、瞬く間に広がった。社交界は噂に飢えている。格好の標的だっただろう。
数週間後、マリアンヌ嬢はヴァルトシュタイン侯爵家を去った。別の貴族、東方の男爵の元へ。「次の後ろ盾」を見つけたのだと、商人たちは噂した。
ルシアンは一人になった。
六カ国のうち、条約を完全に回復できたのはヴェルデとカルディアの二カ国だけ。残る四カ国とは部分的な交易再開にとどまっている。かつての六カ国同盟は、もう二度と元には戻らない。
王家の仲裁で交易路の一部は確保されたが、ルシアンの領地は以前の半分の経済規模で運営せざるを得なくなった。軍事的な才能で領地は守れている。でも、外交の穴は埋まっていない。
哀れだと思った。哀れだけれど、自業自得だとも思った。
ふと、あの社交サロンでの言葉を思い出す。「あの冷たい奥様のせいで」。マリアンヌ嬢はそう言った。冷たい奥様。そうだったのかもしれない。夫に向ける温度が足りなかったのは事実だ。でも、温度を注ぐ先が別にあっただけだ。六カ国の大使への敬意に。条約文の一語一語に。北部の子供の冬に。
冷たかったのではない。注ぐ先が違っただけだ。そして、注ぐ先を間違えていたのは、お互い様だった。
五年間、隣にあったものの価値を知らなかった人。知ろうともしなかった人。それはもう、私の物語ではない。
◇
エルダから手紙が届いた。
「お嬢様。北部に支援物資が届きました。領民たちが泣いて喜んでおりました。あの子、手紙を書いた子も、元気にしております。ヴェルデ公国のご厚意だと皆が感謝しています」
ヴェルデ公国のご厚意。それでいい。私の名前は要らない。
手紙の最後に、エルダはこう書いていた。
「お嬢様は幸せそうで、私も幸せです。遠くから、いつもお祈りしております」
幸せそう。
そう見えるのだろうか。自分ではよくわからない。ただ、朝起きたときに「今日も書簡を捌かなければ」と思わなくなった。代わりに「今日はレオンと何の仕事をしよう」と思うようになった。それが幸せかどうかは知らない。でも、疲れてはいない。
五年前とは違う。
もう、疲れていない。
◇
外交宴の準備室で、レオンと並んで書類を確認している。
次の六カ国合同宴の議題と、各国への事前折衝の分担。以前は私が一人で全部やっていた仕事を、今は二人で分けている。私が言語面を、レオンが戦略面を担当する。
「ラドニアへの事前折衝は私が」
「頼む。フェリシアは俺がやる。共通語ではなく」
「フェリシア語でやるべきです。ロゼ大使は母国語で話しかけてもらうと機嫌がいい」
「わかった。発音を確認してもらえるか」
「ええ。今ですか?」
「……いや、今日の夕方、執務室で」
また「確認事項」だ。フェリシア語の発音確認に夕方まで待つ必要はない。今この場でできる。わかっている。わかっていて、私は頷いた。
「承知しました。夕方に」
レオンが少し笑った。不器用な笑い方だ。笑い慣れていない人の、でも前よりは少しだけ柔らかくなった笑い方。
「……ヴィオレッタ」
名前を呼ばれた。肩書きなしで。
「何?」
「いや、呼んでみただけだ」
呼んでみただけ。この人はたまに、こういうことを言う。外交の天才が、好きな人の前でだけ語彙が幼児に退行する。
「……そう」
返事が短くなった。短くなるのは、胸がいっぱいだからだ。語彙が豊富すぎて選べないのではなく、どの言葉を選んでも足りないからだ。
窓の外に、ヴェルデの山が見える。白い峰に朝日が当たって、金色に光っている。
「レオン」
「何だ」
「……呼んでみただけ」
レオンの喉仏が動いた。目を伏せた。それから、ゆっくりとこちらを向いて、また笑った。
今度は少しだけ、ほんの少しだけ、上手に笑えていた。
◇
六カ国語を操る女が、七つ目の言語を覚えた。
辞書には載っていない。文法書もない。動詞の活用も、名詞の格変化もない。
三文字しかない言語。
それを声に出すとき、まだ少し、耳の先が熱くなる。
でも。
その熱さが嫌ではなかった。
むしろ、この先もずっと、この三文字を呼ぶたびに耳が熱くなる自分でいたいと、思った。
机の上には、二つの茶器が並んでいる。二人分の山岳茶。苦みの奥に、かすかな花の香り。
窓から差し込む朝の光が、茶の水面に揺れている。
新しい朝だ。
誰かの名代ではなく。誰かの盾でもなく。ヴィオレッタ・シュテルンとして。
そして、隣に、レオンがいる。
それで十分だった。それ以上は、まだ要らなかった。ゆっくりでいい。今度こそ、ゆっくりでいい。
朝の光の中で、山岳茶を飲む。苦い。甘い。温かい。
これが、私の新しい名前の味だった。




