第1話 悪女の夜
四つ目の言語に切り替えたとき、私の笑顔はまだ完璧だった。
「ヴィトリーア語でお伝えいただき、光栄ですわ。大使閣下のお心遣いに感謝申し上げます」
ラドニア国のグレイル大使が白髪混じりの眉を持ち上げた。六カ国合同外交宴の第三広間は、金糸の刺繍が壁を覆い、百本以上の蝋燭が天井画を照らしている。華やかだ。息が詰まるほどに。
「ヴィオレッタ殿。あなたがいなくなったら、この宴は成り立ちませんな」
冗談のつもりだろう。私は扇の陰で微笑んだ。ラドニア語で返す。
「まあ、大使様ったら。私など、ただの通訳係ですのに」
嘘だ。通訳などではない。
今夜の宴で私は、夫であるヴァルトシュタイン侯爵ルシアンの名代として、ラドニア、フェリシア、エスタード、ヴェルデの四カ国の大使と個別に折衝を行った。交易路の関税率改定。国境警備の共同費用負担。穀物の備蓄協定の更新。どれも実務的で地味で、華やかな宴の裏で誰にも見えない仕事だ。
四カ国語を切り替えるたびに、唇の形も、声の高さも、敬意の示し方も変える。フェリシアでは語尾を柔らかく。エスタードでは視線を相手の右肩に置く。ラドニアでは最初の一杯を必ず相手が注ぐのを待つ。ヴェルデでは。
ヴェルデ公国のレオン大使は、今夜も私の隣の席だった。
いつもそうだ。宴の席順は開催国が決めるはずなのに、どの国の主催回でも、なぜかこの人は私の隣にいる。若い。二十六だと聞いた。小国の大使にしては目が鋭く、山岳民族特有の浅黒い肌に、清潔な白の軍服を合わせている。
「今夜の交渉、見事でした。フェリシアのロゼ大使が関税の件で折れたのは、ヴィオレッタ殿の言い回しが効いたのでしょう」
レオン殿は共通語で言った。ヴェルデ語ではなく。つまり、公式な外交辞令ではなく個人的な感想のつもりなのだろう。他の大使ならば聞き流す言葉だ。けれどこの人が言うと、妙に引っかかった。大使としての分析が正確すぎて、どこまでが儀礼でどこからが本音なのか、測りかねる。
「ありがとうございます、大使殿。お褒めに預かり恐縮です」
微笑む。完璧に。もう何年も、この笑顔を鎧のように着ている。
レオン殿が何か言いかけた気がした。けれど隣のテーブルからフェリシアの副使が話しかけてきて、そちらに注意を向けた。振り返ったとき、レオン殿はワイングラスを傾けながら、静かにこちらを見ていた。
(……なんだろう。今の視線は)
深く考える余裕はなかった。今夜は、まだ仕事が残っている。
◇
屋敷に戻ったのは、月が天頂を過ぎてからだった。
馬車を降り、正面玄関の階段を上がる。使用人たちが目を伏せる。あの伏せ方。気まずさと同情が混ざった視線の逸らし方で、わかる。
二階の東棟。夫の私室から、女の笑い声がした。
甲高い。花が散るように明るい。マリアンヌ・フォーゲル嬢の声だ。
三年前からだ。いや、もっと前かもしれない。最初に気づいたのは三年前の秋だった。夫の外套から、私が使わない種類の香水が匂った。甘い、果実のような。マリアンヌ嬢が好む調合だと知ったのは、その数週間後のことだった。
使用人が目を逸らす。今夜だけではない。毎晩だ。彼らは知っている。私も知っている。夫だけが、私が知っていることを知らない。
(……いや。知っていて、気にしていないのかもしれないけれど)
書斎に入り、扉を閉める。蝋燭に火を灯す。静かだ。宴の喧騒が嘘のように、この部屋は静かだった。机の上には、今夜の宴で各国大使から受け取った書簡が四通。これを翻訳し、要約し、返信の草案を作るのが今夜の仕事だ。夫は読みもしないだろうけれど。
座る。封を開ける。ラドニア語の精緻な筆記体が目に入る。
疲れた。
その言葉が、不意に浮かんだ。怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ、五年分の何かが、水を含んだ布のように、じわりとのしかかってきた。
五年。結婚してから五年間、私はこの侯爵家の外交をすべて担った。六カ国語を操り、宴に出席し、条約を締結し、交易路を守った。夫の名前で。夫の名代として。夫の手柄として。社交界では「冷酷な悪女」と呼ばれた。夫の政敵には牙を剥く怖い妻。それが私の役割だった。
そして夫は今夜も、あの甘い笑い声と一緒にいる。
書簡を読む。ペンを取る。返信の草案を書き始める。文字は正確で、言葉遣いは完璧で、外交官としてのヴィオレッタ・ヴァルトシュタインは今夜も一点の曇りもなかった。
ペンを置いたとき、手首の内側がひやりとした。
◇
翌日の午後。
社交サロンで茶会があったらしい。私は出席していない。外交書簡の処理が山ほどあった。先月のフェリシアとの通商条約の付帯条項を確認する必要があったし、エスタードの新任大使への挨拶状の起草もあった。
侍女のリーゼが、夕方になって報告をくれた。
「マリアンヌ様が、いえ、フォーゲル嬢が、こう仰っていたそうです」
リーゼの声が小さくなる。唇を噛んでいる。この子は私に似て気が強い。怒りを堪えているのだ。
「『旦那様がお気の毒。あの冷たい奥様のせいで、いつもお顔が暗いのよ』と。涙を浮かべて仰ったとか」
サロンの令嬢たちは、同情の溜息をついたという。かわいそうなルシアン様。あの冷たい奥様に苦労されて。優しいマリアンヌ様がお支えしてくださっているのね、と。
(……そう。冷たい奥様か)
そうかもしれない。四つの言語で笑顔を作れるのに、夫の前では作る気力が残らない。冷たいのではなくて、空っぽなだけなのだけれど。
「奥様。あんな人の言葉、気にしないでください」
リーゼの声が震えていた。
私は微笑んで首を振った。
「大丈夫よ。ありがとう、リーゼ」
大丈夫。大丈夫だった。ずっと大丈夫だったのだから。
夕刻。書斎に戻ると、侍女頭のエルダが茶を運んできてくれた。湯気の向こうで、老女の目が少しだけ赤い。何か聞いたのだろう。
「奥様。お体に、気をつけてくださいまし」
「ええ。ありがとう、エルダ」
茶を飲む。ヴェルデ公国産の山岳茶。苦みの奥に、かすかな花の香り。二年前の外交宴で、レオン殿が「我が国の名産です」と勧めてくれたのだった。それ以来、取り寄せている。
好きな味だった。ヴェルデの山の、薄くて冷たい空気を思わせる味。
その夜。
リーゼが、もうひとつの報告をくれた。今度は声が怒りで固くなっていた。
「マリアンヌ様、いえフォーゲル嬢が、サロンで仰ったそうです。『私が侯爵夫人になったら、外交のお仕事も引き継ぎますわ。奥様のようにこわい顔をせず、もっと上手にやって差し上げますの』と」
ペンが止まった。
外交のお仕事を。引き継ぐ。上手にやる。
六カ国の条約実務を。あの方が。共通語しか話せないあの方が。ラドニアの敬称すら知らないあの方が。
笑いそうになった。違う、笑っていた。声は出ていない。口の端だけが吊り上がって、それが笑顔だったのか引きつりだったのか、自分でもわからなかった。
書斎の窓から、月明かりが机を照らしている。白い月だ。五年前、この屋敷に嫁いできた夜と、同じ月。
あの日の私は、まだ疲れていなかった。




