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檻の中、檻の外

作者: 代宮刻舟
掲載日:2026/01/18

 私は平生からすこぶる寝付きが悪かった。眠気を帯びた頭を不用意に揺り動かさないようにして床へ入り、一度二度と寝返りを打つ内に頭の底の方からふらふらと言葉が浮き上がってくる。書きかけの小説の続きが思い浮かぶ。頭が勝手気儘に新しい作品を作り始めようとする。どうしてもそうした言葉の一片を、片々たる発想を捨て置くのはもったいないと思って、布団から這い出してはそこらの紙に書き留め、今一度布団に潜ったそのそばから起き上がっては擲り書きをする。何遍か繰り返してようやく瞼が落ちるのであった。

 その夜もやはりすぐには寝付けなかった。暗い部屋の中で布団と机とを幾度か往復するうち眠くなってくるだろうと思っていたが、予想とは裏腹に眠気はすっかり覚めてしまった。そうなると妙案も浮かんでこない。仕方がないので漱石だの、龍之介だの、潤一郎だのをいい加減に読んで過ごした。落ち着いた心持ちではないので、読みながら心は勝手に彷徨い出し、夕食の前に郵便受けから取り出してそれきりにしていた封筒のことを思い出して封を解いた。果たしてそれは私の小説が掲載されているはずの雑誌であった。私は変なクセのつかないように頁をペラペラとめくり、(たに)(あまね)の名が記された所で繰る手を止めた。それから一通り読み、終えると、ようやく一息つけたような心持ちになった。

 私の内には世間へのささやかな反発心が頻々に起こった。それはごく小さなささくれのようなものだが、聞いてくれるような人もなし、一人でいじくるうちに赤々とした肉が見え出してくる。畢竟、私には苦しみながら書く他にどうしようもなかった。故にどの話も難産であった。その苦にどうにか耐えて、こうして一つの作品として世に出せることは私にとって望外の喜びであった。賛があればいいし否があってもいい。少しでも誰かの役に立つなら我が内で蠢く苦しみも無価値ではないのだから。しかし必ず起こるであろう貶毀(へんき)の嵐を考えると急速に気が沈んだ。業界界隈を問わずそれで辞めてしまう人が幾らでもあろう。費やした年月も注ぎ込んだ熱情も、自らの不足や正当な評価とは無関係の悪口雑言によって無に帰してしまう人々の心情を思うとやるせない心持ちになるものである。私にしても目にすれば気が沈みもし、頭に血が上ることもある。ならばと言って見なければそれでもよろしいが、大概賛否の隙間に入り込んでくるもので、心血を注いで生み出した作品に対する評価も感想も見ずにしまうのも愉快ではない。そういうことを考え始めると心を一つ所に定め難くなった。

 私はそのままの頭でまた布団に入った。既に夜は明けつつあった。

 眠れないと分かった上でだらだらと転がり、ただ体を温めただけで起き上がると、いつものように外の郵便受けから新聞を取り出して朝食の準備に取り掛かった。鮭を焼き、味噌汁を作り、ご飯をよそって一人前の朝食を机に並べた。誰に聞かせるでもなく「いただきます」と小声で言った。どこかで鴉が啼いた。

 朝食かたがた新聞に目を通すのもまた私の日課であった。新聞に載るくらいだからやはりいつもの如く暗い記事ばかりであった。放火事件だとか入札談合だとか、贈収賄だとか違法薬物だとか、どこか遠い世界で起こったような事柄の一々が私の気を滅入らせた。気が滅入る中にも私は安堵のような心地よさを覚えた。決して裕福な生活など出来はしないが、幸いにも怪我も病気も不自由もなく呼吸をしていられる今が貴いもののように思われたのである。仮に小説を書かない人生があったならば如何なる事件を引き起こしていたか知れない。そこへいくと新聞を読んで気が滅入るのも、あるいは不幸でないことの証左なのかも知れず、悪い気はしなかった。

 そうした纏まりのない感情を味噌汁で押し流し押し流ししながら新聞を繰っていくと紙面の片隅に、ある狼の記事が小さく掲載されていた。なんでもT動物園でハルという狼が亡くなったのだという。T動物園のハルといえば狼では珍しく人懐っこくて来園者をよく楽しませたので、いっとき狼の檻の周りは大勢の人で賑わっていた。私も実際に二三度見に行ったことがあった。大体の狼は放飼場内を気ままに歩き回ったり寝転んだり、あるいは数匹でじゃれ合ったりしているが、ハルばかりは柵の前をしきりに行き来しては、よく声を上げる小さな子供をじっと見つめたり、放飼場に流れる水を前足でもって柵前の人だかりへ飛ばしたりしていた。そうした景色が私の脳裏に鮮やかに蘇った。

 記事に触れて思い出された光景がもう一つあった。数年前、ハルが檻から抜け出したので大きな騒ぎになった。その日は春らしく気持ちのいい祝日であったために来園者はかなりの数に上った。子供連れの多い、騒がしいけれどものんびりとした空気が漂っていただけに、狼の檻付近は阿鼻叫喚の様相を呈した。私はその場面に居合わせてはいないが、男も女も老いも若きも関係なく、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す光景は想像に難くない。

 私が目にしたのは脱走騒ぎを写した一枚の写真であった。そこにはもう人の姿はなく今しがた越えて出た鉄柵を背にして、ただ一匹の狼がぽつねんと佇んでいるだけであった。彼に、檻を抜け出す時にあったであろう勢いは見出せなかった。人を追うでもなく、色々に探索するでもなく、ただそこに立っているのである。この哀れが私の胸をついた。彼の内に去来するのは如何なる感情なのだろうか、私は人間の身でありながらそれを考えずにはいられなかった。

 私は新聞を折り畳んで食器を片付けてしまってから書斎へと戻った。机に出したままにしていた雑誌を仕舞って、ハルを題材にしてこんなことを書き出した。


 その狼は、容易に振り向きはしなかった。

 飼育員の口から「ハル」という音を初めて耳にした彼は、産声を上げてからおよそ三ヶ月が経ち、その音をはっきりと聞き取れた。が、その音が何を示しているかは定かでなかった。同じ部屋で暮らす二匹のきょうだいは飼育員の持つ肉の匂いを嗅ぎ取るや否や短い足を目一杯動かして檻の中を走り回るので、名前に反応しているのかは分からない。同じ親から生まれていながら、ハルは飼育員から離れた隅の方で居心地悪そうに歩き回るばかりで、歩み寄りもしなければ顔を振り向けることもしなかった。警戒しているふうではない、広い野山を駆けた事がない体にも生まれながらに宿る動物の意地のようなものがあって、それが今になって働き出したのだろう。飼育員から発せられる「ハル」の二音は、広くない獣舎の一室に虚しく反響するばかりであった。幾度となくハルの名が呼ばれる。ハルは依然遠くで背を向けている。そのうち飼育員は諦めてしまって、手に持った肉を檻の中に置いてゆっくりと、最後まで目を離すことなく後ろ歩きで出て行った。ハルは飼育員のいなくなったのを確かめて、ようやく肉を食べ始めた。

 動物に動物の意地があれば、人にも人の意地がある。ハルにはそれが分からなかった。飼育員は毎日肉を持ってやって来た。「ハル」の音を伴って。匂いと音と空腹とに、折れろ折れろと責め立てられる。責苦をそのまま耐えていればいずれ向こうの方で勝手に折れる。そうして勝ち取った肉を食べている時には、無闇に食事をねだるきょうだいでは感じ得ないであろう快が湧いた。同時に不快の芽が吹いた。同じ人の発する同じ二音でも折々の響きに違いが表れてくる。ある時には甲高く不細工な声音を出す。またある時は懐に潜り込んでくるような纏わり付く声が聞こえてくる。こうした人声の微妙な差異がハルの内に知らず蓄積されていくのだった。

 かれこれ一年もの間、ハルと飼育員との意地の張り合いが続いた。ある日、飼育員の呼び声にどこか頼りない、沈み込んだ響きが濃く混じっていた。心配というのか不安というのか、それでハルはついに我を折って声の方へ振り向いた。彼と目を合わせた飼育員の、死した最愛の人が生き返って再び目の前に現れる事があればきっとするであろう表情と歓喜に溢れた声とが彼を強く揺さぶった。わだかまっていた不快は霧消して、あとに残るのは心地よい安らぎであった。腹こそ満たされはしないが、何かが満ち足りたようであった。そうした感覚は、しかし飼育員が出て行くと間もなく消えてしまって、きょうだいとの遊びに夢中になった。

 それを契機に、呼び声が聞こえると十回に九回は背を向けてやり過ごし、十回に一回だけ顔を向けた。それが八回に一回になり、五回に一回になり、三回に一回になり、素直に反応するようになる頃にはハルは二歳になっていた。

 放飼場へと出て芝地や岩の上を駆けて全身で清々しい空気を切る間にも、うつ伏せに寝転んで背に暖かな陽光を受ける間にも、柵の向こうから名前が呼ばれると、耳馴染みのない声でもハルはそちらへと顔を向けた。すると向こうでは手を叩いて喜んだり笑ったりする。それが彼には心地よい刺激となって、柵の前をわざとらしく歩き回り、喉を鳴らし、場内を流れる水を前足で飛ばした。あまり人にちょっかいをかけていると父狼がやって来て追い回される。運が良ければ諦めてくれるし、悪ければ爪や歯を体に立てられる。血の流れ出ることも稀ではなかった。それすら彼には愉快だった。愉快に任せて懲りずにまたちょっかいを出した。いつしか多くの人がハルを見に来るようになった。毎日毎日聞き慣れない響きを帯びた声が飛び交った。ハルにとって人間ほど面白いものはなかった。

 ある祝日のことである。前日の雨から一転して麗らかな陽気となり、春の日差しがそこかしこに残る水溜りを煌かせた。ハルはまだ人のいない時間から獣舎を出て放飼場の草の上で伸びていた。背には暖かな陽光を、腹には濡れて冷たい草を感じていた。ごく落ち着いた、長閑な時間であった。

 開園時間になると入口の方からゆっくりと、人声の波が寄せてきた。客たちは一応の順路らしいものに沿って進み、小一時間ほどが経つ頃にはやや奥まった場所にある狼の檻の前で足を止めた。数ヶ月前から面白い狼がいると話題になっているとあって足を止める人は多く、平生と比べてざわめきが大きい。

 ハルの気は自然昂ぶった。前日の退屈と今日の人気とで先程の落ち着きは鳴りを潜め、始終低くうなりながらそこここを歩き回った。見物客たちは狼の内に生じる機微など考えることもなく、何かをして楽しませてくれるだろうという期待のこもった目で見ていた。開園から二時間が経った頃、気の昂りがいよいよ最高潮に達したハルは柵からやや離れた場所に植えられた木へと勢い跳びかかり、梢に乗ったかと思うとそこから二三跳躍して檻から抜け出した。

 果たして彼の高揚を理解できるものがいるだろうか。何を見るにしても視界を遮っていた鉄柵が、今はもうない。毛をなでて吹きゆく風はどこか優しさを帯びている。小鳥のさえずりも心なしか鮮明に聞こえる。頭上の青空さえも一層澄み渡って見えた。骨も身も臓腑も、その全てが歓喜の声を上げていた。彼は自分が人へと大きく近づいたのだという喜びに満たされた。

 しかしそうして浮き立つ狼は、やはり人間というものをよく知りはしなかった。

 見物客たちは自由になった狼を見るや否や先刻までの笑声を危機に瀕した悲鳴に変えて一散に逃げ出した。狼に近い者から背を向け走り出し、遠くにいる者は走ってくる人波に同調して事情も分からぬままダチョウの如く走り出す有様であった。彼らには鞄から落ちる物に気をかける余裕さえなかった。耳をつんざくような悲鳴はあっという間に遠退き、檻の前には一匹の狼が残されているばかりだった。

 狼は一歩たりともその場を動かなかった。なにも人々の急激な変化に困惑したのではない。そこにあるのは彼我の違いに対する絶望のような感情であった。向こうから動き出せば愛玩精神を発揮して甘い声で話しかけてくる。こちらから動き出せばいたずらに恐怖を与えるばかりで、向こうの期待通りに反応してようやく喜びを与えられるのである。畢竟、狼は狼でしかあり得なかった。呆然と立ち尽くしている間にも彼の耳には甲高い悲鳴がまとわりついているのであった。

 それ以来、ハルが好んで放飼場へ出ることはなくなった。偶に出たとしても隅の方で丸くなってじっとしているので狼の檻の前で足を止める人はずっと少なくなった。

 静かな檻の中で、ハルは今日もゆっくりと目を閉じた。


 そこまで書いて筆を置いた。白い光はいつの間にか茜色へと変じ、机上の用紙を明々と照らしている。私は右手で頬杖をついて窓の外を眺めた。木塀の向こうの海棠の影が、左手に走る道路を越えて工事中の白い囲いにかかっている。スーツ姿で通りを歩いて行く人がある。公園にでも行っていたのか、我が子を肩に乗せて歩く父親がいる。これから晩ご飯の支度をするのだろう、大きな買い物袋を提げている母親がいる。あれが社会の姿なのだろう。こうして家の中にこもっている私は、たとえ幾らかの好評を得ることがあろうとも、通りを行く人たちの歩みにはついていけそうにない。力強い足取りで行く人々に対して、文字を並べて生計を立てる我が身の、なんと覚束ないことか。覚束ない心持ちで窓の外の社会を眺める私は、一匹の狼なのかも知れない。

 外で下校途中であろう子供たちのじゃれ合う声がした。


 黄昏れに伸びたる影を踏む子らを

 遠く眺むる腰曲がりかな


 数年前に雑誌のためにこんな歌を読んだのも今のような時分だったか。わずか数年でずいぶん歳を取ったような気がした。

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