Chapter2-3
※この物語は97%ほどフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
※ヒロインがVtuberですが、作者はVtuberの仕事を引き受けたことがありません。また、顔を隠して活動している方々の仕事を引き受けたこともなく、実際の警備体制と異なる場合があります。
※作者は完全な専門家ではないので、物語の内容と現実の内容が異なる場合があります。書いてある内容が正しいと思って読まないでください。
以上を注意の上、読んでください
スーツに身を包み、ビジネスマンらしい格好をした男女がタワーマンションのエントランスに足を踏み入れる。
視界いっぱいに広がるのは、全面白い大理石で覆われた豪華な空間。高級ホテルのロビーか美術館のようだ。
三日前から世奈と直接顔を合わせてやり取りをしている明良が、インターホンのボタンをポチポチと押して部屋番号を入力する。
呼び鈴のボタンを押すと、ポップな電子音が連続で鳴り響き、プツっと切れる。
「はい」
スピーカーから眠たそうな世奈の肉声が流れる。
(ああああああ! 本物のMONEちゃんの声だああああああ!)
この仕事に就いて三年目。有名人と対面することは慣れてきたつもりだ。しかし、日頃視聴しているアニメに出演している声優と同じ声と認識すると、色めき立ってしまう。
だが、世奈の声はアニメで聞くようなMONEのハツラツとした新鮮さがなく、眠気を帯びた低いトーンだった。
声の質感が同じなだけに、テンション感の落差に少し戸惑いを覚える。
「おはようございます。山盛綜合警備保障の笹川明良です。狩桶様をお迎えに参りました」
明良の場合は逆だ。
裏で隊員と話すときの明良はダラダラとした気の抜けたしゃべり方で、どこか気取った言葉遣いだ。だが、接客になると別人のように顔を引き締め、お堅いサラリーマンへと豹変する。そのギャップは灼熱の砂漠と極寒の南極ぐらいの温度差だ。
一人称の「俺」も「私」になり、聞き取りやすい歯切れと、ほどよいスピードと、耳を撫でるような声量になっている。
「明良君、おはよ。早くきて」
(ん?)
MONEの声に興奮していた状態から一転。そこはかとない違和感を覚えた……明らかにトーンが上がった世奈の声。そしてなにより、「明良君」と親し気に呼んだことに。
首をかしげている間にエントランスの自動ドアが開き、フロントに移動した。
(おお、すごい……)
激安の社員寮に住んでいる絵理佳は、高級マンションのフロントの内装に毎度のことながらなんのひねりもないストレートな感想を覚える。
大理石でできた床はエントランスと変わらない。その床にふわふわな赤い絨毯が敷いてあり、どこかの有名美術家が作っただろう彫刻のオブジェも置いてあった。
管理費だけで庶民ならお小遣いが飛んでしまいそうなエントランスを抜けて、五つ並んだエレベーターの上向き矢印のボタンを押す……ひとつのマンションにエレベーターが五つ設置されているのも信じられない。
エレベーターに乗り、数多く並んだ階層のボタンを押して上昇していく。
気圧が低くなり、耳がキーンっとするのを感じながら、隣に立っている明良にじっとりと尋ねる。
「ねぇ、さっきMONEちゃんが明良君って呼んでたけど、なんかあったの? 今まで明良を名前で呼んでる人なんていた?」
「陽キャなアイドルなら、たまに名前呼びしてくれる人はいるぞ。主に男性アイドルだけどな。まあでも確かに、女性で名前呼びしたのは狩桶様が初めてかもな。ったく、仕事相手なんだから馴れ馴れしくすんなよ」
明良はポマードでガチガチに固めているツンツンの髪を軽くかく。
「確かに、昨日MONEちゃんの配信チラっと見たけど、ファンとすっごく気さくに話してたね」
「そうなのか。三日間一緒にいたけど物静かだったぞ。この前はアイドル活動を続ける上での悩み相談に乗ったぐらいだ」
「ええっ! MONEちゃんの相談に乗れるなんて、めっちゃいいね!」
「別にいいものじゃねえよ。トップアイドル様の人生を俺みたいな末端のスタッフが握るなんておこがましい。それに、万が一アドバイスが裏目に出たら責任なんて取れっこねぇしな。だからと言って、目の前で困ってる人を突き放すわけにもいかない」
「なるほど、大変なんだね~。まあ、あんな嫌がらせ受けてたら病むよね。でも、MONEちゃんみたいなトップアイドルでも辞めたいって思うんだ~」
「トップアイドルだからこそ、辛いことが増えて、孤独になって、辞めたくなるんだろ。特に今は殺害予告を受けて、情緒が不安定な状態だ。絵理佳も相談を受けるかもしれねえから、失礼のないようにしろよ」
「はーい!」
抱いた違和感の正体を暴いていると、長い時間をかけて目的の階に到着した。
エレベーターから降りて、建物の内側にある廊下を進み、世奈宅の扉の前に立つ。
(ここがMONEちゃんの部屋か……)
ゴクリと生唾を飲んでいると、明良がインターホンのボタンをポチっと押す。
ピンポーンという音が連続で鳴り響き、プツっと切れる。
「はーい」
「お待たせしました、笹川です」
「今行く」
会話が途切れ……ついに運命の時が訪れる期待に、脈拍がグングンっと上がっていく。
公に発表されていない、MONEの素顔が今、目の前に現れる。
決して芸能界に興味があるわけではない。それでも、一般人が知ることができない有名人の素の顔を知れる優越感。なによりも、普段耳にしている、あのアニメの声の持ち主と顔を合わせるのだ。ドキドキしない方がおかしい。
扉がガチャリと開き、世奈がゆっくりと部屋から出てくる。
(うわっ……なんだ、カッコイイ……)
狩桶世奈本人の姿に一気に視界が吸い込まれる。
本当に、イラストを動かしているアイドルの中の人なのだろうか。顔が小さい上に、高身長のスラっとした細身の体型でモデルのように見える。
世奈のファッションは正体がバレないように、どこかのブランドの黒いキャップを被っていた。キャップから伸びるダークブラウンの髪は腰まである。
小顔なため、Sサイズの黒いプリーツマスクでも顔の大半が隠れていた。唯一晒しているパッチリとした目は、長いまつ毛が三日月のように大きく反っている。
身長は絵理佳よりもやや高い。その上、厚底のブーツを履いているため、なおさらスレンダーに見える。胴体よりも長いだろう細い脚には、ローライズタイプの白いスキニーパンツを履いていた。
そして、なによりも目を見張るのが……美しい腹筋だ。
ボタンを開けた水色のカーディガンから覗く、極端に丈を短くした黒いクロップドトップス。
大胆に晒された腹部は見事に引き締まり、キュッとくびれていた。
もちろん、鍛錬を怠っていない絵理佳も腹筋が割れているが、絵理佳の腹筋は戦うために厚く仕上がっている。
対して、世奈の腹筋は魅せるための細い腹筋だ。美人系のグラビアやファッションショーにもそのまま出られそうなルックス。
その肉体でさえも魅了する狩桶に目を奪われていると、隣の明良が冷静に仕事を進めていく。
「おはようございます、狩桶様。本日もよろしくお願いいたします」
「おはよ、明良君」
「こちらは御社事務所の要望で増員いたしました、相葉です」
明良の軽い他己紹介で、ハッと我に返る。小さい口を慌てて大きく開いた。
「は、はじめまして、MO……狩桶様。今日から引っ越しが完了するまで、狩桶様の警護を務めさせていただく、相葉絵理佳です。よろしくお願いいたします!」
軽くお辞儀をすると、唇の端をムニュっと上げて世奈と目を合わせた。
その笑顔を作っている顔には汗がにじんでいる。
微かに危なかった。
普段からファンにニックネームや下の名前で呼ばれている有名人は、間違えて愛称で呼んでしまいそうになる。
過去にはマネージャーから本名を告げられて、誰かわからなかったことがあった。
失礼がないように、気を改めて頭の中で「狩桶様」っと名前を三回繰り返して、間違わないようにする。
「うん、相葉さん、よろしく」
世奈はマスクに籠る静かな声で礼をして、唯一わかる目元だけの笑顔を振りまく。
(ああああああああ! MONEちゃんに、相葉さんって言われちゃったああああああ!)
絵理佳はニッコニコの営業スマイルを保ったまま固まっていた……だが、心の中ではリトル絵理佳がベッドの上で悶えてのたうち回っている。
今期視聴しているアニメ『ピケールは最強のド変態スライム娘』のメインヒロイン、ピケールと同じ声質で、相葉さんっと名前を呼ばれたのだ。
その場で横転して気絶したとしてもおかしくない。
しかし、そこは社会人根性を発揮して、うずき出す体をグッと抑える。
気をまぎらわせるために別のことを考えることにした。
(結構、静かな子なんだね)
二年間、芸能界の端くれの仕事をした経験から、一言会話を交わした瞬間、絵理佳はすべてを理解していた……世奈は、オンオフを完全に使い分けるタイプのタレントだと。
昨日、予習で三〇分ほどMONEの雑談配信を視聴したが、その際は視聴者とプロレスをして楽しそうに慣れ合っていた。
透明に透き通った声質で、ケンカ腰にしゃべっている態度を見て、ギャップ差に驚いて度肝を抜かれた感想だ。
しかし、目の前に存在している世奈からは荒々しさがなかった。
MONE改め、素の狩桶世奈という人物は、ファンの前に立つときだけキャラを演じる、ごく一般的な芸能人だとすんなりと受け入れる。
絵理佳が黙って己の精神と戦っている間に、明良が次の仕事の内容を伝える。
「それでは、私が先にロータリー内を見回ってきますので、少々お待ちくださいませ」
「え? 明良君が守ってくれるんじゃないの?」
「はい、お守りいたしますよ」
「そうじゃなくて、明良君が私の隣にいてくれるんじゃないの?」
「今日の仕事からは相葉が隣について、私が離れた場所で見回り巡回をいたします」
「逆じゃダメなの?」
「隊員それぞれの経験や、こちら側での計画がありますから、そこはご理解いただけると幸いです。加えて、現在の狩桶様は色恋沙汰の問題も関わってきていますので、極力狩桶様の近くで守っているのは同性の方がいいのです」
「私、顔を隠して活動してるから大丈夫。明良君に隣にいてほしい」
「ありがとうございます。ですが万が一のことがありますので、極力リスクは減らしましょう。それでは五分少々時間をいただきます。少々お待ちくださいませ」
明良は笑顔を絶やさず一礼すると、サッと振り返り、長い廊下をスタスタと歩いてエレベーターに乗った。
「残念……」
世奈はうつむき、長い髪で横顔が隠れる。
先ほどから、世奈は明良に警護してほしいとなぜこだわっているのだろうか。
明良を名前呼びしたときから始まり、違和感を抱く瞬間が多い人物だ。
顔を上げた世奈が振り返る……世奈の茶色い瞳と目がバチっと合った。
「ねぇ、相葉さん」
「はい! いかがなさいましたか?」
憧れの人に急に話しかけられ、普段から口にしている定型文だが声量を間違えて大きな声を出してしまった。
「なんで明良君が先に行ったの? ふたりで守ってくれないの?」
「もちろんふたりで守りますよ」
「でも、明良君、先に行った」
「笹川は黒子の警備と言って、少し離れた場所で見回り巡回を行い、私たちが見えない所でお守りいたしますよ」
「私服警官みたいな感じ?」
「そのような感じです」
「へぇ、アニメのお嬢様にくっついてる、サングラスをして黒いスーツを着たボディーガードだけじゃなくて、怪盗やスパイみたいに変装して守ってくれてる人もいるんだ」
「そうですよ。ちなみにアニメの社長令嬢にくっついている、私のようなボディーガードは『魅せる警備』っていうんですよ。要人の盾になるだけではなく、周りに反撃するぞっていう意思を見せつけて、相手に攻撃をあきらめさせる抑止力の意味もあるんです」
「盾になるって……すごく怖くない?」
「怖いのは確かですが、重要度で比べると私のポジションは一番重要ではないので、そういう意味では気が楽ですよ」
「え? 真横で守ってる相葉さんより、遠くで守ってる明良君のほうが重要なの? なんで?」
唯一表情がわかる、世奈の細長いまつ毛がピクピクと動く。
「詳細に説明をすると少々話が長くなりますが、よろしいでしょうか?」
「いいよ」
「狩桶様は日本の総理大臣が暗殺された、あの大きな事件をご存知でしょうか?」
「それはもう小学生のときだったけど、日本を震撼させたあの事件は覚えてる」
「その総理大臣が暗殺されたとき、ボディーガードの仕事は守れなかったらゼロ点、守れたら一〇〇点、そのふたつしかないって警備に詳しい専門家の方が言っていたのはご存じですか?」
「そんなこと言ったの?」
「言っていましたよ。ニュースの短い尺では詳しく説明できていませんでしたが、正確に言うと、ボディーガードの仕事は一〇〇点か、一〇〇点以外の点数は全部ゼロ点って言ったほうが正しいですね。ですので九九点までの幅はあるんですよ」
「その幅って、なに?」
「ボディーガードにはこういう格言があるんですよ。たとえ要人を守れたとしても、相手が武器を持った時点で負け、っという格言が」
明良から教わった内容をドヤ顔で披露する。
「だから先制防御と言って、相手が武器を持った瞬間にその武器を叩き落とす役割の人が必要なんです。相手が武器を持つ兆候を先に察知して、攻撃を仕かける前に防御をしてくれる一〇〇点のラインを守ろうとしているのが笹川なんです」
「一〇〇点しかダメって、ボディーガードって厳しい世界なんだね」
「人の命を直接預かっていますからね。詳細に説明をしますと、ナイフだと想像し辛いですが、仮に銃撃を受けるとするじゃないですか?」
「うん」
「撃たれた時点で銃弾が狩桶様に当たる確率が高くなってしまいますし、その銃弾を私が防いだとしても私が負傷します。元より、銃弾の速度なんて人間の反射神経ではまず反応できません」
「そうだね」
「しかし、相手が銃を構えた瞬間、もっと言うと、構える前の所持している時点で捕まえることができたら危険性はグッと減りますよね?」
「なるほどね……」
「だから脅威を未然に防ぐ黒子の警備のほうが、ずっと重要な役割なんですよ。魅せる警備は最悪、体を張ればいいだけですからね。それでたとえ脅威があったとしても要人に知られることなく、黒子の警備が脅威を排除して、最後にはなにもなくてよかった、ボディーガードなんて雇わなくてよかった、そう言ってもらえて初めて成功なんです」
「危険な仕事なのに日の目を浴びないのは悲しい」
マスクの向こうの声量が下がっている。
「ボディーガードという職業は決して日の目を浴びてはいけない職業なんです。ボディーガードが目立っている瞬間は、有事が起きている証拠ですからね。私たちが目立たない世界、なんなら、この仕事が不要とされる世界こそが本当の平和な世界なんですよ」
「アイドルとは対照的なお仕事なんだね。そんな危険な仕事ができるなんて尊敬する」
「ありがとうございます、んふふ……」
悦びの鼻息が漏れてしまった。
普通のファンでは絶対に聞くことができない、アニメ声優ボイスでお礼を言われ、インナーの中が蒸れるように熱くなっている。
「私が知らないボディーガードの仕事が知れて楽しかった。改めて護衛よろしく」
世奈は強烈なビームを放つような軽いウインクをする。
「っ――、はい、必ずお守りいたします……」
溶接のゴーグルでも装着しなければ無事でいられない眩い笑顔は、黒いマスクを貫通している。
アイドル特有のキラキラと光る星が浮かんだ瞳に脳を焼かれていると、片耳イヤホンから声が流れる。
「笹川から相葉へ、どうぞ」
絵理佳は慌てて大きな胸を揉み、防刃チョッキの胸のあたりにクリップで留めている無線機のマイクのスイッチを押す。
「どうぞ」
無線機は電話のように双方受信ができないので、語尾に「どうぞ」をつけてしゃべり終えたことを示さなければならない。
「ロータリーおよび、マンションの敷地外の安全を確認した。降りてきていいぞ」
「了解」
指示を受けると再び世奈にやわらかい笑みを向ける。
「それでは、私が後ろを守りながら前方の確認もいたしますので、狩桶様が前を歩いてください」
「はぁ、わかった」
明るかった世奈の声に、重たい吐息が混ざる。
具体性のあるフォーメーションを伝えたことにより、本格的に危険が迫っている実感が湧いたのだろう。
「いざとなったら私が盾になるのでご安心ください。狩桶様は一切傷つけません」
防刃チョッキに押し込まれた胸にそっと手を当てて優しく伝える。
「よろしく」
世奈がキャップを深く被って歩いていき、絵理佳が後ろを守る。
(やっぱり、怖いのかな?)
世奈の第一印象は、アンチコメントにも動じない物静かで落ち着いた雰囲気を出していた。だが、今は細い肩を小動物のようにブルブルと震わせている。
ボディーガードの仕事をしていれば殺害予告などは日常茶飯事で、回数を重ねるごとに「またか」と、一言で済ませるぐらいに恐怖心が薄れていく。
しかし、初めて実害に至る殺害予告を受けたら、四六時中恐怖と戦わなければならない。相当辛いだろう。
絵理佳自身も初めて殺害予告から守る仕事を引き受けたときは、冷や汗が止まらないぐらいに体が強張った覚えがある。
ボディーガードは契約期間が終わればその恐怖も消えるが、被害者は犯人が警察に捕まらない限り恐怖が続くのだ。
ボディーガードは悪者がいるから飯が食えている職業だが、仕事を引き受けるたびに、恐喝をする悪者がいなくなればいいなと思う。
そして、エレベーターに乗っている途中で絵理佳は無線機のマイクのスイッチを押す。
「相葉から笹川へ。今エレベーターに乗って、エントランスに降りてる。あと数分でロータリーに出るから、よろしく。どうぞ」
「了解」
片耳イヤホンから単調な了解が返ってくる。
オンラインゲームで例えるとボイスチャットでの連絡を終え、エレベーターを降りる。エントランスを通り抜けてロータリーに出た。
警護車両の前では、山盛綜合警備保障随一の体格を誇る明良が立っている。シワがないスーツをビシッと着こなして、両手を腰の後ろで軽く組み、背筋をピーンと伸ばす立哨姿勢をしていた。
立っているだけで圧倒的な存在感がある。余程の身の程知らずでもない限り、この屈強な男に立ち向かおうと思う者はいないだろう。
警護車両の前に到着すると、絵理佳が警護車両の後部座席の扉を開けた。
「足元気をつけてくださいね~」
世奈を後部座席に乗せた。
「それでは、再び外の警戒をいたしますので少々お待ちくださいませ」
扉を優しく閉め、明良が指示を出す……かと思ったが、明良は突っ立ったまま力が入らない顔を上げ、心ここにあらずといった様子でボーっとしていた。
普段の明良はノロノロせず、即座に仕事に移るプロボディーガードだ。しかし、今の明良は白い雲が点々と混じる遠くの空を眺めて黄昏ている。
「あれれっ? 明良どうしたの?」
「えっ、いや、なんでもねぇ」
明良はギュッと目をつむり、眉間を指で押さえて頭を軽く振る。
「ホントに大丈夫? 体調悪いなら他の隊員と交代したほうがいいよ?」
「違うんだ……狩桶様と会うたびに、なんか、胸の奥が苦しくなるような懐かしい香りがするんだ」
「懐かしい香りって、どんなの?」
「石鹸とミントが混じったような……俺にとって、大切な香りがするんだ」
「狩桶様がつけてる香水じゃないかな?」
「そうか……でも、どこかで嗅いだことがあるような……なんだ?」
明良は目を軽く揉み、気を取り直して目を開けた。
「いや、今は仕事だな。俺が外を見てくる。絵理佳がロータリー内だ」
「了解」
絵理佳は任された場所の警戒を開始する。
ロータリー内の花壇の影や、木の幹の裏、自動販売機の裏に不審者はいないか。その他、爆発物や小型カメラがないかも確認する。
危険な状況に遭遇するぐらいなら、大袈裟に注意を払って危険を排除したほうがいいと明良から教わっている。
また、喝を入れる打ち合わせ同様、警戒しているところを見せつけることによって、悪者を近寄らせない抑止力になるのだ。
磨き上げた嗅覚を全力で働かせて安全な空間を作り上げると、ふたりは警護車両の前に戻る。
一仕事を挟んだ明良は、いつもの凛々しい顔に戻っていた。何事もなくてよかったと思う。
明良が運転席に乗り、絵理佳が後部座席に座ってシートベルトを締める。仮に車が襲撃された場合、隣の絵理佳が体を張って守ることになる。
(ああああ! あのMONEちゃんが隣にいるううううううう!)
ほんの少し手を伸ばせば届く距離に憧れの人がいて、内心穏やかでいられるわけがない。
今すぐに話しかけて世間話でも始めたいが、仕事の立場上できない。もどかしい寸止め状態だ。
明良が言っていた、ほんのりと漂う石鹸とミントが混ざった香水の香りでMONEを感じて我慢する。
「それでは出発いたしま~す」
明良はタクシー運転手のような振る舞いでアクセルのペダルを踏んで車を走らせる。
入念に警戒をしたため、警護車両がマンションのロータリーから出る瞬間に襲撃を受けることはなかった。




