第4章 時の迷宮と記憶の回廊 第2話「孤独な王女と銀の騎士」
時空の渦に飲み込まれた感覚は、泥沼に引きずり込まれるような不快さを伴っていた。
「……ん……」
冷たい石畳の感触で、リーシャは意識を取り戻した。
ゆっくりと目を開けると、そこは先ほどまでいた「時の神殿」の回廊のようでありながら、どこか決定的に違う場所だった。
壁も床もすべてが灰色に染まり、色彩が失われている。そして、どこまでも続く長い廊下には、不気味なほどの静寂が満ちていた。
「時道さん? ガルドさん?」
呼びかけても、返ってくるのは自分の声の反響だけ。
不安に胸が締め付けられる。だが、ここで立ち止まってはいられない。リーシャは震える足に力を込め、立ち上がった。
その時だった。
『どこへ行くの? リーシャ』
背後から、鈴を転がすような少女の声が聞こえた。
心臓が跳ねる。恐る恐る振り返ると、そこには巨大な「鳥籠」があった。
灰色の鉄格子でできた鳥籠の中には、豪奢なドレスを着た幼い少女が座り込んでいた。膝を抱え、うつむいているその少女は――間違いなく、幼い頃のリーシャ自身だった。
「これは……幻影?」
『そうよ。ここはあなたの心の中』
鳥籠の中の少女が顔を上げた。その瞳は虚ろで、光がない。
『あなたはずっとここにいたわ。お父様やお兄様の言う通りにして、政略結婚の道具として生きてきた。それが一番楽だったから』
「違う……私は……」
『違わないわ。今回だってそう。時道さんに助けられて、守られて、ここまで連れてきてもらっただけ。あなた自身には何の力もない』
少女の声は、リーシャが心の奥底でずっと抱えていた劣等感を正確に抉り出した。
「そうね……私は無力だったかもしれない」
リーシャは唇を噛み締め、鳥籠に近づいた。
『そうでしょ? だから諦めて、ここで一緒に――』
「でも、今は違う!」
リーシャの叫びが、灰色の回廊に響いた。
「私は自分の意志でここに来たの。誰かに言われたからじゃない。この世界を、大切な人たちを守りたかったから!」
『口先だけね。戦う力もないくせに』
鳥籠の少女が冷笑すると同時に、周囲の影が実体化し、黒い狼の姿となってリーシャに襲いかかった。
「くっ!」
リーシャは反射的に手をかざす。得意とする精神魔法で牽制しようとするが、黒い狼は霧のようにすり抜けて迫ってくる。
(魔法が効かない!?)
『無駄よ。ここは絶望の迷宮。弱い心は食い尽くされるだけ』
牙が迫る。恐怖で足がすくむ。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、時道の背中だった。最弱と言われたスキルで、必死に運命に抗おうとする彼の姿。
(時道さんは諦めなかった。私だって……!)
私の中にも流れているはずだ。時の賢者の血が。
リーシャは恐怖をねじ伏せ、自身の内側に眠る「感覚」に意識を集中させた。精神系魔法で培った集中力を、時間という概念に向ける。
時間を認識するのではない。時間を「駆ける」イメージ。
「私は、守られるだけの王女じゃない!」
彼女の全身から、青白い魔力が奔流となって溢れ出した。
「クロノ・アクセル(時間加速)!」
世界が止まったように見えた。
いや、違う。リーシャ自身の時間が加速したのだ。
迫りくる狼の爪が、スローモーションのようにゆっくりと見える。リーシャはその隙間を縫うように疾走した。ドレスの裾が翻る音さえ置き去りにして。
「はあぁぁっ!」
リーシャの手から放たれた魔力の衝撃波が、黒い狼たちを吹き飛ばし、そして巨大な鳥籠の鉄格子を粉砕した。
ガシャンッ! と激しい音を立てて鳥籠が崩れ落ちる。
中にいた幼い少女の幻影は、満足げに微笑んで光の粒となって消えていった。
「……行かなくちゃ」
息を切らしながら、リーシャは前を見据えた。灰色の世界に、微かに色が戻り始めていた。
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一方、迷宮の別の区画。
「ぐぅっ……!」
重い金属音と共に、巨躯が壁に叩きつけられた。
ガルド・ストーンハートは、口の端から流れる血を拭い、大剣を杖にして身体を支えた。
彼の目の前には、錆びついた鎧を纏った数体の騎士たちが立っていた。その顔は腐り落ち、虚ろな眼窩だけがガルドを見つめている。
『隊長……なぜ、あなただけ生き残ったのですか?』
『我々を見捨てて……なぜ……』
亡霊たちの声が、ガルドの古傷を痛めつける。
それは、かつて彼が率いていた部隊の成れの果てだった。帝国の国境紛争で全滅した部隊。ガルド一人が生き残り、「死に損ないの銀騎士」と呼ばれた過去。
「すまない……俺が未熟だったせいで……」
ガルドの剣先が下がる。
目の前の敵が幻影だと分かっていても、かつての仲間たちに剣を向けることができない。
『償ってください……あなたの命で……』
亡霊騎士たちが一斉に剣を振り上げる。
ガルドは目を閉じた。このまま罪を受け入れれば、楽になれるかもしれない。
だがその時、彼の耳に聞き慣れた声が蘇った。
『ガルドさん、頼りにしています!』
それは、無邪気なリーシャの声。そして、
『ガルド、背中は任せたぞ』
背中合わせで戦った、時道の信頼に満ちた声。
(そうだ……俺はまだ、死ぬわけにはいかない)
ガルドの瞳がカッと見開かれた。
「俺は生き恥を晒してでも、守ると誓ったんだ!」
彼は大剣を握り直した。
「謝罪は、あの世でいくらでもしてやる。だが今は――どけぇぇぇっ!」
ガルドの全身から、赤熱するような闘気が立ち上る。強化系スキル『身体強化』の最大出力。
ブンッ!
空気を切り裂く豪快な一撃が、亡霊騎士たちをまとめて薙ぎ払った。
「俺はガルド・ストーンハート! 王女リーシャと佐倉時道の剣にして盾! 過去の亡霊になど、この道は譲らん!」
幻影たちが断末魔を上げて消滅していく。
戦闘の余韻が残る静寂の中、ガルドは大きく息を吐き、剣を納めた。
その時、回廊の奥から足音が近づいてきた。
ガルドは即座に剣の柄に手をかけたが、現れた黒髪の青年の姿を見て、安堵の息を漏らした。
「時道か……無事だったか」
「ガルドさん!」
駆け寄ってきた時道は、ガルドの傷を見て顔をしかめた。
「怪我は?」
「かすり傷だ。それより、厄介な幻を見せられた」
「俺もです。どうやらここは、俺たちの記憶やトラウマを利用して攻撃してくるようです」
時道は悔しそうに唇を噛んだ。
「リーシャが心配だ。彼女は一人で……」
その言葉が終わる前に、空間全体が震えた。
ドォォォォン!
遠くから、爆発音と共に強烈な魔力の波動が伝わってきた。それは、精神魔法のような繊細なものではなく、もっと直接的で攻撃的な魔力だった。
時道とガルドは顔を見合わせた。
「この魔力……リーシャか?」
「ああ、間違いない。だが、いつもの王女様の魔力とは桁が違うぞ」
ガルドが驚愕の声を上げる。
時道は、波動が伝わってきた方向を見据えた。
「行きましょう。彼女が呼んでいます」
二人は頷き合い、迷宮の奥へと走り出した。
孤独な王女はもういない。そこにあるのは、自らの足で立つ覚醒した「時の使い手」の気配だった。
**次回予告:**
**第4章 第3話「帝国の天才と過去の因縁」**
時道たちが合流を目指す一方、迷宮の別ルートではザイン・ブラッドエッジが帝国の「闇」と対峙していた。
彼の前に現れたのは、かつての恩師であり、帝国魔導院の狂気を象徴する人物の幻影。
「力こそ正義」と説く幻影に対し、ザインは自身の信念を炎の剣に込める。
そして、迷宮の最深部で待ち受けるゼロの正体が、徐々に明らかになっていく――。




