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【040】黒き極炎

「急げ! 我らの速さが味方の生死を左右する! 休めばそれだけ友を失うと心得よ!」


 第二部隊長シグザール・ゴール・クィティスは馬にひたすら鞭を入れ、湿地沿いを駆け抜けていた。


 先ほどまで遠目に見えていた魔族の部隊が突如として湿地を横断し始めた時、シグザールは瞬時に事態を理解した。敵の両翼が中央の挟撃に動いたのだと。


 本陣防衛のために引き返すべきかとも考えたが、あの荒くれ者たちを率いるルード・ボルグヴァーチカがそんな後手を選ぶわけがない。


 そう結論づけ、シグザールは独断ですぐさま湿地を迂回する決断を下した。


 狙うは敵本陣。味方本隊と挟撃し、敵を隘路あいろですり潰す。


 見立て通り、しばらくしてからやってきた伝令は「敵の後背を突かれたし」との命令を告げ、そのお達しにシグザールは声高々と「既にやっている!」と答えてみせた。


 あとはこちらの挟撃成立と味方本陣潰走、どちらが先かの競走だ。


「急げ! 敵は待ってはくれんぞ!」


 その時だった。シグザールの傍に、副官の一人が馬を寄せて叫んだのは。


「部隊長、空に何かが……!」


「空?」


 報告を受け、空を見上げる。しかし辺りは一面の青空。陽が高くなり、昼前となったことで澄み渡るほどの快晴を見せている。だが、それだけだ。


「何も見当たらないが……?」


 すると副官の男は「あそこです!」と空を指差した。シグザールは揺られる馬の上からもう一度目を凝らし、そしてようやく気が付いた。


 空に何か、小さな黒点が浮かんでいることに。


「……なんだ、あれは?」


 湿地帯の上空に浮かぶ黒い何か。しかし馬上の揺れのせいもあって、黒点の正体がいまいち掴みきれない。


 鳥にしては動きがなく、魔物にしてもおとなしすぎる。それに随分と高いところに浮いているらしいが……


 ただ、じっくり観察してみると、それが段々と人型のように見えてくる。まさか、人が空に浮くはずもないというのに。


 まずありえない光景に我が目を疑ったが、ここは異形たちの巣窟たる魔界だ。そういう魔族が居たとしても何らおかしいことはない。


「全隊警戒! 敵の急襲に備えよ!」


 第二部隊に緊張が走る。しかし、その足を止めるわけにはいかない。


 誰もが空の黒点を睨み、それでも湿地沿いを駆け抜ける中、空の黒点から不意に何かがこぼれ落ちたように見えた。


「なんだ……?」


 一滴の輝く何かは、湿地の上にきらきらと零れ落ちた。揺れる馬の背の上で、シグザールはその何かを横目でじっと眺めていた。


 そして。


「――ッ!」


 一滴の輝く黒は、やがて膨れ上がるように膨張し、瞬く間に灼熱の奔流となって彼らの視界を真っ黒に染め上げた。


 それが彼らが生前に見た、最期の光景だった。


 魔王の放ったたった一発の魔法は、第二部隊総勢四〇〇〇名を一瞬のうちに蒸発させたのだった。


 そして、二つ目の雫が今、両軍ぶつかる戦場に放たれようとしていた。





 ああそうか。女神ルヴィアはきっとわかっていたんだ。俺たち人間が魔族に勝つなんて夢物語、叶うはずがないんだって。だからきっと、勇者なんてやつを生み出したんだ。


 魔族という種に勝つことを諦めて、魔族の長を撃つことに特化させる。そうすることで、力による支配しか受け入れない魔族たちを一つにさせず、同族同士での跡目争いを誘発した。


 そうして魔族が仲間同士で争う間のわずかな空白期間だけ、俺たち人間は穏やかに日々を過ごすことが出来るんだ。


 人間はしょせん生かされているだけだった。魔族が本気になれば、きっと俺たちを滅ぼすことなんて容易いのだろう。


 俺たち人間が魔族に勝つことなんて、始めから出来やしなかったんだ。


 魔王の一撃によって蒸発した聖戦軍と、魔法の余波によって消し飛んだ山脈の一角を目の当たりにした時、俺は漠然とそんなことを考えていた。


 ――、閣下――


「閣下……」


「ッ、ミノンドロス……!」


 漠然とした意識が覚醒する。いつの間にか俺は地面に倒れ、俺の上にはミノンドロスが覆い被さっていた。どうやら彼女が俺を庇ってくれていたらしい。


「すまん、助かった! ミノンドロス、無事か――」


 その時、俺の返事を聞いて力尽きたのか、どさりと彼女が地面に倒れこんだ。咄嗟に体を支えようとした俺の手のひらに、どろりとした生暖かい感触が伝わる。


 俺はこの感触をよく知っている。


「まさか……!」


 横たわるミノンドロスの鎧をよくよく見てみると、先ほど触った辺りの鎧は大きくえぐれ、鎧の赤とは明らかに違う、どす黒い赤がにじんでいた。


 原因は明らか。彼女の背中から腹にかけて貫通した木の杭だ。恐らく聖戦軍が野営に使用していたものが、先ほどの衝撃で飛んできたのだろう。


 もし彼女が庇ってくれていなかったらと思うと、背筋がぞっと凍えるようだった。


「これが魔王の力……! 野郎、味方諸共吹き飛ばしやがった……!」


 ここにきてようやく事態を呑み込んだ。そして同時に魔王に対する怒りが込み上げる。


 南の空を睨みつければ、全ての元凶たる黒点が、少しずつ戦場から離れていくところだった。


 目的は達したとでも言いたげだ。どこまでもふざけている。


 辺りではあちこちからうめき声が聞こえる。人間のものか、魔族のものかすらわからない、ただ悲痛な叫び声の数々。


 そしてそれら全てを呑み込もうと燃え広がる黒い炎。ウェグニード山脈に至る道は爆撃によって消し飛んで、そこに居たはずの聖戦軍は全て消え失せていた。


 先ほどまで最前線だったこの場所は、一瞬のうちに地獄と化したのだ。


 俺は勘違いしていた。魔族は未だに古臭い戦い方に固執する時代遅れの連中だと。


 しかし、きっと違うのだ。


 人が魔族のような多様性を捨て、画一化することで数の戦いに秀でたように。魔族は数での戦いを捨て、個としての戦いに特化したのだ。


 そしてその極致が魔王という存在なのだろう。こんなものがまかり通るなら、軍略なんてものは必要ない。魔王を一体戦場に投入すればそれで終わり。そりゃあ戦い方だって古代で止まる。


 これが俺たち人間が越えなければならない力だというのか……!


「ミノンドロス、しっかりしろ!」


 地面に横たわったまま、力なくうなだれるミノンドロス。彼女のそばに膝を落とすと、彼女の浅く苦しげな呼吸音だけが聞こえてくる。


 ――酷いな。


 彼女の背中から腹にかけて貫通した木の杭。その傷跡からは今も血液が流れ落ちている。人間なら即死していてもおかしくない。


 すぐに自分の外套を丸めて、抉れた鎧の上から彼女の傷跡を思い切り押さえる。


「うぐッ……!」


 ミノンドロスが苦痛に声を漏らすが、今は我慢させるしかない。


 杭を抜くのはまずい。魔族の体が人間と概ね同じつくりなら、抜いた瞬間に大量出血だ。だが……


「ここから本陣まで戻るのか……!?」


 思わずセルジドールたちがいるであろう湿地の中心に視線を向ける。ここから本陣まで、多少なりとも距離がある。その距離を移動し、さらには手当てが終わるまで、彼女が耐えられるとは到底思えなかった。


「ダリア……! リジーム……!」


 俺が必死に止血している横で、聞き慣れた声が耳に届く。ナインの声だ。


「ナイン……! 私は平気よ……!」


 まずはダリアが返事して、続けていつ戻って来たのか、リジームが続く。


「俺も平気だ……そっちは?」


「二人とも……! こっちも無事だよ、無事でよかった……」


 どうやらあいつらは巻き込まれずに済んだらしい。ナインはすぐに辺りを見渡し、そして俺と視線を交錯させた。


「……」


「……」


 お互いの言いたいことは、それだけで伝わっていた。


「おいカイゼル、生きてるか!? ――その傷は……」


 そこに続いて、ベルゼが現れる。ベルゼはミノンドロスを見て瞬時に状況を理解したのか、指示を求めるように俺に視線を送った。


「ベルゼ、すぐに全軍退却だ! もはや人間との戦いに意味はない! これより指揮権をお前に委譲する、仲間を連れてセルジドールの元に戻れ!」


「だが勇者が……!」


「私が止める! いいから早く行け! 仲間を見殺しにするつもりか!!」


「……わかった!」


 直後、ベルゼが空に向かって咆哮する。それが退却の合図となって、魔族たちは次々に転進していく。


 あのままこの場に留まらせていたら、きっとナインたちと戦闘になる。これ以上の戦いにはもはや何の意味もない。人間も魔族も無駄に犠牲が増えるだけだ。


 部隊が丸々蒸発した聖戦軍に、これ以上の組織的抵抗は不可能。魔王軍を退却させるには好都合だった。


 撤退するベルゼに続いて、この辺りの魔族たちも一斉に引き上げていく。これ以上の戦闘意思が無いことを人間に伝える意味でも、この撤退には意味がある。


 そして何より――俺がこれからやることを、アイツらに見られるわけにはいかなかったから。


 一方で、ナインたち人間も動きを見せた。


「ナイン! 今ならアイツを……!」


「いや、それより今は僕らも退くのが先だ。これ以上、戦いは続けられない」


「けど……!」


「ダリア、退くぞ。今は目の前の敵を討つよりも、救える味方を守るべき時だ」


「……ッ!」


 ダリアは憎しみのこもった視線を俺に差し向け、悔しそうにこの場を後にする。その後を追うように、リジームも去っていった。


 魔王軍同様に、聖戦軍もここから撤退準備に入るのだろう。一体何人が無事に戻れるのかわからないが……


 魔族も人間も、負傷した仲間を連れて、まるで干上がる水のように退いていく。その境目には俺とミノンドロス、そしてナインだけが取り残されていた。


「……」


 最後に残ったナインが、視線だけで問いかけてくる。


 ――一緒に行かないか?


 だが俺は、その誘いに頷くことはできなかった。


 俺が行けば、ミノンドロスの命が危ない。


 俺が人間かどうかもわからない現状で、あいつらと一緒には歩けない。


 今、俺が魔族を止めないと、退却する聖戦軍の背後を魔王軍が追撃してしまう。


 そして何より……勇者たち(あいつら)の思いも知らず、裏切られたと勘違いしていたことに、合わせる顔がどこにもない。


 色んな思いが胸中に渦巻き、首を横に振る。そして『行け』と声を出さずに、口だけでナインを促した。


 ナインは何も言わなかった。俺が魔族を救おうとしていることにも、俺が的外れな怒りを抱いていたことにも、ナインとは共に行けないことにも。


 ただ一度だけ頷いて、あいつもその場を後にした。


 最後に「必ずまた、会いに来る」と言い残して。


「……閣下……」


「ミノンドロス……喋るな、傷が開くぞ」


 なるべく声音を冷静に、焦りに気づかれないよう淡々と答える。


 傷口から血が止まらない。俺の両手に熱が広がっていく。彼女の命がみるみるうちに流れ落ちていく。


「もう……大丈夫ですわ」


 らしくないほどに弱々しい声音だ。肌も青白くなってきている。


「弟が待ってんだろ。こんなところで諦めてんじゃねえよ……!」


「ふふ……らしく、ありませんわよ……そんな、喋り方……」


 彼女の瞼が少しずつ落ちていく。熱がみるみるうちに失われていく。その姿をただ見ていることしかできない無力さに、俺は歯を食いしばることしか出来やしない。


 ――いいじゃないか。こいつは魔族なんだから。


 ふと、脳裏でそんな声がした。


「うるさい……」


 ――このまま見捨てて、人間界に帰っちまおう。


「うるさい……!」


 ――元々出会うはずがなかったんだ。俺が犠牲になる必要なんて。


「うるさい!!」


 俺は人間で、こいつは魔族で、俺たちは敵同士。そんなことはわかっている!


 そんなことが、こいつを諦める理由になってたまるか!!


 一緒に駆竜に乗ったのも、一緒に飯を食ったのも、家族の話をしたことだって、無かったことになんかできるものか!!


 俺の想いに呼応するように、血に濡れた左手の甲に輝きが宿る。慈悲の紋。あらゆる病と傷を癒す、人智を超えた力の一端。


 ミノンドロスを救う、唯一の方法。


 そして同時に、俺の正体を明かすことにもつながる捨て身の一手。


 ――それに、この力も万能という訳じゃない。そもそも魔族に効くのかも分からないし、効いたとしても予断は許されない。ミノンドロスの命を本当に救うなら、俺は彼女を連れてウルディア要塞まで戻らなければならないだろう。


 どこまでも分が悪い、俺にとっては不利な賭けだ。


 だとしても。


「ルヴィア! あんたが本当に神だってんなら、ミノンドロスを救ってみせろ!!」


 意を決してミノンドロスの腹から杭を引き抜く。彼女の血液が一気に溢れ出たが、ミノンドロスは碌な反応を見せない。意識がもう、はっきりしていない。


 俺の覚悟に呼応するように、慈悲の紋は強く光り輝いていた。


「人を守護せし慈悲の女神ルヴィアよ……!」


 そして口にする。あらゆる傷を癒す万能の力――女神から与えられた権能を行使するために。


 ――思えば俺は、魔界に来てから間違えてばかりだった。


 仲間たち(あいつら)のことも、魔王軍に入ったことも、こうして聖戦軍の敵になっちまったことも。


 きっともっとうまくやれば、こんな悲劇にはならなかったはずなのに。


 そしてきっとこれからも、俺はずっと間違い続けるんだろう。だけど――


「その加護の一端、癒なる施しを我らに……!」


 ――後悔するのだけは、もう嫌なんだ。

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