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【039】汝は人間なりや

 勇者は――ナインは何も語らない。代わりに瞳から、ただ涙をこぼすだけ。その表情はまるで、俺があの時見た光景が再現されたようだった。


 ナインのその沈黙こそが、真実を何よりも雄弁に語っていた。


 俺は左手で、自分の首筋をそっとなぞる。あの時切り裂かれた傷が、痕として残っていた。ウルディアの風呂で見つけたこの傷は、きっと俺の首が落ちた時のものなのだろう。


 そして何故か、今はその傷が塞がっている。癒せる者は誰も居なかったはずなのに。


「……あの日ほど、己の無力を後悔した日は無かったよ」


 噛みしめるように、ナインはそう呟いた。


「……そうかよ」


 俺には、それ以上返す言葉が見つからなかった。


 散々勘違いして、散々恨み節をぶつけた俺に、合わせる顔なんてあるはずも無かった。


 思えば始めから、俺と勇者たち(あいつら)の間には酷い温度差があったんだ。


 でもそれは、きっと俺が思ってたような冷たいものではなくて……もっと暖かな、そんなすれ違いだったんだ。


 俺はそんなことにすら気づけないまま、こんなところまでやって来てしまった。本当に馬鹿なのは、俺の方だった。


 死者は蘇らない。例え女神の力を持ってしても。それは万物不変の絶対だ。だとしたら今、ここにいる俺は……一体誰なんだ?


「この指輪、覚えているかい」


 言葉を失ったままの俺に、ナインが差し出したのは酷く歪んだ金の指輪だった。忘れるわけもない。あれはジジイから貰った、形見の指輪だ。


 しかし今は首を落とされた時の衝撃でか、輪はひどく歪んで水晶も砕け散っていた。


「……やっぱり、お前が持ってたんだな」


「ああ……ぼくらの仲間の――形見、だから」


 形見。その言葉が重くのしかかる。


「……なあ。俺が死んだってのは、本当か? 嘘なら、趣味が悪すぎるぞ」


 居た堪れなくなって、答えのわかりきった問いを口にすれば、ナインは真剣な面持ちで静かに答えた。


「僕が君に、今まで一度でも嘘をついたことがあったかい?」


 ……あっただろ、何度でも。


「エイヴズで俺に嘘ついて、取り残された子供を助けに行って……死にかけたお前たちを二日かけて救ってやったこと、忘れたとは言わせねえぞ」


 その時また、ナインの表情が歪んだ。


「……ッ……本当に……本当に、君……なんだな……」


 涙、だった。絞り出すような、震えた声と一緒に、ナインは唇をかみしめて、声をこらして泣いていた。


 なんだよ……なんなんだよ、それ……


 やるせなくなって視線を落とすと、代わるようにナインは俺を見据えた。


「……君に……いや、お前にもう一度問う。お前は一体誰なんだ。お前は本当に彼なのか。それともお前は……彼の記憶を、彼の姿を、彼の声を真似しているだけの偽物か? もしそうだとしたら……僕は、仲間の死を辱めるお前だけは、絶対に許すわけにいかない」


「はっ……それは一番、俺が聞きたいよ」


 乾いた笑いと共に、本音がこぼれ落ちた。


 俺は一体誰なんだ。


 人間なのか? それとも魔族なのか? この記憶は、この思いは、一体誰の物なんだ?


 俺は一体何のために戦ってきた? 俺は一体何のために、ここまでやって来たんだ――


「ッ! 危ない!」


 ――その時、ナインの声に押されて、俺は咄嗟に後ろへ飛び退いた。次の瞬間、俺が居た場所には炎の弾が直撃する。


「ナイン!? 何してるの!?」


 炎の弾が飛んできた方から女の声がした。この金切声は間違いない。俺たちの中で最も魔法の扱いに長けた、口うるさくて正義感が強い……そのくせ泣き虫な、泣き虫ダリアの声。


 あいつの表情は険しい怒りに染められていた。ダリアがこんなに怒っているところを、俺は初めて見た気がする。お前、そんな顔が出来たんだな。


「閣下!」


 続けてミノンドロスが俺の傍に駆け寄ってきた。どうやらダリアとミノンドロスは、決着が付かないままここまで戻って来たらしい。


「あの人間、なかなか手ごわいですわ! お気を付けを!」


 ミノンドロスが忠告してくるが、そんなことは誰より俺が一番よく知っている。あれをただの泣き虫だと思うな。芯は誰よりも強い女だぞ。


「ナイン、手を貸して! アイツの仇を討つ!!」


 叫ぶなり、ダリアは杖を俺に差し向けてすぐさま魔法を構えた。杖の前に収束する魔力。しかしナインはそれを引き止める。


「待ってダリア、彼は……!」


 思わず、といった風に口走ったナイン。その途端、ダリアはアイツに厳しい視線を向けた。


「彼? まさかあの魔族のことを言っているの? 言葉も通じない(・・・・・・・)化け物相手に、彼ですって?」


「……何?」


 ダリアがその時口にした言葉が、俺の耳に引っかかった。


 言葉が……通じない?


 どういうことだとナインに視線で問いただすも、ナインは居た堪れなさそうに視線を逸らすだけ。


 言葉が通じないはずがない。だって今まで、何の不自由もなく俺はミノンドロスやベルゼたちと会話していたんだ。


 それともまさか、俺がいつの間にか魔族の言葉を話していたというつもりか?


 それならどうして、さっきはナインと会話が出来たんだ。ナインも魔族の言葉を喋れるとでも言うつもりか?


 ……違う。頭ではとっくにわかっている。


 おかしいのは俺の方だ。人間と魔族、両方の言葉を、俺はいつの間にか使っているんだ。それも、俺自身が無意識のうちに。


「閣下、何やら人間が揉めているようですわ。今が好機かと」


 俺の気など露とも知らず、ミノンドロスは勇ましく囁く。しかし俺はそんなことより、もっと気になることがあった。


「ミノンドロス……お前、人間の言葉はわかるか?」


「人間の言葉……ですの? いいえ、何を言っているのかはさっぱりわかりませんが……」


 ――それが、答えだった。


 人間と魔族は言葉が通じない。それがこの世界の常識だったんだ。


 初めてカイゼルに出会ったあの日、奴は雄叫びのような声を上げていた。でももしかすると、あれは雄叫びなんかじゃなくて……奴の、魔族の言葉だったのかもしれない。


 俺は人間の身でありながら、なぜか……魔族の言葉が理解できるようになってしまっていた。いや、そうじゃない……俺は……


 今の俺は本当に、人間だと言い切れるのか?


「ナイン! 早く!」


「閣下! お早く!」


 立ち尽くす俺たちを、ダリアが、そしてミノンドロスが呼ぶ。


 でも俺たちは戦えなかった。戦えなくなっていた。戦う理由が無くなってしまったから。


 今の自分が人間なのかもわからなくなった俺は、人間界には帰れないことを悟っていた。


 もし俺が本当の俺じゃなくて、俺と言う人間の記憶を継いだだけの魔族なら……人間界に連れ帰るわけにはいかないからだ。


 そしてナインはきっと、目の前の敵が俺だと知って――或いは、俺の記憶を持った何者かかもしれないとわかっていて、それでも戦うことが出来ないらしかった。


 あいつはそういう奴だった。お人よしなんだ、根本的に。


 俺はもう、勇者一行あいつらと一緒には歩けない。少なくとも、俺が俺だと言い切れるまでは、一緒に居ちゃいけないんだ。


 だから、今は――


「ミノンドロス。奴を……勇者を――」


 ――だが、その言葉は最後まで口にすることはできなかった。


 次の瞬間、俺たちを一筋の光が襲ったからだ。


「――ッ!?」


「何!?」


「あれは……!」


 南の空が一瞬、黒く輝いた。変な話だが、そう表現するより他無い光景だった。


 湿地の向こう、俺たちが布陣していた辺りに、黒い何かが膨れ上がる。それは陽炎のように揺らいでいて、見かたによっては真っ黒な炎にも見えた。


 黒い炎の輝きがまず押し寄せて、次に爆音が貫いた。そして最後に爆風と地響きが俺たちの元へ到達し、辺りを一気に吹き飛ばす。


「何だ、あれは……!」


「ッ! 第二部隊が!!」


 ナインたちの声。爆風の中で何とか目をあけると、確かにあの黒い炎に呑まれて行く聖戦軍の部隊が見えた。


「まさかあれは……魔王陛下……!?」


「魔王だって……?」


 ミノンドロスの呟きを、俺も思わず繰り返す。彼女の視線の先、湿地の空には確かに、真っ黒いローブを身にまとった誰かが、一人ぽつんと浮かんでいた。


「あれが……魔王……?」


 どんな魔族なのかさっぱりわからない、ただ黒いローブに全身が覆われた何か。恐らく人型のそいつの右手が、先ほど吹き飛んだ何かの方へと向いていた。


 恐らくあの黒い炎は、奴の魔法なのだろう。


 これまで見たことも聞いたこともない、漆黒にゆらめく豪炎。人間を呑み込む絶望の黒。


 その時、魔王のもう片方の手が――奴の左手が、こちらに向いた。


「閣下ッ!!」


 次の瞬間。流星のような輝きが、空に一閃瞬いて。


 ミノンドロスの声を最後に、俺は体が宙に浮くような感覚を味わった。


 その時俺たちは、押し寄せる衝撃にただ翻弄されるしかなかったんだ。

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