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【033】蹂躙

 ダヴォザ湿地の西側にはウェグニード山脈から連なる切り立った崖がそびえている。その崖から見下ろすように眼下には広い沼地が広がり、北の崖と南の沼地に挟まれるようにして、僅かな陸地が顔を覗かせる地形をしている。


 中央の隘路あいろほどではないものの、この地に進む聖戦軍右翼、六〇〇〇の兵が満足に展開するには余りに狭い地形だった。


 しかし、彼らの指揮官は手慣れた様子で指示を出すと、まずは沼地と陸地の間にいくつかの部隊を並べ、未だ進軍中の味方を守る形で布陣させた。


 重装兵を中心とした鈍重な兵が多い第三部隊は、高い統率力と鉄壁とも謳われるほどの防御力を備え、第四騎士団の中でも選りすぐりの兵が揃っている。


 そんな彼らにとって、この程度の隘路あいろに布陣することは朝飯前。敵の左翼部隊を押し留め、連携を絶つことを命じられた彼らは、その目的を遂行するため鮮やかに兵を動かしていく。


「弓隊、構え!」


 未だ薄霧が覆う戦場を、矍鑠かくしゃくとした声が貫いた。声の主は真っ先に布陣を任された第六大隊率いる老将、ジグル・ゲール・グドイヴォーネ。


 齢七〇を越えてなお前線に立ち続ける彼は、皺だらけになりながらも未だ輝きを失わないその瞳でじっと沼地の向こうを睨み続け、手慣れた様子で次々号令をかける。


「まだだ……まだ射かけるな!」


 やがて陽が昇り、薄霧が晴れてきた湿地の向こうに蠢くのは無数の影。人ならざる者たちの軍勢が、今か今かとその時を待ち望んでいる。


 奴らの姿を聖戦軍の兵士たちは盾の後ろから、或いは味方の背中の向こうからじっと眺めていた。


 巨大な盾を地面に突き刺し、横一列に並べることで鉄の壁と為す。その間から槍を突き出し、その穂先を正面へと向けることで、いつ敵が突撃を仕掛けてこようとも跳ね返せるように息を凝らす。


 その後ろには弓に矢をつがえ、敵に地獄を見せるその時を今か今かと待ち望む弓兵たちも控えている。


 そうして居並ぶ銀の刃が持ち手の息遣いに沿って僅かに上下し、引き絞られた弓の音があちこちで鳴り始めた頃。ついに異形たちの軍勢が沼地の向こうから姿を現した。


「ゴォォォァァァァァァッッッ!!」


 鳴き声とも言葉ともつかぬ低い唸り声をあげて、一斉に沼地を駆け抜ける魔族たち。その速度は人間の駆け足を遥かにしのぎ、動物的瞬発力から放たれた進撃はまるで騎馬突撃を思わせた。


 怒涛の勢いで聖戦軍に迫る異形たちを見据えて、ジグルは酒焼けしながらも未だ力強さを失わない声音で怒鳴る様に叫び散らす。


「放てェ!!」


 直後、いくつもの弦音つるねが鳴り響き、無数の矢が空を覆う。自重に耐えかねて落下軌道に入った矢の雨は、魔族の軍勢に頭上から襲い掛かった。しかし。


「なっ……にィ!?」


 ジグルは目の前で起きた光景に唖然とした。何せ魔族は空から降り注ぐ無数の矢を、まるで虫でも払うかのように呆気なく払いのけてしまったからだ。


 中にはろくに防御すらせず、己の外皮のみで矢を弾いている者さえいるほどだ。彼らは一様に、何をされたのかよくわからないとばかりに首を捻り、構うことなく前進を続けた。


 それはまるで水をはじく素材で作った服をまとい、土砂降りの中を駆けるがごとく。多少の被害こそあれど、魔族の進撃を止めるには至らない。


 その光景は、人間に衝撃を与えるには十分すぎた。


「矢が……矢が弾かれています!!」


「魔族が止まりません大隊長!」


 その後も次々と降り注ぐ矢の数々を、魔族は造作もなく弾き飛ばして沼地を駆け抜ける。人間ならば足を取られて走ることすら出来ない沼地の中を、何の抵抗も無く、悠々と。


 もちろんこの時、魔族側とて全くの無傷というわけではなかった。


 鋭利な小石を素足で踏めば多少なりとも怪我をするように。或いは鋭い枝に腕を引っ掛ければ切り傷ができるように。


 魔族の進撃を止めるには到底至らない、小さな小さな被害ではあったが。


「おのれ……! 迎え撃つぞ!!」


 迫り来る異形の軍勢を迎撃するため、兵士たちは手にした武器に力を込める。突撃してくる魔族を槍で牽制し、盾で受け止める算段だ。


 そうして足さえ止めてしまえば、数はこちらが有利。囲むなり、追い返すなり、どうとでもなる。


 兵士たちはしっかりと魔族の姿を見据えて、その穂先を敵に向ける。槍の間合いに入った時、一斉にその穂先を魔族の体に突き立てるのだ。


 しかし魔族は、彼らの予想を遥かに上回る動きを見せた。


 跳んだのだ。


「なっ――!」


 予想だにしない光景を目の当たりにすると、まるで時の流れが緩やかになったかのように感じるという。


 その噂の真偽のほどを、今まさに現実として聖戦軍の兵士たちは味わう羽目になっていた。


 先ほどまで一陣の矢のように、影を長くして駆け抜けていた魔族たちが、突然しなやかに弧を描いて兵士たちの頭上に飛来した。


 上からの襲撃に、まるで時がゆっくり流れるように、魔族の動きが嫌味なほどよく見えた。


 もちろん、盾は正面だけでなく頭上にも構えられている。魔族たちはその盾の上に続々と着地した形だ。


 しかし、彼らの構えた戦列は、元来正面からの敵を槍で迎え撃ち、矢や投石を盾で防ぐための陣形だ。上から敵が襲いかかってくる場合など想定されていない。


 構えられた槍はその長さゆえに味方が邪魔になり、うまく魔族へ向けられない。そうやってもたもたやっている間にも、魔族たちは次々に飛来する。


 そしてついに重さに耐えかね、盾の床が崩壊し、魔族が兵士たちの目の前に次々飛来する。


「グゥゥゥゥゥオオオオオオオオオッッッ!!」


「ま、ま、魔族だあああああああっっ!」


 盾の後ろから、或いは味方の後ろから見ていた時とは違う、目の前に現れた異形の姿に人間たちは恐慌した。


 手に持った槍では距離が近すぎて迎撃できず、かと言って剣を抜こうにも味方が邪魔で身動きが取れない。密集した陣形だったが故の弱点が、ここにきて聖戦軍に牙を向く。


 そこから先は一方的な蹂躙が始まった。


 次々飛来する魔族によって混乱は広がり、前線は崩壊の一途を辿る。その混乱から逃げ出す兵士たちに押しのけられるように、後衛にも混乱が波及していく。


 その混乱に巻き込まれる形で戦列は乱され、あちこちで綻びが生まれ始めた。生まれた綻び目掛けて魔族たちが続々と殺到し、人間たちの壁を瞬く間に食い破る。


 そうして気付けばあっという間に、敵味方が入り乱れる様相となったのだった。


 あとは個人の力がものを言う乱戦の始まりだ。魔族の圧倒的な力を前に、人間たちが次々と打ち破られていく。


 混乱と恐慌が支配するこの場において、もはや魔族を止められる者は誰一人として残ってなどいなかった。


 その光景を隊の後方から目の当たりにしたジグルは、いてもたってもいられないとばかりに腰から剣を引き抜いて、馬上から大いに叫んだ。


「魔族を討ち取るぞ! 者ども、我に続けェい!」


 叫ぶと同時、鞭声を鳴らして馬を走らせる。彼の行動に一番驚いたのは、他でもない聖戦軍兵士たちだった。


 ジグルは第六大隊の大隊長。一〇〇〇人規模の指揮を行う指揮官である。にも関わらず、その指揮官が真っ先に、それも突撃を決断するまでがあまりに早い。


 この戦況の中でジグルが討たれでもすれば、いよいよ戦線は崩壊だ。そのことを理解している者たちは、慌てて彼の背中を追った。


 ジグルは昔から、猪突猛進なところがあった。それが良いように働くこともあれば、悪いように働くこともある。実績や経験を鑑みれば部隊長になっていてもおかしくない彼が、未だ大隊長の座に甘んじているのもそんな無謀さが原因だった。


 しかし、ジグル自身はそれを誇りとすら考えていた。後方で踏ん反り返って先に甘んじるなど、武人としては死んだも同じ。ならば前線を駆け、最期の時まで戦いに興じる。それこそ武門の誉なのだと。


 そんな彼の信念が形になったかのように、彼に追い縋ってきた味方と合わさって一個の集団となった彼らは、未だ乱戦の中にある最前線へと横から殴り込む形で飛び込んだ。


「ガァアアアアアアアアッッッ!!」


 ジグルらの姿を目撃した魔族のうちの一体が、彼らを迎え撃つように立ちはだかる。全身からおびただしい数のツノとトゲが生えた、おぞましい姿の魔族だ。


 しかし、その程度で彼らは止まらない。


「魔族と言えど生物に変わりない! 行くぞ、敵を討つ!!」


 撹乱するように、一体の魔族に対して複数人で襲いかかる人間たち。いくら身体能力に優れていると言えども、認識外からの攻撃は避けることすらできやしない。


 矢をも塞いだ外皮と筋肉は、しかしその全身全てが頑丈と言うわけでもないらしい。


 やがて刃の通る場所を見つけるなり、人間たちは執拗に弱点を攻め立てた。


 そうした弱点を複数の方向から幾度も攻められ、魔族はついに力尽きる。地に伏した魔族の死体を一瞥し、ジグルは叫んだ。


「多少頑丈なようだがそれだけだ! 複数人で相手取れば恐るるに足らず!!」


 彼の威風堂々とした声が戦場に響き渡ると、兵士たちはすぐさま冷静さを取り戻した。


 かの老兵がそう言うのであれば。兵士たちが自然と彼の言葉を鵜呑みにしてしまう程度には、確かな実績と信頼があった。


 今にも崩壊しかかっていた第六大隊はこの突撃によって瞬く間に態勢を立て直し、襲来する魔族と改めて相対する。


 初めこそ奇襲性の高い一撃によって混乱してしまったが、落ち着いてしまえばどうということはない。


 散発的に襲来する魔族を順番に、各個撃破するのは実に容易だ。


 これなら勝てる。誰もがそう確信した時だった。


「大隊長!!」


「何ッ!?」


 突如として、何かが空から飛来する。ジグルが先ほどまで居た場所を貫いたのは――人間だった。


 最前線の兵と思わしき、鎧をまとった重装兵が空から飛んできたのである。何が起きたのかわからず、混乱する彼らの目の前で、まだ僅かに息があった重装兵が呟く。


「ば、化け物が……」


 それ以上は言葉になっていなかったが、それ以上の言葉も必要なかった。この場にいた者たち全員が、何が起きたのかを理解したからだ。


「ブオオオオオオオオオオオオォォォォォォッッッ!!」


 ひと際大きな咆哮。その声の主は灰色の毛並みをどす黒い血で染めた、暴に埋め尽くされた巨躯の魔族だった。


 誰もが一目で理解した。あの魔族こそが、敵を率いる長なのだと。


「うおおおおおおおおおっっ!」


 兵士たちが灰色の魔族目掛けて、次々襲い掛かる。しかしその槍が、剣が、全て毛皮に阻まれて全く外傷を与えられない。


 それどころか、魔族が太い腕を一振りするだけで兵士たちは文字通り吹き飛ばされ、木っ端のように辺りを舞う。その吹き飛ばされた兵士たちを、魔族は構うことなく踏みにじり、次の獲物を求めて闊歩する。


 血走った目をぎょろ付かせて、辺りを嘗め回すように睨む魔族。威圧されるように兵士たちはその場で足踏みし、自然、両者の間に間隙が生まれる。


 付かず離れず、魔族の動きに合わせて兵士たちもまた動く。その押し引きに焦れたように喉を鳴らした魔族は、しかしその時何かに気付いたのか、おもむろに地に伏した、未だ息のある人間に手を伸ばした。そして。


「うわあああああああっっ!!」


 兵士を物のように掴み上げると、巨躯の魔族はそのまま人間を放り投げた。投げられた人間は空中をきりもみした後、後方の味方の元へと突き刺さる。


 突然の攻撃。それも、空から人間が飛来したともなれば混乱するのも無理はない。


 恐慌に陥る人間たちを見て、魔族は鳴く。


「ブバッ、ブバッ、ブバッハッハッハッハッハッハッハ!」


 続けて二度、三度と再び人間が飛来し、辺りの兵士たちを次々吹き飛ばした。それはまるで、人間を使った投石攻撃だ。


「まさか、笑っておるのか……!? おのれ、これ以上やらせてなるものか!!」


「なりません大隊長!」


 咄嗟に駆けだそうとしたジグルの前に兵士が飛び出す。誰もが理解していた。あの魔族と戦えば、命が無いということに。


「止めるな! かような真似、見過ごせるものか!!」


「大隊長を失えば我々は負けです! どうか、どうかご自重ください!!」


「しかし……!」


 視線の先では未だ惨劇が続く。灰色の魔族がみるみるうちに進撃し、手あたり次第に兵士を投げ続ける。矢も剣も槍も通用しないその毛皮を前に、誰もがもはや逃げ惑うしかなかった。


 その光景をじっと眺めるしかない悔しさに、剣を持つジグルの指に力が入る。


 しかし、その惨劇は長くは続かなかった。


「……ッ! ゴオオオオオオオアアアアアアアアアアッッッッ!!」


 突如、何かに気付いたかのようにその灰色の魔族が空に遠吠えしたのだ。その次の瞬間、魔族たちは一斉に動きを止める。そして。


「……魔族が……退いていく……!?」


 先ほどまで一方的に蹂躙していたにも関わらず、今度はたちまち踵を返して沼地の中へと引き上げていく。


 ――なんだ……? 何が起きた……?


 誰もが困惑し、その背中を見送ろうとする中、ジグルだけがその意図に気付いて叫んだ。


「敵を逃がすな! 追い討て! 奴らは中央に合流するつもりだ!!」


 叫ぶなり、一斉に退いていく魔族の背中を追い始めたジグルだったが、既に彼らは沼地の中にあり、人間では追いつくことが出来ない距離にいた。


「おのれ……おのれ……!!」


 ただ一人、ジグルだけが悔しさに歯噛みする。


 聖戦軍の兵士たちに出来たのは、そんなジグルの姿と引き上げる魔族たちを眺めながら、生きながらえた幸運を感謝することだけだった。

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