【030】それぞれの思惑
南方聖戦軍前軍が魔界入りして数時間後。薄霧漂う肌寒い朝方に、約七〇年ぶりとなる人間と魔族の戦争がついに幕を開けた。
その始まりは驚くほど静かで、平凡な布陣から始まった。
カイゼル率いるベルゲート方面軍二〇〇〇の兵は、初めに部隊を三つに分けた。
中央部隊一二〇〇はカイゼル指揮の元、ダヴォザ湿地帯の中央を通る隘路の出口付近に布陣し、敵を正面から見据える構えを見せた。
また、東の迂回路に布陣する騎兵三〇〇を率いるのはミノンドロス。その全てが駆竜に跨る騎兵という陣容で、速度と衝撃力を備えた編成だ。
そして西の湿地に布陣するのはベルゼ率いる歩兵部隊五〇〇。
ウルディア要塞の精兵二〇〇に加え、徴兵から選りすぐった三〇〇を加えた彼らは、足場の悪い湿地の中でもこれまでの訓練と身体能力を活かして悠々と布陣した。
対する聖戦軍二万を率いるのはルード・トゥイール・ボルグヴァーチカ。
現在は名目上、南方聖戦軍前軍と名を変えているものの、主な指揮系統は第四騎士団のものが流用されている。
徴兵を加えたことで数が増えた第四騎士団を、ルードは慣れた様子で動かした。
ベルゲート方面軍同様に三手に別れた彼らは、第二部隊約四〇〇〇が東、第三部隊約六〇〇〇が西、そして残る第一、第四の混成部隊約一万が中央の敵を見据えて前進する。
先日の大雨の影響か朝霧のかかる湿地帯は、その湿気ゆえかそれとも魔界ゆえなのか、どこか薄暗く重苦しい静寂を横たえる。
その静寂の中に響くのは無数の鉄の足音だった。戦いの先駆けとなる中央部隊の先鋒、第四部隊は異形の魔族と戦うため湿地の中を進み出した。
「これより我らの道を阻む魔王軍を打ち払う! 我らには女神ルヴィアのご加護がある! 魔族ごとき恐るるに足らず、進め!」
第四部隊を率いる部隊長、ベルディス・ゴール・イルマードが高々と声を張り上げる。
その殆どを徴兵と傭兵で構成されている第四部隊にとって、細かな作戦は必要ない。『進め』『止まれ』『攻めろ』『守れ』の四つさえ理解できれば十分だ。
今回もその例に漏れず、本陣の総指揮官から与えられた指示は『進め』、そして『攻めろ』の二つだけ。
その高尚な指令を受け取った第四部隊は、湿地帯のど真ん中を抜ける細いあぜ道を命令通りに黙々と進軍した。
とはいえ、部隊長の意気とは裏腹に、軍の進みは非常に遅い。
それもそのはず。ただでさえ足場の悪い湿地に、唯一通れるのが道幅の狭い隘路だけ。その幅はどんなに詰めても一〇人ほどが横に並んで歩けるか、と言った程しかない。大きな盾でも構えれば容易に道を封鎖出来てしまいそうだ。
そのせいで人数の割に進軍は地味なものとなり、彼らの先頭が目的地まで半分の距離を歩いた時、未だ多くの兵は山脈のふもとから動けないでいた。
やがていつまでも進まない列に焦れた者が、我慢ならないとばかりに湿地の中を進み始める。しかし、こちらも案の定遅々として足が進まない。
場所によっては膝下ほどまで浸かってしまう天然の落とし穴。鎧の重量ごと人間を飲み込もうとするぬかるんだ沼地と、水底に沈んだ流木や水草の数々は、彼らの進軍をとにかく阻害した。
普段は農業や戦を生業としていて足腰に自信がある彼らでさえも、酷い山脈越えの直後にこの条件下での行軍だ。疲労が重くのしかかり、いつしか誰もが息を切らす。
もしこんなところで魔族に襲われでもしたらと思うと――
――アオオォォォォォォ……
その時突如として、西の空に獣の雄叫びが轟いた。
兵士たちの視線が一斉に西に向いて足が止まる。薄霧の中から突然何が現れても戦えるように。
視線の先には不気味なまでに静まり返った湿地が広がっていた。薄霧の先では、何かの影が横切ったような気さえした。
それは魔族の影なのか、それとも不安が見せた空目なのかわからない。ただ、事実としてそれ以上のことは何も起こらず、相変わらずシンとした静けさだけが辺りを包み込んでいた。
誰かが恐る恐る息を吐いた時、今度は彼らの進む道の先から、また同じような鳴き声が響く。どこまでも不気味で、どこまでも恐ろしい何かの鳴き声が。
まさかこれは魔族の鳴き声なのか? その正体に気づいた者たちは、思わず苦い顔をした。
「薄気味悪い奴らだな……」
誰かの呟きに、誰もが心中で同意する。口にはしなかったが、みなが同じことを思っていた。
魔界の湿地と言うだけで不気味なこの場所が、正体不明の魔族たちによって更に不気味に彩られている。これならばいっそ、真正面から襲いかかって来られる方がよほどマシだ。
彼らの歩みが疲労以外の理由でさらに遅くなる程度には、湿地の不気味な雰囲気は彼らの足をさらに重くした。
◆
戦場は常に霧で満ちている。
戦いにおける常套句の一つだが、これは何も本当に戦場が霧で覆われていることを指しているわけではない。
戦場では常に辺りを霧が覆いつくしているかのように、敵も味方も居場所がわからなくなる、という意味だ。
戦場では敵味方の位置を正確に知る術はない。
偵察や伝令を介して指揮官に情報が入る頃には、戦局は次の局面を迎えている。
だからこそ指揮官は、その時間的隔たりを理解した上で各部隊に指示を飛ばさねばならない。
敵を発見したという報告が入る頃には、もう戦っているかもしれない。
味方が優勢という報告が入る頃には、敵の罠にかかっているかもしれない。
敵が優勢という報告が入る頃には、味方は潰走しているかもしれない。
そうした可能性まで考慮に入れて次の指示を飛ばす必要が生まれるが、予測を全て当てることなど人間にできるはずもなく、実際の戦場を目にする兵士との間ではどうしても食い違いが生まれてしまう。
そうした食い違いが混乱を生み、指揮官には居ないはずの敵が居るように、居るはずの味方が消えたように見えるのだ。
こうした掛け違いから起こる不確定事項を、先人たちは戦場の霧と呼んだ。
故に、兵に常態はない。敵味方の思惑が交錯し、戦場に霧が満ちることで常に最善手は変わり続ける。
だからこそ、絶対に勝てる戦略なんてものは事実上存在しないのだ。
優れたる将ほど、この戦場の霧を恐れている。だからこそより多くの情報をかき集め、頭の中で戦場を俯瞰し、あらゆる可能性を模索するのだ。
人間は未だ、戦場の霧を完全に取り払う術を持ち合わせていないのだから。
――だが俺は今、その霧を晴らすための手段を手にしていた。
ベルゲート方面軍本陣。ダヴォザ湿地を貫通する隘路の先に布陣した俺たちは、先ほど舞い戻って来たばかりのドルベアの報告に耳を傾けていた。
「閣下、ご報告致します! 敵部隊、進軍を開始! 本陣、ミノンドロス隊、ベルゼ隊に向けてそれぞれが前進しております!」
机の上に広げた地図に、敵味方を模した駒が並ぶ。ドルベアはその駒たちを拾い上げると、報告を終えるなり次々と動かしていった。
その手はまるで実際に見てきたかのように迷いなく、よどみなく駒を配置していく。
やがてわずかな時間のうちに、ダヴォザ湿地を舞台とする戦場が姿を現した。
その地図を眺めて、俺は思わず唸る。まるで見たかのように――ではない。実際にドルベアは見てきたのだ。その翼を持って、戦場の空を舞い、今この瞬間の戦場の有り様を。
本来ならば幾重にも及ぶ偵察と報告を塗り重ね、少しずつ見えて来るはずの敵の陣容が。或いは高所に陣を構えなければ見えないはずの戦場が。今、俺の目の前に全て描き出されていた。
ドルベアの力は――否、魔族の力は。人間を長年苦しめていた戦場の霧すらも、一瞬のうちに晴らしてしまったのだ。
「これは……これは素晴らしい働きだぞ、ドルベア」
あまりの高揚を抑えきれずに呟くと、何のことかさっぱりわかっていない様子の彼は「はあ……」と首を傾げた。
彼ら有翼種は魔族の中ではとても低い地位にある。それはドルベアが言っていたように、彼らには戦うための力が備わっていないからだ。
だが、今こうしてドルベアは俺の戦略の一翼を担っている。この矛盾を不思議に思い魔族たちに話を聞いたところ、俺はある結論に至った。
実に度し難く、信じ難いその結論に。
魔族は戦いに作戦を用いないのだ。