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【003】その名はカイゼル

 始めはわずかに水面が揺れた。


 やがて揺れは激しくなって、無数の足音が聞こえ始めた。


 ついには奴らの声が俺の耳まで届き、奴らの姿が克明になって、湿地は瞬く間に静けさを失ってしまった。


 地平の向こうから現れた異形の軍勢。二足歩行する巨大なトカゲに跨った、数十の兵士たち。奴らは俺を遠巻きに取り囲むと、こちらの様子を伺うように次々と足を止めた。


 まさか、もうバレたわけじゃないよな……?


 思わず、身につけた(・・・・・)はずの仮面に手が伸びる。大丈夫、ちゃんと被れている。俺の顔は見えていないはずだ。


 先ほど変装のために魔族の死体からはぎ取った銀の仮面は、俺の額から鼻先までを偽りの顔で綺麗に覆いつくしている。肩から羽織った黒い外套と合わせ、俺が人間であることを多少なりともごまかしてくれているはずだ。


 後は妙な着方だと疑われなければいいのだが……


 そんな不安がよぎる中、やがて奴らの中から全身を真紅の鎧で固めた魔族が進み出て来た。


 奴らの大将だろうか。肌の一切が露出しておらず、頭を全て覆い隠す兜まで身につけているせいで鎧の魔族ということ以外さっぱりわからない。


 唯一わかることと言えば、人型であることと全身を重々しい赤の鎧で固めていることくらいのもので、側頭部から生えたシカを思わせる角が特徴的だ。


 異様な雰囲気と共に巨大トカゲから降りたその魔族は、俺の元へと真っすぐ歩み寄って来る。


 ガッシャガッシャと鉄のぶつかり合う音が鳴り、沼地には深い足跡が刻み付けられていく。刻まれた足跡の深さが、鎧の異様な重さを訴えていた。


「……情報通りの銀仮面。つかぬことをお伺いいたしますが、あなたが”銀閃ぎんせん”のカイゼル様にございますか?」


 するとその時、目の前までやってきた魔族から女の声がした。物々しい見た目とは裏腹に甘ったるい声音だ。


 呆気に取られている俺を他所に、その女は兜を外す。真紅色の兜が二つに割れると、夕陽のような長い赤毛が兜から解き放たれて一斉に広がった。


 鼻の周りに散りばめられているそばかすが、白んだ星空のようで目を引いた。


 それに彼女は、一瞬俺と同じ人間なのかと勘違いするほどには人間と近しい容姿をしていた。


 しかし、彼女が魔族であることは一目でわかった。


 先ほど見えていた大角が、他でもない彼女の側頭部から天を穿つように伸びていたのだ。どうやら兜の装飾ではなく、彼女の体の一部だったらしい。そんな物、当然人間には生えているはずもない。


「違いますの?」


 彼女は首を僅かに傾げ、少々訝しむように視線を険しくした。


「お、俺は……」


 ――待て。ここで馬鹿正直に答えるつもりか?


 魔族と言葉が通じる事実に驚く間もなく、俺の冷静な部分が後ろ髪を引っ張りあげた。


 今の口ぶりからして、恐らくこの銀仮面の持ち主――つまりあの、勇者と渡り合っていた魔族が本物のカイゼルだ。


 もしここで馬鹿正直に俺はカイゼルじゃない、なんて言ってみろ。今身に付けてるこの仮面の出所を探られるぞ。


 そうなればなし崩しにこの死体こそが本物のカイゼルだってばれて、じゃあ俺は一体誰なんだって話になる。


 人間だってことがばれるのも時間の問題だ。その時はきっと、俺は今度こそ魔界の沼地で永遠に眠り続けることになる。それはまずい。


 ――だったらいっそ、俺がカイゼルだと名乗った方が……この場を乗り切る芽も残るんじゃないか?


 ここまでで約一秒。


 一瞬のうちに思考が駆け巡り、納得するよりも先に「その通り、私がカイゼルだ」と言葉が口を突いて出た。


 やってしまった。口にしてすぐに後悔が押し寄せる。こんなに雑な、変装とも言えない変装で騙せるわけがない。


 それに騙せたとしてもすぐにボロが出る。何せ本物のカイゼルと俺では見た目から何から、何もかもが別人なのだから――!


 しかし、そんな後悔とは裏腹に「やはりそうでしたか」と表情を明るくした彼女は、突然その場で膝をついた。


「申し遅れました、わたくしはミノンドロスと申します。我らが主人、ダルフェリア魔王陛下より、本日付けで閣下の副官を務めるよう言いつかっております。お迎えに上がりましたわ、カイゼル閣下」


 ミノン……ダルフェ……何だって? 聞き慣れない言葉の数々に耳が全く追いつかない。知った風な顔をして「ああ、よろしく頼む」なんて言えたのは、ひとえにこれまでの旅でも似たような経験があったからだ。


 しかし、そんな言葉の中にも聞き慣れた単語がいくつかあった。魔王軍。副官。そして、閣下。


 特にこの閣下ってのが重要だ。閣下とは高官や将軍に対して使う敬称。魔族にも同じ階級制度があるかはわからないが、少なくとも閣下なんて畏まった呼び方をする以上、カイゼルって奴は相応の立場に居たはずだ。


 ……成り代わる相手を間違えたかもしれない。


 今更後悔したところでもはや手遅れだった。内心で頭を抱える俺に、ミノンなんとかって魔族は早速と「ところで……」なんてわざとらしい切り出し方をして、膝をついた体勢のまま俺の体の上から下までめいっぱいに視線を浴びせて首を捻った。


「……何だか、お噂とは随分印象が違いますのね。てっきりもっと……大柄な方かと」


 ギクゥッ!!


 震える唇を舌で濡らし、唾を飲み込んで口を開く。


「……噂とはえてしてそういうものだ……ええと、ミノン……」


「ミノンドロスですわ」


「ああ、ミノンドロス。とにかく私が言いたいのは、噂ではなく自分で見聞きしたことを信じたまえ、ということだ。噂は君の危機を救ってはくれない」


 咄嗟に、旅の途中で知り合ったある傭兵の言葉を拝借した。その傭兵は豪人無双の噂がある男だったが、実際に会ってみるとなんてこと無い、ただの頭が禿げ上がった、くたびれ顔のおっさんだった。


 噂なんてしょせんそんなもんだ。そういうことだと納得してくれ。決して俺が偽物だと気づかないでくれ。頼むよ、ミノンドロス……!


「仰る通りにございます閣下。申し訳ございません」


 祈るように彼女の顔色を伺っていると、幸いにもミノンドロスは納得してくれたようだった。助かった……!


「いや、構わないさ」


 どうやらこのミノンドロスって魔族は――そして周りを取り囲む魔族たちは、本物のカイゼルを知らないらしい。


 こんな雑な変装で本当に騙せているのか少々不安になるが、今はそう信じる他ない。


「ところで閣下、ここで一体何が? 明け方頃、戦闘と思わしき光を観測したと知らせが入りましたので、まさかと思いお迎えに上がった次第なのですが……」


 やがて彼女は立ち上がりながら、視線を再び魔族たちの亡骸へと向けた。


 まさかそのうちの一体が本物のカイゼルだとも知らずに。


 彼女が立ち上がる拍子、角に顎をぶち抜かれそうになってかろうじて回避する。そして口からするすると、今思いついた設定・・の数々がこぼれ出た。


「……彼らは、私の部下だ。部下だった、と言うべきか……」


 そう、俺がカイゼルだ。そしてこの死んだ魔族たちは俺の部下。そう言うことにしておこう。


「一体ここで何が?」


「奴が現れた」


 あえて勿体ぶってそう告げる。首を傾げて「奴……?」と呟くミノンドロス。彼女の問いに頷いて、続ける。


「君も名前くらいは聞いたことがあるのではないか? ――勇者だ」


「勇者……!?」


 その瞬間、ミノンドロスの表情に緊張が走った。


「勇者と言うと、あの伝説の……!?」


「ああそうだ。あの伝説の勇者だ」


 どの伝説かは知らないが。


「先代の魔王ジギルネダスをして、相打ちに持っていくのがやっとだったと聞き及びます……! そんな相手が、本当に……!? 閣下、お怪我は!?」


「いや、私は無事だ。しかし、戦いの中で私の部下がやられた。その後、何とか追い返すことには成功したが……手ごわい相手だった。これは奴らの持っていた武器だ。証拠になるかはわからんがな」


 なるべく不自然にならないよう、俺は腰に下げていた安物の鉄剣をミノンドロスに差し出した。


 魔界に入る前に買った、王国製の特売品。三本合わせて一九八ベリア。


 その安物の鉄剣を「失礼いたします」と受け取ったミノンドロスは、まじまじと刃を眺めて「この辺りではあまり見ない造りですわね……」と呟いた。


 ここまでそう大きな嘘は言っていない。この魔族たちが勇者との戦いで死んだのは事実だ。俺の立場が少々《・・》異なっているだけで。


 俺の剣をひとしきり眺め終わったところで、ミノンドロスは剣を差し出した。


「お返しいたします閣下。まさか本当に、勇者が実在していただなんて……いえ、それ以上にあの勇者と戦ってご無事だとは。お噂通りの武勇、感服いたしました。この件は先んじて、ウルディアに伝えておきますわ」


 すっかり俺の言い分を信じたらしいミノンドロスは、それから片手をあげて近くの兵を呼び寄せた。


「ウルディアに連絡を。勇者が現れましたわ。ベルゼ殿に、直ちに要塞の守りを固めるよう伝えなさい」


「はっ! 承知いたしました!」


 そして何やら言葉を交わすと、兵士が巨大トカゲに跨って駆けていく。どうやらウルディアとやらに伝えにいったらしい。


 兵を見送って、彼女は俺に向き直る。


「閣下の御身をお守りし、勇敢にも散っていったあの者たちの亡骸はこちらで埋葬いたしますが、よろしいですか?」


「ん、ああ、頼む」


「それでは――全員傾聴! カイゼル閣下の御身を守り抜き、その命を賭した忠臣たちに敬!」


 次の瞬間、辺りの魔族たちが一斉にこちらに向かって姿勢を正し、胸に腕を当てた。どうやらあれが魔族の礼の仕方らしい。


 俺も口元を手の甲で拭った後、彼女たちと同じ礼をする。安らかに眠ってくれカイゼル。願わくば、全ての真実と共に。


 それから一頻りしたところで礼を解いたミノンドロスが、再び俺に向き直った。


「それでは、閣下にはこれより我らがウルディア要塞へとお越しいただきたく。少々ご不便をおかけいたしますがお許しくださいませ」


「えっ」


 途端、兵の一人が当然のように、巨大トカゲの手綱を引いて俺の傍へと歩いてくる。いやまて、これはまさか――


駆竜くりゅうにはお乗りになられますか? もし差し支えなければ、わたくしがお供いたしますわ」


「あ、ああ……いや、実は少々都合が……」


「いつ勇者が戻って来るともわかりません。急ぎ戻りましょう。ささ、お早く」


「あの……私は……!」


 俺の意見をガン無視して、てきぱきと支度が進んでいく。瞬く間に駆竜くりゅうとかって名前の巨大トカゲに乗せられた俺は、そこからすぐさま人間界のあるウェグニード山脈側とは正反対の方向に走り出すことになった。


 ――どうやら俺は、これから人類の天敵とも言うべき異形の化け物、魔族によって、奴らが跳梁跋扈ちょうりょうばっこする要塞に連れ去られようとしているらしい。


 それも、人違いどころか種族違いだと言うのに、忠誠までもを誓われて。


 これは夢なのか? 白昼夢にしては趣味が悪いし、悪夢にしては現実味がありすぎる。覚めるなら早く覚めてくれ。


 しかし、女神ルヴィアの眼差しは魔界には届いていないのか、夢でも何でもない現実として俺を魔界の奥へと連れ去っていく。


 ……一体どうしてこうなったんだ。


 その問いに答えてくれる者は誰もいなかった。

20話まで毎日1話の連続投稿、21話から月水金の週3投稿を予定しています。

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