【028】英雄たちの帰還
豪雨が収まったのはその日の夜のことだった。
本来ならばこのまま明け方まで待って、明るくなり次第行軍を再開すべきところだが、敬虔な司祭様の「また嵐にならないとも限りません」というありがたいお言葉により、彼ら南方聖戦軍の前軍は夜間行軍を強行する羽目になった。
強行軍と言えども歩みは遅い。夜間で視界が効かないことや直前の土砂降りで足場が悪いこともさることながら、軍隊というものは人数の多さに比例して行軍速度が落ちていく傾向にあるからだ。
人数が増えればその分必要な物資も増えて、その物資を運ぶ輸送兵の歩みも遅くなる。
また彼らの歩む道にも道幅という物理的制約があるため、一度に通れる人数に限りがあることもただでさえ遅い行軍に拍車をかける。
出口を狭めれば流れる水の量が減るように。道が狭まれば速度は大きく削がれるのだ。
そのため大抵の場合では、その弊害を減らすためいくつかの軍に別れて目的地を目指すことになる。
聖戦軍二五万が北、東、南の三手に別れてそれぞれ魔界を目指しているように。或いは南方聖戦軍七万の軍勢がさらに三つに別れ、そのうちの前軍二万を今、こうしてルードが指揮しているように。
総戦力の十分の一。ここまで数を減らしてなお、未だ前軍は彼の思うようには動けていない。
かつて自身が率いた数百人規模の傭兵団とは比べるまでもないほどに鈍重な動きだ。これにはルードもなかなかに難儀していた。
幾度軍を率いてもこの遅さには慣れないものだと苦笑しながら、その重鈍さに耐えられないもう一人の小言を右から左へと聞き流して行軍は続いた。
次に動きがあったのはそれからしばらく後、明け方近くになってからだった。
「ご報告! 勇者様が戻られました! 偵察隊も一緒――」
「勇者様が!?」
声を上げたのはユリシースだった。先ほどまで進軍の遅さにぶちぶちぶちぶちと文句を垂れていたにも関わらず、そんなことは忘れたかのように駆け出した。
彼女は仮にも聖ルヴィア教会の重役。その身に何かあってはかなわんと、ルードは渋々その後を追うことにした。
華奢な体のどこにそんな力を隠していたのか、すぐに背中が見えなくなったユリシース。
彼女を探して複数列で進む聖戦軍の傍らを駆け抜けていくと、少ししたところで数人の兵が集まっている場所を見つけた。
その輪の中心には先ほど一人で駆け出したユリシースの姿と、報告通り偵察隊の面々。それに――
「戻ったか、勇者殿」
――その輪に近づきながら声をかけると、勇者一行の三人がたちまち背筋を伸ばして姿勢を正した。
まずは端正な顔立ちの、二〇代前半ほどに見える細身の青年がルードに返事する。
「ただいま戻りました、ボルグヴァーチカ団長」
宝石のような碧色の瞳に金の髪。そして細身ながらに引き締まった体。
王国から支給された魔抗銀の鎧で身を固め、腰には二振りの剣を刺している。
片方はただの安物だが、もう片方はかつて、女神ルヴィアが授けたとされる二四振りの聖剣のうちの一つだ。
この男こそ、人類の希望たる勇者その人だった。
「無事の帰還、何よりだ」
当たり障りなく返事すると、勇者は固い表情のまま一礼したが、その隣に並ぶユリシースは心底不満げに表情を険しくした。
この女は敬虔な女神ルヴィアの信徒であると同時に、重度の勇者支持者でもあった。
元々聖ルヴィア教会自体が、時折人の世に生まれ落ちる勇者という特異点を正しい道へと導くために生まれた組織であることを考えると、その司祭が勇者を支持すること自体にはなんら不思議はない。
しかしこの女の場合、それが少々行き過ぎているのだ。何なら狂信者と言っても良いほどに。
彼女がわざわざ危険極まりない前線へとやってきたのも本人たっての強い希望と聞いたが、その理由は察するに余りある。
そんな彼女からすれば、勇者に頭を下げさせている自身の存在が疎ましいに違いない。ユリシースの不機嫌な表情が、ルードにとっては酷く心地よかった。
「魔界から引き上げる道中で偵察隊の方々と合流しましたので、そのまま同行させていただきました」
勇者が視線を送ると、偵察隊の者たちも肯定するように敬礼した。
彼らにとっても、危険な魔物がはびこる道中を勇者と共にできたのは幸運だったことだろう。
「それで、魔界の様子は……いや、それよりあいつはどうした?」
数日前に軍を発ち、魔界の偵察から戻って来た勇者たちは、無事に戻ったというのに空気が重い。それに、見慣れた顔が一人足りない。
元は四人で旅立ったにも関わらず、今は三人しか居ないのだ。
嫌な予感がして勇者に問うと、彼は逡巡するように視線をさ迷わせたあと、重々しくその口を開いた。
「彼は……魔族に討たれました」
「そんな……!」
真っ先に悲痛な声を上げたのはユリシース。だが、彼女が内心でほくそ笑んでいるであろうことをルードはよく知っていた。
――あいつを一番嫌っていたのはお前だろうに。
しかし、そんな彼女への嫌悪感よりも先に口をついて出たのは、何より哀悼の言葉だった。
「そうか……惜しいやつを亡くした」
それは仲間の死に慣れた彼の、心からの言葉だった。
思えば初めから変わったやつだった。療術士だというのに聖ルヴィア教会の庇護下にない、どこからきたのかもよくわからない田舎育ちのモグリの療術士。
本来加護の持ち手であることがわかると物心着く頃には教会の庇護下に入り、その力の使い方を学んで王国お抱えの療術士へと育っていくものだが、あの男は全て親代わりの老人に教えてもらったのだといっていた。
なんでもその老人が教会をとことん嫌っていたのだとか。
そのことを知ったユリシースは「女神ルヴィアの教えが」だとかなんとかとひどく憤慨していたが、その様子に胸がすっとしたことを今でも良く覚えている。
それにその男はとても気の良い奴だった。
貴重な人材としてもてはやされてお高くとまり、温室でぬくぬくと育った教会の療術士どもと違って、その男は育ちのおかげか体力があり、そのうえなぜか戦略にも明るく、傭兵上がりのルードと話がよく合った。
まだ魔界についてもいないのにすっかり心身を摩耗しきってしまった教会の療術士たちとは、比べ物にならないほど頼りになった。ルード率いる前軍で、彼のことを知らない者は居ないと言っても良いほどだ。
実際、この場の偵察隊の者たちも何度も彼に世話になった。
そんな男が、死んだ。
「それほどの相手だったのか、魔族ってやつは」
沈痛な面持ちで勇者は頷く。
「その数もさることながら、私の手にも余る相手が居ました」
たったそれだけのやりとりでも、どれほどの相手だったのかがよく伝わった。
あれほどの腕を持つ療術士が、勇者と共に在ってやられるほどだ。まともな人間ならば相手にすらならなかったことだろう。
「彼のこれまでの働きに報いるためにも、今回の聖戦を成功させねばなりませんね」
心にもないことをいけしゃあしゃあとぬかすユリシースの態度に、普段は真顔で聞き流すルードの表情も険しくなる。
「こいつらですら手こずるような相手が居るんだ、進軍の中止もあり得るぞ」
意趣返しとばかりにそう言ってやると、ユリシースは一片の躊躇もなく「それはありえません」と断言した。
「今回の聖戦は必ず成果を上げなければなりません。そう、必ずです。どれほどの食料を消費しようと、どれほどの費用を費やそうと、どれほどの犠牲を払おうと、必ずです。そのこと、ボルグヴァーチカ団長も、よおくご存じのはずでは?」
ユリシースの表情が消えた。否、微笑んではいるが笑っていない。どこか狂気的とも思える笑みだけを張り付けて、彼女は淡々とそう告げた。
当然そのことはルードも心得ていたが、だとしてもそれはお偉い方がよく言う「これは負けられない戦いだ」くらいの意味合いだと思っていた。しかしユリシースの瞳に宿る狂気は、とても冗談とは思えない。
こんな馬鹿げた戦いを主導する者たちが、まともではないことは分かりきっていたが――
「……とにかく、状況は分かった。偵察隊の報告はこの後聞く。もうじき魔界だ、お前たちは一度休め。どの道お前たちにも働いてもらうことになるだろう」
話を手早くまとめて、ルードはこの場を去ることにした。今はあの薄気味悪い微笑みをいち早く視界から遠ざけたかったからだ。
「承知しました、ボルグヴァーチカ団長」
「私も一度戻ります。勇者様、また後で」
そうして彼らは、各々その場を後にするのだった。
◆
ルードやユリシースの姿が見えなくなって、勇者は小さく息を漏らした。彼らを見送って最初に口を開いたのは、仲間の一人、魔法使いの女だった。
「ねぇ、やっぱり今からでも……」
まつ毛の長い、紅色の瞳を不安げに伏せながら、勇者と同年代の彼女は葡萄酒色の長い髪を朝風に揺らして呟いた。
「よせ。もう終わった話だ」
そんな彼女に視線を向けることすらせず、剣士の男は兜を外しながら、汗に濡れた自身の茶色い短髪を拭う。
勇者らの一回り年上に見える剣士の表情は、険しいままだ。
「でも……今頃アイツ、魔界に一人で……」
「仕方なかった。あの時はお前もそう納得していただろう。それにあのままでは俺たちの命も危なかった。それは変わらない」
有無を言わせぬ剣士の物言いに、彼女は「それは……そう、だけど……」と迷いを残しながら呟く。
彼の言葉を引き継いだのは、勇者だった。
「今更、後悔なんて許されない。僕らはもう選んだんだ。そうだろう?」
そう言うと勇者は懐から何かを取り出した。それは、歪んで元の形を失いながらも辛うじて原型を残した金の指輪だった。
あしらわれていたらしい宝石は既に外されたのか、台座だけが残されて宝石そのものは跡形もなく、ただ歪んだ金の輪に成り下がったものがそこにはあった。
「……ええ、そうね」
女は呟き、剣士の男は無言で頷いた。二人を見て、勇者は再び口を開く。
「きっと彼も、それを望んでいるはずだ」
歪んだ金の指輪をその手にゆっくりと握りしめ、勇者は昏い瞳で空を見据える。その先は、勇者たちが戻って来た、そしてこれから再び向かうことになる魔界の空が広がる方角だった。




