【027】魔界への進軍
その日、ウェグニード山脈は激しい雷雨に見舞われていた。
分厚く空を覆う黒曇。天を駆ける稲妻。一瞬だけ雷光に照らされた山脈は不気味な影を映し出し、雷鳴は唸り声かの如く地を揺らす。
それらが合わさるとまるで巨大な魔物のように思えて、その影を目にした聖戦軍の者たちは山脈が一体いつ動き出したものかと、恐怖で体を震わせていた。
『我、天啓を得たり』
――今から約一年前。グネルヴィア王国第六二代国王、ディルヴィゴール・アギール・グネルヴィアの一言によって立案された今回の魔界侵攻は、どう言うわけか聖ルヴィア教会までもが協力したことによってとんとん拍子で決行に至った。
グネルヴィア王国は人間界の東端に位置し、魔族への備えと称して大陸各国から人も資材も吸い上げ続けてきた覇権国家だ。
その覇権国家が聖ルヴィア教会――勇者と療術士、それぞれの加護が顕現した者たちを抱えるルヴィア教の総本山と手を組めば、彼らの決定を覆せる国など存在するはずもない。
各国から集められた人員、総勢二五万人と、選りすぐった魔法士たち、そして一年の歳月と多額の軍事費をつぎ込むことで、ようやく馬車限界を越えた山脈越えの下準備が整ったのだ。
そして今からひと月前。それでもなお様々な課題が残る中、聖戦と称した侵攻が始まった。
これまでに支払った犠牲は既に数千人に及ぶ。そうまでして拓いた血路を、聖戦軍はついに進み出したのだった。
北方、東方、南方の三軍に別れて進軍を開始した聖戦軍のうち、まず始めに魔界への道を切り開いたのは南方聖戦軍だった。彼らの軍勢は一足先に山脈の東側へと到達し、遥か彼方に魔界を望んだ。
一歩踏み外せば奈落へと落下しかねない険しい山道と、いつ襲いくるかわからない魔物たちの恐怖に怯えながらも、ついに魔界まであとわずかというところに辿り着いたのだ。
彼ら南方聖戦軍のうち、前軍たる二万の兵を率いるのは、グネルヴィア王国第四騎士団団長ルード・トゥイール・ボルグヴァーチカという男だった。
元傭兵という異色の経歴を持つ彼は、現国王ディルヴィゴール・グネルヴィアの王位継承戦争において、自身の率いるヴァーチカ傭兵団と共に参陣したことで今の地位にまで上り詰めた叩き上げの軍人である。
元は傭兵ということもあり、他の騎士団長に比べると振る舞いも口調も荒々しい彼だが、それ故に今回は荒くれ者や非正規兵、徴兵された農兵たちを束ねあげる聖戦軍先鋒の総指揮を任せられ、今は山脈中腹に張られた天幕の中に居た。
「最悪の天気だな……」
未だ齢四〇にも満たず、騎士団長の中では比較的新参者であるルードは、ひと月近くまともに剃っていない頬のひげを撫で上げながら、かつて傭兵として身を置いた戦場の匂いを思い返していた。
――それに、今回はずいぶんときな臭い。
役人たちの打算や政治家の駆け引きが渦巻き、そのしわ寄せに前線の兵が摩耗する。今回の聖戦は、そう言った類の匂いがする。
これまでルードが味わってきた、嫌な戦いの匂いだ。
事実、昨今は天候不順による食料の不足や原因不明の魔物の凶暴化、それらに伴う運送経路の破断による一部町村での飢饉の発生など、人々の不安を煽るような出来事ばかりが相次いでいた。
まるで食うに困った者たちが、聖戦軍へと加わるよう仕向けられているかのように。
こういう戦いは得てして碌な結果にはならないものだ。根無し草の傭兵から一国の騎士になって一〇年余り。傭兵の頃の勘は未だ衰えていない。
「これで投げ出せたらどんなに楽かね」
ただしかつての身軽な立場からは一変し、あらゆるしがらみに捕らわれることとなってしまった彼には、かつてのような逃げるという選択肢は残されていなかった。
「ボルグヴァーチカ団長。お話よろしいですか」
その時、雨音激しく鳴り響く天幕の外から、戦場には似つかわしくないほどに穏やかな女の声が聞こえた。
途端にルードの表情は、表情筋が一斉に収縮したかのように苦々しく歪んだ。それから、声の主へ振り返る頃にはめいっぱいの笑顔を顔面に張り付けて、軽やかに口元を緩めた。
「これはこれはユリシース司教。お声がけいただければこちらからお伺いいたしましたものを」
振り返った先にいたのは、ルードの肩ほどまでの身長しかない小柄な少女だった。歳の頃はまだ二〇にも満たないように見える彼女は、この土砂降りの中を歩いてきたというのに長い黒髪にも白いドレスのような司祭服にも水はね一つ見られない。
どこか神秘的な雰囲気と不気味な印象を抱かせる彼女は「その胡散臭い挨拶をおやめなさい、ボルグヴァーチカ団長」と僅かに眉間にしわを寄せ、形のいい眉を歪めた。
セレアート・ユリシース。聖ルヴィア教会の司教を務める少女で、最近教会から派遣されてきた役人の一人だ。
何としても今回の聖戦を成功させたいらしい教会が、彼らお抱えの療術士たちと共に送り込んで来た教会側の取りまとめで、早い話がルードのお目付け役である。
「それで、進軍の再開はいつになりますか」
淡々と言葉を連ねるユリシースは、早速本題とばかりにそう切り出した。
「ご覧の通りの悪天候でしてね。無理に兵を進めればいたずらに損耗するだけです。ここは一度――」
「私が聞いたのは進軍の再開がいつになるか、ということですよボルグヴァーチカ団長。進軍が止まっている理由を聞いているのではありません」
「――女神ルヴィアの微笑みが我らに向けられ、この嵐がおさまってくれればすぐにでも」
引きつる表情筋を何とか抑えながら、ルードは少女にそう答えた。しかし。
「まるで女神ルヴィアが微笑まぬから進めないと、そう言っているように聞こえますが?」
ユリシースの淡々とした追撃が続く。
「そう聞こえたなら謝罪いたしますがね。実際問題、この雨じゃ――」
「ならば祈るなり、他に手を打つなりすればよろしいでしょう。あなたの務めは魔界へいち早く軍を進め、邪悪なる魔族とその長たる魔王を討つことです。このようなところで雨空を見上げることではありませんよ。それとも、星読みにでも転職なさりますか?」
――ンのクソアマ……!
ルードはこのセレアート・ユリシースという女がとにかく嫌いだった。
若くして高位の役職に就いているためか、やけに他者を見下すような喋り方をする女だ。現場からの叩き上げで今の地位に就いたルードとはとにかく馬が合わないでいた。
ただでさえ聖ルヴィア教会なんていう、あらゆる利権を手にした胡散臭い奴らの仲間というだけでも鼻に付くのに、この高飛車な態度がとにかく気に入らない。
現場を知らないくせに自分の要求ばかりをさも正論のような顔をしてぶつけてくる、そういう女だった。
しかし立場上、彼女に反抗することは生憎と許されない。グネルヴィア王国国王の戴冠式は聖ルヴィア教会の旗本で行われる。つまり、彼らは王位を盾にしているのだ。
もしここでひと悶着を起こせば、ルードの騎士生命は終わりを告げかねない。それに。
「そういえば、三人目のお子さんが生まれたとお伺いしました。人間界へ戻られましたら、教会へいらしてくださいね。いつでも祝福いたします」
どこから仕入れたのか、そんな個人情報まで当然のように握っている。
「……そいつは有難い限りですな」
これは暗に、いつでも子供や妻を人質にとれるということなのだろう。だからこそルードは、この戦いがいくら胡散臭かろうと職務を放棄することはできなかった。
「それでは失礼いたします。くれぐれもよろしくお願いいたしますよ、ボルグヴァーチカ団長」
最後ににこりと、それはそれは人好きのするような愛らしい笑顔を浮かべて、冷たい嵐のような女は天幕を去っていった。
土砂降りの中、傘もささずに歩いていくユリシースの背中に、思わず毒づく。
「……狡猾腹黒ほほえみ女め……」
「何か仰いましたか、ボルグヴァーチカ団長?」
「いいえ! 何も申しておりません!」
スタスタとそのまま立ち去るユリシースの背中を見送って、ルードはすぐさまユリシースの人物評に"とてつもない地獄耳"と、心の中で付け足したのだった。