【026】家族
「みな、閣下もお疲れのご様子ですわ。この辺りで解散なさい」
相も変わらず赤い鎧を身に着けたミノンドロスが、供を連れてガッシャガッシャとやってきた。兜を小脇に抱えている辺り、つい先ほどまで見回りに出ていたのだろう。
ミノンドロスの言葉にハッとした様子で魔族たちは次々立ち上がる。そして口々に礼を言いながら立ち去っていった。
その際、近くの者たちで俺の話を咀嚼するように和気あいあいと人間の話を続けていることが印象的だった。
まるで旅の途中に立ち寄った村で、俺たちの旅の一部始終を話してやった時の村人たちみたいだ。
「兵の鼓舞、お疲れ様ですわ閣下。兵の士気も高まっているようです。お見事ですわ」
「なに、ただの雑談だ。それより君こそ今まで哨戒か? ご苦労、君たちも宴を楽しむといい」
俺がそう言うと「ありがとうございます閣下」と一礼したミノンドロスは供の者たちに何やら言葉をかけて解散させた。
ミノンドロスの部下は生真面目な様子ながらも、どこか足取り軽く立ち去っていく。
結果、この場には俺とミノンドロスだけが残された。
「君も行って良いぞ?」
不思議に思ってそう声をかけると、ミノンドロスは「いいえ」と首を横に振る。
「わたくしの務めは閣下の補佐ですわ。どうぞお構いなく」
なんとも生真面目なことだ。実際は俺の見張りなのだろうが、今更何かするわけでも無さそうだ。好きにさせておこう。
「それなら一緒に食事でもどうだ? 少々腹がすいてしまってな」
食事に誘うと、彼女は「はい、喜んで」と一礼して「でしたらすぐ、お食事をお持ち致しますわ」と、喧騒の中に姿を消した。
一人取り残され、なんとなしに辺りを見渡す。ミノンドロスが人払いを行った影響か、周りには魔族たちがまばらに行き交う程度で、人影は殆どない。
喧噪や活気からは距離を置いた、静かな夜の断片がそこにあった。
「……ここからでも、見える空は同じ色か」
満天の星々が輝く夜空を見上げて、ふと呟く。かつて人間界から見上げた時と同じ、夜の色だ。
違うのは俺のいる場所だけだった。魔界で目覚めたあの日が、今ではずっと昔のようにさえ感じられる。
人間界から魔界へ渡ってから早数日。この数日間は、俺の人生の中でも最も長く、そして最も濃い時間だった。
始めは野蛮で残忍で非道な奴らだと思っていた魔族たちも、こうして関わってみると人間とそう変わらない。
そりゃあ人間に比べれば力に頼りすぎてるし、決闘なんてやりたがる野蛮さもあって、そのうえ目上の俺相手に敬語を使えないような奴ばかりだ。
……けど、そんな魔族を、昔ほど敵視することが出来なくなっているのもまた事実な訳で。
「……」
だからこそ、胸の奥が重たくなる。脳裏によぎるのは、聖戦軍との戦いで俺が実行しようとしている作戦のことだった。
――俺が思いついた人間界へ帰るための方法。それはかつて人間界で起こった戦い『ガラエゴの奇跡』を再現することだった。
ガラエゴの奇跡は当時覇権を握る超大国であったユザリス軍六万の侵攻を、小国のローデルネヴィア軍がたった六千の軍勢で迎え撃ち、ユザリス軍総大将を討ち取って逆転勝利した奇跡の一戦の名だ。
この戦いは超大国ユザリスをたった一戦で凋落させるに至り、覇権国家の座から引きずり下ろした。
戦いの内容は実に単純だ。敵を細いあぜ道に誘い込み、深く攻め込んできたところで隠しておいた兵を投入。細長くなった敵陣形の横っ腹を食い破り、正面と左右の三方から叩き潰すというもの。
これが成功すれば、例え勝利はできずとも聖戦軍に手痛い打撃を与えられる。ましてや魔族の攻撃だ、ガラエゴの奇跡よりもずっと被害は大きくなるだろう。
そして人間たちは気付くのだ。魔族と真正面から戦ってはいけないのだと。
たった二〇〇〇の魔族の兵を前に痛すぎる被害を受けて、人はようやく足を止める。そしてその時、魔王軍本隊の襲来を知れば、否が応でも撤退の文字が頭にちらつく。俺たちベルゲート方面軍との戦いで、大きな犠牲を払えば払うほどに。
そうして俺は戦いの混乱の中で聖戦軍に紛れ混み、撤退を決意した人間たちと共にウェグニード山脈を越えるという算段だ。
幸い、聖戦軍のほとんどは徴兵された民兵ばかり。その中に突然、俺のような素性不明の人間が紛れ込んだところで誰も気づきやしないだろう。
完璧とは言い難いが、それでも今とれる中ではこれが最善だと言えるだろう。ただし、課題も多いことには違いないが。
ガラエゴの奇跡を丸々真似しようとしても上手くはいかない。何せダヴォザ湿地は俺の膝下ほどの背の低い草と、深い泥が辺りを覆い尽くした沼地だ。
俺がミノンドロスらと出会ったあの日、隠れる場所を見つけられなかったように、魔族たちがその身を隠せるような場所はほとんど無い。これでは伏兵を隠しての奇襲など到底できるはずもない。
だからここに少しばかり手を加える。言ってみれば、魔族版ガラエゴの奇跡と言ったところか。
この作戦が成功すれば、聖戦軍は魔族の持つ脅威的な身体能力の一片を目撃することになるだろう。そしてその衝撃は、恐怖となって聖戦軍に襲いかかる。
先陣を崩され、兵の間に恐怖が蔓延し、たった二〇〇〇の魔族と戦っただけで軍の統率がガタガタになる。そういう戦いを聖戦軍に味わわせてやるのだ。
これ以上、魔族と戦うことが出来なくなるように。
「あと少し……あと少しなんだ……」
……あと少しで、俺は人間界に帰ることができる。
おそらくは最初で最後の、人間界に帰るための希望が手の届くところまでやってきている。
この希望を掴み損ねれば、次はいつになるかわからない。だからこそ、しくじるわけにはいかないのだ。
……例えその代償として、聖戦軍の兵士たちと――この要塞の魔族たちの命を犠牲にしたとしても。
ガラエゴの奇跡は、まるで少数のローデルネヴィアが華々しい勝利を飾ったかのように語られるが、実際のところはそうでもない。
ローデルネヴィア側も多数の指揮官と将を失い、全兵力のうち半数以上が死傷者に名を連ねたと言われるほど、甚大な被害を出している。
聖戦軍との戦いが終わる時、きっとこの要塞の魔族たちもローデルネヴィア軍のように多数の死傷者を出すことになるのだろう。
それどころか、カイゼルという総指揮官が戦いの途中で行方をくらますのだから、もっと酷い結末になる可能性すらあり得る。
前線に赴く魔族たちは、最悪全滅することになるのだ。
犠牲を最小に留めるため、戦いを回避する方法は幾つも思いついた。しかしそのどれもが、最後は聖戦軍と魔王軍本隊との戦いになり、聖戦軍の全滅という結末に至ってしまう。
魔族と戦わせずに聖戦軍を退かせる方法が、どうやっても見つからない。
撤退するにしても、せめて何か成果がなくてはならない。勝つにしろ負けるにしろ、魔族と戦ったという結果が。
でなければ、これまで犠牲と負担を強いられてきた者たちに示しがつかないのだ。
だからこそ、犠牲が必要だ。聖戦軍を撤退させるための、魔族側の犠牲が。
聖戦軍の二万人を、ひいてはその後ろに控える二〇万人以上の命を救うため、少数の人間と魔族を犠牲にし、聖戦軍と共に人間界に帰るか。
或いはこの要塞の魔族たちを救うため、二万人の命を見捨てて魔王軍本隊との戦いに臨ませ、俺も人間界への帰還を諦めるのか。
これはそういう選択だ。
だったら答えは決まっている。俺は人間で、人間界に帰りたい。迷う理由など何もない。
俺を信じて共に行く魔族たちは、俺が人間界に帰るためだけにこれから命を散らすのだ。そうとも知らず、この戦いの勝利を信じたままに。
――迷う理由など何もない……はずだ。
「……俺は、あいつらを……」
ぎゅっと拳に力が入る。握りしめた拳は、何故か小刻みに震えていた。
「バルクベールとマオーレがございましたわ。閣下はバルクベールはお好きですの?」
その時突然聞こえたミノンドロスの声に、思わず肩が跳ねる。
「あぁ……ミノンドロスか……」
「申し訳ありません、驚かすつもりはなかったのですが」
申し訳なさそうに肩をすくめる彼女に軽く首を振って見せて、その手に持った料理に視線を向ける。
「いや、気にするな。それより、何と言ったか」
「バルクベールとマオーレですわ。お好きですか?」
「いや……あまり食べたことは無いが……すごい量だな」
見ればミノンドロスの手にはすごい量の料理の山が二つ。一つは肉の塊に炒めた野菜をこれでもかと乗せた、山の幸の盛り合わせだ。ほのかに香ばしい香りがする。
そしてもう一つは何かの果実と思わしき鮮やかな実を、やはりこれでもかと山盛りにしたものだった。こちらからは甘い香りが漂ってくる。
とりあえず肉料理の方を受け取ると、ミノンドロスは「バルクベールは割と一般的な料理だとは思いますが……」と不思議そうに首を傾げた。
そういうひっかけ問題やめてくれよ……
「閣下のお食事だと申しましたら、あの者たちが」
ミノンドロスの視線の先には、文派と思わしき魔族たちが手を振っていた。ふっと口角が上がり、俺も軽く手を振り返す。
「ありがとう……うまいな、これは」
意外にも、これまで食ってきた魔界料理の中では一番美味かった。と言っても人間界の料理には相変わらず及ばない、食うには困らない程度の味だが。
「そうでしょう? この辺りではあまり珍しくないのですが……閣下の生まれは北の方ですわよね。そちらではあまり見かけませんの?」
「あぁ、生憎な。君の故郷ではよく食べるのか?」
「ええ。昔はよく、弟に作っておりましたわ」
「弟が居るのか?」
思わず聞き返すと、ミノンドロスは「はい」と頷いた。
「故郷に一人。魔王軍に志願したのも、弟の生活費を稼ぐためですのよ」
「それは……立派だな、君は」
「わたくしたちは早くに両親を亡くしましたから、あの子にとってはわたくしが親代わりですの。魔王軍は稼ぎも良くて助かっておりますわ」
意外だった。家族だとか弟だとか稼ぎだとか、まるで人間みたいなことを言っている。俺はまだ心のどこかで、魔族を得体のしれない化け物たちだと思っていたのかもしれない。
しかし考えてみれば何の不思議もない。人間と同じく、彼ら魔族も魔族なりの文化があり、歴史があるのだ。ただ、俺たちと違う道を歩んできたというだけで。
そう、彼らにだって……家族が居る。
「……死ぬなよミノンドロス。弟のためにも、絶対に」
気付けば俺は、そんなことを呟いていた。
何が死ぬな、だ。他でもない俺自身が、彼女を死地に送ろうとしているというのに。
そんなこととは露知らず、ミノンドロスは柔らかに笑う。
「はい。閣下もどうか、ご武運を」
「……ああ。そうだな」
押しつぶされそうな胸の痛みを掻き消すために、無理やりかきこんだバルクベールの味を、俺は生涯忘れないだろう。
その日が来なければ良いのにと、俺は銀仮面の下で厚かましくも、そう願わずにはいられなかった。