【024】この先生きのこるには
――こんな時、ジジイなら一体どうしただろうな。
難題にぶち当たるたび、俺の脳裏にはいつも小汚い恰好でニヒルに笑う老いぼれの姿が浮かび上がる。
幼い頃に両親を亡くしたらしい俺には、肉親と呼べる相手は誰もいなかった。
そんな俺を育て、あらゆる知識を授けてくれたのがジジイだった。
ジジイから学んだことは山ほどある。生きるための基礎知識に始まり、療術の使い方や敵との戦い方。果ては軍略や政治についてまで。
その全てを習得するには到底至らなかったが、それでも勇者に療術の腕を見込まれたことからも分かるように、ジジイは小汚い見た目からは想像できないほどあらゆる分野に精通した賢人だった。
もし、ジジイがここに居たなら、一体どんな手を思いついただろうか。
いつものように面倒くさそうに毒付きながら、それでも楽しそうに口元を歪めて、あーでもないこーでもないと策を練ったのか。
それとも『こんな状況に陥った時点でお前の負けだ、俺ならもっと上手くやるぞクソガキ』と、したり顔で笑っただろうか。
――どちらにせよ、俺にはもうその答えはわからない。結局ジジイが死ぬその時まで、俺はジジイを越えられなかった。
いつもの癖で胸元に指を伸ばし、そしていつもの感触がないことで思い出す。
「ああ、そういや形見の指輪、アイツらに盗られたんだったか……」
ジジイが死ぬ間際、投げてよこした形見の指輪。金色の輪に紫の水晶があしらわれた、ジジイには似つかわしくないほどに手の込んだ造りの指輪。
『くれてやる、ダチの形見だ。いざって時にお前を救ってくれるはずだ。無くすんじゃねえぞ』
今際の際まで憎たらしく毒づいていたおいぼれの顔が脳裏に蘇る。
「……肝心な時に手元にねえんじゃ、役に立たねえじゃねえかクソジジイ」
毒づいたところで、答えは返ってこなかった。
それから少しばかり思い出に浸った後、俺はミルドの様子を見るために彼らが集まる城壁の外へと足を向けた。
てっきり今頃、これからの戦いに緊張したミルド族たちが集まっている頃だろうと思っていたのだが……
『カイゼル閣下万歳!』
突然、そんな声が辺りに響き渡った。
「えぇ……?」
恐る恐る様子を伺うと、どうやらミルドの兵が訓練をしているらしく、城壁の外、丘の上には整列する兵士たちとセルジドールが立っていた。
セルジドールが叫ぶ。
「我々はこれより閣下から受けた恩義に報いるため、人間との戦いに赴く!」
『カイゼル閣下万歳!』
「この戦い、カイゼル閣下が我らミルドを導いてくださる! 必ずや勝てるぞ!」
『カイゼル閣下万歳!』
「人間の卑劣さ、人間の小賢しさはみなも知っての通りだ! しかし、人間如きではカイゼル閣下に及ぶはずもない! 我々はただ、閣下の眼前に群がる愚かな人間を討ち滅ぼすのみだ!」
『カイゼル閣下万歳!』
「人間は敵だ! 人間は滅ぼせ!」
『人間は敵だ! 人間は滅ぼせ!』
「人間は悪だ! 人間は滅ぼせ!」
『人間は悪だ! 人間は滅ぼせ!』
「人間は――」
「セルジドオオオオオオオオオオオオオル!!!!」
その狂気的とも言える光景に、気づけば大声を張り上げていた。
「っ! これは我らミルドの救済者にして魔界における最後の仁心、ウルディア要塞の名君たるカイゼル閣下! みなの者、カイゼル閣下に敬礼!」
『カイゼル閣下万歳!』
「セルジドール! 今すぐその挨拶を辞めさせろ! その長ったらしい呼び方もだ! 私はお前たちを信者にするために迎え入れたわけではないぞ!!」
色々とまずい空気を感じて慌てて止めたが、止められたセルジドールはいかにも不満げに「しかし……」と続ける。
「閣下の謙虚さには頭が下がる思いですが、閣下へのご恩を忘れず、またあらゆる者に閣下の偉大さを知らしめる手段は限られております。そしてもちろん、人間の醜悪さについても同じ。ですから――」
「だとしてもだ! 感謝するのは結構だが、限度というものがある! そしてお前たちのそれは限度を超えている! すぐに辞めさせろ!」
強い口調でそう言い放てば、セルジドールは心底、本当に心底残念そうに目じりを下げた。
「――閣下がお望みならば致し方ありません。みな、聞こえたな! 閣下への畏敬の念は胸中に留め、その偉業は口伝にて語り継ぐのだ!」
『承知いたしましたカイゼル閣下!』
「……」
俺はとんでもない奴らを味方に引き入れちまったのかもしれない……本当に大丈夫か、色々と。
「それで閣下、何か御用でしょうか」
余りの衝撃に肝を冷やしていたが、セルジドールに問われて本来の目的を思い出した。
「あ、あぁ……ミルドの戦力を確認しようと思ってな」
正直、もうそれどころじゃない気もするけど……
するとセルジドールは顔いっぱいに喜色を浮かべて「でしたら是非ともご覧ください。ささ、ささどうぞ!」と俺の腕をぐいぐい引っ張った。
案内されたのは近くの天幕。ご丁寧に椅子まで用意され、俺が腰かけてセルジドールが去った途端、入れ替わるようにミルド族の女たちが集まり出した。
「閣下、お水をどうぞ」
「あ、あぁ……ありがとう」
「暑くはございませんか閣下? 良ければお仰ぎいたしますが」
「いや、大丈夫だ、ありがとう……」
「閣下は四〇〇〇の敵をたったお一人で倒したって伺いました。四〇〇〇騎狩りのお話、ぜひお聞き――」
「チュクリ! ミェラ! メルシル! 閣下のお邪魔をしないの! 仕事に戻りなさい!」
やけに薄手の、体の線が浮き出た服を着た女たちが、後から現れた女に怒鳴られて逃げ散るように去っていった。現れた顔には見覚えがある。ニニトゥーラだ。
「申し訳ございません閣下……失礼はございませんでしたか」
ニニトゥーラは先ほどの女たちが去るのを見届けてから、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、気にするなニニトゥーラ。彼女たちも悪気があったわけではないのだろう」
「ええ……悪気と言うよりは閣下への興味といいますか――」
「全隊! 閣下が御覧になっておられる! 我らミルドの力をお見せせよ! 第一隊、攻撃開始!」
その時、芯の通ったセルジドールの声が響く。ニニトゥーラとの会話を打ち切ってそちらに視線を向けると、ミルド兵が一斉に魔法を放つところだった。
的と思わしき土の山目掛けて次々に放たれる炎の弾。着弾するなり爆音を上げて炎上し、地面をえぐる。その炎は俺を驚嘆させるに十分すぎる精度と威力だった。
「これが……ミルドの魔法か」
独り言のつもりだった俺にニニトゥーラが返事する。
「はい。とは言えやはり、まだまとまり切っておらず……閣下のご期待に添えるだけの威力ではないと思いますが、必ずや開戦までには仕上げて見せるとセルジドール様は仰っておいででした」
一瞬、彼女の言葉の意味がかみ砕けずに思考が停止する。
「……ん? ここから更に精度が上がるのか?」
「はい、もちろんです閣下」
……もちろんです、と来たか……
俺は勇者と共に人間界を旅して、様々な戦いに身を置いた。だからこそ知っている。人間が扱う魔法の一般的な水準と言うものを。
そして、だからこそ一目見て理解してしまった。ミルド族の扱う魔法の練度は、人間のそれを遥かに凌駕していることを。
魔法とは、使い手の体内を巡る魔力と大気中の魔素とを結合させて顕現させる、異能の力の総称だ。そしてその性質は、使い手の魔力の質と練度に依存する。
人間の扱う魔法と魔族の扱う魔法では、恐らくこの部分に大きな差は無い。
故に恐ろしい。
ミルドの民が使う魔法は、人間界では熟練の魔法使いと呼ばれるような者のそれと、同等の威力を有していたのだから。
魔法使いの軍隊なんてのはグネルヴィアのような人材に溢れた国だからこそ出来る、金のかかった精鋭部隊なのだ。決して、ミルドのような難民たちの寄り合い所帯が真似していい事じゃない……はずなんだが……
「……因みに君たちは、魔法障壁を使うことは?」
「守りの魔法ですか? それは我らの最も得意とするところです」
当然のように答えるニニトゥーラ。すると直後、セルジドールの次なる指示が耳に届いた。
「第二、第三隊、続けて一斉斉射! 第一隊は攻撃後、障壁展開!」
丁度、魔法障壁の展開を行うらしい。だがおかしい。魔法障壁というのは本来、拠点防御用の大規模な魔法だ。
専用の防御装置と巨大な魔石、そして複数人の熟練した魔導士が必要で、こんな野営地で使えるような魔法では――
「魔法障壁……」
「はい。規模は小さいですが……如何でしょうか閣下」
――屈託なく笑うニニトゥーラの声音が、今はただ恐ろしかった。
空を覆う透明な膜は、紛れもない魔法障壁だ。
空を覆い、矢や魔法の雨からその下にいる者たち全てを守り抜く、戦場では欠かせない存在の柔らかなる障壁。
展開のために必要な装置を揃えるだけでも相応の額が必要で、それを扱う魔導士たちは誰もが人間界屈指の実力者だと謳われる、あの魔法障壁だった。
俺は今、人間ではどうやっても到達しえない野営地での障壁展開を、奴ら魔族が平然と成し遂げた瞬間を目撃してしまった。
「ああ……見事だ、ニニトゥーラ……」
「お世辞でも彼らは喜ぶと思います、ありがとうございます閣下」
これが世辞の言葉だと思っているのか。これが人間と魔族の格差だとでも言うのか。
人間がその一生を費やしてなお到達しえない領域に、魔族は当然のように立っている。その事実がただ恐ろしい。
強靭な体と破壊力を持つベルゼ隊。沼地すら駆け抜ける踏破力と衝撃力を有するミノンドロス隊。そして、人間では到達しえないほどの魔法を操るセルジドール隊。
確かに俺たちベルゲート方面軍は数が少なく、聖戦軍に勝つのは難しい。だが、もしも彼らがもっと数を増やしたら。それこそ本物の魔王軍ならば――
――俺の腹の奥底で、薄ら寒い考えが過ぎったような気がした。