【013】加護の力
「閣下……?」
訝しむミノンドロス。しかし何とか間に合った。
「だ、誰も入れないよう言ったはずだが!?」
半分本気で怒りながら彼女を睨み付けると、なんと彼女は大きな布で体の正面を隠しただけの、あられもない姿でそこに突っ立っていた。
相変わらず夕陽のように鮮やかな色をした赤毛とそばかすの目立つ頬。そのすぐ下には豊かな胸元が覗き、布一枚で隔たれた先に四肢が露出する。
ほぼ裸も同然の姿だと言うのに、いやらしさよりも先に健康的な印象を抱かせるのは、彼女の引き締まったその四肢が理由だろうか。
あんな重々しい重鎧で軽快に移動できるだけあって、彼女の体には筋肉が浮き上がっている。男の俺から見ても思わず感嘆してしまうほどに。
「てっきりわたくしに閣下のお相手をするように、という意味かと。そういうことがお好きだと伺っていたものですから」
俺の視線に怯むことなく、ミノンドロスはすたすたと浴場を進む。
「伺った!? 誰に!?」
「噂ですわ」
「噂ぁ!?」
また噂かよ! 絶対ろくな噂じゃないだろ! 一体どんな奴だったんだよ本物のカイゼルは!
「とにかく一人に……!」
してくれ、と続けようとして、彼女の姿を改めて見る。勘違いとは言え服まで脱いで風呂場に来た相手に、体も洗わずに出て行けと言うのはいかがなものかと、人としての良心が首をもたげた。
そして少々悩んだ末に、俺は諦めて「……好きにするといい」とだけ言いつけて、彼女から視線を逸らして背中を向けることにした。
もちろん「他意はないぞ」と言う念押しも忘れずに。
「そうさせていただきますわね」
いけしゃあしゃあと言ってのけたミノンドロスは俺に構うことなく体を洗い始めたようで、背中の向こうからしゃこしゃこと身体をこする音がし始めた。
いやいやいや、おかしいだろ……お前は女で俺は男だぞ……!? 何で当然の顔して……! 魔族ってそういうもんなのか!?
「閣下は噂より、ずっと紳士的な方ですのね」
若干の含み笑いを交えながら、ミノンドロスが穏やかに言った。何だか馬鹿にされているようで腑に落ちない気分だ。
「噂の私とやらは、一体どんな蛮族なのだ」
当てつけのつもりでそう返すと、ミノンドロスは「そうですわね……例えば」と続ける。
「気に入った女がいれば、例えそれが既婚者であってもさらってきて、夜の相手をさせるとか」
……えっ。
「閣下の機嫌を損ねた従者は磔にされ、幾日もの間晒され続けるとか」
えっ。
「それに反感を抱いた者たちをお一人でまとめて相手取った上で、ことごとく討ち取ってその首を城門に全て並べただとか」
えっ。
「まぁとにかく、様々なお噂がございますわね」
予想以上に酷い噂の数々に、俺の口元はいつのまにか引き攣り始めていた。
何やってんだカイゼル……! お前、本当にふざけるなよ……!
もし自分と入れ替わったやつが居たら困るかもしれないなとか、そういう配慮はないのかよ……!
「……その噂の殆どは」
「承知しております。腹心が流した噂なのでしょう?」
「……そうだ。くれぐれも勘違いしないように」
俺が念を押すと、ミノンドロスは「はい、閣下」と相変わらず愉快そうに、穏やかな声音で答えたのだった。
やがて体を洗い流し、髪を洗った彼女は湯船に入ってきたようで、背中の方からちゃぷちゃぷと湯の揺れる音がした。
こいつはまた、当然のように……!
「いいお湯ですわね。この砦には腕の良い術士が居るようですわ」
「う、うむ……そうだな……」
女に慣れていない訳ではないが、それでもここまで明け透けに来られるとたじたじになってしまう。何でこいつ、こんなに当然の顔して来れるんだ……
それから少しばかり、お互いに沈黙した時間が流れる。背中の方、少しだけ離れたところにミノンドロスの気配を感じながら、俺は何とも気まずい時間を過ごす羽目になった。
彼女が体を動かす度、お湯の揺れる音だけが浴室に響き渡る。
「あら閣下、首に傷が」
ミノンドロスが不意に声を上げたのは、そんな気まずい沈黙に支配されて更に少し経ってからのことだった。
「傷?」
言われて指で首筋をなぞると、確かに首の周りをぐるりと一周するように何やら大きな傷跡があった。
いつ付いたのか記憶にないが、心当たりは一つしかない。恐らくカイゼルに襲われた際のものなのだろう。
既に傷自体は癒えて傷跡だけになっているようだったが、それにしても傷跡が残るなんて珍しいこともあるものだ。言われてみれば確かに、首筋に鈍い痛みも残っている気がする。
随分と杜撰な治療だ。俺ならこんなヘタクソな癒し方はしない。一体誰の仕業なんだか。
「まぁ、このくらいの傷ならすぐに――」
いつもの調子でそこまで口にして、思わずハッとする。そうだ、ここは人間界じゃない……!
「……すぐに?」
「――すぐに、治せるんだろうな。人間ならば……我々魔族はそうもいかないが……」
少々苦しい軌道修正。あまりに迂闊すぎる発言に自分で自分が嫌になる。ミノンドロスに気取られたら終わりだ。緊張が全身を支配する。
恐る恐る、ゆっくりと。後ろに振り向きながらミノンドロスの様子を伺うと。
「確かに、人間は癒しの術を使えると申しますものね。そういえば、閣下は勇者と戦われたのでしたか。奴らも癒しの術を使っておりまして?」
幸いにも、ミノンドロスは気付いていないようだった。どうやら冗談だと思ってくれたらしい。そして彼女のその発言こそが、俺の懸念が的中したことを示していた。
「あ、ああ……勇者の仲間が使っていたな……」
「やはり本当でしたのね、人間が女神の加護を受けているという話は」
ミノンドロスはそう言って、神妙な面持ちで眉を寄せた。
――それは遥か昔。まだ人間が神と共に在り、世界に光が満ちていた時代。
突如として闇から現れた魔族の王は、雲霞のごとき魔族の大軍を率いて人間界に攻め寄せたと言われている。
魔族の持つ力は凄まじく、人間たちは瞬く間に攻め滅ぼされていった。人類史において最も荒廃した時代、世に言う暗黒期の到来だ。
やがて人間が絶滅の危機に瀕したとき、女神ルヴィアは魔族と戦うための力を人々に分け与えた。それが『勇たる者の加護』と『癒たる者の加護』だと伝わる。
『勇たる者の加護』を得た者は、人間を遥かに凌駕する身体能力を宿す。それは人間を凌駕する力を持つ魔族とすら互角以上に戦える力だ。
その加護を受けた者たちを、人は勇者と呼んだ。
そしてもう一つの力、『癒たる者の加護』を得た者は、あらゆる病を取り除き、傷を癒す療術を使えるようになった。後に療術士と呼ばれる者たちに与えられた、癒しの力だ。
かく言う俺もその療術士の一人。とはいえ聖ルヴィア教会の正式な認可を受けていないモグリの療術士だが、勇者にその腕を買われて共に旅立つことになった。
魔法学が進歩し、魔法とは何か、魔力とは何かがつまびらかになり、神秘の産物ではなくなりつつある現代においても、今だ謎多き存在がこの加護の力だった。
わかっているのはこれらの力が魔法とは全く異なる何かだということと、生まれた時点でその力の有無が決まるという点だけ。
だからこそ教会はこれらの力を女神の神秘だと定義づけている。
その神秘が人間に与えられた経緯を考えれば、俺たちが当たり前に使っているこの力を魔族が有していないのは当然と言えた。そしてそれは同時に。
――俺、療術すら使えねえの……!?
俺の数少ない特技の一つが、魔界にいる限り半永久的に封印されることになることも意味していた。