【010】取引の先に
その日の夜。カイゼルの指示のもと、要塞の兵たち総出の炊き出しが行われた。
飢えに侵され、瞳は昏く陰り、死と絶望に満ちていたミルドの難民たちは、炊き出しによって与えられた豊富な食料の数々にありついたのだ。
「すごい……腐っていない、食べかけでもない食事だ……!」
「少しずつ、少しずつだ……! 急いで食べるな、まだいくらでもあるんだからな……!」
彼らの頬を伝うのは、とっくに枯れたはずの涙だった。諦めたはずの生が、熱となって頬を伝う。彼らはこの日、初めて世界に生きることを許された気がした。
そしていつぶりかわからないほどに腹を満たした同胞たちが、希望に満ちた穏やかな眠りについた頃。セルジドールは一人、険しい表情を浮かべていた。
「セルジドール様」
彼の元を訪れたのは、セルジドールと共に解放された例の少女、ニニトゥーラ。
「……支度はできたか」
体を洗い、髪を結い、服を替えて、元々美しかった容姿をより一層美しく引き立てるように着飾った彼女は、その見た目とは裏腹にセルジドール同様暗い表情をしていた。
「……はい。他の者たちも、支度が出来ました」
「わかった……私が見送ろう」
両者の間に言葉数は少ない。本来ならば腹も膨れて希望に満ちているはずだというのに、彼女たちの姿に活力はない。
二人は言葉も無く、灯りで照らされた夜道を行く。
辺りにはいくつもの天幕が張られ、その下では腹を満たした同胞たちが暖かな光に照らされる。真実を知らない彼らは、穏やかに寝息を立てていた。
この天幕や灯りもまた、カイゼルが支給してくれた物だった。
セルジドールは、丘の上に見える要塞へ視線を向ける。
ウルディア要塞の主たるカイゼルは、ミルドの民を要塞内に迎え入れることが出来ないことを詫びて、せめてもと天幕を貸し出してくれた。
それがどれだけの厚遇かなど、今更口にする必要もない。そしてその対価に、彼が一体何を求めているのかも。
「……すまない」
思わず言葉が漏れた。
「……謝らないでください。これで同胞たちが救われるなら構いません。覚悟はできています」
ニニトゥーラはただ静かに、呟くように言った。まるでそれは、自分を納得させるかのようにも見えた。
「いや! 嫌よ! どうして私たちが!」
その時、少し離れた天幕の中から、金切り声にも似た女の叫びがセルジドールの耳に届いた。
思わずニニトゥーラと視線を交わすと、彼女は目を伏せるように頷いた。
見張りの者たちの了承を得て、声のした天幕の中に入る。すると案の定、ニニトゥーラと同じく薄手の服一枚で肌を隠しただけの女たちが、肩を寄せ合うようにして集まっていた。
「セルジドール様……!」
セルジドールの姿を見ると、彼女たちは今にも泣きそうな顔をして彼の名を呼んだ。まるでセルジドールに縋るように。
「どうして……! どうして私たちが……!」
その中から、先ほどの金切り声の主と思わしき女がセルジドールへと迫る。彼女たちは知っている。これから一体、自分たちが何をさせられることになるのかなど。
「……すまない」
だからこそセルジドールは、ただ謝ることしか出来なかった。
「そんなの……そんなのって……!」
「落ち着いてミェラ……大丈夫、きっと大丈夫だから」
「何が大丈夫なのよ!!」
彼女をなだめようとしたニニトゥーラの手を振り解き、ミェラは泣きながら声を上げる。
「私たちは食事のために売られるのよ!? それもあの、"銀閃"のカイゼルに……! そんなの、そんなのってあんまりよ……!」
ずっと泣いていたのか、彼女は赤く腫れた目をしていた。いや、ミェラだけではない。この場にいる女たちがみんなそうだった。
そんな中、ただニニトゥーラだけが背筋を真っ直ぐにして胸を張っていた。
「男たちは私たちを生かすために自ら命を投げ打ちました。それなら私たちは、同胞のためにこの身を投げ打ちましょう。それが同胞のために死ぬことができる、私たちミルドの誇りでしょう?」
ニニトゥーラだって怖いに決まっている。握り込んだ拳は震え、今にも涙をこぼしそうになっている。だが、それでも彼女は弱音を吐かなかった。それが彼女の最後の意地だとでも言うように。
「……すまない皆……恨むなら私を恨め。無力な私のせいで、君たちを差し出さなければ同胞すら守れないのだ。すまない……すまない……!」
ミェラだってわかっている。本当は誰も、彼女たちのことを諦めたくないのだと。
それでも今は、そうすることでしか皆を救うことが出来ないのだと。
だからこそ悔しいのだ。彼女たちだって、同胞を見殺しにしたいわけではない。だからこそ、このやり場のない理不尽さが胸をぎゅっと締め付けるのだ。
「うっ……ううっ……」
「お母さんに会いたい……」
「お父さん……お兄ちゃん……」
やがて彼女たちの悲しみは伝播し、この場に集められた若い女たちは次々に涙を流し始めた。
彼女たちにはもう、こうして自由に泣くことすら許されなくなる。これが最後の時だと思うと、彼女たちの涙を止めることすら憚られた。
「セルジドール様……」
そこへ、天幕の外から男の声がした。補佐のザプマだ。そして彼がセルジドールを呼ぶと言うことは……
「……来られたか」
「はい……カイゼル様です」
隣で涙を堪えていたニニトゥーラの体が強張るのが見て取れた。気丈に振る舞っていても、彼女だって怖いに決まっている。
「すぐに行く」
「はい……」
セルジドールが返事してすぐ、ニニトゥーラが口を開いた。
「セルジドール様……私もお連れください。もしカイゼル様が私を気にいって下さったら……せめて、他の子たちは自由にしてもらえるよう、願い出てみます」
この少女はどこまで同胞のために尽くすと言うのか。だというのにセルジドールは、彼女に報いるための手段を持っていない。
ただただ己が腹立たしい。
「わかった……私もカイゼル様に、手荒な真似はしないよう頼み込んでみよう……ニニトゥーラ、同胞を代表して礼を言う。ありがとう」
悲痛な覚悟と共に、セルジドールとニニトゥーラはザプマを伴って、カイゼルの元へと向かった。
◆
カイゼルは意外にも、赤い鎧の魔族だけを連れて野営地の外れに佇んでいた。
「カイゼル様……!」
すぐさまザプマ、ニニトゥーラと共にセルジドールはカイゼルの前で跪く。それを見てカイゼルは「セルジドール殿、面倒な挨拶は抜きにしよう」と、一見すると気さくにも思える返答を寄越す。
「みなの食事は済んだか?」
「はっ……! カイゼル様のお計らいにより、我が同胞みなが飢えから放たれてございます。何と感謝すればよろしいか……」
「そうか、それならいい……夜は冷える。火の備えも怠らないようにな」
「格別のご配慮、痛み入ります」
「ああ……それで、なのだがなセルジドール殿」
空気が変わったのをセルジドールはすぐに理解した。恐らくここからがカイゼルの訪問してきた本題で……食事や天幕との取引の話になるのだろう。
「食料との引き換えに、というわけでもないのだが……」
その瞬間、ほんの一瞬だけ。カイゼルの視線がニニトゥーラに向けられたような気がした。
――ああ、やはりそうか。
苦々しく思いながらも、それに抗する手立てはない。セルジドールは断腸の思いでこう告げるより他にない。
「……もし、我々ミルドに出来ることがございましたら、何なりとお申し付けくださいませ。カイゼル様は我らの命を救って下さった救済者。あなた様のお力となれることこそ、我らの喜びにて」
「そ、そうか……いや、それほど大ごとではないのだが……」
大ごとではない訳が無い。それとも、カイゼルにとっては女を十数名連れて行くことなど他愛無いと、そう言うことか。
ふつふつとセルジドールの腹に怒りがたぎり始める中、カイゼルはついにその要望を口にしたのだった。




