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幸せな世界  作者: DanielTKG
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人々

  気付くとリオンが足の上で心配そうな目を向けている.うなされていたのだろうか.

「ありがとう.大丈夫だよ.心配ない...」

心配するリオンを片脇に置いて,先ほどの男の顔を考えた.鼻筋が通って,耳は長く,口はもやのようなものがかかって見えない.髪の奥で光る目を見開き,こちらを見つめていた.しかし,夢の中で見た顔は次第に不鮮明になる.記憶の中に押し留めようとする意志に反し,想像した像はどろどろと解けるように消えていき,残ったのは無だけだった.あの男は何なのか.考えても,思い当たる事は無い.しかしあれは殺さねばならない男だ.ただ形も出所も分からない殺意が頭と心に渦巻いている.殺意は沸き上がり,膨れ上がり,思考を埋め尽くしていく.考えを排除するために壁を見つめた.今まで気にしていなかった壁の木目は,壁一面に曖昧なアートを描く,人にとって永遠に近い時間存在する芸術は人の命の儚さを対比するためにあるのだろうか.儚さに反比例して芸術は脆い.だが脆くない芸術など最早芸術ではようにさえ思える.儚く終わらない人間は人間なのだろうか.むしろ神と呼ぶような存在に近い.人はいずれ死ぬ,死ぬからこそ美しいし,ゴールや目標が欲しい.そこへ行くために感情があり,様々な知恵や手段を模索する.神にはなりえない.神は手間すらかけず,何事もなせる.

 そんな哲学に頭を使っていると,不思議な事に孤独感はいくらか薄れていた.自分が生きる目的を見つけたためか,殺意の湧く相手とは言え,自分と繋がりを持つ者がいる事に絆のようなものを感じているのか,更に奥の意味があるのか.

「分からないから考える,それも人らしいな.」

 徐に立ち上がり,考える事を止めた.今できる事は目的地に向かう事だろう.あいつが誰なのかは目的地についてから考えればいい.そう.それでいい.

 薄く重い木戸をゆっくりと押すと,木を擦る音と手に伝わる振動と共に,朝の風が戸の隙間から吹き込み,何もない部屋の中で行き場を失い消えていった.風に驚いたリオンが扉の脇に身を寄せ,私も涼しさに少し身を震わせたが,晴れ渡った逢魔が時の空は直に暖かな太陽を上らせるだろう.朝食の果物を採るため森に入ると,リオンが後ろからひょこひょことついてきた.夜明けの森は薄暗い空から更に明度を落とし,クレヨンで描いた落書きのような彩度で眼前に広がっているが,そこいらにある果物は見分ける事が出来る.果物を吟味しながら歩いていると,毒々しい真っ赤な丸い果物を見つけた.近くで見ても知っている果物ではない.

「毒でも含んでないだろうな...」

 口で心配しつつも,内心その実を食べてみたい衝動に駆られていた.森で一晩過ごして,警戒心が薄れたのだろうか.その実を手に取りたいという声が,どうしようもなく内から湧いてくる.気持ちに駆られながら,しかし恐る恐る指先でチョンと触れてみたが,痛みや痺れはない.

「とりあえず表面は大丈夫か.」

食べ物をねだって,脚に絡みついてきたリオンに,近くにあった林檎を与え再びどす真っ赤な実の木に戻ると,先ほどより白い光を放っている.森の外は夜明けだろうか.どす黒い実は光を受け,その黒さがより際立ち,禍々しさを放つ一方で私の心をより強く掴んで異様に思われた.食べたい気持ちに喘ぎ,齧り付いたが,その瞬間はまるで何かに自分の意思を支配されていたかのようだ.空腹?確かにお腹は空いていたが,怪しい実を毒の確認もせずに口に含んだ自分に今も驚いている.しかし,食べる手と口は止まらない.

 実の中にはさらに実のような粒粒がいくつも入っており,無限を感じさせるような見た目だが,さして気にするでもなく,ただ背徳感から来る幸福感のようなものに包まれていた.一つで満腹になったのは幸いだ.このまま死ぬまで果物を食べ続けるなんて考えるだけで恐ろしい.ダーウィン賞の申請はリオンに頼むしかない.再び傍に来たリオンを見やりながら,笑いが少しこぼれた.林檎を二つ取り,鮮やかな紋様を鑑賞しながら木をくり抜いた小屋に戻った.おにぎりの入っていた竹包に林檎を入れ,軋む包に注意しつつ,帯を巻き,一度深呼吸して目を瞑る.よし! と声に出し,木々の中に消えていく声を見届け,町への道を再び進み始めた.辺りはようやく明暮の日に包まれ始めていた.

 昨日と同じ森の中の道を歩く私は昨日より気分が良い様だ.この状況と不思議な旅に対する不安が薄らいできたのだろうか.木々と葉が奏でる二重奏を何ともなく聞きながら,ひょこひょこと歩くリオンの後ろ足を眺め,次に木に目を移した.よく見ると樹洞には引っ掻いた跡がある.獣?リスでもいるのか?猛獣はいないと聞いているが,小さな獣はいると考えていいのだろうか.猛獣も人気もない場所であれば,警戒心もそれほど高くはなさそうだが,森に入る前も入ってからも獣の姿は見ていない.辺りを見渡しながら歩くが,見つかりそうにはなかった.

 太陽が天頂に達した頃,リオンが足を止めてこちらを振り返った.あの男が言っていた道と考えていいのだろうか...眼前では木のトンネルが口から闇を吐き私たちを飲み込もうと構えている.猛獣はいない.危険はないと考えていいはずだ.そんな言葉を反芻しながらも,この不思議な世界で魔物にからめとられるのではなかろうか,と佇むトンネルの前で逡巡してしまった.行くのであれば昼間のうちには行きたい.トンネルの中に石を投げてもただ地面に落ちると音が響くだけ.リオンは足元から何でもないような視線を向けてくる.

「そうだな.お前が大丈夫なら大丈夫だ.情けないな私は.」

 急に怯えていたことが馬鹿馬鹿しく感じてきた.傍の木から林檎を取って食べ,トンネルに踏み出した.トンネルの中は変わらず闇だが,足元は均されたように平らかで歩きやすい.10歩ごとに足を止めて耳を澄ますが,私とリオンの息遣い以外に何も聞こえない.私の腕に抱かれたリオンは大人しいが,闇の中でも暴れる事は無いし,嫌がっている風でも無い.私より勇気があるのか,いやまだお前には中が見える程度の明るさか?どちらにしても彼が私を安心させているのは間違いないだろう.考えているうちに穏やかな安らぎと温もりに沈みそうになる.歩いているうちに少し勾配が出てくるのを感じたが,闇は一層濃くなったようにさえ感じる.

 歩く途中で屋敷の事を思い出した.不思議な屋敷だが,光のろくに通らない状況でも不気味さはあまりない場所.あの男に何か聞いておくべきだっただろうか.一度気になりだすと考えが止まらなくなる.あの屋敷は人が作ったものか?何故あんな辺鄙な場所にある屋敷に手入れがなされているのか.あの男のものであれば寝ている私を世話したのはあの男か?

 一体何時間歩いたのだろう.歩き続ける事に退屈さを感じてきたが,尚も闇は続く.退屈だと思えるのは私が落ち着いてきたという事か.10歩進んでは止まる事を繰り返してきたが,やはりこのトンネルには何もいないようだ.腕に抱いているリオンの温度が伝わってくる.温かく呼吸と共に動く白い体をイメージしながら,恐怖が安らぐ事の心地よさを感じると共に,少し香りが変わったのを感じた.どこからか風が吹いているようだ.どこかで感じた事のある木々の匂いは心を落ち着けてくれる.人を惑わす魔物の罠だろうか,なんて考えたが次第に道の先に仄明かりを感じてきた事に安心した.後ろを振り返って確かめるが,やはり明かりは気のせいではない.退屈さが終わる事に安堵しつつ歩き続けるうちに,リオンの体が,目が,自分の手が,最後には足元まで見えるようになった.トンネルは光の中へ通じている.木々の香りを放つ光はとても心地よい.闇の中では感じなかったが,トンネルは入口よりずいぶん狭くなった.口から入ったのであれば,これはトンネルのお尻か.いや向こうから入ればこちらが口だ.終わりは始まり,始まりは終わり,トンネルとは不思議なモノだ.こうして歩ていけるのだから世界は繋がっているが,そこに見えるモノは変わっていく.メビウスの輪で繋がった世界ようなは,少しずつ違った側面を見せてくれる.世界とは不思議なモノだ.

 光の中に踏み出すと,誰かが真空管のコックを開けたかのように,風が吹き込む.それまでの静けさが消え,遠くには虫や鳥の声が聞こえる.そこは木の上だった.

 振り返ると大木に空いた穴から出てきたようだ.樅の木なんてどこかの少女のようだな.長いトンネルは考えた以上に心を削っていたようだ.久しぶりに見た空は涙を誘う.やたらと鮮やかに見える空,複雑な切り絵のように幾重にも複雑に重なった白いグラデーションと背景の青絵の具はどこを切り取っても芸術品としての価値がありそうだ.こんなモノが世界中を覆っている事に感心する.誰も気にも留めない当たり前の景色を眺めていると,何もかも忘れて誰も気にも留めない場所にいたくなる.

「いやまだ何も終わっていない.ここから始まるんだな.大丈夫何も心配はいらない.行ける場所に行き,できる事をする.ここからだ.」

モゾモゾと動くリオンを下におろした.彼も,見えているのか見えていないのか分からないが,景色に体を向けジッと座っている.

「こんな時,一緒に話して共感できたらいいのにな.」

かがんでリオンの背を撫でると,彼はこちらに向き直り,手のひらに頭を預け,こすり付ける.私も撫で返す.リオンのやわらかい毛並みと体温が手に伝わり,いつまでもそうしていたい気持ちに沈んでいきそうになる.

「やっぱり言葉を交わしたいよ.」

手のひらから顔を出したリオンは少し寂しそうな顔をしたように見えたが,それも気のせいなんだろうか.そうだな,ただの願望だ.

立ち上がりもう一度空を見上げると,先ほど見えた雲はどこにも無い.彼らはどこまでも飛んでいく.いくらでも形を変える.私も行かなければならない.

 トンネルからの道の先には緩やかな下り坂が木の円周に沿って続いている.下を見下ろすと300mはありそうだが,坂から放り出されるような風向きでは無い.不思議だ.穴から出てきた時のような雄風(ゆうふう)は無く,ただ青風(あおかぜ)が心地よいだけだ.地上に立ち並んだビル群と行きかう車の群れを見下ろしながら一歩ずつ下り歩く.新しい場所へ向かう時はいつもこうしていた気がする.足を繰る度に覚悟を固め,足取りが変わっていくのを感じる.木をくり抜いた下り坂は異様な滑らかさだが,この木は成長しているものではないのだろうか.ここで躓いたら,間違いなく100m以上のパラシュート無しスカイダイビングが始まる.考えるだけで笑える.好んで山登りするやつの気は知れない.高いところは嫌いだ.じっとりと腕を伝った汗は軽く曲がった指の関節に溜まり,少しすると足元へぽつりと落ちる.急ぎ脚で降りたい衝動を抑え,くり抜かれた木道に一歩ずつ足跡と足音を刻んでいく.この木はいつからあるんだろうか,何のためにこんな道があるのだろう,ここを行き来する誰かのためだとしてそれは誰だ,そんな考えが幾点も垂らした絵の具のように頭の中に媚びれついているが,この道を歩く上で意味のある思考ではないらしい.思考はまとまらない.リオンが足元にいて危うく踏みつけそうになった.見つめ合ったリオンは表情の読めない顔を数秒こちらにくれた後,また歩き出した.

「心配してくれるのかな.」

果たしてウサギにそんな感情があるか分からないが,自分の思いつめた眉間と死んだような目には気付けた.人里で作るには褒められた表情ではない.

 無意味な思考を振り払うように頭を振り,段々と低くなっていく景色を見ながら歩く事にした.慣れのせいか怖さは少し薄れ,景色は一段と綺麗に見えるが,トンネルの出口より空が少し高くなったの事が惜しい.周囲の木の頭が鮮明になってきたために思うのだろう.ぼやけたシミが,鮮やかな緑になるのは心地よい.今まで感じた事の無い景色に胸が高鳴るのを感じる.遠くから来た感動もあるのだろうが,木々との垂直距離を上から縮めていくという経験を得る事に常人には得られないだろう優越感があった.

 足元に人が行き交うのを視認すると,再び高さが怖くなってきた.足元に目線を落としリオンを見やると,何も心配ないとばかりに黙々と歩いている.今までのリオンに対する認識が自然にそう感じさせるが,やはりそのウサギの考えは分からない.しかし,その自信の見える足取りは私にそんな事を考えさせる.一度近づいてしまえば距離は案外近く,徐々に人が立てる音や声が聞こえてくる.手を打つ中国の観光客,賽銭を投げる欧州の観光客,自撮りのポーズをあれこれ変えてはしゃぐカップル,悪ふざけをして人にぶつかり謝る校外学習の子どもたちと先生,一人で黙々と写真を撮る女,境内を箒で掃く宮司.様々な人がいるが,誰も私には気付かない.彼らには私は見えないのだろうか.気づけば地面に着いていた.

 周りを見回しても私を(いぶか)しむ人はいない.下りるときに見えた東京タワーから考えて,ここは明治神宮だろう.東京の人はドライだというが,それも関係ないだろうか.木から突然人が下りてくれば誰でも驚くし,宮司や巫女は何か言うだろう.少し期待した神職のものでさえ私が見えないのは残念だ.私は既に死んでいるという事か?あの場所は冥界だったという事か?あの豊かな空間が冥界だとすれば死はそれほど悪いモノでもないのかもしれないが..冥界だとすればこの方向を示してくれたあの男が何か助言をくれていてもよいではないか?それに腹が減るのも不思議な事だ..いや実際腹が減った.金もない身の上ではかえって好都合かもしれない.再び歩み出そうとしたところでリオンがいない事に気付いた.この森に逃げたら探すのも一苦労だが,辺りにいない事を考えるとそういう事だろうか.砂利が敷かれた一帯を周ってみたが,姿は見えないし,相変わらず私も見られていないらしい.

 深呼吸し林檎を取り出し,一口ずつかじりながら,柵を超えて森に入った.姿が見えない事を考えると,カラスや獣に襲われる心配もないだろう.途方に暮れる気持ちを抑え,木の隙間に目を凝らしながら歩いてく. 初めて入った森はあちらの世界の森と似ている.様々な葉っぱや樹皮,大きさの木が乱雑に生えている.人の手が入った森なら,当然採光を考えて植えられているのだろうが,自然に見える.そもそも自然林でも光が入らない木は光を得るために伸びるか,淘汰されていくのだから当然ではあるが,美しい森だ.違いと言えば,様々な種類の木の実が無いぐらいだろうか.

 林檎をかじる音は骨を通して自分に響き,手と地面に少しずつしぶきを飛ばす.蝶が舞い,蜘蛛やダンゴムシが歩く森.隙間から折々光を与えてくれる木々,土と葉の混じった地面を踏みしめる足音.あちらにいた時とは違う感覚で森を歩いている.こんな広大な場所で迷子になられては一大事なのだが,今しばらくは浸っていたい.

「そうか人里に来たという安心でもあるのだろうな.」

不安と心細さが少しずつ解放されているだろう.さあリオンはどこに行ったのだろうか.林檎の香りに誘われて来やしないかと思ったが,周囲には見えない.広すぎて匂いなど感じ取れないだろうか.犬や熊は人より遥かに嗅覚が優れているが,ウサギではどうだろう.人よりは優れているだろうが,森と言っても街中にある以上,あらゆる方向から様々匂いが来ているのだろうか.ヒトではあまりに想像が難しい.歩き過ぎると街に出てしまう.何度も何度も折り返しながら,森を歩いて行った.

 二時間は探しただろうか.諦めかけてきた頃,後ろで足音が聞こえた.リオンかと思ったが,大きさを考えると人の物だろう.足音にまだ距離がある事を考えてから振り返ると,男が立っていた.お互い目が合ったように感じて1分ほど立ち止まっていたが,男は再びこちらに向かって歩き出す.私が男の進行方向から垂直方向に歩くが男はそれに合わせて,こちらに向かってくる.ナイフに手をかけると同時に,自分がこの世界では見えなかったはずだという事を思い出した.すると,あの男はこの世界の人間ではない?あちら側の人間か?だとすれば何か聞けることがあるだろうか.この状況を打破する方法などを.ナイフからは手を離さず警戒しつつ,私も男に向かって歩き出した.

「ハロー!」

 そう言う男には日本語訛りを感じる.

「こんにちは.」

「あ,日本語分かる人ですか?と言うか日本人?助かります!」

「日本人かは分かりませんが,私も助かります.初めてちゃんと人と話せる.」

分かりにくい言い方をしてしまった事を少し後悔したが,男の様子を見てみる事にした.男は少しキョトンとした様子だが,スグに合点がいったようだ.

「ああ,そうですね.混乱しましたよね.私も最初は戸惑いました.でも解決方法は知ってます.一方的で難ですが,交換条件を出してもいいですか?私の頼みを聞いてほしい.」

男の意図を探ろうと丸い瞳を覗き込んだが,嘘は見えない.茶色気味の黒髪をかきながら男は続ける.

「さすがに怪しすぎて無理かな?何か信用してもらう手段が欲しいが,あなたはそうそう人を頼りそうなタイプには見えない.私も昔はそうだったから何となくわかるよ.」

「そうですね.あなたの言うとおりです.ですが状況が状況ですから,頼みの内容次第です.私もこの状況は早く打破したい.それを考えると交換条件と言うのはむしろありがたい.他人からタダで受ける好意はいささか怖いです.」

言いつつ,ナイフからは手を離せない.何かこの男を信用する理由が欲しい.信用したい.

「それもそうだね!じゃあ,お願いだ.僕とカフェに行ってくれないかい?」

「...ご存じかもしれませんが,私はお金がありません.今行けば盗むことは出来るかもしれませんが..」

「大丈夫.行くまでに君はこの世界でも見えるようになるし,お代は僕の奢りだ.」

「それならいいですが.」

カフェに行くだけ...この男は何を考えているのだろう.察するにカフェで話をしたいのだろうが,ここでしない意味は何だ.だが,それだけで済むのなら安い事か.人に見えるようになれば,危険だという事もないだろう.

 歩き出した男について,歩き出した.

「名前を聞いてませんでしたね.僕は金元咲(かなもと さき).女みたいな名前でしょう?僕は結構気に入っているんだけど.馴染みの人にはよくからかわれます.」

言いつつも,男は愉快そうだ.気に入っているというのは本当らしい.

「確かに女の子みたいですが,私もそんな名前好きですよ.中世的って言うんですか?偏らずバランスが取れている感じが好きです.」

「嬉しいです.目を見た時からそう言ってくれると思ってました!僕こういう直感は鋭いんですよ?」

どうやら,男の機嫌を損ねずに済んだらしい.今そんな事になっては面倒だ.あなたは?と促す男に,私は言いあぐねた.名前が思い出せないと言って信じてもらえるかどうか...嘘をつく気にもならない.と様子を察したのか男は続けた.

「もしかして,何か話せない理由がありますか?あちらの世界に関わっているとか.」

「その通りと言うか,記憶が無いので何とも言えません.あちらの世界の,誰もいない屋敷で目を覚ましましたが,その前の記憶がすっぽり抜けています,言葉であるとか,東京のような地名とか,知識面では問題ないと思いますが.とりあえず,今はスピカと名乗っています.」

「素敵な名前ですね!記憶がない...実は僕も記憶が一部欠けています.10年前からの記憶しかない.幸い周囲に聞いて名前を知ることは出来ましたが,あなたは今が一番つらい時期かもしれないですね.混乱する事ばかりで.」

妙な仲間がいるモノだと思ったが,咲の不思議な印象はそこから来るのかと少し安心した.気付けば森の外が近づいている.人気のない場所を選んだようだが,東京ともなれば全く人がいないという事は無い.だが,敢えて堂々と森から出る事で周囲を誤魔化しているようだ.こんな事に慣れているのだろうか.周囲に違和感を持たせない不思議な雰囲気は,記憶の問題だけではないように見える.

「確かに混乱する事は多いですが,それ以上に...いえ,今はどこに向かっていますが?」

男は振り返って一瞬こちらの表情を窺ったが,続ける.

「表参道に向かってます.行きつけのカフェがありましてね.腹ごしらえには向いてませんが,静かに話をするには良いです.僕のおすすめベスト5には入りますね.」

ベスト5の全容が気になったが,その時リオンの事を思い出した.

「そうだ!リオン!私のウサギが森で迷子になっています!探さなければ!」

「その子なら大丈夫だと思いますよ.あなたも空腹ですよね.コンビニですみませんが,好きなもの買ってください.」

大丈夫とはどういうことだ.何も大丈夫ではない.ズンズントコンビニに入っていく男に,買うだけ買わせて,とりあえず森に戻るか.と思っていると,咲の持っていたカバンからリオンが顔を出した.

「どうしてそこに!お前がさらったという事か?」

咲に怒鳴りかかるが,彼は何でもないという顔をしている.どうしてこんな済ました顔をしていられる.異常だと罵り,リオンを掴んで去ろうとしたところで,咲が走って前に回り込んだ.

「すみません!あなたの声も目も疲れていらしたので,しばらくは気にする事を減らしたいと思ったんです.この子は観光客に踏みつけられそうになったのを私がギリギリ救いました.突然,足元に滑り込んだので,向こうからは相当な変人に見えたと思います.この子が周りに見えていなかった時点で,あちらの世界からのお客さんがいる事は察してました.」

言いつつ笑う男に,それにしても,もう少し早く言えばよいではないかと憤ったが,自分の器の小ささを感じ,落ち着く努力をすることにした.食事が終えるまでは僕が預かっておこうという男に渋々リオンを渡したが,リオンは嫌がる風でもないのが無性に腹が立った.これは嫉妬だろうか.自分たちの間の絆など大したものでは無かったか.いや気にするな.首を振って考えを忘れようとした.

 見るとリオンは何かを食べている.あの男に貰ったのであろう.これのお陰か.それを見ていると,自分の胃もねじ切れそうなほど空いている事に気付く.果物ばかりの食事は想像以上に腹を空かせていたらしい.ベジタリアンと言うやつに感心しつつ,大人しくコンビニに入った.並ぶ食べ物はどれもうまそうに見えるが,同時に服が目に入った.安い服ではあっても,今私が着ている汗と汚れにまみれた服よりはマシだろう.後で適当な店で見繕ってやるかなんて考えつつ,男の持っていた籠にヤマスギのホットドッグとル・レのハンバーグ弁当,ざるそばにトゥレタッセのバニラ味と2Lの水を突っ込み会計を促しつつ,レジ前でダメ押しのフライドチキンをオーダーした.

「よっぽどお腹空いていたんですね.あの辺りにはフルーツぐらいしかないから,無理もないか.これで十分ですか?」

更にホットドッグと焼き鳥を追加してやろうかと思ったが,さすがに遠慮しておいた.今になって,こんなに食べれるものかと心配になっている.

 会計を終えた咲について,コンビニを出て,フライドチキンを食べようとしたとき男に止められた.

「今は何を考えてますか?多分空腹の事で頭一杯かもしれませんが,それに集中して他の事は考えず一口食べてください.」

いったい何を言っているんだ,この男.言われずともそうすると言うように,フライドチキンをかじった.何も起こらない.当然だ,ただのフライドチキンなのだから.

「どういう事ですか?」

「すみませんね,その感覚が大事なので.今度はこの世界の一部である事をイメージして食べてみてください?」

?まさか,そんな事があるものか?と思いつつ,この世界の一部であることを考えた.今原宿に立ち,フライドチキンを食べようとする自分.私の事が見えない人たちにぶつかられ,舌打ちを聞く自分.黒いシンブルなパンツに淡い青色のシャツを着て,黒いボストンバッグを提げた少し妙な,しかし出張中にも見えるような,少し丸みを帯びた顎にほんのりと笑顔を宿らせた男の前でフライドチキンを食べる自分.少しずつ,イメ―ジを重ね一口を噛み,咀嚼し,飲み込んだところで再び男を見てみた.何も変わった様子は無いが,先ほどよりにっこりと笑っている.

「これで何か変わったのか?」

「すぐは分からないかもしれませんが,あと何十メートルか歩いたら分かりますよ.」

「言わんとする事は分かりますが,嘘だったらあなたを殴って私たちは行きます.」

 言いつつ歩き始めた男についていくが,変化は次第に,しかし確かに表れ始めた.道行く人が私の方を見てくるようになった.どうやら咲の思惑通り,私はこの世界に認められたらしい.すると男が足を止めて言った.

「ご覧ください!最新技術で作られた,透明クリームを塗った女性です!現在,実際の利用のために持続時間を確認するための実験中です!もしこの商品が気になった方は是非,募金をお願いします!来年中の実用を目指しています!」

帽子を持って深々と頭を下げる男を見て,私もそれに倣った.見る見るうちにお金が投げ込まれ,帽子では足りなくなり,リオンをどかしてカバンでお金を受けるようになった.フライドチキンとコンビニの袋を片手にこんな事をしているのはなかなかに恥ずかしい.私の姿がすっかり,現れ,募金が落ち着いていたと所で男は切り上げ,再び歩き始める.

「さあ,このお金で服を買ってください.コンビニじゃ大したものは買えないでしょう?そろそろ自分の格好を気にする頃だと思ってました.見えないとは言え,人にぶつかられるのも気分が良いモノじゃないですしね.私の時は,バイキングでつまみ食いしていた時に姿が出てしまったので大変でしたよ.まだ見えないままでいたい!なんて必死に考えていたら,どうにか透明に戻りました.あの時の春巻きとサーターアンダギーの味は一生忘れないんじゃないかな~」

 咲は何の気無しに笑っているが,ここまで考えて行動していたのなら大したものだ.私のような人間に慣れているのだろうか.

「ここまで考えてくれてたとは,先ほどの失礼すみませんでした.」

「いえいえ,ただのアドリブですよ.上手くいったのはスピカさんのお陰でもある.さあ買い物しましょう,カフェは一時間後にここで待ち合わせしましょうか?」

ついてくるのは構わなかったが,咲の方がむしろ気が引けるのだろうか.厚意に甘んじる事にした.

 「それでいいのでしたら,それでお願いします.その前にどこかお弁当を食べられるところはありますか?適当な場所で,と思い買いましたが...」

手に持ったままだったフライドチキンを平らげながら,聞いた.

「そうですね.あまり離れるのも面倒ですし,じゃあついてきてください.」

咲は慣れた足取りでしばらく行くと,十字路を曲がり,30mほど歩いて,路地に入ったと思ったら,建物の階段を上り始めた.どう見ても公共の建物ではないが,果たしてこれは合法なのだろうか.不安を感じながらも男についていく.4F分の階段を上がり,屋上に出ると,小さな庭園があった.中央にはアカシアの木に囲われたサマーハウスがあり,その周囲にはまばらに配置された林檎の木を中心に,アカンサスやカモミールなどが生えている.更にいくつかのベンチが置かれているのも目に入った.一つには80歳前後に見える老夫婦が座っているが,それ以外には自分たちしかいないらしい.

「僕のお気に入りの場所です.この庭園に来るといつも落ち着く.覚えていない昔にこんな場所にいたのかもしれませんね.」

そう言う咲の横顔は微笑んでいるが少し寂しげに見えた.思い出せないという事は孤独感を増長させる.彼もそれを感じているんだろうか.無性に声をかけたい衝動に駆られたが,その前に彼は寂しげな表情を消してこちらに向き直った.

「そこのベンチで食べましょうか.」

 一緒にベンチに座り,弁当を広げながら,買い過ぎた公開したが,10分後には殆どを平らげて,トゥレタッセの最後の3口程を食べる時に,咲は唯一アンパンの最後の一口を食べ終えた.アンパン一つに10分もかけるのも一つの才能では無かろうか.食べている間にも咲は,ビルのオーナーが作った庭園だとか,毎月一度は来るだとか,こちらの世界に来てからは浅草の中華料理店で住み込みで働いてるのだのと話していたが,あまり返事をする余裕が無く,何となく相槌を打っていた.

「じゃあ,私は下りて向かいののスターアフォードで時間をつぶしてます.店の前で一時間後に落ちあいましょう.もしかしたら,動くかもしれませんが,時間までには戻ってきます.あゴミも捨てておきますね.では.」

そう言うと男は食べ終えたトゥレタッセの容器も弁当のゴミの入った袋に入れ,指先に引っ掛けながら,先ほどの階段を下りて行った.それを見届けてから私も歩き出した.お金は食事中にお礼もそこそこに受け取っていた.

 庭園を見渡すと老夫婦は相変わらず語り合っており,変わった事は咲がいない事だけに見える.階段を下りる途中で見渡したが,服を変えそうな店は多い.来る途中で見た店と合わせれば,どうにか必要なモノは整いそうだ.一人で歩いてみて気づいた事がある.覚えてはいないが,この辺りを歩いた事はあるらしい.店を回りながら,店内の雰囲気などは見覚えがあるにもかかわらず,記憶の出所が全く思い出せない違和感を感じながら,歩いていたが,次第にそれも気にならなくなった.

 服を見る事は楽しい.落ち着いた色調でも様々な違いがある.暗色の中でもただの黒から,紺やワインレッドなどがある.明色も然り.それは自分の気分を表現すると共に,世界の一部となるための道具だ.原初の人類は恥ずかしいから着始めたようだが,それはいささかつまらない.ファッションは受動的ではなく能動的であるべきだろう.それは服に限らない.人生を彩るものは何だってそうだ.能動的な意識があってこそ,何でも楽しくなる.考えを整理したい時には,こんな風に自分の考えに沿って行動してみると,他の考えも整理されていくと思う.覚えてはいないが,自分にしっくりくるやり方だ.咲は少なくとも悪い人間ではない.探している男の事を話してみてもいい.私が誰かという問いには答えは持っていないように見えるが,食えない男だという事も分かっているし,何か引き出せることはあるのかもしれない.あちらの世界についても聞いてみたい事がある.そもそもアイツの目的も分からない.考えて済む事はこの程度だろう.まさか,カフェで暴力に訴えるような奴にも見えない.

「出たとこ勝負ってやつかな」

分かりやすくて,私好みの結論だ.何も考えていないとも言えるかもしれないが,そこまで警戒するほどではないだろう.言ってみて,自分のお人好しさに驚いたが,そんな自分は好きだ.

 買い物は黒字に水色のラインの入った大きめのリュックを買う事から始め,黒のジーパン,紺のワイドパンツ,白地にウサギの耳が横向きに刻まれ,後ろに和柄のウサギが描かれたTシャツ,黒字に白い四角が描かれたTシャツ,淡い桃色に林檎と逆さの桃が向かい合ったTシャツ,紺色と桜色のブラウスシャツ,シンプルな下着に靴下,更にジャージや寝袋を買って,全てリュックに詰めこんだ.

 行きがけに着替えて時間を食ったが,どうにか一時間に間に合い,スターアフォードの前に向かうと,咲がスマートフォンを見ながら待っていた.ニュースを見ていたそうだが,取り留めて大きなニュースは無いらしい.着替えた私をマジマジと見つめるスピカをよそに,天気予報は明後日まで晴れだとか,好きなYouTuberが結婚を発表しただとか,取り留めもない話をしていた.私の好みについても聞かれたが,記憶が無いため言い淀むのを見て,彼は続けた.

「自分の興味って難しいですよね.今好きだと思っていても,いつか興味が無くなるかもしれないし,好きだと思って続けていても,気付けば楽しくないという事もあるし,疲れてしばらく関わりたくないなんて事もある.スピカさんは今そんな状態だと思えば良いのかもしれません.ちょうど好きだった事に飽きて,何か新しい事を探したいと思っている.どうですか?」

確かに悪くない.興味はがっちり固定されている時もあれば,簡単に動く事もある.大切なのは,自分がそれを好きだと断言できる事だ.惰性で良い事もたまにはあるかもしれない.だが,惰性で生きるのは間違っている.自分の使う時間に意識を注げない事は死んでいるようなものだろう?

「そうですね.良い考えだと思います.新しい興味を探したいし,それも生きる目的の一つなのかもしれません.」

言葉にしてみると,しっくり来るのは,頭が整理されるからか?少し愉快な気持ちになった.

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