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幸せな世界  作者: DanielTKG
3/4

欠片

 男の言った通り真っすぐ行くとすぐに湖に出た.朝焼けが湖面を照らし始めていた.光は湖の中心から赤い血が噴き出すように揺らいでいる.この湖は毎日こうして光の剣で刺されては青くなっていくのだろうか.考えているうちに水は次第に色を変えていく.上を見上げ,伸びをし,深呼吸をした.血に染まった湖は次第に穏やかな色になり,風に吹かれた木々の香りを,私と共に受け止めている.綺麗だ.平穏だ.当たり前のように思える事がやけに嬉しかった.

「心地いいな.こんな状況じゃなくても素敵な景色だ.原風景ってやつか?今の日本じゃそう見ない景色..いや少し田舎に行けばこんなものかもしれない.自分の知ってる世界なんて,誰だって狭いモノだろう.」

景色に感動し一々逡巡するのは心の疲れの表れか?いや人生は壮大な暇つぶしなんて言うしな.むしろそうあるべき事だろう.目を瞑って水と光の匂いを体いっぱい感じてみた.呼吸に合わせて自然が自分に溶け込み,また吐き出される.当然の事を感じる余裕が無くなるのは酷く悲しい事だな.

 心地よさに浸る事を止め,再び歩き出した.

「湖を左に.」

 水鳥や魚が跳ねるのを見ながら歩いていくと直に橋に行き着いた.

湖の向こう岸まで続いているようだ.迂回していたらそれだけで一日かかりそうな湖にかけられた橋は(たもと)に木造の簡素な門を構えている.ただの湖にかける橋にしては物々しい.お(ほり)から城に入るような気分になる.異様な光景に少し戸惑いを感じるが,軽く押しただけでするすると開く門には少し拍子抜けした.門から手を離すと再び元のように閉じ始めたが,やたらと重々しい音を立てて地面を引きずり,水さえ入り込めなそうなほど隙間なく収まった門は人間のなせる業なのかと疑問が湧く.古びた門は水辺にある事に反し,乾いた木の匂いがする事も気味を悪くさせる.あの男の手入れか?それだけで済むものだろうか.

 考えを巡らせながら,橋に踏み出すと,明るさが二割程増したように感じた.気のせいか,門で光が遮られていたせいか,は分からないが,湖の上は,湖の周囲とは違った香りがする.空気が止まったかのようなのっぺりとした感覚が体にまとわりつく.

「何の香りだろう.妙な香りだ.」自分の体を包むような香りと空気は心の中と体が神か悪魔にでも覗かれ,品定めされているような崇高さと気持ち悪さを感じる.胃がむかつき吐き気がしてきたのを感じ,歩を速めた.この橋は何だ.あの男が手入れしているのか.この辺りにはあの男以外に人はいないのか.ここはどこだ.私は...誰だ.溢れ出る疑問に吐き気が増してきた頃,橋の真ん中にベンチを見つけ,思わず腰かけた.止まない吐き気を堪えながら湖を見ると,水は真っ青に染まり,遠くはラメを塗ったように光がのっぺりと媚びれついている.

 手元の感覚に気付き顔を下ろすと,ウサギが目を覚まし,私の匂いを嗅いでいる.手から腕,そして顔に.無邪気な様子に頬の強張り(こわばり)が和らいできた.静かな湖に架かる橋の上で寛ぐ一人と一匹は,この世で最も尊い時間の中にいるようにさえ思われる.そう思うと,何だか可笑しさがこみ上げてきた.思わず微笑んでいる間に,吐き気が引き始めるのを感じる.その時ふと思い出した.

 「お前の名前を決めないとな.」

持ち上げられたウサギは少し抵抗したが,直にそれを止め,私と見つめ合った.

 磨かれた黒い宝石のような目を見て,ダイヤ..まるでマグロみたいだな,なんて事を考えていた時,ウサギの首輪に気付いた.

「お前,私に飼われていたのかい?」

ウサギが頷いたように見えた.たまたまか,気持ち悪さのせいか.

「首輪を見せておくれ?」

ウサギの首に手を伸ばし,毛をかき分けると,首輪はいたって普通のものだ.猫の首輪と同じようなモノだろう.首輪を少しずらしてみると,首輪の内側に文字のようなものが見えた.一度首輪を外し,確認した.

――Lion――

「リオンか.うん,良い名前だ.うんうん.私はスピカ,よろしくな.お互い春らしい名前だな.」

リオンは久しぶりに呼ばれた名前だったのか,少し嬉しそうにしていたが,首輪をくわえ始めた.

「首輪が好きなのか.変わったやつだな.」

リオンの様子に微笑みながら首輪を再び装着し,再び橋を歩き始めた.彼も自分で歩きたいらしい.

 向こう岸に,入ってきたのと同じ門が見え,ようやく重苦しい重圧から解放される事への安堵と,この神々しい場所を去らなければならない寂しさが同時に込み上げてきた.もう二度と来ることは無いんだろうか.いや先の事は分からないどころか,後ろの事さえ分からない.捉え方も様々に変わる.出口の門には入り口にはなかった門扉がある.重々しい扉は見た目に反して,力を入れる必要もなく押し開けられた.門扉以外のつくりは先ほどの門と変わりないように見えるが,少し朽ちた部分がある.徐々に重圧が軽くなるのを感じ,くぐりきったところでそれまで感じていた,畏れや不気味さは消え去った.リオンがくぐりきった事を確認し,扉を閉めた.

 音を立てる事もなく閉まった扉は,それまで空いていた事が幻かと思えるほどに隙間なく閉ざされ,静まっている.

「私は天界から下界に追放された堕天使かな.」

 男の言っていた通り一本の道が続いている.道の先は森に続き,先には山が見える.とにかく進むしかない.風と葉擦れの声が薄ら寒さと心細さを作る森の草木は生い茂り,一度道を外れると簡単には戻れそうにないが,果物が多く成っている事に安堵した.孤独感を見透かしたように傍に来たリオンに微笑みながら,果物を見渡すと,知らない果物に混じって,馴染みある果物を見つけた.林檎や柿であれば安心して食べていいだろう.そう思うと急に空腹を感じてきた.男に貰ったものにまだ手を付けたいなかった事を思い出し,見たことのない真っ赤な果実の下で遅い食事を摂る事にした.

 その木が少し開けた場所にあったからという事もあるが,内心見たことのない果実に興味があった.真っ赤な果実に指先で軽く触れてみるが,異常はない.果実を地面に置き,木の皮を使って表皮をこすると,中からは黄色がかった実が表れた.甘い香りがする.地面を歩く蟻に果実から出た雫を垂らしてみると,蟻は驚いたものの,また元のように活動を始めた.安全を確認して,果汁を指で舐めてみると,五味の混じった味と,鼻を抜ける新緑の香りがした.美味いとは言い難いが,嫌いではない.果実を食べているとリオンが寄ってきた.一口与えてみたが,彼の気には召さなかったらしい.ふっと息をついてから,傍にあった木から林檎をもぎ石で砕いて与えると,美味そうに食べ始めた.

「お前はそれがいいか.」

 私は男に貰ったおにぎりと竹筒に手を出した.おにぎりには梅干しと川魚らしい漬物が入っていた.竹筒にはお茶が入っている.あんな山で塩が手に入るんだろうか.いや当然どこかしらに買いに行くのだろうな.そんなことを考えながら,おにぎりを頬張り,お茶を飲んだ.生き返る.米の一粒一粒を噛み締め,デンプンを麦芽糖に変えては飲み込む.それの繰り返し.合間にお茶を竹筒の蓋にお茶を入れ飲む.梅は塩気が強く,一瞬舌が拒絶したが,すぐに慣れた.平穏なひと時に感じ入り涙が一筋流れた.ただの食事としか言いようがない食事にこれほど感動できる事はそうないだろう.

 横で林檎を黙々と食べるリオンにまた視線を落とし,頭をなで首筋を一かきした.リオンはブルっと身震いして再び食事に戻る.記憶が無い日々にもこんなことをしていたんだろうか.

「お前はこれまでの事を覚えているのか?」

リオンはお構いなしに林檎を食べ続けている.悩みなんて無さそうに黙々と食べ続ける姿は私が望んでいるモノそのものかもしれない.悩みは人を苦しめるためにこの世に生まれてきたようにさえ思える.

「お陰で人は成長してきたのかもしれないがな.」

人の成長する力は何かを解決するために生まれる.悩み無しに強くなれるやつがいるなら,それは神か何かだろう.

 食事を終え伸びをするリオンに気付き.一つ残ったおにぎりを竹に包んで,竹筒をしまった.

「よし行くか.」

 再び歩き始めると,脚がいくらか軽くなった事に気付いた.空腹が満たされたためか,休んだためか,いづれにしても有意義な時間だったようだ.鬱蒼と茂った森には,一本道を除いて光もほとんど入らない.その一本道でさえ,光がまともに射す時間は一日のうち1,2時間程だろう.少し斜めから注ぐ陽光は既にほとんどが森に飲まれている.後ろからひょこひょことついてくるリオンを気にかけながら歩いていると,何かの躓き転げそうになった.足元を見ると錆びたナイフが紙を貫き地面に刺さっている.いつからここにあるのだろう.錆びた様子は沈没船から見つかった宝のようである.雨風だけでここまで錆びるにはどれだけの時がかかるのだろうな.

 ナイフを抜き紙を取るが,紙には何も書かれていない.しかし,湖の上でしたような香りがする.先ほどまでの吐き気を思い出したが,すぐに収まった.次にナイフを観察した.刀身から持ち手まで全て錆び付き,そこらの木の枝ですら切る事が出来ない.試すうちに枝をたたき追ってしまった.若い新緑の香りを感じながら刃を注意深く見ていると,何かが書かれている事に気付いた.f..r..ローマ字か.だがほとんど読めない.

「何か意味があるのかな.」

ナイフを紙で包み懐に入れ再び歩み始めた.足元に注意を払いながら歩くと,地面にはちらほらと同じようなナイフが剥き出しで落ちている.何かの儀式でもあったのか,誰かが盗賊にでも襲われたのか.しかし,辺りに白骨死体や衣服の破片は見当たらない.ナイフをもう数本広い,傍にあった葉に包み持っていく事にした.

 前を歩いていたリオンが足を止めている.追いつくとそこには人が作ったのであろう小さな木造りの塔があった.高さは10m程か.周囲の木より少し低い塔には木でできた扉が見える.

「まさか盗賊の巣という事もないだろうな.」

ナイフに手をかけ警戒しながら扉に近づくがあっけなく扉の前に着いた.扉には甲骨文字のような,記号のようなものが刻まれている.何かしらの言語だろうか.読むことは出来ない.扉をゆっくりと引くと,少し重い感触と共に,空気が中に吹き込むのを感じた.扉は湖の門と同じく,木とは思えない程密閉されていたようだ.錆びたナイフを構えながら,一歩ずつ塔の中に歩みを進めると,外より3度程低い空気が頬をなでた.

「カビや毒の臭いは無しか.」

 中には電灯は無く,木でできた台の上にランタンが一つ置かれていた.床は土埃が見えるが,泥や草は見えない.ランタンのところまで行くと,燐寸(まっち)が置かれているのを見つけ,蝋燭に火をつけた.塔の中は日から出る明かりに照らされたが,上に続く階段の他に何も見当たらない.二階には窓が一つあるだけだった.窓を開け,ランタンの灯を消すと,赤々とした反射光の無くなった塔の中は再び寒々しい雰囲気を漂わせた.世界から忘れられた場所に息づくのは,悲しみと自然だけだ.忘れられる前にあった記憶は全て悲しみに風化し,自然へと帰る.そこにあったはずの誰かの日々を瞼の裏に感じながら,涙が一筋流れるのを感じた.私はそこに浸かるのがそれほど嫌いではない.

 「休める場所があるか分からないしな.」

沈みかけの日を窓から見つめながら塔を宿とすることを決めた.

 一階に降りるとリオンは扉の前で座っていた.こちらを見つめる潤んだ瞳には恐れの色は無い.やはりここは安全だろう.何故か分からないが彼の警戒心は信じられる.そんな気がする.

「待ってな」

 採ってきた柿をリオンに食べさせながら,もう一つのおにぎりを食べ始めた.竹に包まれたおにぎりは時間が経っても味が落ちたようには感じない.梅の酸味に目を細める.米粒を噛み締め,穏やかな甘さに頬を緩める.食物の一かけら一かけらが舌の上で踊り,喉を過ぎていく度に美味さを脳が認識する.いや疲れのせいだろうか,疲れは最高の調味料とはよく言ったものだ.そしてお茶を一口すすりながら気付く.疲れのせいでも構わない.この心地よさは本物だ.

 食事を終えたところで眠さがこみ上げてきた.どうやら本当に疲れていたようだ.初めは抗う事を考えた.まだこの状況を考える事に時間を使いたかったが諦めた.リオンを傍に寝かせ,自分は壁にもたれて眠った.まどろみは波のように寄せては返し,それを繰り返し,次第に私を眠りに沈めていった.

 夢の中でも知らない場所を彷徨っていた.いや夢と気付いたのはリオンの不在に気付いてからだ.そこまでにもずいぶん時間がかかった.どうやら私は人の波の中にいる.人の中であやふやな背景を見まわしていた.背景はピントがずれるように近くなり遠くなり,決して鮮明になることは無い.この歯がゆい景色に次第に苛立ちを感じずにはいられなくり,目を瞑った.夢の中らしく,人波の中にいても人が体にあたる事は無く,まるで幽霊のように体をすり抜けていく.思考は景色に反して鮮明な事を少し呪った.こうしていれば,いづれは目が覚めるのだろうか.夢の中であれば何か参考になる景色が潜在意識から引っ張り出されるのではないか,そんな期待を打ち砕かれた気持ちに浸っていたが,再び目を開けた.まだ夢は終わっていない.もう少しこの夢の世界を彷徨ってみるべきだ.たとえそれが徒労に終わろうとも.

 あやふやな景色は高層ビル群から森の中,深海,宇宙まで様々に変わる.どこまで行っても人の波の中にいる.私はただ人ごみの中を彷徨うためにある存在なのだろうか,幽霊はむしろ私の方ではないか.誰も私を気に留める事は無く,私も自分を認識させることは出来ない.そう考えると,確かにこれは私の夢の中なのだろう.今の私は誰もいない世界に落とされた乳飲み子のようなモノであって,人のいる世界に私はいない.自分一人だけが世界に投げ出されたような孤独を思い出しながら歩いていると,景色は次第に暗くなり,人波が薄らと消え始めた.消えていく人の奥に鮮明な顔を見た.知らない男だ.いや名前を知らない男というだけだった.私はこの男を知っている.理由は分からない.どこで会ったのか.この男が何者なのか.私とどんな関係があるのか.何も分からない中で唯一分かる事があった.

 穏やかな目覚めだった.目が覚めた私の胸はざわついていた.覚醒は何も言わずに夢の中の記憶を奪っていくが,ただ一つ明確に思い出せる夢,いや記憶があった.あの男を殺さなけらばならない.それだけは思い出せる.私はあの男を殺すためにここにいる.

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