探し物
目が覚めると,真っ暗な場所にいた.部屋の中か洞穴の中かも分からない程暗い場所にいる.これは何だ.夢か誰かの悪ふざけか.何も思い出せない.ベッドらしきものに寝ているらしいが,何故こんな場所にいるのか全く思い出せない.まともな部屋とは思えない程の闇だ.体を起こし周りを見渡すと一瞬暗い光が差し込んだ.光の射した方に手を伸ばして初めて自分が人間だという事を認識した.自分の手が見えるが,自分の事は見えない.姿も..記憶も..「私は誰だ?」
本当に忘れてしまったのかと少し驚いたが,考えを巡らせても記憶は全く思い出せない.途方に暮れようにも,あまりに分からない事しかない状況ではそれも難しいらしい.どうにもできない虚しさと心細さに支配されそうになるが,気持ちを切り替えていく事にした.言葉や知識,計算などは問題ない事が救いと思える.
「記憶喪失ってやつか.それにしても私はポジティブな奴だったらしいな.」
可笑しさと悲しさと寂しさが入り混じった感情だったが,衝動に駆られ高らかに笑ってみた.何分でも笑ってやろうと思っていたが,数分間の笑い声は闇の中を木霊し,そのまま消えていった.少なくとも何か閉鎖された空間にいるようだ.笑いと知見を得たことで幾分気は晴れたようだ.
ベッドから恐る恐る足を下ろし光のあった方に手探りで進むと,布のような手触りがあった.
「カーテンか.」
開けると,月明かりもない夜の闇が開け放たれた大きな窓に映し出された.大きな窓だ.学校の教室の窓に似ているが,違いは一枚張りの大きな窓に小さい窓が一枚嵌められている.不思議な形だ.まるで入口のように見える窓に近づいた.鍵の付いていない窓はぴっちりと密閉されているが,触れてみると容易に上唇を開けた.外の空気がスッと吹き込むのを感じたが,温度も湿度もそう変わりなさそうだ.自然の風の心地よさに目を瞑り一筋の涙が落ちるのを感じた.ただの風がこれほど身と心に染みるのは長い間寝ていたせいなのだろうか.眠る前には風を感じる余裕もなかったという事か?
窓の外には光源と呼ぶようなものはないが,星明りのお陰でどうやらカーテンを開ける前よりは明るいらしい.振り返り見渡した仄暗い部屋には先ほどまで寝ていたベッドと丁寧に畳まれた服が隅の机に置かれているのが見え,同時に自分が裸である事に気付いた.
机まで歩くと,服は下から革のジャケット,ジーンズ生地のパンツに,肌触りのよさそうな淡い桜色のブラウスシャツ,桃とホタルブクロが交差するTシャツと,シンプルな下着に靴下と上に少しの誇りを被っているが,少し払えば十分着れそうだ.自分のものか他人のものか,そもそも他に人がいるのかさえ,思い出せないが,薄ら寒くなってきたし申し訳なさに包まれつつ拝借する事にした.広げてみるとどれも程よいサイズに見えるし,不潔なにおいもしない.桜色のシャツからはほんのりと桃の香りがする.桃色のシャツという事か?他人のものだとしても気は合う気がする.心地よい香りにそんなどうでもいい事を考えつつ,下着とスキニージーンズ,シャツを着て,革のジャケットを羽織る.どれもほどほどのサイズだ.私の服と考えたい.やはり他人の服を着るのにはいくらか抵抗がある.先ほどより少し強く香る心地よい桃の香りに包まれていると,全てを忘れて物思いに耽りそうになる.軽くストレッチをしながら服の着心地を確かめていると,脚に何か当たった.大きさと硬さは骨かと思えるような不気味なモノだったが,机の陰に恐る恐る手を伸ばしてみるとただのブーツのようだ.不安が杞憂で済んだ安心と履物を手に入れた安心で,自分に少し呆れながらも安堵した.
一度ベッドに戻り腰かけると,横になっていた時より頭が少し晴れたらしい.記憶は戻らないが冷静に状況を考えてみた.記憶の無い自分が,まともな栄養状態で,縛り上げられるでもなく,部屋のベッドに寝かされている.ホスピスか何かか?しかし職員どころか人の気配もない.食事をするようなスペースも無いのに何故,私の腹は飢えていない?何故そんな状況で置かれた服は埃を被っている?一体私はどれ程の間ここに寝ていたんだ?この部屋は何?誰の物?誰が何のために私の世話をした?分からない事しか浮かばず頭が痛くなる.目眩がする.
「動くしかないか.情報は自分で求めていくものだろう?」
考えながらも外に出る事を決め,部屋を見渡したが,ドアが無い.やはり部屋にはベッドと机しかない様だ.ふと机の引き出しに気付いた.鍵穴の付いた引き出しは引くとすんなり空いた.引き出しには一枚の写真が入っている.二人の男女.一人は私だろうか.ボブぐらいの長さの髪に,淡い水色の無地Tシャツにジーパンというラフな格好だが,スタイルが良く背景のカフェと相まって,写真映えする.男の方は後ろで結んだ髪に,黒いチノパンと白いTシャツと虹色の円の描かれたシャツを羽織っている.引き出しには他には何も入っていない.何かの手がかりになるかと写真を手に取り,ジャケットのポケットに入れようとすると裏に何か書かれている事に気付いた.#Civeche どういう意味だろう.私の知っている言葉では無いが,ローマ字ではあるし調べればわかるだろううか.ポケットに写真を乱暴に突っ込み直し,写真の角を指でいじっていたが,改めて外に出る決意を固めた.
隠し扉でもあるのかもしれないが,諦めて窓から外へ出た方が早そうだ.窓の外にブーツを下ろし,屋敷の外に降り立つと,止めていた呼吸を再び始めたように,自然の音と香りを感じ始めた.かすかな風になびく木の葉の音,濃いい草木の香りに包まれている.見上げると綺麗な星空の放つ無数の光が私を飲み込もうとしているように思えた.
「北半球なら春か.」
様々な星々・星座がある中でおとめ座に目を奪われた.理由に見当もつかないが,何故か心が惹かれる.
「スピカ..そうだな名前が無いのも不便だろう.」
ひとまずスピカを名前とすることにした.乙女座は神だったな.さて何の神だったか..考えながら振り返ると先ほどまでいた部屋が佇んでいた.その部屋はどこにでもある現代的な部屋のような内装に反して,中世の建築のような外装をしている.日本らしい低く簡素な屋根に西洋の宮殿のような壁が付いているのは酷く歪で奇妙だ.仕様だろうか,窓は勝手に閉まり,中は不気味なほど全く見えない.先ほどまでその中にいた事が信じられない程暗い部屋は壁に一枚の紙,あるいは絵を貼ったようだ.
真っ暗な窓を一面眺めていると,小屋の後ろへと続く小道に気付いた.草や蔓が多少邪魔をするが,ある程度踏み鳴らされているし,適度に乾いた地面は歩くのに心地よい.進んでいくと小さな泉があった.腐臭などはないが,魚がいるようにも見えない.あるいは地下水脈と繋がって豊富な生物を湛えているのだろか.少なくとも微生物がいて,どこからか流れているはずだとは思うが.近づいて顔を近づけるが,水面は静かに私の顔をその大きな額に入れただけだ.水の奥を見るには暗すぎる.
「屋敷もこの池も誰かが管理している..と見るのが自然だが,何故こんなに静かなんだ.」
星明りに照らされた暗い泉に降り注ぐ星が一瞬動いたと思った瞬間,人の気配を感じ振り替えると,男が立っていた.
「あんた何してんの?」
見ると,男が立っていた.老人というには若い,若人というには老いている.中年と言うしかない顔をしているが,目にかかるか,かからないか程度の神の奥の,少し細い目には優しい瞳を宿している.スタイルはよく,少し引き締まった腕を見ると,少し出た腹もその下には程良い筋肉を持っていそうだ.綺麗過ぎるツナギに少しの無精ひげを残した姿はコソ泥のようにも見えるが,だとすればわざわざ話しかける必要は無いだろう.そもそもあの屋敷に取るようなものは無かった.まさかこの池に伝説のお宝が沈んでいるとも言わないだろう.
暗闇で現れた男に警戒心を露わにしたが,男の両腕に抱えられた白い何かに目が行った.それは少しモゾモゾと動きこちらに顔を向ける.ウサギか?少し居心地悪そうに,大人しくしているウサギも一瞬こちらを警戒したが,すぐにこちらに向かって動き出そうとして,男が慌ててウサギを抱き直した.
「あーそうだ,この子あんたのかい?」
「ちが..」
否定しようとした刹那,こちらに跳んできたウサギをすんでのところで受け止め,戸惑っていると,男は少し呆れて言った.
「あんたの子みたいだな,ウサギは寂しがらせちゃダメだぜ?どっかではぐれたのかい,その子?」
「あなたはこんな場所で何をしているんですか?こんな..人気のないところで..」
「あんた失礼だな~,俺は近くに住んでいるモンさ.誰もいないはずの小屋の方で声が聞こえたから行ってみたら,あんたがいたんだ.」
「そうですか.怖がらせてしまっていたようですね.すみません.」
「まあ普通の人で良かったよ.その子の飼い主も見つかったし.」
抱えていたウサギは腕の中でスヤスヤと眠っている.仕方ない.あとで名前でも付けてやるか.
「このあたりに宿は無いですか?」
「う~ん...1日も歩いたら街があるが,このあたりにはないかな.」
男は小屋の向こうを示して言った.
「それだけ聞ければ十分です.ありがとう.」
「礼なんていらんいらん.向かうなら気をつけてな.まあ猛獣とかはいねえから,転ばないように気を付けるぐらいでいい.あ~それから.」
男は小屋の横の小道を引き返していく.どうやら悪い者ではないらしい.手荒な真似が目当てであれば,この場所は打って付けに見える.殺した後はこの池に沈めてしまえば人にも見つかりにくいだろう.そもそもこの辺りに人がいるのか知らないが.
小道を歩く男についていく前に振り替えると,先ほどより少し明るくなった泉は穏やかな水面を輝かせ始め,澄んだ水を湛えている.泉は周囲から隔絶されているようだが,不思議なほど自然に溶け込んでいた.泉の放つ心地よさに涙がほろりとほほを伝うのを感じたと同時に,こんな池に私ごときの体を浸けるのは酷く罰当たりに思え,笑いが漏れた.
小屋を回ると男は籠を探っている.男の傍に着くと,彼はようやく何かを探り当てたようだ.私に気付き,差し出した手には竹の皮に包まれたおにぎりと,竹の筒が握られていた.
「知らねーやつに貰うのも気が引けるだろうが,道中倒れられたりしたら寝覚めが悪いからよ.あんたの不思議な雰囲気は何か気に入ったしな.食べるかどうかはあんたに託すが,こいつ持って行ってくれよ.」
「いえ,ありがたくもらいます.喉はカラカラだし,お腹はペコペコです.」
「そうか!よかったよ.その子で手が塞がってるわな.よしこれも使ってくれ.」
一度ウサギを地面に寝かせて,差し出された帯でおにぎりと竹筒を体にまとった.竹を使ったファッションは服に浮くこともなく,馴染みすぎる事もなく,良いアクセントになっている.悪くない.
「一つ聞いてもよろしいでしょうか.ここは日本ですか?あなたが日本語を話す事を考えると,それは間違いないように思えますが,日本にこんな妙な建物や場所がある事を初めて知りました.」
「あんた..そうか,そうだよな.何となくは感じたよ.」
「何の事ですか?」
「いや,気にしねーでくれ.うん,そうだな,日本と思って問題ない.」
妙な回りくどい言い方をする.この質問にも明確な答えは得られないだろうか.
「一つと言ったのにすみません.もう一つ,この屋敷は何ですか?説明が上手くできませんが妙です.伝わりますか?」
「ああ,分かるさ.妙だよな.時間とか文化とかの流れが妙だ.俺も詳しくは知らないが,この屋敷の持ち主は知ってる.今は良いやつだから大丈夫だ.あんたこの屋敷に入ったんだろう?あいつから前に聞いたが,あんたの事か.」
「はい,しばらくここにいたようですが,出ていく事を決めました.」
「そうかそうか.それもいいよな.人生ってのは短い.行ける時に行きたい場所に行く事は普通に生きる人間の特権さ.しっかり享受してくれよな.もちろん遊んでばっかじゃ行かんけどよ.それじゃあ俺はここで星を見ていくから.気を付けていきな.ここから真っすぐ行くと湖がある.湖に出たら,湖に沿って左に歩きな.じきに橋が見える.その橋を渡って道沿いに進んでいくと,町に着くぜ.」
「色々とありがとうございました.では,いつか会ったらお礼をさせてください.」
男に手を振り,ウサギを抱え小屋を発った.少し細い目をさらに細くして笑う男の表情は心底いいやつだという感じが漏れている.