ロボット化計画
階段を一段飛ばしで駆け上がると、頭がクラクラし鼓動が一段と激しくなった。
「ハァハァ」と息する音に、『ツルルルルルル』という電車が発車音が交差する。
「ヤバい」と言う声は掠れた。
新井孝男は最後の二段を大股で一気に上がり、閉まりかけの電車のドアに向かって突進していった。背中でリュックが上下に大きく跳ねる。
『ツルルルルルル』という音がやみ、『ドアが閉まります』とアナウンスが流れた。
孝男は閉まりかけのドアに頭と右肩を突っ込んだ。ドアは容赦なく孝男の胸を挟んだ。左肩をねじ込み、左手一本でドアを押し開けようとすると、ドアが勝手に開いてくれた。その隙に車内に全身を放り込んだ。
車内に入り、宙に視線を向けて「フゥー」と息を吐いた。孝男の背中でドアがバシャンと閉まる音がした。
車内をグルリと見渡した。乗客たちの冷たい視線が刺さった。目が合うと、乗客たちの視線はすっとそらされた。こんな時間でも乗客はそこそこ多い。
アルコール臭い車内をふらつきながら奥へ進んだ。見る限り、座席に孝男の大きな体が入りこむスペースはなかった。無理矢理に座席の隙間に体を押し込めば、両隣の乗客は、しかめっ面を浮かべながらもスペースを空けてくれるだろうが、そこまでする気もなく、孝男は両手で二本のつり革にぶら下がり肩で息をした。
前に座る赤い顔の頭のうすい男が怪訝な視線を向けてきた。孝男は無視して目を閉じた。
顔が火照って頭がクラクラする。吐く息がアルコール臭いのが自分でもわかる。久しぶりの感覚だ。
胸が苦しく体はだるい。立っているのが辛かった。そんな状態でも口元だけは勝手に綻んだ。
ここ最近、それなりに楽しく過ごしてきたが、夢や希望は持てず、将来への不安はあった。
さっきまで一緒に飲んでいた信一の嬉しそうな表情が瞼の裏に浮かんだ。ハツラツと話す信一の言葉を噛みしめた。羨ましかった。
「よーし、俺もやるぞ」と言って、つり革を持ったまま両手を高く上げグッと背筋を伸ばした。
思った以上に大きな声が出てしまった。前に座る男が目を丸くして、孝男を見上げた。
孝男と信一は同じ大学に通っていた。その頃、二人だけでよく飲みに行った。酒を交わしながらエンジニアとしてお互いの夢を語り合うのが孝男は好きだった。大学卒業してからも二人は頻繁に飲みに行ったが、二年前に孝男が結婚すると、二人の会う機会は減った。
一年前に孝男が働いていた会社が倒産して二人の連絡は完全に途絶えた。再就職先が決まらず、食べていくために、やむなく知り合いに紹介してもらった小さな町工場で働き始めた。仕事はそれなりに楽しかったが、孝男は信一と夢を語り合うことが出来なくなった。
久しぶりに信一から会おうと電話があったのは二日前だった。
孝男は最初「うーん」とだけ言った。いつ潰れてもおかしくない町工場で働く自分は、仕事が順調そうな信一と会ってどんな話をすればいいんだろうか。
『絶対に会おう』『ひさびさに飲みに行こう』と、電話の向こうからハツラツとした声が孝男の耳に飛び込んできた。
孝男は昔とは逆だなと、飛び込んでくるハツラツな信一の声を聞いていた。信一から結婚の報告でもあるかもしれないな、それならあいつの顔を見て、おめでとうを言ってやらなければならない。自分が結婚の報告をした時、信一は自分のことのように喜んでくれた。
二日後の午後七時からなら行けると伝えたら、「ありがとう」と信一らしくないはね上がる声を出した。
「急に会おうって言うからびっくりしたわ。信一もついに結婚か」
孝男が店員に生ビールの注文を済ませ、おしぼりで手のひらを拭きながら信一に訊いた。
信一は眼鏡を外し目頭をおさえながら、「いや」と短く言って、首を小さく横に振った。
「ちがうのかよ」
「うん」
信一は眼鏡をかけ直して、人差し指でくいっとあげた。
「じゃあ、今日はどうした?」
「その前に何か食べようよ」
信一はメニューを開いて孝男に向けた。
「ああ、そうだな。お前から何か食べようって言うのもめずらしいな。昔は、俺が腹減ってんのに、無視して何も食わずに語ってばっかりだったのにな」
「腹が減っては戦はできぬ、だよ」
信一はニヤリと笑みを浮かべた。
「今から戦でもすんのかよ」
「うーん、でもそれに近いかな」
信一はおしぼりを几帳面にたたみテーブルの横に置いてから孝男に真顔を向けた。
店員が注文をとりにきたので孝男が焼き鳥やどて焼き、だし巻き玉子など適当に注文した。
「それと冷奴」と信一が最後に追加した。
「冷奴で戦に勝てるのかよ」
孝男が言うと、「豆腐は良質のたんぱく質だよ」と信一は背筋を伸ばした。
焼き鳥を頬張りビールで流し込み、どて焼きをつつき、だし巻き玉子を半分に割って焼き鳥の横に載せ、残り半分の載った皿を信一の前に滑らせた。
「お前も食えよ」
「ありがとう」
信一は冷奴をつついていた。
「実は、ちょっと仕事のことで悩みがあってね」
冷奴を味わうように食べてから信一が口を開いた。
「悩み?」
表情は悩んでいるようには見えない。
「まあね。それで、孝男は大学の頃、成績優秀だったし、よく僕を助けてくれた。だから、また助けてほしいと思って連絡したんだ」
信一が孝男に向ける目は輝いていた。大学の頃、ここで夢を語っていた時と同じ目だった。
「ふん、嫌みかよ。俺が成績優秀なわけねえだろ。大学の頃は、お前の方が成績は良かったじゃねえか。それに俺なんて就職した会社が結婚した途端に倒産して、今はちっぽけな町工場で働いてるんだぜ。この先不安だらけだよ。こっちが悩みきいてほしいくらいだよ」
くわえていたタバコに火をつけて天井にむかって、「ハァ」とため息といっしょに煙をはいた。しばらく天井に上がっていく紫煙を眺めた。
「フフフ」
笑う声がして信一に視線を向けた。信一は右の口角だけをくいっと上げて笑みを浮かべていた。
「あいかわらず、気持ち悪いやつだな」
「話だけでも聞いてくれよ。頼むよ」
信一が両手を膝に置いて頭を下げた。
「まあ、俺が役に立つかわかんねえけど悩みくらいきいてやるよ。どうせ、お前には悩みを相談できる友達もいねえだろうからな」
孝男はタバコの煙を信一に吹きかけてからタバコを灰皿に押し付けた。
「ありがとう、やっぱり孝男は変わってない。そういうとこがいいんだよ」
信一はタバコの煙を右手で払い、むせながら孝男に笑みを見せた。
「昨日のタイガースは、ほんまに打てへんかったな。ストレス解消のつもりのプロ野球観戦がストレスたまる一方やったわ」
三人の中で一番年上の新井孝男がそういって百円ライターでタバコに火を点けた。
「助っ人外国人は打てないですし、期待の若手もピリッとしませんもんね」
小柄で愛嬌のある榎田は缶コーヒーを口にしてから新井に言った。
「ほんま、高い金払ってんのに全く打たんわ。ピッチャーも相手にビビってストライク入らんし、どうしたらタイガースは強くなるんやろか」
新井はタバコの煙をフーッとはきながら、少し出てきたお腹を擦った。
新井孝男は大学卒業後に就職した会社が倒産した後、知り合いに紹介してもらったこの町工場で働いている。
将来への不安はあるものの仕事は楽しくアットホームなこの職場の雰囲気が孝男は気に入っていた。
「新井さん、榎田さん、大岩社長がこっち睨んでますよ」
新井と榎田の向かえに立つ背が高くひょろりとした金田が二人の背後に視線を向けて言った。
「あっ、こっちに来ます」と体をすくめるようにして言った。
金田の様子から見ると、大岩社長の顔は鬼のようになっているのだろう。
新井が振り返ると、大岩と目が合った。ギラギラと怒りの焔が瞳の奥で燃えていた。
「おいっ、お前ら」と大岩が威圧するように怒鳴った。
最近の大岩は機嫌が悪かった。これまでは、新井たちがタイガースの話題で盛り上がっていると、いっしょになって盛り上がっていた。今はそれが気にくわないらしい。タイガースの調子が悪いからではなく、工場の経営状態が芳しくないからだということは新井にもわかっていた。
「なんすか」
新井はこたえタバコを灰皿に投げいれて一歩前に出た。大岩のギラギラした目を睨み返した。榎田と金田は直立不動で小さくなっていた。
「なんすか、やないがな、いつまでさぼっとるんや」
大岩は額がぶつかりそうになるくらい近づいて新井を睨んできた。
「さぼってませんよ、休憩してるだけです」
新井は目をそらすことなく、一段と額を近づけた。
「そんな休憩認めとらんぞ。わしが認めてないからこれはサボりや。さっさと仕事に戻れ。今度サボったらクビにするぞ」
大岩はそう言って新井の胸を押した。
新井は「ふん」と鼻を鳴らし、胸ポケットからタバコを一本抜き取った。
新井がタバコをくわえた瞬間、大岩が新井を睨みながら、新井の口からタバコを取った。
タバコを取られた新井が大岩を睨み返した。二人の視線が一直線になり、バチバチと音をたてた。
大岩も新井から目をそらさず、新井の口から抜き取ったタバコを右手で握り潰し、そのまま灰皿に投げ込んだ。
新井は灰皿に投げ込まれたタバコをチラッと見てから、また大岩を睨んだ。
「新井さん、もう、仕事戻りましょうよ」
榎田が新井の右肘を引っ張った。太いゲジゲジ眉を八の字にしていた。
新井は「ああ」といって、もう一度、大岩にギュッと睨みをきかせてから、「チェッ」と言って踵を返した。
「ほんまに、あいつらのせいでこの工場はつぶれてしまうわ」
大岩はそう言って椅子に腰かけ、勢いよく背もたれに体をあずけた。大岩の大きな体に背もたれが『ギュー』と変な悲鳴をあげた。
「あなた、怖い顔してどうかしましたか」
大岩の妻で専務の正子が大岩の前にお茶の入った湯呑みを置きながら訊いた。
「どうかしましたか、やないわ。あいつら仕事もせんとさぼってばっかりなんや。阪神の助っ人外国人や若手のことをとやかく言う前にあいつらがしっかり仕事せえ、言いたいわ。こっちは高い給料払ってんのにほんま大した仕事しとらんわ」
大岩は湯呑みを手にして言った。
「最近の若い子はこんなもん違いますか」
「そんなことで済まされへんのや。取引先からは納期を早めろ、不良品を無くせ、価格を下げろとひっきりなしに言われてんのや。このまんまじゃ、あいつらのせいでこの工場がつぶれてしまうわ」
大岩は湯呑みを机にドンと置いた。勢いでお茶がこぼれ出た。
「すみません」
正子は肩をすくめた。踵を返し逃げるように事務所のドアへ向かった。大岩の機嫌が悪い時は放っておくのが一番だ。
正子はドアを開けたところで、あることを思い出し、「あっ」といって立ち止まった。
正子は回れ右して、目をパチパチさせながら大岩の顔をじっと見た。
「な、なんだ?」
大岩が怪訝そうに正子を見た。
「昨日、社長が外出中にお客さんが見えたんです」
「お客さん?」
「ええ」
「何者だ?」
「今、社長が言うてたような悩みが解決できますよ、みたいなこというて資料と名刺おいて帰りはったんです。忘れてましたわ。ちょっと待って下さいね」
正子は机にもどり抽斗を開けた。抽斗から白くて艶々した大きめの封筒を取り出した。
「はい、これです」
封筒を大岩の机の上に置いた。
「これがなんやて?」
大岩が首を傾げて、正子の顔を見上げた。
「その方は読んでいただければ、わかります。言うてはりました」
「そうか」
大岩はそう言って、封筒を手にとり、中に入っている資料を抜き出した。
「ロボット化による経営状況の改善案、これまでの経営者様の悩みは全てなくなります。やて」
大岩は資料の見出しを読み上げてから正子に視線をやった。
正子は「はい」と小さくうなずいてから「どういうことでしょうね?」と首を傾げた。
「よー、わからんな」
大岩も首を傾げた。
「担当の人、樋口さんいうてはったと思います。きっと社長さんのお役に立てますので、資料に目を通してからご連絡下さい。そう言うて帰りはりましたわ」
「とりあえず読んでみるか」
大岩は抽斗から老眼鏡を取り出し、ピカピカと光沢ある資料の表紙をめくった。
「納期の遅れや不良品によるトラブル、従業員の確保や育成でお悩みの工場経営者様に朗報です、やと」
「朗報ですか?」
正子はまた首を傾げた。
「ふん、ほんまかいな」
大岩は鼻を鳴らし、ページを一枚めくった。
正子は机を挟んで大岩の前に座り、大岩の様子を伺った。
活字が苦手な大岩のことだから、すぐに読むのをやめて資料を突き返してくるだろうと待っていたが、大岩はなぜか次々と資料のページをめくっていった。ページがすすむにつれて大岩の口元が綻んでいくのがわかった。
正子は黙って待っていた。
大岩は最後のページまで読み終えると、老眼鏡を外し正子に顔を向けた。
大岩の目が充血していた。慣れない活字を長く読んだせいなのか、興奮しているのかはわからなかった。ただ、鼻息は荒くなっていた。
「専務、こりゃいいぞ。すぐにこの樋口さんに連絡してくれ」
大岩は立ち上がり声を上げた。
「この度は弊社の『ロボット化による経営状況改善提案』にご興味をお持ちいただきましてありがとうございます」
樋口が大岩の前に現れたのは、連絡してから二日後のことだった。細身の体に紺のスーツ、就活中だと言われると、そのようにも見える樋口だが、大岩に向ける瞳は、それとは違う自信や凄みを感じさせるものだった。
「お待ちしてました。名刺は前にもらってるからいいよ」
大岩はそう言って右手を差し出した。樋口は出しかけた名刺を名刺入れにひっこめてから右手を出した。大岩の黒く大きな右手が樋口の青白く薄い右手を包み込んだ。
大岩は樋口と握手しながら、樋口の顔を品定めするようにじっと見た。眼鏡の奥の瞳には外見の弱々しさとは違う強い野獣のようなものを感じた。
「さっそく、ロボット化の話を詳しく聞かせてくれるかな」
大岩はそういってソファに勢いよく腰を下ろし、樋口にも座るように右手で促した。
「あっ、はい。失礼いたします」
樋口はソファに腰を下ろし背筋をピンと伸ばした。
「わざわざ来てくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ、社長の貴重なお時間をさいていただきありがとうございます」
「じゃあ、さっそくロボット化のなんとかいうやつを詳しく聞かせてくれるかな」
大岩は背もたれに預けていた体をすっと起こし、両膝をパンと叩くように手をついた。
樋口は視線を一度落として、何やらつぶやいて大岩の顔に視線をもどし口を開いた。
「こちらがロボット化による経営状況改善提案書です。大岩様の工場をロボット化にするメリットを具体的にまとめた資料になります。それとこちらの資料とDVDはこれまでに導入いただきました工場の成功例をまとめたものです。ご参考になるかと思いますので、また時間のある時にでもご覧下さい」
樋口はそういいながらカバンから資料やDVDを取り出しテーブルの上に丁寧にひとつずつ並べた。
その後、樋口は大岩の工場のロボット化することのメリットについて詳しく説明した。今なら初期投資を大幅に引き下げられること、ランニングコストも人件費より下がること、作業スピードは三倍以上になること、不良品を出すことがなくなること、ロボット自らが学習してスキルを上げていくこと、ロボットは文句を言わない、サボらないことなど、こと細かく淀みなく説明した。それらを聞いた大岩はこんな素晴らしい技術があることに驚き胸を踊らせた。
「うちの工場のこと、よく調べているんだな。大したもんだ。君の言う通りにやると、全てがうまくいきそうだ。君は本当に素晴らしい」
大岩はそういって相好を崩した。
「恐縮です」そういって樋口は頭を下げた。
『タイガースは今日もあと一本が出ませんでした。これで引き分けをはさんで五連敗です。オカダさん、タイガースこれで借金生活、Bクラスに転落ですが』
『なんか、こう、小さくなりすぎてるんよね』
大岩はテレビから流れるプロ野球中継をみながら、ため息をついた。
「あー、また負けたわ。弱すぎるから応援する気がなくなるわ。オカダの言う通り小さくなりすぎや、もっと思い切ったことせなあかん。もう応援せえへんぞ」
大岩はビールをグイッと飲んだ後、テレビに向かっていった。
「今は調子が悪いだけやから仕方ないですよ。そのうちに調子も上がってきて勝つようになりますよ」
正子がいった。
「ふん」大岩は鼻を鳴らして、残りのビールを飲み干した。
「ところで、樋口さんの話はどうするんですか」
正子は気になっていることを訊いた。
「ロボット化の話か。あんな夢のような話、進めるに決まってるやないか」
「あなた、樋口さんを気に入ってましたもんね」
正子も樋口が悪い人間と思ってはいない。違う形で知り合っていたなら、会話も弾んだろう。
あの時、樋口が来たことを大岩に伝えなかったら、こんなずっしりと重い気持ちにならずにすんだ。
「若いのにしっかりしとるわ。最初見た時は頼りなさそうに思ったけど、あいつの説明を聞いてると、わしらの工場のことを真剣に考えてくれてるのがわかったわ。うちの従業員とはえらい違いや、こういうのを月とすっぽんいうんや」
「うちの従業員も一生懸命やってると思いますけど」
正子は口元を歪めた。
「ダメだダメだ、あいつらに辞めてもらってロボットに任せるんだよ。それがうちの工場のためだ」
「そうですかね、確かに樋口さんもいい人でしたけど、うちの従業員も根はいい子だと思いますけど」
「根がよくても、あかんねや。タイガースの新外国人かって練習熱心で真面目やいうてるけど、勝負の世界やから結果出さんとあかんのや。わしらかて商売、ビジネスやから甘いことは言うてられへん。ダメなもんは切るしかないんや」
「そんなもんですかね」
正子の表情は一段と曇った。
正子は一ヶ月程前に新井と仕事の合間に会話した内容を思い出していた。
「専務、うちの嫁さん、おめでた、なんですよ。俺、もうすぐ父親になるんです」
新井が正子に相好を崩して報告してきた。
「うわー、おめでとう、新井くんが、ついにお父さんになるんだ。じゃあ、しっかり稼がないといけないわね」
「そうですね、産まれてくる子供のために、俺、めちゃくちゃ頑張りますよ」
ここがロボット化になったら新井たちはどうなるんだろうか、大岩は彼らをクビにするつもりなのか。あの時の新井のうれしそうな表情を思い出すと正子は胸が苦しくなった。
「大岩社長、お見積りと今後のロボットの導入スケジュールをお持ちさせていただきました」
樋口がにこやかにあらわれたのは、大岩がロボット化に同意してから一週間後のことだった。
「樋口さん、まあ座ってよ」
大岩はソファにどっしりと腰をおろし体を預けた。
「失礼します」
樋口は背筋を伸ばしたままソファの端にチョコンと腰をかけた。
「樋口さん、もっとリラックスしてよ。これから長い付き合いになるんだから仲良くやろうよ」
大岩は顔をしわくちゃにし相好を崩した。
「それでは」といって樋口はソファの背にもたれた。
「楽しみだな」大岩が体をおこし両手を擦り合わせた。
「こちらが見積書と今後のスケジュールの資料になります」
樋口が二冊の資料を大岩の前に丁寧に並べた。並べ終えてからチラッと大岩の顔を上目遣いで見た。
大岩は顎でデスクの引き出しを指し、正子に老眼鏡を取り出すよう要求した。
正子は憂鬱な気持ちで引き出しから老眼鏡を取り出し大岩に渡した。
大岩が老眼鏡をかけてから、少し下にずらして樋口の顔を見た。
「それじゃ、拝見するよ」
大岩がまず見積書に手を伸ばした。
「はい、よろしくお願いいたします」
正子はお茶の準備をした。
「樋口さん、ご苦労様です」
正子は樋口の前に湯飲みを置きながらいった。
「専務、ありがとうございます」
樋口は背筋を伸ばして頭を下げた。
正子は樋口と目が合って、この人も好青年なんだろうけどと、ため息を吐いた。
そのため息が聞こえたのか、樋口が正子の顔をチラりた見た。正子は目をそらした。
大岩は見積書に視線を落としたまま、正子が湯飲みをテーブルに置く前に、盆から直接湯飲みをとりお茶を啜った。
「初回導入の費用、だいぶまけてくれたね。これタダみたいなもんじゃない。樋口さん、こんなんでいいのか?」
「今回の導入を弊社の成功例として営業活動に利用させていただく条件ではございますが」
「あー、そんなこと言ってたね。いいよいいよ、ドンドン営業に利用してよ」
「はい、そうさせていただきます」
樋口が人差し指で眼鏡を持ち上げた。
「それだと失敗は絶対に許されないな、ハハハ」
「大丈夫です。間違いなく成功しますから」
樋口の瞳が眼鏡の奥で光った。
「わ、わしもそう思うわ」
大岩は樋口の自信たっぷりな態度に圧倒されている様子だった。
「大岩社長、今後のスケジュールの方もご確認下さい。問題なければ、そのスケジュールで進めてまいります」
「ああ、こっちの資料だな」
大岩は見積書をテーブルに置いて、隣に置いてあるもう一枚のスケジュールの資料を手にとり視線を落とした。
大岩はしばらく資料に視線を走らせてから、「ふーん」と言って顔を上げた。
「来週の木曜日にロボットの確認のために、わしが樋口さんの会社に行けばいいのかい」
「はい。その日にはロボットも出来上がっておりますので、ご確認をお願いいたします。三人のロボットを予定しております」
「三人なんだ、三台じゃないのか?」
「はい。ロボットも従業員。人と同じように扱っていただければと思っております」
「なるほどな」
大岩は感心するように首を小さく何度も縦に振った。
「ですから、出来ればロボットに名前をつけていただきたいのですが」
「ロボットに名前をつけるのか」
「絶対ではございませんが、お客様のほとんどはロボットに名前をつけております。そうすることで、今後ロボットとのコミュニケーションがとりやすくなりますので」
「そうなんだ、じゃあ名前決めようかな」
「ロボットにその名前をインプットいたしますので、出来れば来週までに決めていただければと思っております」
「そうか、来週までだな」
大岩は腕を組み天井に視線を上げた。
「よろしくお願いいたします」
樋口は背筋を伸ばしてから頭を下げた。
「樋口さん、決まったよ」
大岩が満面の笑みを浮かべて樋口の顔を見た。
「何がですか?」
「何がって、名前だよ、名前。ロボットの名前決めたよ」
「えっ、もうですか?」
樋口は目を大きく開いた。
「ああ、決まった」
「そうですか。では、今お伺いしましょうか?」
「ああ、善は急げって言うからな」
「わかりました。ではお伺いします」
樋口は慌ててペンを持ち手帳を広げた。
「バースとカケフとオカダで頼むよ」
大岩はそういって両膝を叩いた。
「バースとカケフとオカダ、……ですか?」
樋口はメモしながら戸惑う目で大岩を見た。
「そう、この三人に工場を任せれば大丈夫な気がしない?」
「あっ、ええ……、無知で申し訳ありません。この三人はどなたでしょうか?」
樋口が訊くと大岩は怪訝な表情を浮かべた。
「この三人を知らないの、樋口さん大阪の人でしょ?」
「はい、生まれも育ちも大阪ですが」
「それなら知らないとダメだよ。樋口さん、これまで完璧だったのに、はじめてダメなとこ見たよ」
大岩が口を尖らせた。
「そんな昔のこと若い子は知りませんよ」
正子が口を挟んだ。
「申し訳ありません」
樋口はペコリと頭を下げた。
「ハハハ、まあいいわ。とりあえずロボットはこの三人の名前にしておいてくれるかな」
「わかりました。バースとカケフとオカダでしたね?」
樋口がメモを確認しながら訊いた。
「そうそう。樋口さんもこの三人の名前は知っておいた方がいいよ。今教えてやってもいいけど自分で調べな。専務はあんなこと言ってるけど、やっぱり大阪人の常識だからな」
それから、大岩は鼻唄をうたいながらスケジュールに視線を走らせた。
指を舐めて次のページをめくった。大岩はしばらく視線を走らせていたが、あるところでピタリと止まった。右眉がピクリと動いた。大岩の表情がさっきまでとは明らかに変わったのがわかった。
樋口が大岩の様子を見て、ニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
正子が資料を覗きこむと、大岩の視線の先には『現従業員に解雇予告をする』という文字があった。
大岩の表情は消えていた。口を真一文字にして資料から天井へ視線を上げた。新井たちが油まみれになって働いている姿でも思い浮かべているのだろうか。
「大岩社長、どうかされましたか?」
樋口がさっきまで浮かべていた不気味な笑みを消して訊いた。
「あっ、うん……いやね、今の従業員には辞めてもらわないといけないんだよな?」
大岩の表情は完全に曇っていた。
「もちろんです。そうしないことにはロボット化する意味がありません。一ヶ月半後にはロボット化が始動しますので、そろそろ解雇予告を出してもらわないといけません」
「まあ、そうだけど、今の従業員の今後の生活のことも心配でな。もうすぐ子供が出来て父親になる奴もいるんだ。辞めさせてもいいもんかなと思っちゃうな」
大岩は後頭部をかきながら苦笑いした。
「後戻りはできません」
樋口は表情を変えずに、そういって抑揚のない口調で話しを続けた。
「従業員の方も納得しますし、大丈夫です。きっとお互いのためになります。大岩社長が心配することではありません」
樋口は話し終わると眼鏡に指を添えた。
「では、大岩社長よろしくお願いいたします」
樋口は一礼し、踵を返し工場を後にした。
樋口の背中を見送り、姿が見えなくなったところで大岩は正子の顔をじっと見つめた。
「どうかしました?」
正子が大岩の顔を覗きこんで訊いた。
この地域には、他にもたくさんの町工場があるのに、樋口は何故、うちのような小さな工場を選んだのだろうか。うちの工場の作業内容や従業員のこともよく調べていたが、そこまでする価値が、この工場のロボット化にはあるのだろうか。
初期費用もタダ同然まで値下げしてくれているが、こんなうまい話が本当にあるのだろうか。
それに最初から自信に満ちあふれ、解雇する従業員に対しても大丈夫だと言いきれる樋口という人物は、一体何者だろうか。
大岩はそんなことを正子に話してきた。
「樋口さん、悪い人ではないんでしょうけど」
正子は口元を歪めた。
「もう一度、彼の名刺を見せてくれるか」
大岩はそう言って、事務所へと歩き出した。
正子は「はい」と言って、大岩に続いた。
正子が抽斗から樋口の名刺を取り出し大岩に渡した。大岩は名刺を手に取り、じっと見ていた。正子は大岩に額を寄せ名刺を覗きこんだ。
名刺には、白地で『ロボット開発研究所 所長 樋口信一』とあり、その下に住所と電話番号だけが記載されてあった。
「あいつが所長なんだな」
大岩がポツリと呟いた。
「とりあえず、乾杯しようか」
「そうだね、すべてがうまくいきましたからね」
「信一、今回はありがとうな。これで大岩さんの工場も安泰だ」
「こちらこそ、孝男達がうちの会社に入ってくれる為なら、これくらいのことやらないと」
「信一からうちの会社に来てくれないかと言われた時は嬉しかったけど、大岩さんの工場が心配でな。俺たちが辞めたら、新しく人を雇わなければいけなくなるけど、あんなオンボロな町工場だと、なかなか人は集まらないだろうしな」
「僕は君たちのような優秀な人がうちにきてロボットの開発に取り組んでもらいたかっただけだよ。うちに来る条件が大岩さんの工場をロボット化してほしい、ということだから、それくらいはやらないとね。初期費用は君たちを引き抜けるならタダ同然でいいと思ったよ」
「俺たちとロボットのトレードみたいなもんやな」
「お互いにメリットのあるトレードだと思いますよ」
「でも、僕たちのトレード相手がバース、カケフ、オカダですから、すごいですよね」
榎田がにこやかにいうと、金田が「そうですね、本物なら考えられませんね」といって笑った。
「バース、カケフ、オカダって大岩社長らしいな」
孝男は大岩社長がよく話していたバックスクリーン三連発の映像が頭に浮かんだ。
「ところで、そのバース、カケフ、オカダって誰なんですか」
「えっ、大岩社長に調べとくように言われたんじゃなかったのか」
孝男は信一に向かってあきれたようにいって、信一の顔にタバコの煙を吹きかけた。
「まあ、面倒になってね」
信一は煙を払いながらいった。
「ダメだよ、大岩社長、そういうの嫌うよ。今度、会うまでに調べておいたほうがいいぞ。あの親父、すぐに機嫌悪くなるからな」
孝男がタバコの灰を灰皿に落としながらいった。
「でも、大岩社長は優しい人だと思ったよ。最終確認の時、孝男達に解雇予告を出す話になったけど、すごく戸惑ってた。みんなの生活のことを心配してた。すごく愛情を感じたよ。専務は最初から、そんな印象だった。僕が来ると少し表情を曇らせてた」
信一が眼鏡を外し眼鏡に視線をやりながらいった。
「まっ、そんな優しさはあったな。社長も専務もなんか親父とおふくろみたいな感じだったからな」
「皆さんのことが心配だったんでしょうね」
「そうかもしれないけど、俺たちのことより自分たちのこと心配しろよな」
そういって孝男は遠くを見た。信一には孝男の目が少し潤んでいるようにみえた。
「これからは、恩返しにロボットの開発で影ながら大岩社長を支えてあげてください。あなた方ならきっとすばらしいものを開発出来るはずです」
「当たり前だ。俺たちはバース、カケフ、オカダ以上なんだから」
孝男がテレビから流れるプロ野球中継に目をやった。
『オカダさん、今日はタイガース打線が爆発してますね。7回裏にはバックスクリーンに三連発も出ました。あの頃を思い出しますね』
「俺たちもバックスクリーン三連発くらいのことやらないとな」
榎田と金田の肩を叩きながら孝男が言った。
そしてテレビから流れる六甲おろしを三人で立ち上がり肩を組んで合唱し始めた。信一は恥ずかしく思いながらも黙って微笑みながら彼らを見ていた。
「よっしゃー、ええ勝ちかたや。バックスクリーン三連発や。タイガース打線が爆発したで」
大岩はビールを片手に上機嫌で六甲おろしをテレビの前で歌っていた。