第三十八話 到着
魔力濃度が濃い場所では当然魔法も使いやすい。それは初心者であるシローにとっても決して例外ではなかった。
彼はグラナダに習った身体強化の魔力を使って、崖を飛び上がろうとしていた。
「足だけに魔力を込めてもダメよ。全体的に強化しつつ、使いたい場所に魔力をぐわーっと集めるの」
「わ、わかっている……」
正直アスハが何を言いたいのかシローあまりわかってはいなかったが、アスハの説明下手は筋金入りだ。彼はわかった振りをして数回頷いた。
そしてシローは再び飛んだ。それは普段の彼から比較すると大きなジャンプを見せたが、崖を飛び上がるには今一つ足りなかった。
「くそ……」
シローが果敢に挑戦している間、キャスリンとアスハはその場に腰を下ろして談笑していた。川はここで途切れている。ここは最後に休憩する場所としてはうってつけなのだ。
「はっ!」
そして彼は再び飛んだ。
まだまだ崖の上には届かないものの、着実に飛翔の距離を伸ばし、どんどん魔法を使うことに慣れていっている様子がある。
「ほんとに熱心ねーシローは」
「アスハが言ったでしょうに……」
そしてまたシローは崖の上には届かずに着地する。彼の目は真剣そのもので、キャスリンにはそれが、何だか彼が焦っているように感じた。
そんなキャスリンの視線には全く気づいた様子もなくそしてもう一度シローは跳ねた。今回の飛翔はこれまでより一回り大きなもので、シローは必死で右手を伸ばし、崖の縁に捕まった。
「や、やった!!」
彼は嬉しそうに笑顔を浮かべると、懸垂する要領で体を一気に引き上げる。そして彼は崖から身を乗り出すように、眼科で休憩しているアスハ達に手を振った。
「おー。流石に早いわねー、サンゴといいシローといい初心者とは思えない上達っぷりなんだけど。本当に人間なのかしら?」
「確かに。くろーん、というのは魔法が得意なのかも知れないですね」
「ま、何はともあれ私たちもいきましょーか」
「そうですね……。頑張って登りましょうか」
「え? 登るわけないでしょ? 何言ってんの?」
「え? ならどうするんですか?」
「まーそこは最強のアスハちゃんに任せておきなさいって」
言うが早いかアスハは立ちあがり、キャスリンを両手で抱え込んだ。そしてゆっくり屈んだと思うと、そのまま一気に飛び上がった。彼女たちを引き上げようと崖に近付いていたシローだったが、アスハの飛翔に驚いたようにその場を空けると、そこにアスハはふわりと着地した。
キャスリンもシローも目を丸くしていたが、等のアスハは少し得意気な顔でニコリと微笑んだ。
「……こんなことできるなら最初からしてくださいよ……」
「全くだ」
「なははははは。ま、シローの修行ってことで!」
アスハはキャスリンとシローに睨まれながらも、頭をかきながらあまり気にした様子は見せなかったのだった。
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「つ、ついたー!!!」
「やっとですか……。つ、疲れた。お腹すきました」
そして暫くすると、ついに彼等は大きな水が溜まっている広い場所へと到着した。そこは洞窟というよりは大きな空洞で、上には大きな穴が開いていて、晴れ渡る太陽光が空から爛々と降り注いでいる。どうやらシロー達は一晩中歩き詰め、そして日が明けてとうとう目的地に到着したのだ。
「ピノ達は……まだみたいね。しまった。いつくらいに着くのか聞いておけば良かった」
「はー。やっと魔法を解除できます。つかれたー。腕がプルプルしますよ」
途中何度か休憩を挟んだとはいえ、かなりの時間を魔法を使っていたのだ。キャスリンは腕の痺れをとるように、右手をふるふると振っている。
「お前達はここで休め。俺は付近の探索をしてくる」
「また言ってるんですか。だからダメですって。行くなら私たちも一緒です」
「……だが危険がないか先に察知しておかないと」
「大丈夫大丈夫ー。ここは魔力濃度が高いから最強のアスハちゃんがもっと最強になるから!」
魔物がいない保証はないのだ。シローの言う通り周囲の安全を確認することは大切なことだが、それを一人で行うことをキャスリンはよしとしない。
そろそろキャスリンがどんな子かわかればいいのに。と、アスハは学習せずに怒られているシローを見て心の底からそう思ったのだった。
「まずは休憩しましょー? ここが待ち合わせ場所なんだから、無理して歩き回る必要もないでしょーに」
「……わかった」
目的地に着いた安堵感からか、シロー以外はここが『外』であることも忘れて気持ちよさそうに伸びをしている。空から指してくる太陽の光が洞窟全体を明るく照らしていて、その光は彼らを開放的な気分にさせていた。
そして影の部分に座り込んだキャスリンとアスハは両手できれいな水面から水をすくい、そしてそれを口に含んだ。シローは観念したようにキャスリンの近くに座り込み、付近の観察をし始める。
だが、そんな緊張の糸が切れつつある三人に黒い影が忍び寄っていた。
その影は三人の視界に入らないように息を殺し、獲物が完全に油断する隙を伺っていた。今はまだシローが気を張っていることに警戒しているのか、彼らの前にはその姿を現していない。
それは大きなオオカミのような魔物だった。普通のオオカミとの大きく違う点は、その大きめの顔には赤い複眼を額にいくつも持っているということで、その魔物はシローたちを暗がりから隠れて見張っていた。
だが彼らはそれに気が付くことがはできない。濃い魔力濃度に使っている人間達は一時の万能感に酔いしれ、高慢にも周囲の警戒を怠っているのだから。
「それにしてもお腹が減りました。ピノさん達がいつ来るかわかってたらいいですが」
「そうねー。シローは大丈夫?」
「俺は平気だ。絶食状態でも活動できるよう訓練を受けている」
「そ、そうなの」
辺りを警戒していたシローだったが、彼も少し気を緩めてアスハに対して返事をした。彼のその返答に困ったようにアスハは顔をしかめたが、取り合えず平気そうなので気にすることをやめた。
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そこからさらに数時間経った。
もともとかなりの疲労が蓄積している体だ。三人には強烈な睡魔が襲ってきていた。アスハやキャスリンは既にうとうとしているし、他でもないシローも周囲の警戒をしているものの、その集中力は低下の一途を辿っていた。
警戒してはいるものの、周囲の静けさは相当なもので、シローの状態も仕方のないものと言える。が、それを手を子招いて待っていた捕食者は今か今かとその瞬間を待ちわびていた。
ぽかぽかとした陽気が過酷な旅で疲れた彼等の体を癒してくれる。
そしてついにその時はやって来た。
それは最適な瞬間ではなかったかもしれない。なぜならシローは意識を完全には手放してはいなかったのだから。
だが彼は確実に油断していた。そしてそれは彼に一瞬の判断の遅れをもたらした。
そして次の瞬間、岩と岩の間からその魔物は突如として姿を表した。あまりにも突然の登場にシローは思考が固まり、時が止まる。敵はそんなシローを尻目に、キャスリンへ向けて一目散に駆け出した。
「ま、まて!」
日陰でうたた寝をしていたキャスリンにその魔物は物影から牙を剥けて突進していく。黒に近い灰色の毛皮は太陽の光を受けて輝きながら、風を切って移動していく。
普段の彼ならば即座に対応し、キャスリンに危害が加わらないように対策を打っていただろう。だがそれは叶わなかった。
敵は唸り声を上げながら、キャスリンを仕留めようと迫ってくる。キャスリンはその声に驚いたように目を開けたが、何かをするには既に遅すぎた。
が、魔物の牙がキャスリンに届く次の瞬間、シローは飛び込むようにキャスリンに覆い被さった。
もちろんそれでは敵の突撃を止めることはできない。鋭利な刃を連想させるその牙は、深々とシローの肩に突き刺さる。
「ぐぅ……!!」
「シロー!」
飛び散る鮮血が紅い魔物の眼を濡らす。
が、敵はそれに臆した様子はなく、首を大きく振る要領で、シローをキャスリンから引き離す。彼は地面を滑るように投げ飛ばされると、数回転がった所で止まる。そして標的をキャスリンからシローに変えた魔物は、彼に止めを刺そうと再び大きな口を開け、今度はシローの首元目掛けて地面を蹴った。
が、同じ手をシローは食わない。
彼は即座に起き上がると、近くに転がっていた石をその手に掴み、向かってくる敵の鼻先にそれを叩き付けた。
「ギャアアアア!」
敵は鼻から血を吹き出しながらのたうち回っている。シローは血が流れ落ちる左肩を押さえながら、その隙にフラりと立ち上がり、怒鳴るように言う。
「俺がこいつを引き付ける! その間にお前らは逃げろ!」
「なっ……!」
「ま、待ってシロー!」
言うが早いか、シローはその魔物に背を向けて逃げ出していた。敵は怒ったように大きな声で吠えた後、シローを追いかけて走り出す。それは完全に弱肉強食の世界のそれで、力の弱いシローはただ黙って食われる運命のようにも見えた。
が、シローは燃えるように熱い肩を押さえつつ、どうやって敵を倒すか必死に思考していた。
トゥーマイが使えない今、彼の戦闘力は普通の人間と大差あるものではない。策を巡るしか彼に生き残る道は残されていない。
「グワァアアッ!」
シローは走りながら自分の羽織っている青いマントを脱ぎ、刺すような痛みに耐えながらそれを自分の右腕にすざやく巻いた。痛みなど気にしてはいられない。ボタボタと血が肩から流れ落ち、瞬く間にそのマントを赤く染めていく。
そしてすぐに敵はシローに追い付き、怒り狂ったようにシローへと飛びかかった。が、彼は咄嗟に右手を突きだした。
当然敵はその腕もろとも食い破ろうと噛みつくが、何重にも巻かれたマントにそれは阻まれ、凶悪な視線をシローへと向けて唸り声を上げる。
「グルルルル」
「くっ……!」
だが彼はその威嚇に全く怯むことなく、ほぼ右腕だけの力でその魔物を引き上げた。狼型の魔物はまったく噛む力を緩めることなくそのまま持ち上げられる。そのいくつもある複眼は殺意を孕んだままシローを睨み付けている。
「うおおおおお!!」
そして次の瞬間。
彼はそのまま一回転したかと思うとそのまま敵を地面に叩き付けた。
「ギャインッ!」
まさか叩きつけられるとは思っていなかった魔物は、痛そうな悲鳴を上げて思わず口を開けてシローを離してしまう。
シローはその隙に横穴へと駆け込んだ。それは縦横2メートル程の洞窟で、足下には水溜まりがいくつかあるような道だった。天井は所々崩落したように開いていて、空から差す明かりはシローの置かれている状況とは対照的にのどかなものだ。
その先に道が続いているのかはわからない。だが彼にはその道しか残されていないのだ。
シローは懸命に走りながら打開策を探す。辺りには大きめの氷柱のような石がたくさんあり、彼の進行を阻害している。
そこでシローはあることを思い付き、その石に手を伸ばした。
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「くっ、シロー! あたしはあいつを追うわ! キャスはここにいて!」
「い、いやです! 私も行きます!」
「……っ! ならあたしの側を離れないこと!」
「はいっ!」
横穴に消えたシローを追うために、アスハは手近にあった鍾乳石を叩き折りそれを即席の武器とした。
続いて彼女は即座に周囲の索敵を行った。油断ゆえにそれを怠った自分を責めながら、周囲を見渡している。
「……他に魔物はいない……の?」
が、持ちうる感覚全てを研ぎ澄ませてアスハは辺りを警戒したが、他に魔物の姿はない。が、本来ならばそれは考えにくい現象だった。
何故ならシローを襲ったのは『オオカミ』型の魔物だったからだ。あの手の魔物は徒党を組み、力を合わせて敵を仕留める傾向にある。従ってアスハは他の仲間が潜んでいるのではないかと警戒したのだが、それは杞憂に終わったようだ。
敵が少ないことはうれしい誤算なのだが、その不自然さに一抹の不安を覚えながらアスハはシローを追い始めたのだった。
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