第二十話 黒い魔神
時は遡って数時間前。
アスハとキャスリンは昔よく来た『見晴台』までの道を歩きながら二人で楽しく談笑していた。
「本当に久しぶりね。この道を歩くのも」
「そうですね。私が供人としての修行を始める前だから、五、六年振りですかね?」
「覚えてる? あんたがもう遊べなくなるのが嫌だって言って修行場から脱走したこと」
「……あはははは。そんなこともありましたねぇ」
彼女らは昔を回想しながら、軽い足取りで森の中を歩いていく。その道はアスハやキャスリンにとっては思い出の道だった。キャスリンは吸血鬼への供物としての準備が始まるまではアスハとよくここを歩いていたのだ。
「まさかまたこんな形で歩くとはねぇ。人生わかんないわ」
「あはは。そうですね」
吸血鬼イスラは『エルフ』の血を好み、『ハーフエルフ』の血を生贄として求めている。
『ハーフエルフ』とは生まれこそは純血の人間だが、育ちは魔力の濃い『聖域』の外で育った人間のことだ。キャスリンは人間として生まれた瞬間からエルフの森で育ち、そして17年後にイスラへと捧げられるために『製造』されてきたのだ。
そして遂に『生贄』の時が近付き、エルフの森から一度生まれの『聖域』へと戻された彼女だったが、生贄の地『リリーナ』へ移動する際に魔物に襲われあわや死にかけたのだ。
そこをシローに助けられたのはまさに九死に一生を得たと言えるだろう。
「次は絶対にあたしが最後まで護衛するからね? その辺の訳のわからない魔物に襲われてキャスリンが死んだりしたら目覚めが悪すぎるもん」
「あはは……。他の皆が許してくれますかね」
「許してくれなくても行くわ……絶対に」
その言葉はまるで自らの心に刻んでいるかのように重く、決意に満ちた言葉だった。キャスリンはその言葉を聴いて嬉しそうな笑顔を浮かべたあと、坂道をどんどん登っていく。
「アスハ、もうすぐ着きますよ。競争しませんか?」
「はっ! 人間のあなたが私に楯突こうなんて生意気ね!」
二人は楽しそうに坂をかけ上がっていく。年令にそこまで差がない二人だったが、兵士としてグラナダから直々に訓練を受けていたアスハにキャスリンが勝てるはずもなく、あっという間に離されていく。
そしてアスハはまるで跳ねるかのように『見晴台』に到着したと思うと、走ってくるキャスリンをニヤニヤした笑顔を浮かべながら待っていた。
「あらー? 遅くなったわねーキャス。お転婆娘の貴女はどこに消えたのかしら?」
「はーっ、はーっ、いや、やっぱり無謀でしたね……。かて、勝てるわけありませんでしたよ」
キャスリンは肩で息をしながら、アスハを見ながら言った。アスハは自分の武器である剣槍を背負っているのだ。ハンデとしては十分にあったはずだが、それでもキャスリンではアスハに敵わなかった。
そしてキャスリンは深呼吸をしながら顔を上げると、美しい景色が彼女の目に飛び込んできた。
そこはエルフの森全体を見渡せる場所で、太陽に照らされた目映い木々や、時おり目の端に映る精霊達のきらびやかな粒子がその景色を彩っている。少し奥には虹のかかった澄みきった湖も見れ、その景色は彼女が昔に見ていたそれとなんら変わりはなかった。
「わー……。やっぱり綺麗ですね」
「そうね」
空は大きい鳥類の魔物がその羽を大きく羽ばたきながら優雅に空を舞っていて、アスハはその魔物を目で追いながら呟くように言った。
「……キャスがずっとここにいればいいのにね」
「……それは言わない約束でしょう? もう私が決めたことですから」
キャスリンは優しい笑顔をその顔に浮かべた。
アスハは辛そうな表情を必死に塗り繕った笑顔で押し隠す。
一番辛いのはキャスリンなのだ。それはアスハ自身一番よくわかっている。アスハの懇願はキャスリンの決意を無駄にするものでしかないこともわかっている。だがそれでもアスハはキャスリンに死んでほしくなかった。
「……そうだったわね。ごめん。あたしらしくないこと言っちゃったね」
「いえいえ。それがアスハの優しさだってこと、私はよくわかってますよ?」
「……キャス!」
アスハはキャスリンをぎゅっと抱き締めた。
前に別れた時に覚悟は決めていたはずなのだ。キャスリンの決意を応援すると。他でもないキャスリン自身が人柱となって、イスラ様へ自らが犠牲になることを応援すると。
だがいざキャスリンを前にするとすぐに揺らいでしまう決意にアスハは自分自身のことを情けなく思った。
「……苦しいですよぉ」
「ごめん。わがままなのはわかってる。でも、あたしは、あんたがいなくなるのなんてやだ」
「……」
「だから、もう少しこのままにさせて」
アスハは幼いときに両親を亡くしている。これまで年の離れた兄であるグラナダに男手一つで育て上げられたのだ。
アスハにとってキャスは家族以上の愛情を感じていた。
そんなキャスリンの決意を無駄にしたくない。だがキャスリンを失いたくない。そんな二つの葛藤で心を痛めていた。
そしてそんな風に感傷的になっていたアスハに追い討ちをかけるかの如く、飢えた四つの影が彼女達のいる『見晴台』に忍び寄ってきていた。
だがアスハもキャスリンも気付かない。
美しい景色と穏やかな風の音が彼女達を優しく包み込んでいて、流れてくるそよ風は平和そのものだ。
だが突然『それ』はやってきた。
例えるならひらりひらりと舞い落ちる木の葉のように、その黒い布切れを纏った『敵』は音もなく彼女達のすぐ後ろに近付いていた。
感傷に浸っていたアスハだが、隠す気のない悪意は敏感に感じ取れる。彼女はキャスリンを抱きしめたまま、そっと呟くように言った。
「……キャス。あたしの合図でおにいのところまで真っ直ぐに走って」
「……え?」
「……眷属がいる。それも囲まれてる」
キャスはアスハにそう言われ、ゆっくりと辺りの気配を探るが聞こえてくるのは静かな平和な音だけだった。
「あたしは奴等から逃げることはできない。だからキャス。急いで走って応援を呼んできて。それまではなんとか持ちこたえてみせる」
「……は、はい。わかりました」
と、言いつつアスハはキャスから腕を放し、背中にある剣槍へと手を伸ばす。
そして誰もいない虚空を見つめると、ゆっくりとした白いオーラが彼女の回りを包み込んだ。それにあわせて彼女の髪もふわりと浮き上がる。
すると次の瞬間、音もなく四つの影が彼女達の前に忽然と表れた。突然の登場に驚くキャスリンだったが、アスハは凛とした表情で敵を見据えている。
そしてアスハは小さく息を吸ったと思うと、鋭く言い放った。
「行って!」
「は、はいっ!」
そしてアスハは軽々とその槍を操り、敵へと向かって駆け出していく。キャスリンは即座に背中を向け、下に向かって一気に走り出した。
ーーーーーーーーーー
アスハは苦戦していた。
致命傷こそは負っていないものの、体の各部からは血を流し、さっき強打した右肩からは鈍い痛みが伝わってくる。
「……さーて。どうしたものかしらね」
四人の敵は付かず離れず常に攻撃を仕掛けてくる。それにコンビネーションのような概念はなく、敵は定期的に敵同士で足を引っ張りあっているため、アスハはその隙をついてここまで戦ってきた。
だがそれにも限界が近づいていた。
そしてまた一人の眷属が圧倒的な速度を持ってアスハにその爪を向けて襲いかかる。
「くっ!」
アスハはそれをすんでの所でかわし、お返しと言わんばかりに強烈な蹴りをお見舞いする。敵はその鋭い蹴りを受け後方に吹き飛び、巨木にぶつかり止まった。
そして再び起き上がろうとしたその瞬間、アスハから投擲されてきた槍がその眷属を貫き、そのまま後ろの木に突き刺さる。
が、槍が腹部を貫いているにも関わらず、眷属は気にした様子もなくアスハに襲いかかろうともがいている。
アスハは他の眷属からの攻撃をかわしつつ、右手を剣槍へと伸ばす。するとそこから伝っていく白いオーラはまるで目に見えない手がそこに生えてくるかのように、剣槍は敵から引き抜かれてアスハの手の中へと戻っていく。
「っやぁ!」
突き、斬り、そして距離をとる。
敵はアスハ以上の手傷を負っているはずだが、圧倒的な回復力で、できた外傷はみるみるうちに塞がっていく。先程アスハの貫いた眷属もあっという間に回復したと思うと果敢にアスハへと襲いかかる。
「くっ! キリがないわね……」
眷属を倒したければすぐに頭を潰して止めを刺さなくてはならない。傷を与えた程度ではすぐに再生してしまうからだ。
多少の手傷を負わせることはできても、流石に四人に襲われていては止めを指すことができず、アスハは苦戦を強いられているのだった。
今アスハはまた一人の眷属を薙ぎ倒し、致命傷を与えた。内蔵まで達する傷だったが、その傷を与えられた眷属は腹から腸と血が垂れているのも気にした様子もなく起き上がってくる。
そして一瞬それに視線を奪われたアスハにできた隙を眷属につかれた。
彼女は死角から飛び込んできた眷属に思いきり体当たりをされ、横方向に吹き飛ばされる。そして二、三度転がったあと木に叩き付けられて止まる。
もちろんアスハは苦痛に顔をしかめながら即座に目線を上げると、別の眷属が凶悪な爪を向けて飛び込んできた。
「やぁっ!!」
アスハは右手を前に突きだすと、見えない衝撃波が生まれ、飛びかかろうとしていた眷属はまるで紙のように吹き飛ばされる。
フラフラと立ち上がるアスハだが、その全身をひどい脱力感が襲い、痛めた部位はズキズキと鈍い痛みを放っている。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……。くっ……」
アスハはよろよろと眷属達から逃げるように走る。
吸血鬼の僕達は疲れきっているアスハをまるで嘲笑うかのようにケタケタと高い声で嘲笑っている。
眷属達はまるで狩りを楽しんでいるかのように、アスハを確実に弱らせ少しずつ追い詰めてゆく。
が、アスハもただ闇雲に逃げているわけではなかった。彼女の進行方向にはエルフ衛兵達の駐屯地があり、そこには多数の兵士が待機しているはず。そしてそこまでたどり着いてしまえば今度はこちらが多勢になる。それを見越しての逃走だった。
また眷属の一人がアスハを狙って飛び込んでくる。アスハはそれを体をくねらせてかわし、右手を剣槍へと伸ばす。流石に相手もその先から武器が飛んでくることを学習したのか、アスハの視線へと顔を向け、襲いかかる凶器をかわした。
「ちっ……。やぁ!」
が、剣槍の突撃をかわせても、それを掴んだアスハの鋭い斬撃は避けることができず、眷属は右肩を大きく切り開かれる。
そこからまるで噴水のように血が流れ出すが、少しそこを抑えるだけであまり気にした様子もない。
彼らには痛覚の概念はないのだろう。加えていうなら恐怖という概念もない。
アスハは顔についた返り血を拭き取りながら、再び眷属達から距離をとった。
ーーーーーーーーー
いくらこの森には慣れていると言っても、四人の敵を相手にしながらの逃走劇はアスハの体力を容赦なく削っていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
たった一人のエルフを狩りきれないことに苛立ちを覚え始めたのか、敵は怒ったような奇声を上げながら攻撃を仕掛けてくる。
眷属が攻撃してくる度にアスハの体に生傷が増えていく。剣槍はいつの間にか彼女の手からは消え去り、ただただ、いなしながら逃げるという行為を繰り返していた。
だが、事実として駐屯地は近付いてきていた。
その証拠に鬱蒼とした森から、間引きがされた見通しのよい森へと辺りの様子が変わってきている。
当然それに伴い敵の攻撃もより熾烈なものになっていたが、アスハはなんとか気力だけで逃げ続けていた。
そしてついに多数の兵士が詰めている駐屯地がアスハの視界に入ってきた。そこはシロー達を護送した際にも通過した砦のような建物で、太い木で作られた展望台からは兵士が常に周囲を見張っている。
はずだった。
「……あ、あれ?」
だがアスハの見える範囲からはその偵察台に人がいる様子は確認できなかった。
彼女は霞みつつある自分の目を信じずに、砦まで走っていく。
それは彼女にとっての希望だった。
そこにいけば味方が沢山いて、助けてもらえると思っていたのだ。だからこそここまで諦めずに逃げ続けられた。
そしてついにアスハは開きっぱなしになっている門を通過し、砦の中に飛び込んだ。
だが……。
「だれかっ! 眷属がそこにいるの! 誰かっ……。たす……け……」
誰も、いなかった。
「うそでしょ……? なんで……?」
その駐屯地はもぬけの殻と化していた。あちこちに穿った地面や破損した装備が落ちていることから推察するに、ここで戦闘があったことは明白だが、アスハにはそれがわからなかった。
「……いやよ……ダメよ」
絶望に暮れるアスハだが、更に彼女に追い討ちをかけるかのように彼女を追ってきた眷属が次々とその砦の中へと入っていく。
アスハはその様子を見て背中を向けて逃げ出していた。そこにもう明確な意思はなく、ただただ逃げているだけだった。
「あたしは、こんなところで、死ぬわけには……」
息を切らしながら走るアスハだったが、次の瞬間足下に転がっていた剣に足をとられそのまま倒れこんでしまった。
焦ったように腕を動かし、少しでも前に進もうとするアスハだったが、彼女はあることに気が付いた。
辺りは静寂に包まれていた。
さっきまでの戦闘はまるで嘘かのように、そよ風が木の葉を運ぶ音しか聞こえてこない。
アスハはゆっくりと顔を上げ、辺りを見渡した。が、アスハが暴れた跡は残っているが、眷属達はその姿を忽然と消していた。
「あ、あいつらは……?」
アスハは体を壁に預け、乱れた息を整える。
全神経を索敵に費やしているが、敵の気配が完全に消えていた。
敵は諦めたのか、それとも他に何か別の理由があるのか。それはアスハにはわからない。
だがアスハは安堵したようにため息をつき、少し体の緊張を解いた。
が、次の瞬間。
「チ、チ、チチチチ」
その声が聞こえた瞬間、アスハは何か冷たい物が足首を掴んだように感じた。
「……へ? いやぁぁあああ!」
それ眷属の手だった。
一瞬アスハは気を失っていた。体のあちこちに傷を作り、疲労も限界に達している。そんな状態だからこそ、眷属がいないという幻覚を見てしまったのだ。
そしてその手はアスハの足首に爪を食い込ませながら彼女を引きずるように持ち上げた。
アスハは懸命に地面に捕まろうとしたが、尋常じゃない力に引き上げられ、あっという間に体がつり上げられる。
「チ? エル、エルフ?」
「ケタケタケタケタ」
「いや! いやよ! やめてっ! はなして!」
アスハは宙に釣られたまま、懸命に拘束を解こうともがく。
が、外れる気がしない怪力に、アスハは明確な『死』を感じていた。
いつのまにか表れた眷属達はアスハを囲み、まるで品定めをするかのように彼女の体を眺めている。
黄色い刺すような目がぼろ切れのような黒い布から覗き、アスハは身の毛がよだつような悪寒に襲われる。
それは絶望の感情で、『死』の恐怖だった。
「いやっ! はな……して……!」
アスハは最後の力を振り絞り、彼女の足を掴んでいる手に向けて先程の衝撃波をもう一度放った。
その波動は眷属の手を吹き飛ばし、アスハも尋常じゃない量の血を足から流しながらボトリと地面に落ちた。
が、指一本動かせなくなったアスハだが、懸命に体をくねらせ、少しでも逃げようと最後まで諦めない。
「はー、はー、あ、あたしは……。キャス……」
憐れみを覚えずにはいられないその様子だったが、眷属にそれが伝わる様子はない。
この世は弱肉強食なのだ。
アスハは弱かった。だから眷属に血を吸われて死ぬ。
それは実に分かりやすく、残酷な世界で。
「キャスと、一緒に色んな所に行きたかった。キャスと一緒にもっと笑いたかった。あたしは、キャスにまだあの時の恩を返せて……」
次は首を捕まれ、持ち上げられた。
目の前には大きな牙が見え、長い舌が獲物を喜ぶかのように口の中で踊っている。
周囲がまるで時の流れが遅くなったかのようにゆっくりと景色が流れる。
これが走馬灯か、とアスハは己に近づく死を明確に感じていた。
そんな死を目前にしたアスハの脳裏に浮かんできたのは己の幼き日の記憶だった。
呼んでくれてありがとうございます。
これからもよろしくです




