その6、決心
ここからテーベ=ティヴァイン目線
私が王子殿下――サミュエル・デ・オーストーン様に出会ったのは、七歳の頃だった。
思えばそのときから、私は愛に興じていたような気がする。サミュエル様を愛しているのが楽しくて、成長を見守る母親のような感覚で私は殿下を愛し、そうしていられる日々は幸せだった。
何故私が殿下を愛するようになったのかと言えば、その未成熟なところに惹かれたとしか言いようがない。
未成熟で我がままでやんちゃ。それが少しずつ変容していく様を一番近くで見守れる権利を婚約者という立場に収めることで認めて下さった国王陛下や王妃さまには頭が上がりそうもない。
みなは私に彼を導いてほしいようだったが、生憎私はそんなつもりなどなかった。ただ、本当に許されないことをやろうとしているときや、評判を著しく落としてしまうようなことをやりかねないときには、さすがに忠言を申し上げた。
殿下も私が口を挟むときは自分のしている行動が危ういときだということに気付いたのだろう。私から口を出されなければ大丈夫だと安心しきってしまって、さらにやんちゃな部分に磨きがかかってしまった。
盲目にこそなっていないものの、色眼鏡のかかった私には、そんな殿下もとても素敵に見えていた。
ある日、手記が見られてしまった。私は自分の頭の中を整理するのに、手記に書き記すという手段をとることが多い。だが、よりにもよって殿下に見られてしまったのは、私が溢れ出る殿下への想いが暴走しないようにするための、『今日も殿下は素敵でした。』と書き連ねたものだった。
そこに突然殿下の筆跡で『どんな所が素敵なの?』と問われてしまった私の恥ずかしさと喜びと言ったら。思い出すだけでも恥ずかしい。恐らくこのとき私は初めて、屋敷の皆に狂人だと認識されるきっかけとなるあのおかしな笑い声を発した。それが自分から発されたものであること、加えてそれが自分の心からの笑い声であることを知った私は、自分が狂っていることをようやくそこで自覚したのである。
そもそもあの一文だけに言葉を収めていたのは、殿下への想いなど手記がいくらあっても足りないぐらい書けてしまうからである。どんな所が素敵なのかと問われてその魅力を本人に対して半時も長々と話してしまったのは愚策だったと自分でも反省している。
でも、その件があってからより一層お互いを理解することはできたと思う。
殿下は私が思っていたよりも馬鹿だったと仰っていたし、私は殿下のことをさらに深く愛することができた。互いを見る目は紛れもなく『婚約者』を見る目で、その賢さには感服したものだ。
私たちの関係が変化したのは留学生のアネス・フローレルが来たことと深く関係しているのだが、それを語る前に、私がずっと周りの人間たちに騙ってきたことを記しておこう。
私は物心ついたときにはもう、自分が所謂『普通』ではないことに気が付き、それを隠していた。確かに殿下に対する愛も決して普通ではないとは思うのだが、それとは比べ物にならないほどに私はおかしかったのだ。それこそ、『優秀』という隠れ蓑に身を潜めなければならないほどに。
精霊の存在。それはこの世界に棲むものなら誰もが認識しているモノで、魔法を扱うことができるのも精霊という助力してくれる存在あってこそなのだ。
精霊は不可視で、人に害を与えない限りはその姿は人の目に触れることはない。研究家も大勢いるが、その生態はおろか、どこに棲んでいるのかも解されていない。
そのはずなのだが、私には精霊が見えた。それだけならまだしも、話している彼らの会話が聞こえ、それに参加することさえできてしまった。それが異常であるということを知ったのは精霊側から私に向かってその常識を教わったからで、おかげで私はこれまでに誰にも精霊とコンタクトを取れるということを知られることは無かった。無論、これはサミュエル様でさえも知らない事柄である。
私は子どもの頃から、彼らの話相手になっていた。一月に一度だけ、彼らの祠へ行って大精霊さまと言葉を交わす。彼らの嘆きを聞き届けて改善を図ったり、こちらではどうしようもないことを彼らに頼んだり、良い隣人としての関係を築けていた。
私は彼らと話をすることが好きだった。その時間が楽しかったこともあり、大切にしていた。
だが、アネスさんがこの国に何日か経過した頃、突然精霊から呼び出された。今日は殿下と街へ出る約束をしていたので、かなり早めに家を出て祠へと行く事にした。
「余所者が我々を傷つけた」
いつになく怒気を孕んだその声音に、私は身を震わせた。
自分が問題ないと判断していた少女が精霊を傷つけていたなどと言われて、私は驚きを隠せない。
「お言葉ですが、アネスさんは精霊のことが見えていません。意図的に傷つけるなどできるはずがないと思うのですが」
その私の詞に、大精霊さまは考えるような素振りを見せる。普通の精霊が手のひらに乗るようなサイズの光の球なのに対して、大精霊さまは小人のような小さな体を持っている。とはいうものの、その表情も悪戯っぽく子供じみていて、普段はまるで威厳を感じられない。
だが、先の言葉には死を予感させられるほどの迫力があった。心臓を薔薇の蔓で巻かれてしまったかのような感覚に陥り、いまも冷や汗が止まらない。普段は気さくに接していたが、本来ならばそれは叶うはずもない存在だということを再認識させられた。
それから大精霊さまはしばらく考えられた後、何かを決意したかのようにこちらを見た。
「他の大精霊に問うてきたぞ。過去にも無自覚に精霊を傷つける者があったそうだ。あまりにもその行いが目立ったので、やむなくその土地の精霊は人間たちを追い出したそうだ」
無自覚で精霊を傷つけてしまう存在。そんなことができてしまう人がいるとは。
厄介払いされてきたとは聞いていたが、こんなこまでやってしまうとは。少し様子を見る必要があるかもしれない。
大精霊さまが言った言葉をよく噛み締める。人間達を追い出したということは、攻撃したということに他ならないだろう。昔より魔法技術が衰退したと言われ、精霊の力を借りないと力を使えないレベルまで地に落ちた我々に、それを止める術があるのだろうか。ややもすれば死人が出る可能性があるだろう。
過去のケースがどれだけ昔のことかはわからないが、その時点で逃げる他なかったとするならば、いまの私たちがされるのは虐殺である可能性すら有り得ない話ではない。
それだけは何としても避けなければならないだろう。
どうにか彼らの怒りを押さえなければいけない。
「その怒りを抑えていただくことはできますか。彼女も故意ではないのです。その矛をどうか収めていただきたいとお願い申し上げます」
頭を下げた私に、見えないが大精霊さまが笑ったような気がした。
恐るおそる顔を上げると、大精霊さまはニヤリと顔を歪めながら、こちらを見ていた。
「では、あの者の代わりにお前に罰を受けて貰おう」
そう言うや否や、体に雷が落ちたかのような痛みが奔った。いや、実際に落ちていたのだ。大精霊さまが魔法を放ったである。
練り上げる魔力の感知すらできないほどの速度で放たれた魔法は私を文字通り焦がし、倒れ伏させるには十分だった。体は痛みに悲鳴を上げ、痺れてしまっているのか声を発することすら叶わない。
防御することもできずに魔法の直撃を受けた私が無事だったのは、ひとえに私を殺しても意味がないと大精霊さまが理解した上でギリギリの威力の魔法を行使したからだろう。
「傷は治す。だが、我らが一度傷つけられる度にお前に先程と同じ程度の魔法を食らわせる。いいな?」
気付けば体の傷は消え、破れた服も元へ戻っていた。
だが、痛みが引くことはない。趣味の悪いことだと罵りたくなる。だが、その権利は今の私には無いのである。温情を貰っているのは私の、私たちの方であって、意見すればこの国は滅んでしまう。
逃げるという選択肢もない。そうすればこの国は壊されてしまう。
精霊は悪戯好き。そう言われてはいるものの、これはさすがにあんまりだと思わずにはいられなかった。
月に一度の楽しみだった密会は回数を増し、楽しかったはずの時間は、精霊たちに弄ばれる苦痛の時間へと変化した。
体が動かせるようになるまで時間がかかり、痛みも相まって約束の時間に遅れてしまうことが増えた。時間に遅れた理由を問われたとき、精霊のことを口に出さなかったのは、巻き込まないためである。
それが理由で私が殿下のことを信用していないのだと思われてしまい、殿下がアネスさんに傾倒ようになったのは仕方がないことだったのだと思う。でも、あんな苦痛の感情以外何もないような時間を殿下に味わわせるわけにはいかない。私一人が耐えればいいだけの話なのだから。
正直にいえば、アネスさんのことは特段何かを思うことはなかった。サミュエル様の好みが『私』というとてつもなく限定的なものであると本人から何度も懇切丁寧に聞かされていたし、その話が仮に嘘だったとしても私が彼女に劣っている部分があるとは思わなかった。
アネスさんは調べていた内容と同じように貴族令嬢とは思えないほどにやんちゃで、男女で顔を変えることなく、媚を売ることもなく、その内面だけをじっと見つめて心の内の闇を晴らそうとしていた。
精霊に言われてから自分の目で観察していたのだが、あの子の観察眼は異常である。手の動き、制服の上からわかる呼吸の動き、目の瞳孔の動きから筋肉の強張りや弛緩に至るまで、すべてをその両の目だけで捉え、的確な言葉を発していた。
実際に見てみればわかった。彼女は決して貴族令嬢として何かが欠けているわけではない。心の内を言い当てるために探ったであろう情報収集能力は侮れないし、周りから恨みを買わないようにそれとなく婚約に興味がないことを仄めかしている。
優秀だ。そう思わずにはいられなかった。もしかすれば彼女は周りから期待されるのが嫌で貴族令嬢らしからぬ行動を取っているのではないかと邪推をしてしまうぐらいには。
ある日、殿下がアネスさんを連れて街に出た。王都の案内をするらしい。王子自らがやるというのに疑問こそ覚えたものの、彼女の母国に対しての牽制の意味合いも込められているのだろうと思う。
『お前らが厄介払いしたご令嬢は王子殿下のお眼鏡に適っているぞ』
私はその日も精霊の祠に呼び出され、胸に穴を開けられて本気で死ぬかと思わされた帰り、失った血でフラフラになりながら帰っていると、お二人の姿を発見することができた。
そこで見た光景は私の頭をガンガンと叩くように思考をクリアにし、目に焼きつけさせたのだ。
アネスさんが転んだ平民の子どもに目線を合わせて手を差し伸べる姿を見て、私との決定的な差を見せつけられた。そしてそれが、民が求める王妃の姿なのではないかと考えさせられた。
私とアネスさんの決定的な差。それは民との距離である。
確かに私に街に降りて民と関わることはあるが、あくまで『次期王妃』として、『貴族』としての立ち振る舞いしかしてこなかった。それは市井の民の憧れを生み、爵位を目指そうと努力させる役割があるのだと思っていたが、間違いだったのだ。
そもそも憧れを生むだけならば、王子殿下だけで事足りるのだ。我が儘な面はあるがきちんと仕事はするし、容姿も申し分ないことに加えて武術の心得もある。
ならば王妃がすべきことは何か。民に寄り添うことなのではないか。もっと国を発展させようとするならば、民の意見を聞けるような、民に親しみのある王妃である必要があるのではないか。そうでなければ『国王陛下と王妃さま』という存在は遥か上の存在になってしまう。
「私も、まだまだですね」
小さくそんなことを呟いて、私は決心する。
彼女にこの座を譲ろう。
好きだから。愛しているから。そんな下心だけで隣にいられるほど、サミュエル様の隣は安くない。
「……下心しかない癖に」
自分に対してそんなことを言ってしまったのも仕方がないことだろう。
私たちは国の傀儡なのだ。殿下の隣にいたいなどという嫉妬心など抱いたところでどうにもならず、律することを知っている私がそれを暴走させることなどあり得ない。
自室で手記に自分の考えをまとめていると、自然と笑みがこぼれてくる。
「ふひひ、くはは、かひひ、くふふふ」
ああ、殿下。あなたの幸せを考えられるだけで、私はとても満足しているの。
このままいけばきっと、あなたはアネスさんに恋慕の情を抱いてくれるでしょう? それを見つけたらその瞬間から、私は全力であなたの恋を応援します。
そしてその愛しい人と共に、この国を支えてくれれば。幸せなあなたを見れるなら、私がどうなろうと構わない。謂れない罪を着せようとも構いません。何も言わずに去るのでも構いません。それがあなたの幸に繋がるというのなら、そんな扱いを受けることのなんと光栄なことか。
だから、殿下。ちゃんと私に幻滅して下さいね。くれぐれも私に情を残して、このまま私を王妃に据えるなんてことにならないように。
保険のために使えるものはないかしら。そうだ。いまの私の遅刻は良い材料かもしれない。男と逢引をしている。そんな噂なら女性陣は食いつくはずだし、私がどこかへ出かけているのも気づくはずだ。
「かはは、くふふ、ふひひひひ」
ああ、なんて楽しいんだろう。自らを貶めようとしてまで彼の幸せを祈るだなんて、きっと私はもう戻れないぐらい、狂ってしまっているんだろうな。狂っているとは思っていたけれど、こんなところまで来てしまっているなんて。
でも、彼のために狂ってしまうなら、それもそれで心地いい、かな。
あと3話で完結します