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1、出会い

「バカ野郎!」

 課長のだみ声が総務、いや、会社中に響き渡った。

「俺はブランクにしておけって言ったんだよ、ブランク! 空欄だよ! わかるか? 空欄」


 事の発端はこうだ。だみ声課長が「この書類、氏名の欄はブランクにしておいてくれ」と言った。だから俺はその書類の氏名欄に丁寧に『ブランク』と書いた。そして今に至っているわけだ。確かに俺のミスだ。だがここまで怒らなくても。

 恐らく部署中俺に注目しているに違いない。同期の櫻井なんか一瞬声に出して笑った。穴があったら入りたいとはこのことだ。


「お前の名前はなんだ」

 課長が嫌らしい目をして聞いた。

「天草です……天草剣士」

 消え入りそうな声で俺は答えた。課長が俺の名を知らないはずなどない。

「そんな立派な名前もったいない! 今日からおまえはブランクだ。ちょうどいいだろ。お前の脳みそもブランクだからな」


 いつか絶対パワハラで訴えてやる。

 

 胸に誓った時、課長の目が俺からそれた。と、突然優しい目になった。同時に、今までえらそうにふんぞり返って説教していたくせに立ち上がる。


 かつ、かつ、かつ

 ヒールの音が、甘いシャンプーの匂いを連れてきた。俺は思わず振り返り目をとめた。

 まるで時が止まったかのようであった。癖のない真っ直ぐな長い髪。抜けるような白い肌い自然に紅い唇が映える。大きな目はくっきり二重で、中から意志の強そうな黒目がちの瞳がのぞく。筋の通った高い鼻もその整った顔を作るために一役買っている。

 正統派美人だ。

 恐らく、俺の口はだらしなく開いていたに違いない。今思えばもう少しきりりとした顔をしておけばよかったと思ったが後の祭りだ。


「山田課長、大沢部長はお席にいらっしゃらないようですが外出中ですか」

 彼女は歯切れのよい言葉で話した。課長が突然似合わない笑顔になったのが改めてわかる。

「いや、今会議中だよ」

「そうですか。次回の会議資料の一部をお届けしたかったのですが」

「渡しておこうか」

「そうですね。お願いします」

 そう言うと彼女は課長に封筒を渡した。

 課長が上司以外でこんな頼まれ事を自ら進んで引き受ける姿などついぞ見たことがない。とは言っても、俺も大阪から東京に転勤してまだ一ヶ月だから偉そうに「見たことはない」と言える立場でもないのだが。

とにかくこの課長は権力にも弱いが美人にもダメらしい。そう言えば歓迎会でつれていかれたキャバクラで、鼻の下を伸ばしていたっけ。

 彼女はもう一度頭を下げると回れ右をした。その時、ちらっと俺を見て彼女は笑った。

 どうやら「ブランク」を聞かれていたらしい。俺は彼女とこんな出会いをしてしまったことに、だみ声課長を恨んだ。

 これが彼女、白鳥小百合との出会いだった。



「なあ、彼女、美人だったよな」

 櫻井はうどんを食べる手を休め、俺をじっと見た。見れば見るほどいい男だ。女が好きそうな癖のない顔と癖のない髪をしている。どうして女はこういう中性的な男が好きなのだろう。

「彼女?」

「朝怒られたろ、課長に」

「ああ、ブランク事件ね」

 俺はいささかむっとして、櫻井を見た。これで怒るほど俺だって短気ではない。

「そのとき、女性が来ただろ。ものすごく綺麗な。なんていうか、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、を地でいったような」

 バカにしたように櫻井は俺を見た。うどんをずるずる食べながらだから、尚一層バカにされている気分だ。そう言う意味では俺もそばをずるずるだから五十歩百歩だが。

「それがどうした」

「彼女、課長と知り合いみたいだったけど、名前知ってる?」

「なるほどね」

 もう一度櫻井は俺をまじまじと見つめて、笑って言った。

「その情報が聞きたくて社員食堂じゃなくて、外に俺を誘ったわけだ。一目ぼれでもしちゃったわけ? 三十五にもなって」

「そういうわけでもないけどさ、気になるんだよな、なんか。っていうかさ、俺の初恋の人に似てるんだよ。顔っていうより、雰囲気が」

「何だよ、その初恋の人じゃないかって言うわけじゃないよな。一昔前のドラマじゃあるまいし、そんな偶然あるわけ……」

「あるわけないよ」


 あるわけないのだ。だって彼女はこの世にいない。

 初恋の彼女は俺が中学の頃、転校してきた。さすが都会から来ただけあると評判の美人で、勉強もスポーツもよくできた。

 そんな彼女を俺は大好きだった。だからと言う言い方が正しいかわからないが、俺は彼女をいじめた。いじめと言っても陰湿なやつではない。制服のスカートをめくってみたり、ノートに落書きしてみたり、その程度の「ちょっかい」である。とにかく構いたくて仕方がなかったのだ。しかしそんな日は長く続かなかった。

 彼女の最期の日はあっさりやってきた。

 ひき逃げだった。人の命の灯火がそんな簡単に消えるとは思わなかったし、死をあんな身近に感じたのも初めてだった。

 俺が最後に彼女と交わした言葉は何だったのだろう。

 何度も思い出す。

「都会生まれだからってかっこつけやがって。どうせ俺らのこと、バカにしてんだろ」

 だ。

 なぜそんな話になったかわからないが、俺が彼女に向かっていった言葉だ。彼女は本当に哀しそうな顔をして俯いて背中を向けてしまった。当たり前だ。閉鎖的なこの街で、「よそもの」だと言われて、その度に傷ついてきたのだ。

 あの時もし優しい言葉をかけていたなら。

 俺の後悔は以来ずっと続いている。「ごめん」「好きだ」遺影に何度も呟いても、彼女はもう笑ってくれなかったし、初めてまともに触れた頬も温かくなることはなかった。


「ふうん」

 俺の話を聞いて、興味があるのかないのか櫻井はそう言った。その後水をいっきに飲み乾すとばりばりと氷を噛んだ。俺の哀しい初恋の話の後に全くもって失礼極まりない。

「じゃ、俺、先に行くわ」

 と、櫻井は立ち上がった。

「おい」

「そうそう、それ、相談料ね」

 櫻井の指差した先には櫻井の食べたうどんと、俺のそばの伝票があった。


「……」

 相談なんて何もしてない。俺は半ば腹をたてて口をあけようとしたがその前に櫻井が先に口を開いた。

「おごってもらうついでに教えてやるよ。経営戦略部、白鳥小百合、二十八歳。人呼んで影秘書。ちなみに彼女を知らないのは天草のような転勤組みか、新入社員だけだよ。最も今年入った新入社員はみんな彼女を知ってると思うけどな」


 影秘書。

 

「それから、同期だから警告しておくよ。彼女には気をつけた方がいい」

 

 謎の言葉と伝票だけ残して、櫻井は去っていった。

 

 白鳥小百合。

 声に出してみた。外見にマッチした清楚な名前だ。

 経営戦略部が今一つどんな部署なのかはわからないが、どうやら俺のような庶務とは違う仕事らしい。俺は彼女が働く姿を少し想像しながらニヤニヤしてみた。


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