第三話:戦いの行方
アキナ「ディバルバはあそこよ。」
監視していたアキナの視線の先に奴はいた。
ディバルバは破壊の限りを尽くしたと思われる村のど真ん中で悠々と睡眠を取っていた。
胡座をかいて木に寄りかかり、いびきをかきながら。
アキナ「完全に油断してるわね、あいつ剣を置いているわ。」
無造作にディバルバの足元に横たわる大剣…それを強奪されることなど露程も思っていないのか。
なんにせよ、奇襲をするのにここまで都合のいい状況はそうそうない。
クレイス「寝込みを襲うのは性分に合わないが、そうも言っていられない。」
レット「あの大剣を使わせないに越したことはないっスからね。一気にトドメを刺すには最高のシチュエーションっス。」
クロ「…いっちゃだめ?」
クレイス「クロ、今回は私にやらせてくれ。この剣の扱いは、まだ完璧ではないからな。」
クレイス「…魔小鉱石三つ、それが今の私の限界だ。それすらも万全とは言い難いが。」
レット「そこまで出来るなら上等っスよ。並の人間なら魔小鉱石一つでもまともに制御できないっスからね。」
クレイス「では行ってくる。クロ、アキナ、万一の時はレットとメルティナを頼んだぞ。」
アキナ「ええ、こっちは任せて。」
クロ「…いってらっしゃい。」
レット「クレっちならやれるっス!」
メルティナ「…ご武運を。」
仲間の声を背に、クレイスはディバルバに向かって歩き出す。
初撃で決まれば御の字、初手は扱いに慣れていないギミックは使わず斬りかかる。
魔法で足音、気配、空気の振動を無効化しディバルバの前に立つ。
その巨体故、座っている状態でもクレイスとさほど変わらない高さがあった。
そして剣を抜き、ディバルバの首に目掛けて横一閃。
…しかし。
ディバルバ「俺が気付いてないとでも思ったのか?」
クレイス「なっ…。」
薙ぎ払った剣は、不敵な笑みを浮かべるディバルバの手によって防がれる。
魔小鉱石を使っていないとは言え、通常でもアルティパール・ラスタリスはシュビルト・フォーンに勝るとも劣らない性能を持つ。
それを、ディバルバは素手で抑えているのだ。
ディバルバ「ほう、新しい剣だな。また折られに来たのか。」
クレイス「…なぜ、気付いた。」
クレイスは剣を引き抜こうと必死に抵抗するが、がっしりと掴まれたその手に阻まれる。
ディバルバは余裕の態度でその問いに答える。
ディバルバ「そもそもお前らは勘違いしてるんだよ。俺たち魔族は寝なくてもいいんだ、人間と違ってな。」
クレイス「っ…。」
ディバルバ「人間ってやつは不便だよなぁ、休まねーとぶっ倒れちまうなんて。」
ディバルバ「俺がここで寝てるふりをしていたのも、全部お前らを誘い出すためなんだぜ?」
ディバルバ「いくら魔法で気配を消そうと、音を立てねえようにしても。…透過の魔法で瞼の中からばっちり見えてたぜ?お前が俺の前に立って剣を振りかざすのがよ。」
クレイス「…全て仕組まれていたのか。」
ディバルバ「どうせお前らのことだ、あの程度じゃ諦めねーと思ってな。ならいっそ、迎え撃った方が楽でいい。」
ディバルバ「このまま剣をへし折ってやろうかとも思ったが、中々頑丈じゃねーか。いいぜ、俺の魔剣ミスティア・アブソーバーでこの間みたいに粉々にしてやるぜ。」
そう言って剣から手を離すディバルバ。
クレイスはすぐさま飛び退き改めて剣を構える。
ディバルバは地面に置かれたミスティア・アブソーバーを手に持ち挑発する。
ディバルバ「ほら、かかってこいよ。俺の首が欲しいんだろう?」
優位な状況から一転、前回と同様のシチュエーション…しかし前回と丸っきり同じ状況ではない。
クレイス「ならば、お前にはコイツをくれてやろう。」
取り出したのは魔力を最大まで貯めた魔小鉱石。
その一つを剣にセットする。
すると瞬時に魔力が剣へと流れ、アルティパール・ラスタリスの刀身は線に沿って割れ中から光の剣が出現した。
長さは刀身の約三倍、左右に割れた刀身はその伸びた光に密着しそれを支える。
一見するとただリーチが伸びただけのようだが、それだけではないと流石のディバルバも感じ取る。
ディバルバ「…なんだそれは。」
クレイス「お前を倒すための秘策さ。知りたければ、その身で味わえ!」
軽く助走を付け跳躍したクレイスはどこにも狙いを定めずディバルバ目掛け渾身の力で剣を振るう。
迫り来る光剣を前に警戒したディバルバは、ミスティア・アブソーバーでそれを防ごうとする。
そして剣同士が接触したその瞬間。
パアァンッと勢いよく互いの剣が弾かれディバルバはその衝撃に耐え切れず尻餅をつく。
魔力が尽きたのかアルティパール・ラスタリスの伸びた光の剣は消滅し、割れた刀身が元に戻る。
ディバルバ「ぐはっ!…てめぇなにしやがった!」
クレイス「その身で味わえと言ったはずだ、もう一度行くぞ!」
この時ディバルバは、魔力によって形成された光の刀身がミスティア・アブソーバーに魔力として流れ込んでいたことに気付けなかった。
クレイスはもう一つ魔小鉱石を取り出し剣にセット、再び展開された光の剣をディバルバに向け振りかざす。
迎え撃とうとディバルバは立ち上がりミスティア・アブソーバーを握り締める。
そこでようやく自身の得物の異変に気付く。
ディバルバ「(なっ、これは…!)」
クレイス「これで終わりだ!はぁっ!」
ディバルバは瞬時に理解した、クレイスがミスティア・アブソーバーに魔力を限界まで注ぎ込み自壊させようとしたことに。
しかしそれに気が付いた所で、どうにかできる状況ではなかった。
迫り来る光の剣を前に体は無意識に反応する。
ミスティア・アブソーバーを盾に攻撃を防ごうと。
二本の剣が再び交わった時、アルティパール・ラスタリスからミスティア・アブソーバーへ大量の魔力が流れ込む。
既に魔小鉱石一つ分の魔力が注がれていたミスティア・アブソーバーはいとも簡単に限界を迎え、剣に亀裂が走っていく。
そしてガラス細工が砕けるがごとくミスティア・アブソーバーはその最期を迎えた。
ディバルバ「馬鹿な、ミスティア・アブソーバーが砕けるなど…。」
クレイス「次は貴様の番だ。手にかけたものたちの無念、私が晴らす!」
ディバルバ「チッ、流石に分が悪いか。」
得物を失い勝機はないと見て逃走を図るディバルバ。
クレイス「逃がすと思うか!」
このチャンスを逃すまいと距離を詰めるクレイス。
ディバルバ「…可哀想な奴だよ、お前は。」
クレイス「なに…?」
神妙な顔で言葉を投げかけたディバルバに、クレイスの足は一瞬止まる。
ディバルバ「俺の役目はここまでだ。…あばよ、もう会うこともねーと思うがな。」
クレイス「っ…待て!」
クレイスは駆け出すが、そこにディバルバの姿はもうなかった。
クレイス「…どういうことだ。」
クレイスが見たのはディバルバの消失。
煙に巻かれたわけでもなく、風にさらわれたわけでもなく…一瞬にしてその存在が目の前から消え失せた。
そこには初めから誰もいなかったかのように…ディバルバの存在など、初めからなかったかのように。
そこにあったはずの存在は、もうどこにもなかった。
…。
レット「まあそう気を落とすことないっスよ、どういう原理かは分からないっスけどあいつはいなくなったんっスから。」
最初にディバルバと交戦した村へと帰ってきたクレイスたち。
ディバルバは消え、もう無益な殺生は行われなくなった。
それ自体は喜ばしいことだが…クレイスの顔は浮かなかった。
クレイス「本当に、奴は消滅したのか?」
アキナ「急に消えたわよね、あいつ。」
メルティナ「良いではありませんか。もしまだどこかで生きていたとしても、ひとまずの驚異は去ったのですから。」
クレイス「そう、だな…。次に会う事があれば、その時は必ず。…今度こそ。」
レット「厄介なあの大剣は壊せたんスから、それだけでも上々っスよ。」
クロ「…レイは、がんばった。」
クレイス「…そう言ってもらえると気が楽になる、ありがとう。」
どうにもすっきりしない終わりだったが、その日はディバルバを撃退した祝いとして、アキナが腕によりをかけていつもより豪勢な食事となった。
強敵ディバルバを退けたクレイス。
束の間の安息を堪能し、再び魔王城へ向け動き出す。
…。
村を出たクレイスたちは、城に乗り込むべく西へと向かう。
遠く、細く見えていた城も、段々と近付いてきていた。
魔界の情報を得るべく立ち寄っていた村も次第にその数を減らし、ある村を境に魔族の姿を見ることはなくなっていた。
そして、いよいよ魔王城が目前に迫る。
クレイス「あれが魔王城だな。…禍々しい雰囲気だ、空気の淀みもここに来て酷くなっている。」
レット「もう目と鼻の先っスね。…オレっち緊張してきたっス。」
アキナ「あんたは別に戦うわけじゃないでしょ、シャキっとしなさい。」
レット「そう言われても、震えるもんはしょうがないじゃないっスか…。」
メルティナ「いよいよですね、あの城の中に魔王がいるのですね。」
クレイス「だが妙だな…。城壁もなければ民家の一つもない。」
小さな町ならばすっぽり覆ってしまうほどの大きさを持つ魔王城、その周囲に魔族の姿はなく不信感を抱く。
アキナ「確かにそうよね、追いやられた魔族たちは自分たちで家を造っていたのに…。」
レット「ってことは、あの城の中に全ての魔族がいるってことっスかね?」
クレイス「…やはり情報不足だな。かと言ってここには情報を持っていそうな者はいない…。」
クレイス「となれば、ここは突入する他あるまい。」
アキナ「でもどうするの、あの中めちゃくちゃ広そうよ。」
メルティナ「あの大きさですから迷ってしまいそうですね。」
クレイス「何、いざとなったら城諸共破壊すればいいだけだ。」
レット「相変わらずぶっ飛んでるっスねー。」
クロ「…レイなら、できる。」
アキナ「そうね、城に侵入したら敵だってわんさか出てくるでしょうし、全部ぶっ壊しちゃえばいいのよ。」
メルティナ「もしお怪我などをされても、わたくしめがおりますのでご安心を。」
レット「…このメンバーだと、出てくる敵の方が可哀想っスねー…。」
クレイス「では行こうか。人間界に、平和を齎すために。」
…。
アキナ「不気味なくらい静かね…。」
クレイス「ああ、魔物一匹にすら出会わないとは…。クロ、何か感じるか?」
クロ「(クンクン)…だめ、においもしない。」
出入り口らしきものを発見し城内へと潜入したクレイスたち。
しかし予想に反して敵の姿は全くなく、城の周りの警備も、中にいるはずの魔族も、その一切に出会うことはなかった。
不審に思いながらも城内の探索を続けていく。
レット「まあ好都合じゃないっスか、敵がいないなら魔王探しに専念できるんスから。」
メルティナ「そうですね。先に魔王を倒してしまえば魔族の統率力も失われるでしょうし、先に魔王の居場所を突き止めるのもよろしいかと。」
クレイス「そうだな、いざとなったら適当に暴れて誘き出せばいいだけの話だしな。」
アキナ「でも、魔王はどこにいるのかしらね。こうも広いと探すだけで一苦労ね。」
クレイス「ここは敵の陣地だからな、ばらけて捜索するのも危険だ。」
レット「案外、侵入者対策に罠を目一杯仕掛けてあるから無闇矢鱈に歩き回れない…なんてこともあり得るかも知れないっスねー。」
クレイス「それもないとは言い切れない。敵がいないと油断したところを罠で一網打尽にし、抵抗できないよう拘束する。そうなれば我々に打つ手はなくなる。皆、警戒を怠るな。」
それからしばらくの間探索を続けていると、前方に扉があるのが見えてきた。
クレイス「あれは部屋…か?」
縦横二メートルほどの大きさの扉、クレイスたちはその部屋の前に立つ。
アキナ「みたいね、なんの部屋かしら。」
クレイス「開けてみよう、中を確かめる。」
重いその鉄製の扉を押し開けて見ると、薄暗いその部屋には大量の武器や防具が眠っていた。
レット「武器庫…っスかね。…の割には整頓されてる様子がないっスね。」
アキナ「見てこれ、全部壊れてる…。」
木箱に乱雑に詰め込まれているそれらは全て、ヒビが入っていたり折れていたりと使い物にならないものばかりだった。
メルティナ「廃棄部屋…なのでしょうか。」
クレイス「…そもそも、奴らは防具を身に付けるのか?武器はともかく、鎧を身につけた魔族などこれまでにいたか?」
レット「あのディバルバとかいう魔族も大剣しか持ってなかったっスからね…。」
クレイス「気にはなるが、考えても仕方がない。一応、ここにあるものは全て消しておこう。新たな武器防具を作らせないためにもな。」
そう言ってクレイスは、積まれた箱の前に立ち手をかざす。
クレイス「光よ集いて溶解させよコンデンシブ・フィルサンティア」
箱に詰められた武器や防具が発光していき、照明のない暗い部屋を照らし始める。
やがて熱を持ち始めたそれらは溶けていき形を失っていく。
そして溶解したそれらは徐々に小さくなりその質量を失う。
後に残ったのは、大量の空箱だけだった。
クレイス「これでいいだろう。蒸発させてしまえば、溶かして再利用することもできまい。」
レット「あっという間に溶けたっスねー。」
クレイス「先を急ごう、このような部屋がまだあるかもしれない。見逃しの無いよう一つ一つ念入りに調べるぞ。」
部屋を出たクレイスたちは、再び探索を始めた。
そして道中クレイスの予言通りいくつかの部屋を見つけ、中を調べていく。
そのほとんどが、先程と同じ廃棄された武器や防具が保管されており、クレイスはそれらを消していった。
…。
そうして探索を続けることおよそ六時間、クレイスたちは一際異様な雰囲気を醸し出す巨大な扉の前に立っていた。
あれから食堂、寝室、訓練場、中庭など様々な場所に足を踏み入れたがただの一人として魔族と出会うことはなかった。
目の前の扉は優に五メートルを超え、豪華な装飾が施されている。
アキナ「怪しいわね。」
メルティナ「怪しいですわね。」
クレイス「怪しいな。」
クロ「…あやしい。」
レット「…それ、みんなで口を揃えて言うことっスか…?いや、怪しいのは分かるっスけど。」
アキナ「ま、入って見れば分かるわよ。」
クレイス「そうだな、この中に魔王がいなければ次を探すだけだ。」
メルティナ「参りましょう。…神の祝福があらんことを。」
未知なる領域へ足を踏み入れるため、重厚なその扉を押し開けていく。
そして中に入って最初に視界に入ってきたのは、玉座だった。
しかしそこに座すべきはずの人物はおらず、人影も全く見当たらない。
クレイス「…広いな。王宮の謁見の間の何倍あるのだ?」
レット「見た感じ、あれって玉座っスよね。」
アキナ「でも魔王はいないわよ。」
メルティナ「外出なさっているのかしら?」
レット「ここまで来てそれだったら笑えるっスねー。」
アキナ「笑い事じゃないわよ!いいから、ここも調べるわよ。」
???「…来たか、勇者よ。」
クレイス「…!」
声と共に、玉座の上手から歩いてくる人物が一人。
その者は漆黒のローブに身を包み、生気のない冷めた目でクレイスたちを見つめながら玉座の前に立つ。
ディサイド「我が名はディサイド。この魔界を統べる王だ。」
クレイス「…戯言はよせ、貴様のようなものが魔王を語るな。」
ディサイド「…では、我はなんに見える?」
クレイス「どう見てもただの人間だ。並々ならぬ力を持っていることは分かる、しかし私の目は誤魔化されんぞ。…貴様は何者だ。」
魔王を名乗るディサイドなる者を前に、それを一蹴するクレイス。
その容姿はクレイスの言う通り人間のそれと何ら変わり無い。
角も尻尾も生えていなければ翼や牙すらもなく、魔族を象徴する特徴らしい特徴が一切見当たらない。
しかしそんなクレイスの言葉に動揺することもなくディサイドは吐き捨てる。
ディサイド「自身の先入観に囚われ、物事の本質を理解しようともしない…。それが自身にとって不利益であればあるほどに、それを頑なに認めない。」
クレイス「言葉で惑わそうとしても無駄だ。答えよ、貴様は何者だ!」
ディサイド「…どうやら、その身を持って知る他ないらしい。いいだろう、我が力とくと味わうがいい。」
クレイス「なっ、これは…!」
ディサイドが手をかざすと、瞬時に大広場の床が凍り付いていきクレイスたちの足をも凍りつかせる。
続けてディサイドが腕を振るうと無数の強大なつららが出現し、クレイスたち目掛けて射出される。
アキナ「なめんじゃないわよ!灼熱の業火!ブレイジング・フリール・エクスペンド!」
燃え盛る炎が床の氷を溶かし、更にそこから炎を飛ばしつららにぶつけていく。
つららは炎に巻き付かれ蒸発し、その形を失っていく。
その攻防を見てクレイスは驚愕する。
クレイス「(やつは詠唱なしで魔法を使うというのか!?…やろうと思えばできなくはないが、あれだけ大掛かりな魔法。詠唱なしで安定させるのは至難の業だぞ。)」
ディサイド「…今ので、我の力量を測るのには十分だろう。…どうだ、認める気になったか?」
アキナ「なによ、たいしたことないじゃない。クレイス、一気に行くわよ!」
クレイス「待て!迂闊に近づくな!」
アキナ「な、なによ…。」
クレイス「…やつは、本物だ。」
クレイスは自らが置かれた状況を正しく理解する。
既に自分たちは魔王の手中にあるということに。
クレイス「(空気の淀みに馴染むようにして魔力が充満している…。これは危険だ。)」
冷や汗をかくクレイスに、嘲笑うようにディサイドは突きつける。
ディサイド「愚かなものだな。ここは魔王が住まう城、いわば我の独壇場であるぞ。貴様らを葬る手段などいくらでもある…歯向かうだけ無駄だ。」
クレイス「…理解したさ。だが、この程度の逆境恐るるに足らん!皆行くぞ、戦闘開始だ!」
ディサイド「…まあ待て、我は貴様と戦うために現れた訳ではない。」
クレイス「なに…?」
アキナ「あんな奴の話なんか聞かなくていいわよ。さっさと倒しましょ!」
飛び出したアキナは猛スピードでディサイドに向かっていく。
しかし攻撃に転じる前にその体に衝撃が走る。
アキナ「はぐぅっ!!!」
クレイス「アキナ!」
ゴンッ!という鈍い音と共にアキナはその場に崩れ落ちる。
アキナ「いったー、頭打った…。なんなのよ一体。」
涙目になりながら強打した箇所をさすり、ぶつかったものの正体を探るべく手を伸ばすと…。
アキナ「これ、見えない壁?」
クレイス「大丈夫かアキナ。」
ディサイド「言い忘れていたが、障壁を展開しておいた。お前たちがこちらに来られないようにな。」
クレイス「…先程、戦う意志はないと言ったが狙いはなんだ。」
ディサイド「単純な話さ。お前たちを説得し、人間界へ帰ってもらうためだ。」
クレイス「なんだと?」
ディサイド「こちらは争いを望まない。悪戯に戦争を起こし同胞を失うのは愚の骨頂。…ここに至るまでに私以外の魔族にあったか?」
クレイス「いや、貴様が初めてだ。」
ディサイド「予め人払いを済ませてあるのだよ、無益な争いを起こさせないために。」
クレイス「…なにを、どの口がそれを言う。」
ディサイド「…。」
下を向き、唇を噛むクレイスの拳は、固く握られていた。
クレイス「貴様ら魔族は、多くの人間を苦しめた!今まで散っていった命の数は計り知れない…。そんな悪逆非道の数々を行ってきた貴様ら魔族が、今更停戦だと…?ふざけるな!」
ディサイド「…。」
クレイス「私は、魔族の驚異に怯えない平和な世界を作り上げるため立ち上がった!残された者の無念を晴らすため、そして歴代の勇者の遺志を継ぎ私は貴様を討つ!」
ディサイド「…やはり、言葉を用いても無駄のようだな。」
クレイス「惑わそうとしても無駄だ魔王。私は知っているぞ、貴様が魔物を人間界に解き放ったことを!」
ディサイド「はて?…身に覚えがないな。」
クレイス「そうやってしらばくれるのが何よりの証拠。忘れたとは言わせんぞ、十数年前人間界で魔物が発見された。山奥に潜んでいたそいつは一人の女性の命を奪った。…早々に警備部隊に打ち取られそれ以上の被害は出なかったが。」
クレイス「あれは貴様の仕業だろう、魔物を解き放ちこちらの戦力を確かめるために!」
ディサイド「…ふぅ、こじつけもいいところだ。何をどう解釈したらそうなる。」
クレイス「ではあの魔物はどのようにして人間界へ侵入してきたというのだ。人間界と魔界の境には先代の勇者が残した結界がある。あれを突破できるものなど貴様以外に考えられるものか。」
ディサイド「ならば、我が自ら人間界で力を振るえば良いではないか。なぜそのような回りくどいことをする必要がある。」
クレイス「警告したのだろう、我々に。既にこちらは力を蓄えている、手を出せばこちらもただでは済まさない、と。」
ディサイド「…どうあっても、我を悪にしたいようだな。」
クレイス「悪以外の何者だというのだ。貴様もかつての魔王と同じく人間界への侵攻を計画しているのだろう?ならば貴様を葬り、人間界に平和を齎す。」
ディサイド「自らを正当化するか。…貴様が行おうとしている事は、そのかつての魔王のしたことと何が違う。」
クレイス「何もかも違う。貴様らを生かしておくことは世界の崩壊を意味する。それらを全て根絶やしにすることで、真の平和が訪れるのだ。」
ディサイド「…どうやら、大人しく引き下がる気はないらしいな。」
クレイス「元より貴様を打ち取るために私はここに来たのだ。この命と引き換えにしてでも、貴様を殺す。」
ディサイド「ならばやってみるがいい。その障壁を突破できればの話だがな。」
クレイス「アキナ、クロ下がっていてくれ。あれを使う。」
二人を下がらせると、クレイスは魔小鉱石を一つ取り出しアルティパール・ラスタリスにセット。
光の刀身が出現し、それを障壁に叩きつける。
ギギギと、ガラスが軋むような不快な音と共に火花が散る。
クレイス「(くっ、やはり一筋縄ではいかないか。)」
一旦離れクレイスは更に二つ魔小鉱石を剣にセットする。
クレイス「(アルティパール・ラスタリスよ、どうか私に力を貸してくれ。この障壁を打ち壊し、魔王を倒すための!)」
光の剣は一層の輝きを放ち、魔力が注ぎ込まれる。
剣を持つクレイスの手は、荒れ狂う光剣を抑えるのに精一杯だった。
そして構えが定まらないままに剣を振るう。
障壁に激突した光剣は更に激しく火花を散らし貫こうとする。
そして僅かではあるが切っ先が障壁を貫く。
しかし無意味とばかりに障壁はそれを弾き、衝撃によってクレイスは仰向けに倒れる。
アキナ「クレイス!」
倒れたクレイスに駆け寄るアキナとクロ。
ディサイド「無駄だ、人間如きの力で我が障壁は切れぬ。」
そんなディサイドの言葉に、クレイスは笑う。
クレイス「…ふっ、確かにそうだな。私一人では、この障壁を破壊することはできないだろう。だが…。」
クロ「…レイ?」
二人の手を借りて立ち上がるクレイス。
その手には二つの魔小鉱石が。
アキナ「あんた、まさかそれも使う気?やめときなさいよ、三つが限界なんでしょ?」
クレイス「いや、これを使わなければやつには勝てない。…なに、成功しても失敗しても、あの障壁に穴は空くさ。」
アキナ「クレイス…。」
クレイス「離れてくれ、二人共。抑えられる自信はない、これは賭けだ。」
アキナ「…分かったわ。クロ、行くわよ。」
クロ「…レイ、がんばって。」
クレイス「任せておけ。こんなところで躓くようなら魔王を倒すなど夢のまた夢だ。」
ディサイド「…。」
クレイス「行くぞ、魔王。人間の底力、そこでとくと見よ!」
声高々に宣言すると、残りの穴に魔小鉱石をセットする。
魔小鉱石に込められた魔力は全て刀身に注がれ、その輝きは頂点に達する。
クレイス「はあぁぁーーーっっっ!!!!!」
あまりの魔力の密度に剣はそれを制御しきれず荒れ狂う。
クレイスは数秒も持たないと判断すると、渾身の力を込め障壁に斬りかかる。
先程とは違い直ぐ様切っ先が障壁を貫いたが、やはり破壊するには至らない。
クレイス「(強くイメージしろ…。この状態で、障壁内部に私の魔力を張り巡らせるのだ。)」
クレイスは、純粋な魔力で構成されているその刀身を介して、障壁内部に魔力を注ぎ込む。
すると障壁に亀裂が走って行く。
ディサイド「…ほう。」
クレイス「これでっ…終わりだーーーっっ!!!」
張り巡らせた魔力を固定すると、光剣諸共押し貫き障壁を破壊。
砕けた破片が辺りに散らばり消えていく。
クレイス「見たか魔王。これが、人間の真の力だ。」
ディサイド「事は穏便に済ませたかったのだが致し方あるまい。…相手をしよう。」
クレイス「余裕の表情でいられるのは今のうちだ。覚悟しろ、魔王。」
アキナ「ここからはあたしたちも参戦するわよ。」
クロ「…やる。」
戦闘準備万端の二人がクレイスの左右に立つ。
一方、端の方に避難しているレットとメルティナは。
レット「…そろそろっスかね。」
メルティナ「ええ、もう間もなくかと。」
レット「…退避するのは、ありっスかね?」
メルティナ「堪えなさい。わたくしたちはそのためにいるのですから。」
レット「こういうのは苦手なんスけどね…。ま、仕方ないっスね、自分で選んだ道っスから。」
クレイスたちを見守りながら、何かを話しているようだった。
ディサイド「この謁見の間で血を流すのは我の本意ではない。場所を移すぞ。」
クレイス「なに?」
魔少鉱石は残る魔力を全て消費したのか光剣アルティパール・ラスタリスから離れる。
それと同時に、ディサイドは天高く手の平をかざした。
そうして起きた出来事はあまりに唐突で、何が己の身に降りかかったのか、クレイスたちは理解できなかった。
…。
クレイス「っ…どこだ、ここは。」
どのような魔法を使われたのだろう、クレイスたちの視界は突如暗闇に覆われ意識を瞬時に刈り取られてしまった。
故に目を覚ました時、クレイスたちは何故自分は床に突っ伏しているのかと疑問に思った。
冷たいそのタイルに手を付いて起き上がると…そこには異様な光景が広がっていた。
あちこちに様々な拘束器具や拷問器具が転がり、壁や床…はたまた天井に至るまでどす黒い血が飛び散っている。
鉄の匂いが充満するその部屋はロウソクの灯りに照らされ、その不気味さに拍車をかけていた。
そして意識を取り戻したクレイスたちの目の前には、ディサイドが悠然たる姿で待ち構えていた。
ディサイド「魔族の処刑場だ。ここならば存分に戦える。」
アキナ「ここをあたしたちの墓場にしようっての?趣味悪いわね。」
ディサイド「あまり驚かないのだな。」
アキナ「そりゃそうよ、今までにもヘンテコなことはあったし。この程度じゃ動じないわよ。」
クレイス「場所が変わろうと、やるべきことは変わらん。魔王、貴様を倒す。ただそれだけだ!」
自分の体に異変がないことを確認し剣を構え、ディサイドの元へ一直線に駆け出すクレイス。
ディサイド「無駄だ、貴様は我に触れることすら叶わない。」
クレイス「っ…風?この程度足止めにもならんぞ!」
ディサイドからクレイスたちに向け、風が吹き始める。
ただの風と侮っていたが、それは徐々に勢いを増していきクレイスの足は止まる。
やがて立つことすらままならない状態となり、他のメンバーも吹き飛ばされないよう耐えることで精一杯。
ディサイド「たったこの程度のことで人間の足は止まる。大見得を切った割に、大したことはなかったな。」
クレイス「くっ…、ならばこの風ごと貴様を切り捨てるまでだ!」
強風に煽られながらもなんとか剣を構えようとするクレイス。
ディサイド「…させるとでも?」
クレイス「うぐ…っ。…!ぐはっ!!!」
突如クレイスは床へと叩きつけられた。
そしてそのまま床にめり込むように、巨大な岩を背負わされたかのような重圧がクレイスに襲いかかる。
それは他のメンバーも同じようで、一様に苦痛で顔を歪ませていた。
驚愕の眼差しでクレイスはディサイドを見上げる。
ディサイド「なに、ほんの少し体にかかる負担を増やしただけだ。…最も、貴様ら人間程度では腕を上げることすらままらないだろうがな。」
そして床に張られたタイルはその力に耐え切れなくなり、砕かれながらクレイスたちと共に沈んでいく。
クレイス「(まさか重力すら操れるというのか!?このような魔法、聞いたことがない…っ。)」
クレイス「ふざ…けるな。私は、ここでやられるわけにはいかない。…貴様をっ、倒すまでは!」
ディサイド「呼吸をすることすらままならないだろう。それでは満足に詠唱することもできまい。…このまま嬲り殺すとしよう。」
ディサイドが人差し指を地面に向けると、その先端から水の雫が一滴落ち、床から大量の水が溢れ激流となってクレイスたちに放たれる。
避けることのできないクレイスたちはその激流に為す術もなく呑まれるしかなかった。
しかしそのまま溺死させるつもりはないらしく、荒波は徐々に引いていき各所から咳き込む音が聞こえてくる。
ディサイドはそれを横目に、今度は人差し指を上にあげバチバチと電気を帯びさせる。
そして溜まりに溜まった電気が一気に放出されるように電流が部屋全体を駆け巡る。
クレイスたちはその電撃を甘んじてその身に受けるしかなかった。
電流の流れる音が、激痛による叫び声をかき消す。
時間にして十秒にも満たなかったが、非戦闘要員であるレットとメルティナが気絶するには十分過ぎるほどだった。
クレイス「…ぶじ、か…みな…。」
アキナ「…ちょっと、これは…しゃれにっ、ならないわよ。」
クロ「…いたい。」
ディサイド「水流や電撃は、お前たちが耐えられるレベルに調整したが…あの二人は耐えられなかったようだな。」
クレイス「…っ!レット、メルティナ…!?返事を、してくれ!」
クレイスのその必死な呼び掛けに、二人が答えることはなかった。
クレイス「(気を失っているか…?だが、それ見逃す魔王ではないだろう。…このまま、終わるのか…?)」
じわりと、目の前に絶望が広がった気がした。
アキナ「(こんなの、敵いっこないわよ。強さの次元が…違う…っ!)」
クロ「(…なにも、できないの?…レイのやくに、たちたいのに…!)」
クレイス「…いや、まだ…まだだっ。諦めてなるものか!私は、皆の希望を背負っているのだ!」
言葉を持って己を奮い立たせるも、それはあくまでも自己暗示に過ぎず…絶望的なこの状況が覆るはずがなかった。
ディサイド「その口も、直に開けなくなるさ。…後どの程度持つのか、見ものだな。」
ディサイドは空中に無数の風の刃を出現させ、クレイスたちに向けそれを放つ。
敢えて急所を外しつつその体を切り刻んでいく。
無防備に体を晒すクレイスたちはどうすることもできず、ただただ悲痛な叫びを上げることしかできなかった。
ディサイド「…さて、次で終わりにしよう。いつまでもお前たちに時間を割くわけにはいかないのでな。」
クレイス「…っ。」
遊びは終わり…と言わんばかりにディサイドはクレイスたちに向け死刑宣告を下す。
生きることも、足掻くことすらも…この時のクレイスたちには許されていなかった。
痛め付けられ、傷付けられたその体は最早気力だけでは動かしようもなかった。
ディサイド「我に逆らった己自身を恨むのだな。…こうなった原因の全ては、貴様らにあるのだからな。」
ディサイドが拳を握ると、ただでさえ自由が利かない程に押さえつけられている体が、更に押し潰されていく。
クレイス「(体の骨が、砕ける!バラバラに…引き裂かれそうだ!)」
ディサイド「人間界では人が死ぬと、土葬…というものをするらしいな。それに倣って、圧殺した後に土に埋めてやろう。」
その場にいる誰もが己の体が軋む音を聞いて『死』を悟っただろう。
肉体がただの肉塊へと変わろうとする最中…まだその瞳に光を宿す者がいた。
クロ「…なんじ、わがたましいのよびかけにこたえよ。」
クレイス「(…クロ?)」
小さくか弱い声で、クロはその呪文を唱え始める。
クロ「…われは、いのちをとうとぶものなり。」
アキナ「…く、ろ。」
クロ「…そして、いのちをうばうものなり。」
クレイス「(まさか、魔術か!?だが、この呪文はなんだ。クロに教えられた魔術の中に、このような呪文はなかったぞ!?)」
クロ「…むじゅんをはらみしわれがねがうは、ひとつのいのち。」
ディサイド「…ほう、魔術か。奥の手を隠し持っていたようだが、付け焼き刃の力で我に敵うとでも?」
クロ「…ひとつのいのちとわがいのちをもって、これをかなえんとする。」
クロ「…そのいのちにしを、われにぜつぼうをあたえよ。」
強烈な痛みの中、ついにクロは呪文を唱え終わる。
すると、意識が途絶えたのか、クロが唐突に顔を伏せる。
ディサイド「…ふっ、苦し紛れの魔術も完成するにまでは至らなかったか。途中で力尽きるとは…な?」
クレイス 「…?」
ディサイドがその身に感じる違和感を自覚すると共に、僅かだが体に掛かる重圧が軽くなったのをクレイスは感じた。
ディサイド「ば…かな。我の体が、崩れて…いく?」
ローブの中でディサイドの体が激しく蠢く。
そして次第に、ディサイドの顔が黒く染まっていき、砂のように崩れ始める。
ディサイド「修復も、追いつかん…。体が、再生を拒む…ぐはっ!!!」
黒い吐瀉物を吐き出すディサイド。
その体のありとあらゆる箇所が溶けていき、ディサイドはその場に崩れ落ちる。
そうしてディサイドが力を失っていくのと同時に、クレイスたちに伸し掛る重圧も次第に軽くなっていく。
ディサイド「お…のれ。高々小僧一人にこのようなこと…。…まあ、よい。」
憎しみを露にしたかと思いきや、ディサイドの顔は妖しく微笑みクレイスに語りかける。
ディサイド「我の使命はこれで完遂された。…勇者よ、貴様もいずれ、同じ道を辿るだろう。」
ディサイド「その時まで、我は貴様を追い続ける。…どこまでも、な。」
最期の言葉と共にディサイドは形を失い黒い灰となって散っていく。
魔王ディサイドは、クロの魔術により絶命した。
クレイス「…っ!重圧が、完全に解けた。」
肺に空気を取り込もうと、息荒くクレイスが呟く。
アキナ「…ねえ、何この音。」
力なく立ち上がろうとするアキナ、振動と共に聞こえるその音は次第に大きなっていく。
クレイス「まさか、崩れているのか!?魔王城が!」
処刑場の壁や天井にヒビが入り始めるのを見て焦るクレイス。
クレイス「急ぎ非難するぞ!立てる者はいるか!」
アキナ「あたしは大丈夫!…でも、みんなは…。」
クレイス「クロとレットは私が運ぶ。アキナはメルティナを頼む。」
アキナ「了解!」
意識を失った三人を背負い走り出すクレイスとアキナ。
クレイスが先陣を切り瓦礫諸共壁を魔法で打ち抜いていく。
そしてアキナがそれをアシスト…障害を排除していき城外を目指す。
…。
応急処置として治癒の魔法をかけ、体に走る激痛をいくらか緩和することはできたが…それでも意識のない人間を背負っての逃走は困難を極めた。
目の前に壁が立ちはだかる度に、その向こう側に外の景色が広がっていると願い魔法を放つ。
そうして城内をただひたすらに突き進んでいくと、赤く染まる空がクレイスたちを出迎える。
なんとか魔王城から脱出できたクレイスたちであったが、このままでは城の崩落に巻き込まれると判断し飛行魔法を使い城から離れる。
ある程度距離を取ったところで一度地上に降り、ゆっくりと崩壊していく魔王城を眺める。
クレイス「…終わったのか。」
アキナ「ええ、そうね。」
未だ目覚めぬ三人を静かに地面へと横たえ一息付く。
クレイス「…感慨に浸るのは後にしよう。魔王の兵が私たちを追っていないとも限らない、一刻も早く治療を…。」
アキナ「…ねえ、ちょっと待ってクレイス。」
クレイス「なんだ。」
アキナ「あたしの気のせいかも知れないんだけど…クロが、息してない。」
クレイス「…な、に?」
一瞬、その言葉が何を意味するのか理解できなかった…それは何かの間違いであると脳が頑なにその事実を認めなかった。
だが確かめないわけには行かない…急ぎ確認すると、レットとメルティナは気を失っているだけで呼吸をしているのは上下する胸を見て判別が付く。
しかし同じく横たわるクロだけは、一部たりとも体が動いている様子が見られなかった。
猛烈に嫌な予感を覚え、クレイスは直ぐ様クロの胸に耳を当てその鼓動を確かめる。
…だが、聞こえてくるはずの音はその耳には入らず、己の心臓の音がやけに五月蝿く感じた。
頭の中が…目の前が真っ白になっていく。
人生の大半を共に過ごした小さき友人、クロ。
その彼に宿る命の灯火が消え失せているという事実を受け入れることなど、到底できるはずもなかった…。